京都の「耳塚」見学(東アジア国際関係史プレゼミ)

 11月21日の全学休講日を借り、東アジア国際関係史プレゼミでは京都東山の耳塚を見学しました。いわゆる「耳塚」とは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(最近は日中韓共通で「壬辰戦争」という用語が使われています)の際、戦功を確認するために斬り取られて運ばれた朝鮮人たちの「鼻」を埋めたお墓です。日本各地の大名家に伝来する「鼻請取朱印状」や朝鮮側の諸記録が示すように、もともとは「鼻」が埋められたお墓なのですが、後世に誤伝されて「耳塚」という名称となってしまったものです。
 今年度後期の東アジア国際関係史プレゼミ授業では、壬辰戦争の際に日本に連行された姜沆の捕虜生活中の記録である『看羊録』を講読しています。『看羊録』の中には、京都の東山に耳塚が造られた経緯が記されており、直接「耳塚」を目にすることで史料が示している壬辰戦争の歴史をより深く考え直す機会になりました。
 また、耳塚が建てられている場所は、もともと文禄4年(1595)に秀吉が大仏を安置するために創建した方広寺(建立当時は「大仏殿」と呼ばれました)の入り口に当たります。秀吉は死を目前にして自身の神格化を目指しており、大仏の鎮守もその意図と深くかかわっていました。これからみれば、方広寺の門前に耳塚が建てられた理由は、自身の武勇が異国に振るわれたことを誇示するためであったと考えられます。
 耳塚に続き、秀吉を祭る豊国神社(豊臣家滅亡後に廃祀されたが、明治時代に再建)と、方広寺の址に残っている「国家安康の鐘」も見学しました。この鐘は、「国家安康」「君臣豊楽」という銘文が徳川家康を祟るものとされ、豊臣家を滅亡に至らせた「大坂の陣」開戦の契機となった有名なものです。
 いつもたくさんの観光客が訪れて人山を築いている京都は、朝からにぎやかな雰囲気でした。その中で地図を手にして、また耳塚の関係資料を目にしながら日朝関係の歴史を顧みる今回のフィールドワークは、少し異色でありながらも楽しくて有益な経験であったと思います。(李晐鎮)
                                  

【写真1】耳塚見学

【写真2】豊国神社の鳥居にて

【写真3】「国家安康の鐘」の銘文