繭玉


滋賀県の湖東地区は、米どころとして知られています。なかでも愛荘町は、米作りをはじめとする農村地帯として長い歴史を刻んできました。

年末、どの家からも聞こえてきた威勢のいい餅つきの音。臼と杵が便利な餅つき機に変わっても、やはり農家にとっては大事な行事。来年の豊作を願う繭玉づくりについて、教えていただきました。


私の家では、このお鏡餅をつくときに、繭玉というものを作ります。枝ぶりのよい小枝を切ってきて、それに小さく切った餅をいくつもいくつもひっつけるのです。ちょうど稲の穂がいっぱいに実ったように餅を付けるのです。そうすると枝がたわみ、本当に実りきった稲穂のようになります。

これは何のためにするのかというと、言わずとも知れた稲の豊作を祈るためのものなのです。この繭玉のように、枝もたわわに実ってほしいというお祈りです。

なお、この繭玉の枝の中心部に、大きな餅を二つくっつけます。これは、両親を表し、家内じゅうが親を中心にして家じゅうの和合と安全を、合わせて祈るものです。この繭玉は、私たちの地区が全部やっていることではないのですが、私の家で古くからやっている行事として、皆様にお伝えさせていただきました。


アーカイヴズNo. 165A
番組名:ふるさと談話室「年末の餅つき、お正月のまゆ玉」
語り手:森惣十市さん(宮後)
放送日:1980年8月9日

水の苦労話

昔の人は何日に一度お風呂に入ったでしょう? 昔の人は何日に一度髪の毛を洗ったでしょう?
こんなことを考えるとき、わたしたちはつい、現在のように蛇口をひねると水の出る生活のこと、あるいは近場に井戸があってすぐに汲みに行ける生活のことを想像してしまいます。でも、そうではない生活もありました。大正期の愛荘町の話です。水の苦労もたいへんなものですが、冬場の風呂の蓋の使い方がおもしろい。


私の子供の頃、大正の5、6年頃、いまから60年ほど昔のことでございますが、その時分、東出の飲料水は在所にひとつだけ親池というのがございまして、その親池は岩倉川の土手の下にひとつあっただけです。というのは、非常にひどい金気のとこでございまして、どこを掘っても真っ赤の水しか出ないので、とても飲料水、洗濯、風呂、間に合うものではございませんでした。

徳川の終わり頃だと思いますが、わたしたちの先祖が苦労に苦労を重ねて、やっとのことで岩倉川の土手の下に、わずかに金気の薄い水源地を見つけました。そこへ親池という池を掘って、その親池には私たちの子供の時分、いまも残っていますが、御影石の玉垣をこしらえて、そして字の住民全部が、まるで神さんのようにあがめたてまつっていたのが親池でございます。

私たちの子供の時分のこと覚えておりますが、朝、顔を洗う時に、昔、三本足のついた木の洗面器がございましたが、それに一杯水汲む。で一番におじいさんが顔洗う。その次お父さん顔洗う。男の子が顔洗う。おばあさん顔洗う。お母さん顔洗う、と、一杯の洗面器で家族が7人も8人が顔洗う。顔洗うといいましても、猫が顔洗うようなもんで、両手にわずか水すくって、2、3べん顔なでるだけです。そうして、そう7、8人が顔洗った水もごぃっとほかしては怒られる。もったいないといって、それをナスとかキュウリとか畑のもんにやる、というふうに一滴の水も非常に大事にしたもんです。

もし隣の家にお葬式とか嫁入りとか、そういう大勢ひと寄りがありますと、たちまちその家の隣5、6軒は水が出んようになってしまう、と、そういうことをよく覚えております。

で、お風呂も水がございませんから、隣5、6軒が寄ってもらい風呂をした。そのもらい風呂というても、風呂の底に20cmぐらい、あるいは15cmぐらいの水があるだけです。で、そんだけの風呂にまぁ15人も20人もが入るわけです。で、お風呂に入るというても、いまのように洗い場があって、石鹸で洗うというような清潔なもんではございません。木の桶に、下に鉄の釜があって、その下から藁を炊いてわかす、と。そうして中へまたいで入る。で、上からは藁で編んだ蓋がある。大きな大きな帽子のような蓋がある。それが滑車でひっぱると降りてくる。で、冬ならば、ちょこんとも音をささずにその風呂の中にあぐらをして、蓋をして、じぃっとぬくもっておる、と。時間がきたら、あがる、というようなお風呂でございました。


アーカイヴズNo. 098
番組名:ふるさと談話室「水の苦労話」
語り手:高橋長兵衛さん(東出)
放送日:1979年7月28日

話の広場「中国人留学生」

留学生の王さんによる就学体験の話。数多いアーカイヴズの中からなぜこの録音を選んだかは、最後まできいていただければおわかりいただけるでしょう。「秦荘のみなさまに」というところに、有線放送ならではの、語り手と聞き手の関係が表れています。


— 王くんは中国江蘇省南京市の出身で、目下京都の学校で日本語を学んでいます。去る5月14日来日。18日は町役場で外国人の登録や、その他の手続きをすませ、いまは秦荘町の住民となっています。日本での就学期間はわずか1年ですが、草の根の日中友好、交流のため、皆さんの温かいご協力ご支援を賜りますようお願いいたします。それでは王くんから皆さんへのご挨拶をしていただきます。

ニーメンハオ(しばし中国語)
つたない日本語ですが、ご挨拶申し上げます。まず、自己紹介いたします。わたくしは王健と申します。中国南京市のものです。今年の5月14日、鎌田先生のお世話で日本に参りました。いま京都イングリッシュ・センターで日本語を勉強しております。

近頃、わたくしはずっと沖に住んでおります。沖の皆様は、わたくしに、いろいろとお世話くださいました。来日以来、至れり尽くせりのおもてなしで、心から感謝しております。わたしは、この間にいろいろ感じたんですけど、一番印象に残ったのは、どこへいっても「日本の方々から両国の人民は、子々孫々、友好的につきあっていこう」と言われたことです。はじめのうちに、儀礼的なものかしら、と思っていたのですが、そのうちに、そうではないっていうことがわかりました。わたしは、沖のどこへいっても、おじいさん、おばあさんや、子どもさんまで、みんなニコニコ笑いかけてくるんですね。わたしは、帰ったら、必ず中日友好のために頑張ろうと思っております。

それでは、わたくしのお土産のひとつとして、秦荘の皆様に、中国の歌をうたいます。

(歌)

ありがとうございます。


アーカイヴズNo. 425
番組:話の広場 「中国人留学生」
語り:王健さん、鎌田寛道さん(沖)
放送日:1991年7月4日

薪割りの仕事

今でも薪ストーブのある家はありますが、薪割りを本業にしている人はほとんど居なくなりました。1979年当時でも地区の同業者は水口さん一人だったようです。これはその、薪割り仕事の貴重な記録。水口さんの近江弁も耳に楽しい。


(3分26秒)

今も薪割りの仕事を本業にしているのが、水口忠男さん、56歳です。薪割りの仕事もノコギリからチェインソーに変わり、今日も付近の山から切り出した原木を庭先に持ち帰り、小切りします。

昔は手でやって。これが1日切り倒してもたまで(まったくの意)切れませんで。割り木の50束かな。チェインソーで一回油入れて切りますとな、100束とよう切れますのや。この燃料でいけますで。30分か40分切ったら茶ぁのんで1日分の仕事が終わりますんやもん。
のこぎりやと、もう1日割ろおもたら1日斬り倒さんならんすわ。
切るのはうまいもんすわ。そのかわり割るのは昔とおんなじように斧(よき)で割ってますわ。どうもせんで、手で割らなしょうおせんわ。

三方を山に囲まれた斧磨地区は、斧を磨ぐという地名通り、昔から林業にたずさわる人が多く、水口さんもまわりにならって14歳ぐらいの時から薪割りの仕事をはじめたといいます。

(音声はここから)
わたしらのこまかい時分には、あのぅ、炊きもんと米がなかったら日暮らしがでけんような時がありました。えぇ~、14歳か15歳のときぐらいから、わすれたびで(?)働いてきたんすわ。その時分には、やっぱり、まあ棒や、棒で担いだしたもんすわ。いき杖(重い荷物を担ぐときに付く杖)と、みな短こう、二尺馬力でな、担いだしたもんす。

— まあ、そのときはもう忙しいて目が舞うほどでしたか?

そうです。ええ、ほれからずうっときて原木をそんな自動車で自分の土場(どば)へつけて、何千束て土場にどーんと原木おいて、ほいでやんのすわ。原木をこうてきて自動車で、きょうび車で、4トン車でどーんとつけてもろて。ほいで、切って、割って、配達。忙しくてまわらなんだすわ1日。

— 原木は主に雑木。付近の山では原木が足りなくて、ひと山買い占めてその材料にしたという時もあったのですが、石油やガスの進出で仕事が途絶えはじめ、地区の同業者も他の仕事に転じ、いまでは水口さん一人になってしまいました。

なかなか………自分の仕事やで、まああきらめんと根気良くさしてもろたんすわ。ええ。根気がなかったらこんな仕事できまへんですわ。腰が痛いし、ええ。あきらめるもんではできまへんわ。根気よく、やったんすわ。あの時分は百姓もせえならんでなぁ、よその会社づとめもしょうと思わなんだんす。もう自分がやっぱりこれをせえな……諦めとりました、こまかいときから、それやで。

— …という水口さん。最近では3日に一度、4日に一度という注文で廃業同然だったのですが、最近では石油不足、灯油値上げなどから、一般家庭でも自衛策のひとつとして取り上げたのか、引き合いが多くなっているとのこと。

ちかごろ、あのガスが、増えてきて、ほいて石油も増え、それで割り木がまったく売れなくなってきましたんすわ。すこしずつちょっと割り木が増えてきましたな。割り木、柴を炊かはる家がちょいちょい出て、いまのとこは出てきましたわ。ちょっと前に戻ってきたような気がしますので。まぁ仕事はちょいちょいとありますのやけんど。きてくれ、いうのはな。

あのう、ごはんでも炊いたら割り木、美味しいどすえ。えぇ。ガスやほんなもん、とっても、とっても。ごはんの味がぜんぜん違いまっせ。あんばよう炊けますで。おきで。ほいで割り木みたいなもんは、炊いといてもガスや石油みたいなんとちごてな。つっと切ったらじきに冷めてしまうでな、ガスや石油は。割り木はいつまででも、くべてたら、ほれで、いつまででもぬくおすやろ。しまいまで温おすやろ。それでみなこれ使いはりますんや、考えた人は。

(音声はここまで)

— 寸法なんかはまちまちですか?

前みたいに尺六や二尺は、もうとっても、いまの風呂場へ入りませんで、一尺あまりにして切らしてもうてます。一尺割り木で。一尺あまりどすわ。いまの風呂は入らんのですわ。ぜんぜん燃えん長いからな。


アーカイヴNo.:105
番組名:秦荘昔話 「薪割りの仕事」
語り手:水口忠男さん(斧磨 :平成元年、65歳で没)
放送日:1979年10月29日

大正大阪米騒動

歴史の教科書でしか見ないと思っている米騒動ですが、ここではその生々しい体験談をきくことができます。


(2分46秒)

いまから62年ほど前の米騒動を実際にこの目で見たままをお話ししたいと思います。

それは大正8年で、大阪にいた時のことでありますが、あの当時米の相場が一升17、8銭から20銭ぐらいまでであったものが、一部財閥の米の買い入れにより急に倍以上の50銭ぐらいまで上がったのであります。そのため一般大衆は生活を脅かされ、不安の日が続いたのであります。この実情に義憤を感じた勇ましい町の男が立ち上がり、日頃の鬱憤を晴らすべく米屋を襲撃したのであり、これが米騒動となったのであります。

(音声はここから)

「おとついはどこそこの米屋がやられた」「ゆうべはどこそこの米屋と、炭屋までやられた」と、噂はだんだんと近づいてきました。ある米屋は、自分の家に米を置けば危ないので、近所の氷屋の二階に隠したのであります。それを誰いうとなく伝わり、今晩は米屋だというので、夕方から町はなにか騒々しくなり、わたくしも当時16歳で、面白半分やじうまと一緒に集団について氷屋へと行きました。

氷屋の前へ行くと店の若い衆が向う鉢巻で片肌を脱ぎ、氷切りの大きなノコギリを構え「入るなら入ってみろ」と凄みました。群衆の先頭にいた威勢のいいのが十人ほど「かまうものか、それいけ」と家の中へドっと入りこみ、ドカドカと二階へ駆け上がりました。そうして二階の窓をぶち破り、米俵を二階から道路へ次々と投げ落としたので、米俵は破れ、米は道路へ散乱しました。待ち受けていた女子供と群衆が、我先にと袋や風呂敷に米をかきいれていました。後から来た男「米はまだあるか」と新手が次々と来て、なかには米俵を担いで持って行くものもあり、大変な騒ぎでした。

その翌日「米の買占めの張本人は貿易商の鈴木だ」というので「今晩は上本町の鈴木の別邸だ」と口々に言い合い、3キロほどの道のりを鈴木の別邸へ押し寄せたのであります。その時、別の集団がすでに来ており、門を破ろうとしていましたが頑強で破れず、閉ざされた門の外から大勢が石や木を投げ込みましたので、中ではガラスや家具が壊れる大きな音がしていました。通行中の自動車は次々と止めて「この不景気にクルマに乗るとはけしからん」とクルマを横倒しにしては歓声をあげていました。市電が来たのでこれも止めて倒そうとしましたが、電車は重くて倒れなかったです。

そのうちだんだん人が増え、午前1時頃には電車道いっぱいの人で埋まり大変でした。警察から多数の警官が出動し、署長がクルマの上から群衆に向かって解散を命じ、聞かないものは逮捕すると警告をするが、誰一人聞くものはなく収拾がつかないありさまでした。しばらくすると近くの歩兵8連隊から銃を持った歩兵が4列縦隊で繰り出し、空に向かって発砲しましたが「あれは空砲やからかまわねぇ」と一向に効き目がありません。しまいには騎兵隊が繰り出され8列横隊で道路いっぱいになり、砂けむりをあげて突進してきました。これには群衆も悲鳴をあげ左右の軒下に逃げ込みました。騎兵は折り返し二度三度と往復しましたので、さしもの群衆も手が出せず、ついに解散したのであります。

その翌日、戒厳令がしかれ布告文がそこここの電柱、辻々に貼り出されました。そうして着剣の兵士が二人ずつ辻々に立ち「三人以上連らって歩けばグサっとやる」というので町には人影もなく、これで騒動も収まりました。

数日後政府から、だいまい(代米?)一升10銭で売り出され、わたくしも行列に加わり買いにいきました。それでめでたく一件落着したのであります。以上が大正の米騒動であります。どうも失礼しました。


アーカイヴNo. 174A
番組名:ふるさと談話室 「大正大阪米騒動」
語り手:古川佐一郎さん(竹原)
放送日:1980年7月11日

 

無代かき田植え

(1分36秒)

——ゴールデンウィーク中は、町内ほとんどの田んぼで田植えが行われました。そんななか蚊野の今村儀兵衞さんの田んぼでは無代かき田植えの実験が行われました。無代かき田植えは普及所員の指導のもとで行われたもので、代かきをしないで田植えをすれば泥水も落ちず、濁水防止につながるのではと、去年からはじめられたものです。43アールの田んぼを、時間をかけ、慎重に植えていきます。無代かき田植えについて、普及所の須藤さんです。

「作業の体系を、ちょっと変えるということで、普通でしたら、あの、水いれたあとにいっぺん、こうロータリーで回すでしょ、こう。機械、トラクター乗ってやりますね。ほれを、水をいれないで回るんですわ。で、水いれるの、きれいな水をいれてほんで、練りませんのでね。こういう泥汁は出ないんですわ。あと田植えするときに、ちょっと泥汁が出るだけで」

——また、田んぼ提供者の今村儀兵衞さんは、去年を振り返って

「気ぃつかう、ほら。苗が浮くといかんやろ」

——去年の出来ばえていうのは?

「ほらもう万作に近かったな。普通の田植えと変われへん。そない変わらなんだ。去年も相当米あったでな。ほで、どもないで。で、一番心配するのは、水ひきやけどな。ゆうべから加減してんのに、ぜんぜんゆうべ一晩ひいてないでな。ひかなんだらこのままの状態やけどな。のんでごらんになって土がいごいてないでしょ。高びくが多いけどな。ほらこれやったら活着もええのやろかな。サクサクのとこ植えてんねやな」

——泥水を落とさない無代かき方法ですが、大変な面もあります。

「土をなるだけ乾かして、一気に細かくしてもらわんとあかんのでね、ちょっと天候に左右されるんですわ。ほんで、普通でしたら雨のときでも別に代かきなんかできるんですけど、天気のいいときにやらんといかんので、お天気さん都合ちゅうことで、なかなか作業したいときにできない場合もあるんで、こういう濁水を作らないという試みということで、去年はじめてあそこでやらさしてもらって、そこそこよかったんで、今年甲良と秦荘と湖東町でやってるということです」

——琵琶湖の水を汚さないためにも無代かき田植えは、これから広まっていきそうです。


アーカイヴズNo. 429
番組名:町のアンテナ
語り:蚊野/今村儀兵衞さん他
放送日:平成3年5月9日

豆腐づくり64年

昭和の初めから豆腐を作ってこられた、秦荘の豆腐屋さんの来し方のこと。配達がてら自転車で意外に遠くまで出かけられます。


(音声:1分47秒)

(水音)

ここが一番大事なとこよ。あの、おからと正味とを、こう分けんなんでな。ほんで、ここへおからが入るとカスが残りよるのや。ほて、下へ落ちよる水が、ニガリ打って固まって豆腐になりよる。ここがちょっと一番大事なとこやな。

—-昔ながらの伝統を守り、いまも豆腐作りをしているのは秦荘町目加田の小川米蔵さん84歳です。

うっかりすると火傷するしな。手ぇかかるさかい。

—-小川さんが豆腐作りを始めたのは20歳のときです。

わたしが20歳のときにお父さんがやってはったのをな、いろんなまた商売せんならんのやから、おまえ豆腐やれと、いわはったので。わたしは二年ほどかかって習うてな。ほてやりあげたんすわ。前はあの、豆腐屋というのをせいでも仕事もあったし、ほて、みな都会へ憧れていかはるで、田舎で豆腐屋するっちゅうのは、まぁ古い方やったでな。わたしぐらいのもんやったんや。いろんなことがあったさかい、なんやな、苦労しましたわ。

————-(音声はここまで)

—-すべてが手作業の当時は、朝5時から作業場に入りましたが、一部機械を取り入れた今では、朝7時に起き、前の日に水につけた大豆を潰すことからはじめます。64年間豆腐作りを続けてこられたのは、お客さんの「おいしい」という一言が励ましになりました。

ずーと変わらんと、何十年てこやって、おんなじことをさせてもらえるでな、喜んでますねん、わたしは。ほて、みなはんもやっぱり「おっさんの作った田舎くさいこの豆腐が良い」ちゅうてな、みな贔屓にしてくれはるで、毎日喜んでやらしてもうてんねや。豆腐の味を知ってくれてはる人はみなほう言うてくれはるのよ。「おっさん、昔流でやってくれてはるで、ほんまの豆腐の味がする」ちゅうてな。やっぱり豆腐食べてくれてはる人はよう知ってはるでな。

—-小川さんは一年のうち、豆腐作りを休むのはほんの数日。いままで病気で寝込んだこともありません。

この隣のお医者さんがいわはるのには「おっさんは、毎日豆をつこて、豆の湯気を吸うてるさかいに、ほれも健康の一つやぞ」いうてはるんや。わしも感じると、やっぱりこういう豆の成分がな、毎日かざがいてもうてますで、ほんで健康やなちゅうこと、ようわかります。まぁ、こないになってからわかるようになってきたんや。

—-大豆を潰してから豆腐が出来上がるまで、およそ2時間。工程の中でニガリを入れる作業が、もっとも難しいと話す小川さん。経験と勘が必要なだけに、はじめの頃は失敗もありました。

固まらずじまいというのがあってな、ほんま苦労しましたわ。ほやけんど、まあ仕上げはおとうさんがまたあんばいようこうまたやり直してくれはるけんどな、、そうするとまたニガリというてよけ使わんの。最初いうてくれてはっただけでやっては固まらんで。またほんでそういうときは、もういっぺんな、やってくださってん。そんなことはまぁ、何回もなかったけんどな。ほて、豆が古いとな、美しい見えたっても、去年の豆もってきはるとな、そういう豆でよう失敗したことありますんやわ。

—-注文があると元気に配達もされる小川さんは84歳の今も自動車を運転し、ときには近くの景色を眺めにでかけます。

山の景色やとか、この、湖(うみ)の景色を眺めんのが好きでな。で、ちょいちょい松原へも行ったり柳川へも行ったり。まぁ山は金剛輪寺やとか横山へも行くと、こっち方面をザーっと見えるけんどな。ほら、ええ景色やわ。やっぱり、湖、山を眺めてみると、景色を眺めて静かにこやってるとな、いろんなことが思い…昔のことやらな。ずぅっとテレビで見て、時代の流れを見てることやら思い出やからと、こう眺めてると、ええわ。なんともいえん、心が静まってきよるな。
(金属音)

これで20丁出来上がりや。したてを食べるとおいしいけどな。

—-小川米蔵さんは、これからも続けられる限り、豆腐作りに専念したいと笑顔で話します。


アーカイヴズNo. 420
番組名:録音だより 「豆腐づくり64年」 目加田 小川米蔵さん
放送日:平成3年3月19日

*注:柳川、松原は彦根市。横山は東近江市日野川沿い。

250年前のお雛様

古いお雛様を、かつては旧暦の三月三日、すなわち四月に飾っていました。大菅さんのおうちで飾るのは江戸期の由緒正しいもの。「館」を建てるのにも相当な時間がかかります。

さてそれがどんなお雛様か、お話に耳を傾けてみましょう。


(昔のお雛様:3分49秒)

— 普通のお宅はですね、三月三日の桃の節句ですか、を境にですね、もうお雛さんは全部しまわれるわけですが、大菅さんのお宅は、今日からが始まりと

わたしのうちは昔から旧の節句ということで、四月ですか、それに昔から菜種の花が咲いたり桃の花が咲いたり、まぁ桃の節句ていいますわね、その桃の花の咲く時分ということで旧の桃の節句、三月三日ということ基準に合わして、いつも四月に飾っておるわけなんでございます。

— これから一ヶ月ほど、部屋を賑わすと

はい、そうです、毎年そゆことやってございます。まぁ、この館、普通のお雛さんと違いまして寝殿造りのお雛様ですので、建てるのに3時間4時間の時間がいりますので、毎年建てるのが大変ですので、こうゆうふうに飾らん年もあるわけなんですけど。

— 大変珍しいお雛さんなんですけど、もう250年前からあるだろうというようなことなんですね

ええ、だいたい寛政年間であろうというようなことで、だいたい今から200年そこそこ前の品もんだろうということで。箱書きにも寛政というようなこと書いてるんですけども。このお雛さんの垂木鼻とか、また欄間あたりに十六菊のですね紋が全部打ち込まれてるということは、武家政治の時分、紋は自由だったということきいておりますので。明治時代以後になってきますと十六菊が民間で使われないと、使ってはいけないということでございましたんですけども、この十六菊が使用されているということは、やはり武家政治、江戸時代、その時分の作だろうというようなこときいておるんですけど。

— そういう古いものであるがために旧暦の桃の節句を大事にしたいということなんですか?

まぁそういうようなことで、わたしの家では昔からそういうふうになっているわけなんです。

— いまいわれたお雛さんなんですけれども、館がちょうど二つありまして、この館を組むだけでも大変ひと苦労と。いま言われました3時間ぐらいかかる、と。

はい、かかるんです。この柱一本一本立てていきまして、御簾なんかも、また欄間なんかも、畳を敷いたり襖はめたりしていきますので、やはり館たてるだけでも2時間半から3時間ぐらいかかってまいります。

— その館の中の屏風とかにも凝った色彩の絵が描かれてるわけですね

はい、だいたいこれまぁ御前雛って言いまして、京都の寝殿造りですね、御殿の寝殿造り、それを模倣してるもんだときいてるんですが。だからこゆふうに屏風とかそういうものに綺麗なね、屏風がはまっているんですが。天井も見ていただいたらわかりますように格天になっておりまして、それにこう絵がですね描かれておるんですけども。

— はぁ、なるほどねぇ。こう触られるのも、よっぽど注意して…

はい、古いもんですので、もう痛みがきておりますのでね、十分注意してやらんと、こう剥がれてきたり壊したりしたら大変ですのでね、細心の注意をはらって組み立てておるんですけど。なんせ古いもんですので、ほんとに気ぃつかいます。

— これがまだ途中なんですけど、お雛さんみんな飾ってしまうと畳三枚ぐらい?

まぁそうですね、だいたい三枚ぐらいの広さで、それくらいいるんですけど。

— 大菅さんのお子さん、いま高校生だということですけど、小さい頃、まぁ段雛とだいぶん違いますので…

お雛さんは段々雛できらびやかなもんですけども、うちの子供が小さいとき、よそへ友達んとこへ遊びに行きますと、段々雛のきれいのん飾ってありますと「わたしんとこも飾ってほしい」ということで、このお雛さん飾っておいても、これが「お雛さんじゃない」というような感じでね「段々雛が欲しい」と無理をいったようなこともあるんですけども。

— いまはどうですか

いまはもう古さというものにね、値打ちがあるんだということを感じまして、誇りに思っておりますけど。

— これを飾って、なにか特別なことをやるとかは?

別にね、特別なことはやっておりませんけども、ほんとに珍しいお雛さんですので「ご存知ない方はぜひ一度見に来てください」てなことでね、一服がてらに、このお雛さんを見学していただくというようなことをやっておるんですけど。

— お雛さんは段雛と同じくらいあるんですか?お雛さんの数は?

お雛さんのねぇ、この人形の数は、だいたい何体おられるでしょうねぇ。普通のお雛さんより多いんじゃないでしょうかねぇ。ぜんぜんもうねぇ、いまのお雛さんのようなかっこじゃなくって、いろんなかっこしたねぇ、あの大名行列とか七人官女のお給仕する行列とか、またこの境内を掃除してる人とか、そうゆうようなこう物語的な人形さんがね、おられますね、たくさん。

— 大菅さんは呉服屋でしてね、この衣裳なんかパッと見てよくわかると思うんですが

だいたいこの素材はですね、いまですとナイロンとか化学繊維を使っておりますので、きらびやかな色なんか出ておりますけど、これはまぁ昔の古いもんですので絹とか麻とか、そうゆうな天然素材を使っておりますし、髪の毛も人毛っちゅんですかね、そゆよなもん使っておりますので、虫の保存が第一に、虫に食われんようにするということで、いちっばん細心の注意をはらって保存しておるようなわけです。

— そうすると一年に一回ぐらいは出さないと…

そうですね。やっぱり殺虫剤、樟脳やなんか入れまして、一体一体が全部その箱に入っておりまして、ほしてその元結(もっとい)と言いましてね、昔その髪の毛をくくられた紐があるんですけど、その元結で一体一体を箱に固定しまして、そんなかに必ず殺虫剤、樟脳なんかを、防虫剤いうんですか、そゆなんこう入れまして、虫のつかんように保存することに細心の注意はらっております。でもその天然素材ということで、だいぶんこう色もね褪せてきまして、写真に撮りますときれいになっておりますけども、実物見ますとだいぶん色も褪せてるんですけども。

— いま作り直そうとすると、ちょっと難しいような感じですか?

そうですねぇ、人形師さんと相談すればねぇ、なんとかなるかと思うんですけども、まだ修繕せんならん域まできてませんので。一部はまぁ部分的にはそんなとこもあろうかと思いますけど、いまのところはこのまま、この古さがまた値打ちが、と思いまして、このまま大事に保存してるわけなんですけど。

— これから何日ぐらいまで?

まぁ今月いっぱいぐらいまで飾っておきまして、有線でも放送していただくんでしたら、皆さんご気楽に、いっぺん見ていただいたらと思うんですけども。

— 他でこういうのご覧になったことは?

ぜんぜんこういうよなお雛さんは見たことないですね。テレビやなんかでお雛祭りのときになりますと、いろんなかっこのお雛さんが紹介されますけども、わたしんとこのお雛さんとよう似たのがあるかな、と思ってテレビでも見せていただいてるんですが、わたしんとこのお雛さんのようなのはちょっとこう見たことないですね。ぜひこの機会に、組み立てるのんが大変ですので飾らない年もありますのでね、今年なんかこうして出させていただいたので、一人でも多くの方に見ていただいたらと思うんですけども。

 

アーカイヴズNo. 300k
番組名:おじゃまします 「250年前のお雛様」蚊野 大菅清さん(52歳)
放送日:昭和38年3年2日

 

蛍雪録:昭和11年の卒業記念文集

昭和11年、尋常高等小学校を卒業するときに書かれた手書きの卒業記念文集について、外川みつ子さんが、近江弁豊かに語っています。

(蛍雪録:2分55秒)

I(インタビュアー): 今日は蚊野の外川みつ子さんをお尋ねしました。外川さんの宝物は蛍雪録 — 学校を卒業した時の記念詩集とでもいいますか、ご自身で製作されましたものを大事に保存しておられます。高等2年を卒業されたのが昭和11年頃ということですから、もう44年も経っているわけです。時々それを眺めながら昔を懐かしんでいるという外川みつ子さんです。

満14歳の時に書きましたのやでちょうど…44年どすな。わたしの父がまあ、とっても厳格な方でして、嫁入りする時は卒業証書からお前のもんはみんな持っていかいえ(「いきなさい」の意)と言うておくれまして、箱に入れときましたら後で持ってきておくれまして、蛍雪録もお父さんが入れてておくれまして。もう来たちゅうたら、もうこんなことそうばやおませんでして(「こんな場合(状況)ではありませんでして」の意)。まぁそいで娘が大きなりまして、お母ちゃんの字はこんなもんやでて見せたり。また孫がこの頃、字を稽古したりしてますでな。お婆ちゃんのこんなもんやでて、また見せてやろと思てますねんけど。なかなか読む機会もおせんけど、こないだもちょっと、わたしも体の具合が悪うおすもんやさかい、まぁ両親もみなこっちの舅さんもみないておくれませんし、一人留守番しておりますと、友達のことを思いまして「あー、あの蛍雪録、あっこにしもといたがあるかなぁ。ネズミがかじっておっきょへんか(「かじっていないか」の意)」思いましてな。ちょうど5年ほど前、家新築する前に大事にまあ、包装紙に包んでおきましたさかいに見にいきましたら、倉庫にちゃんとありましたさかい出してきまして読んでますの。

I: この表紙は、昭和11年、東尋常高等小学校高等科2年卒業、蛍雪録、大橋みつ子(旧姓大橋)と。

そうですの。これもまた先生が「お前らの努力次第で分厚うしよと、半分で終えとこと、3枚で終えとこと、それは自分自分の努力次第や」ちゅうとくれ、わたしもまぁ記念になるさかいにおもて一生懸命に名簿こしらえもって書きました。

I: いまの卒業の記念集なんかですと、ほとんどが印刷されておりますけれど

そう、そう。まぁ自筆ですでね、これは。みんな自分で書きまして。いま、こう読みましてな「あぁ、懐かしい!」– 教育勅語が書いてますさかいに。ほしてまた友達の和歌やら、せんせの字やら、ほしてから…友達の和歌に俳句。せんせの所在地にお友達の字名やら保護者の名前、みんな書いてまっさかいに。まぁ懐かしく1ページ1ページをわたし、こないだから広げて思い出しては読んでますの。

I: 印象に残っているところを読んでもらいたいんですけど

ええっ。もうあんた14歳の時に書いたあるもんやで幼稚な文章で、もう恥ずかし。もう宝もんいうもんやございませんけどね…

「恥ずかしかったこと

尋常一年生の時であった。いまの朗読会のかわりに、3月1日に学芸会がありました。その日は各学年、男女別に、いろいろの劇がありました。わたくしたちは男女一緒に舌切り雀の劇でありました。
とうとうわたくしたちの番でありました。わたくしら5人のものが、雀の踊りをするのでありました。5人のものが舞台に座りました。少しすると、幕を開けられる人が幕を開けはじめました。その時どうしたことか、わたくしが被っていた帽子が幕についていきました。わたくしは急いで帽子をとりに、被りましたところ、前と後ろがわからずに逆さまに被りました。
あの時、わたくしはどんなに恥ずかしかったかしれません。それがすんでからせんせが、あんた帽子がとれたねぇ、といって抱いてくださいました。講堂いっぱいの父兄の方が参観にきてくださいました。いま思い出しても顔が赤くなります。」

いまもこのせんせがね、そこの隣の軽野いうとこに姓変わって宇野せんせで、まぁわたしらの時は堀川せんせでしたけど、まぁ一生懸命、赤い海老茶の袴はいて長いたもとの袖きて、踊りを教えとくれました。あぁ、あのせんせ見ると、いっつも思い出しますわ。


アーカイヴズNo: tape-177Bk
内容:私の宝物 蚊野 外川みつ子さん 蛍雪録
録音日:1980.7.9

昔の電話

 戦後、まだ電話が珍しかった頃。滋賀の町村では電話はどんな存在だったのでしょう? 有線電話/放送の成り立ちの話も。

(昔の電話 2分40秒)

 わたくしが昭和25年に現在地で(薬局を)開業いたしました当時は島川に電話機が4機ございました。すなわち、役場、学校、農協に各1台ずつ。個人の加入者としては元代議士の西村伊亮さんの家にあるのみでした。他に記憶しておりますのは下八木に、これも堤代議士(堤康次郎)のお宅に1台と元持の池田先生、お医者さんの家にと、あと1、2だったと記憶しております。

  その当時は電話も貴重品扱いでございまして、当時は、皆様も毎朝見ておられる朝のドラマの「なっちゃんの写真館」にも出てきます、ああいうふうに畳半坪ぐらいの大きさのボックスの中に大事にしまわれておりました。

(音声はここから)

 わたくしも26年から毎年電話の新設を申請しておりました。やっと29年につけてもらいました。そのとき他に2機…計3機、島川につきました。当時の電話は磁石式といいまして電話機の横についているハンドルを回し、そして交換台を呼び出して交換手に番号を告げます。市内ですとすぐにつないでくれますが、これが市外通話になりますと相手の電話番号とこちらの電話番号を告げまして、また受話器を下ろしてしばらく待っております。これを待時通話と申しまして、相手方につながるまでしばらく待たなければなりません。

 ちょっと遠方へでもかけますと、ときによっては何時間も待つということが普通でした。それで待時通話の申し込みに普通と至急と特急と三種類ありまして料金がそれぞれ倍、3倍となっておりました。急ぎのときは随分と高くついたものでございます。なお当時の基本料金は月額事務用が800円、住宅用が500円でした。それと市外へかけますと市外通話料が別に加算されました。

 その後も電話の新設は遅々として進まず33年頃から電話のない字(あざ)をなくそうということで、各字に今でいう赤電話…その当時はまだ黒電話でございましたが、公衆電話がつけられました。しかし当時はその受け手がなくて、ほとんどの字がお寺さんが奉仕的に引き受けられて今日におよんでいるような状態でございます。受託されたお家の人は大変で、在所の端から端まで呼び出しに、また言伝てにご苦労なさいました。(音声はここまで)

 そうこうしているうちに38年に有線[1]が放送を開始いたしまして、呼び出しとか伝言も有線ですませるようになりましてだいぶ楽になってまいりました。40年代にはいり電電公社のほうも増設計画もやや進しょうし、また高度経済成長の波にのり、そのうえ有線の開通がその潜在需要を喚起いたしまして、ぼつぼつ電話の新設も増えてまいりましたが、それでも44年1月のダイヤル式に改式された当時はまだ30機たらずしかありませんでした。

 が、その後はこの電話の自動化を契機といたしまして全県的に飛躍的に増えてまいりました。県の電話も45年10月に十万台、49年6月に二十万台を突破。ついに54年10月には所帯数を上回る三十万台を超えました。当島川でも現在100余機、もうほとんどのお家にございます。その間、県の自動化も53年8月に全部完了いたしました。なお54年10月には全国の自動化が完了。日本全国どこでも即時にダイヤルでかかるようになりました。まことに結構なことといわねばなりません。

 その反面、マナーの低下というようなことがだんだんと問題になってまいりました。電話の向こうはどんな顔、と言います。電話は顔が見えません。声だけが頼りです。言葉づかいに十分気をつけて愛情を込めて応対をしたいものであります。どうもご静聴ありがとうございました。


アーカイヴNo.: tape-174Bk
ふるさと談話室/島川/小杉栄治さん/昔の電話のこと
放送:昭和55年7月12日


【注】