雨乞いの唄(2)「雲のお多賀詣り」

あの雲はもうすぐ雨を降らせる。
昔の人はよき天気読みでもありました。

前回に引き続き、昭和53年(1978年)に放送された「愛知郡録音風物詩」から、「雨乞い」の話。今回は澤島嘉一郎さんの談話の終盤部分を紹介します。

今回は特におもしろいのは、この地方での雲の動きの話。Google Mapで多賀神社と愛知川流域を表示すると分かるように、愛知川から見ると「お多賀さん」はちょうど北にあります。また、かつては愛知川の左岸(南側:御薗、建部、八日市など)は「神崎郡」で、愛知川の右岸(北側:秦荘、愛知川、澤島さんの住む湖東を含む地域)は「愛知郡」でした。これらのことを頭に入れておくと、澤島さんの雲の話がよくわかります。


(雨乞いの唄(2):3分33秒)

ナレーション:
田植えの前、水がなければ、田を耕すことができない。ついには、送水に、消防車まで出動したと語るのは、今年八十じゃという澤島さんである。

澤島:
その時代に、からずっとこっちきてからやけど、ほの水がのうて田が「くならん」な。田植えのなにに、くならんやろ、ほんであの、あっこから水もろうたことあるがな。いま、○○さんのあの運動場のあっこに、溜池が○○。あの、ボウリングして、学校へ送ってやる水があるやろうが、ああ。あっこいー、消防ポンプを町からもってきてもろて、ほいでホースをつないで、あそこいらずうっと一群に、わりに、ふんでぇ、ひどい勢いでぎょうさんきたぞ。ほうっともうはえ、しぃから、この時代は、耕耘機はないし、牛じゃわいな。牛を連れてって、この時期には鋤いたわけだ。

ナレーション:
干ばつや恵みの雨が、百姓の死命を制する澤島さんの当時、もちろん、雲の動き一つにも、敏感になるのは言うまでもない。だが。テレビのスイッチを押す、「南よりの湿った風が流れこみ近畿地方のお天気は下り坂に向かいましょう」というわけにはいかない。

澤島:
南風が吹いてくるとな、雲が、北向いて行っきょるわな。ほすると、「雲がお多賀詣りしとる」って。○○ほんで○○○。ほんでお多賀さんより向こうは何と言いよるやろう? お多賀帰りって言いよるんやろか?
ほしたらなこの愛知川の河原な、より向こうへ、ほんで、神崎のほうへ行ってな、それを言うたら、「川越え」ていうよ。「雲が川越えや」。ほうっと雨が降ると。

ほうっと、こうこんだけのわりあいでこんだけ違うねや、ここでは、お多賀詣りっちうて。雲がお多賀詣りしとると、こういいよる。ほして神崎のほうへいくと、「川越え」。雲が川越えしよる。いまじゃ出会うたら「こんにちは」とこうか「よい日じゃな」とこう言うけんど。そのうち雨が降ってきたら「ええ雨やったな」と。んなあ、あ−、おはようの、こんばんも、んなこたあらせん。「ええ雨やったな」と、こう雨降ったら。いうたら、水きちがいみたいなもんだな百姓は。

ナレーション:
百姓は水きちがいみたいなもんやと笑う澤島嘉一郎さん、明治30年生まれ、80歳。

澤島:
じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ。
あみだぼいーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ…


 

語り:澤島嘉一郎さん
放送日:1978年「愛知郡録音風物詩」
文責:細馬宏通

(2016.8.2 掲載 *現在から見れば不適切にきこえる表現もありますが、当時のことばを尊重してそのまま掲載しています。)

雨乞いの唄(1)

雨乞いって、童話や神話の中の話だと思っていませんか?現在ではほとんどきかれなくなった雨乞い唄が、録音に残っていました。

今回は昭和53年(1978年)に放送された「愛知郡録音風物詩」から、「雨乞い」の唄を紹介します。「愛知郡録音風物詩」は、当時の愛知郡内にあった愛知川、秦荘、湖東、三つの放送局による共同制作の番組です。

現在の愛荘町を含む愛知川流域は、戦後の国営愛知川土地改良事業(昭和27-58年度)で激変しました。上流には永源寺ダムができ、平野のあちこちには頭首工と呼ばれる用水路へ引き入れるための施設や、幹線水路がめぐらされました(地図をごらんになりたい方は、その後に行われた国営かんがい排水事業の概要(PDF)をどうぞ)。

しかし、こうした農業用水がまだ整備されていなかった戦前には、流域の人びとによって「雨乞い」が行われていました。今回は、当時、東近江市南花沢におられた澤島嘉一郎さん(明治30年生まれ)の出演された回から、雨乞いの唄を歌っておられる部分を抜粋します。


(雨乞いの唄:3分16秒)

 

 

ナレーション:
ダムも頭首工も、幹線水路も人びとが想像もしなかった三十数年前(注:放送は昭和53年当時)まで、植え付けが済んだ湖東平野のあちこちで、このような祈りの声が聞かれた。

澤島さん:
あーみだぼ、いーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ

ナレーション:
大昔から、水は百姓の命。この命の水も、天にまかせるよりない。干ばつが続けば、百姓にとって、文字通り命取りである。ただ、神に祈る以外にない。いわゆる、雨乞いである。

澤島さん:
雨が降らんと、ほうっと、まあ、ある二三の人がもうこれではどうもならんと言うのでな。井戸水は涸れてくるし、もうどうもこうもしょうがないで。ええ、まあお宮さんに頼ろうかと、こう言うて、総集会を開いて、ほいて、雨乞いをかけようかと、こうなって。ほうすっと、雨乞いということは、えーっと、こもろうか、いさめようかと、こういうことになる。な。

ほうっと、こもるということは、ただじっとお宮さんにみんなが、寄って詣ってったらええんやし、いさめようかっていうと、まあ太鼓を叩いて、鉦も叩き、えー、ま、いろんなおかしな節つけてぇ、へへ、あみだーぼいーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ、と、こういうようなまあ 歌の文句やな。ははっ。三日三夜(さんにちさんや)とか、五夜五日とか、いうことを、えー、お願いして。ほうっと、それが三日三夜でー、あがれば、ほんでまあ三日三夜の日割りをして誰それは行くか、誰それは行くかとこうやって、夜は全部夜とか、こういうことを決めてな。ほいてぇ、まあやったようなもんや。

総出っていうことになってくるとまた、いろんなことがでけてくるとかなんしな。ほんでー、まあ字を半分に割って、今日はこっち、今日はこっちと、こういう具合にやったこともあるし、いろんなこと。はあ。

ほいで雨が降ってきた、ちょっとしょぼしょぼ降ってきたら、ま太鼓が破れようがなんじゃろうがほんなこと構うやろうかい、もうむちゃくちゃに叩いて叩いて

ナレーション:
雨が降れば、狂喜乱舞する。干ばつが続けば、やかんや土瓶に入れた水を一株ずつ稲にかけて歩く。近代の農業から、こんな姿が想像できるであろうか。

澤島さん:
井戸水を、ま、むかしいうたら、いまは桶、バケツていうから、「つるべ」っていうたわな。ほのつるべでこう井戸水をちっとずつまあ釣って上げてって、ほいでやかんや土瓶に入れて。ほいて、田のもとに一丁ちょっとずつかけに歩いた。わしの子どももいま四十二か、なると、こいつらほれに出よったことあるで、学校から。


語り:澤島嘉一郎さん
放送日:1978年「愛知郡録音風物詩」
文責:細馬宏通 (2016.8,2 掲載)

すり鉢ころがし

一厘線の転がる軌跡。子ども心にぐっとくる「勝負事」の話。

西澤ますさんは、明治22年生まれ、当時84歳。インタビュアーに子どもの頃正月に何をして遊んだかを問われたあとのやりとりです。西澤さんが「勝負事をしました」とおっしゃるので、もしや子どもが博打を?と、どきりとするのですが、実はそれは一厘銭(当時一番小さな単位の貨幣)を取り合うという他愛のないもの。「ころころーっと」「こーんところかけて」というあたり、軽い手首の所作が目に見えるようです。オノマトペには、その時代その時代の感覚が詰まっているのかもしれません。実はこの遊び、菊池寛の小説にも見られるのですが、その話は書き起こしのあとで。


(すり鉢ころがし/1分18秒)

あたしむかしはほいで、あの、一厘銭でな。あの、擂り鉢(すりはち)ころがしいうてあの、あれで勝負事しましたことあんのよ。

(ほうほう、それは、どういうような遊びですか)

ふん、これな、すりはちとってきてな、ほいで、一文銭をな、ころころーっとまわすにや。ほうすっとほれがちょんとこう、重なって、ほれが、ほうっとほれ、ほれ二文に重なっても三文に重なってもほれみなもらうん。ほういう勝負事したん 、 へえ。ほいでハァほれ、あのう、なんどすか、いろはかるたもありましたしな、はい、やっぱあれは昔からあった、ほんでも。へえへえ。

ほいですり鉢ころがし正月ようして、ほいで、こういう壁にな、こーんところかけて、あの壁にころころっところげてくんのん。ほするところげてくるとくとその、先きたのが、あの、一文やら、十円ちゅうなもなあれへんなら、むかしはなあの時代に、たいがい一文銭でしましたのよ。ほの時代のほんで、ほれでよ、あのう、 ○○まい、○○ 、十銭もうけたたら二十銭儲けたたらいうてよろこんで、したようなことあったけんど。

(もう最近はそんでも、そういうのどかなあの、遊びというのは、なくなりましたね)

あぁ、ないなあ、もう、もうほいて昔、明治時代はな、お金も小そうおしたしな、そらあ、あのう勝負事ちゅうたて、わずかどしたわいな、へえ。


さて、「すりはちころがし」という遊びは、はたして近江特有の遊びだったのか、それとも全国いたるところにあったのか。丼にサイコロを振り入れる「チンチロリン」は『麻雀放浪記』などで有名ですが、はたしてどうでしょう。調べていくうちに、実は菊池寛の小説にこの西澤さんの語りとそっくりなものが記されていることがわかりました。

 私達兄弟も、よくそれを見習つて、零細な金を賭して、いろいろな勝負事をした。摺鉢こけらしと云つて、摺鉢の縁から、穴の開いた一文銭をこけらし込む。一文銭が、摺鉢の真中に幾つも溜る。自分のこけらした一文銭が、中に溜つてゐる一文銭に重ると、重つた丈の一文銭を勝ち得る遊びもあつた。穴一と云つて、一文銭を幾つか宛出し合つて、それを壁に投ずる。跳ね返つて来た一文銭を、自分の手中の一文銭で打ち当てて取る遊戯があつた。そんな金をかけた遊びには、私も兄との平生の疎々しさを忘れて、ついて一生懸命に勝負を争ふのだった。
(菊池寛「肉親」大正十三年より)

どうやらこの遊び、近江だけのものではなかったようです。菊池寛の「肉親」では擂り鉢「こけらし」、西澤さんのお話では「ころがし」。菊池寛は香川県高松の出身なので、もしかしたら彼の地では「こけらし」と呼んでいたのかもしれません。

 

語り:西澤ますさん(明治22年生まれ)/放送日:1973年1月「丑年生まれをたずねて」/文責:細馬宏通
(2016.7.29 掲載)

忠臣蔵の覗き節

 明治・大正期の見世物、覗きからくり。「覗き節」は、レンズ越しに覗きからくりのおどろおどろしい絵を見ながらきく、怖くて不思議な物語。それは香具師が各地に広めた流行歌でもありました。

戦前には全国あちこちの境内などで「のぞきからくり」の見世物がありました。これは、いくつものレンズを備えた巨大な箱状のものに、子供たちがとりついて、交替するおどろおどろしい絵を覗くという見世物で、箱の横では、香具師が「覗き節」(からくり節)と呼ばれる語りを述べて絵を説明しました。

お金のない子どもも、竹の棒を叩きながら調子よく唄われる覗き節をそばで聞き覚え、口ずさめるほどになります。落語「くしゃみ講釈」の中には、物覚えの悪い男が「八百屋お七」のからくり節に乗せて買い物の内容を覚えるというくだりが残っており、全盛期の覗き節がいかに人びとの間に広まっていたかを伺わせます。

新潟県巻町に現存するのぞきからくり「幽霊の継子いじめ」
 のぞきからくりは各地の縁日の盛り場、社寺の境内でよく見られましたが、活動写真の流行とともに衰退し、昭和9年(1934)になると、覗き屋の盛んだった大阪とその周辺でさえ神戸、大阪、兵庫にわずかに4軒(河本 1934)という状態になりました。 かつてののぞきからくりの口上は小沢昭一による「日本の放浪芸」の記録に残っています。また、新潟県巻町には、覗きからくりの箱と絵が保存されており、現在でも保存会の方による口上の再現が行われています。

今回の録音は、明治22生まれの古老による赤穂浪士の「覗き節」。これは、覗きからくりの基本資料である河本正義 (1935/1993) 『覗き眼鏡の口上歌』にもないもので、記憶に基づくものとはいえ、音声とともに残されているのはたいへん珍しいものです。語り手がかつて多賀神社や愛知川などで覗き節が見られたことを証言していること、こうした覗き節が、語り手のようにそれを子供時代に享受していた人によって克明に記憶されている点も貴重です。ではどうぞ。


(忠臣蔵の覗き節:3分4秒)

 

「いまは若い者にはちょっと向きが悪いかもしれませんが愛知川とか、お多賀さんで香具師が非常に歌った、覗き節というのがございます。これから、下手ではござりますが、ちょっと真似方だけさしていただいて、みなさんにその昔の思い出を考えてもらいたいと思うのでございます。ええ、さっそくはじめます。」

ころは元禄十四年
しゅがや宵のなかばごろ
七重八重咲く九重の
花の都の空よりも
勅使が幕府にご到着
さてもその日のまかなえやくが
たくみのかみ
ししょうはばんたる上野(こうづけ)に
まかないそできんなきために
あれやこれやの手違いを
受けてこうむる身の恥辱
おのれやれとははられども
殿中でやいばを抜いたなら
家は断絶
身は切腹
死するこの身は厭わねど
残る家中が不憫ぞと
こらえこらえた十四日
こともあろうが、松の廊下のいりぐちで
いぬざむらいだの人非人ぬすびととののしられ
もうこれまでの堪忍袋の緒が切れて
まいはんにたばさんだ小さな刀がみつかり
はってまってとはっと切り込む太刀先が
額の金輪にじゃまとなり
無念や本懐遂げられず
たむら屋敷にあずけられ
無念の最期あそばずばかり
家来四十と七人は
怨みはあつごの雪の夜に
吉良の屋敷に乱入し
主君のカタキ
上野の首討ち取って
これに○○か
無事に泉岳寺にとあずけられ
四十七人、そろうて切腹なされ
武人の鏡いつまでも
泉岳寺にて線香(せんこ)のたえまなく
武勇残るは
誉れは高輪泉岳寺
おそまつでございました。

語りと唄:明治22年生まれの古老の方
放送日:1973年1月「丑年生まれをたずねて」
文責:細馬宏通
(2016.6.29 掲載)

明治期の嫁入りのこと

歌いながら運ばれる嫁入り道具。
今回は明治・大正時代期の嫁入りの様子をお送りします。

語り手は辻甚蔵さん(明治22年生まれ)。嫁入り道具を運ぶ道中がいきいきと語られています。「近江 愛知川町の歴史 第三巻 民俗・文献資料編」(2008年)にも嫁入りの道具や運び方に関する記述(p. 130)がありますが、そちらは主に戦後の風俗に関する記述で、ここで辻さんが話しておられるのは、さらに昔、明治・大正期の嫁入りのこと。実際に荷を運んだ人ならではの語り口でその様子が伝えられています。嫁入りの歌を声できくことができるのもなんとも楽しい。

「歌いもって」「言いもって」という風に「…もって」という言い回しがよく出てきますが、これは近江のことばで「…しながら」という意味です。


(明治期の嫁入りのこと:5分39秒)

わたしの、80年あまり生きてるあいだの記憶してるようなことで、まあ古いことを、ちょっとあのほれ、話をしてみたいと、こう思いますので。まあ、明治27,8年の、日清戦争のあとで記憶したようなことを、ちょっと、今もう、そんなこと知ってやはる人もおへんやろうけんど、いっぺんちょっと話してみたいと思います。

まあその時分の嫁入りの荷物というたら、ハバキ[1]つけてわらじはいて、ほいで箪笥長持というたら、棒を通して、ほうして一つのもんを二人寄って担うて、ほれをずうっとまるで大名の行列みたいな調子で、荷を運んでいったもんじゃけんど。いまはもう自動車でとうっといかれて、さむしない(寂しい)もんじゃと思いますねや。ほんでわたしも、ほういう嫁の荷物にも、なんべんも出くわいて、そしてまあはあ、あの入口やとか、そのう、はたまでいくと、歌いもって、ほいで青竹(あおだけ)の、息杖(いきづえ)[2]をついて、ほいで行きましたんや。ほんときの、ほんでまあ唄をちょっと、いうてみたいと、こう思いますねや。ほれは…

めでたなー
めでーたーが、三つ重なりてぇ、よおー
鶴がな-、御門に、巣をかけるよ- えっさーえっさ

こう言いもって、なんべんでもいろいろの唄を繰り返し繰り返し言いもって、あのう、行きましたんや。こういうことをいっぺんちょっとみなさんに、披露してみたいと思いましたので。ほんでやっぱり箪笥長持いうても今みたいな箪笥長持やおへんわいな。棒の通すようにこう、吊り天がこしらえてましたんや。

ほいからー、あの小箱やなし、ああいうもんは一つにかためてましたけども、その時分にはセッタというて、荷を担う台がこしらえてましたんや。そのセッタにまあ盥やら鏡台やらアマダイ[3]というようなものはみな載せて、ほいで一人いうてこういっかんに担うていきましたんやで。ほいで、向こうへ着くとそれから、わらじ脱いで足を洗うて、ほいでほれから、あがって、ちょっと一杯よばれるとこんなような調子で。
んで棒だけはまた帰りにかついで帰りますねや。ほんで、酒に酔うてうだうだうだうだとひょろつきもって、ほいで棒をかついで、ほいでごちそうをちょんと棒の先にひっかけて、ほいで帰ってきた。こんなような調子やったんや。

(そうすっともう、ずいぶん遠くでもこう歩いて)一里でも一里半でも、歩いていきましたんや。(そうすっと、その道のりの中で、字(あざ)をいくつか通るわけですね。)ほするとあの、通る字々でうたいますねや。ひとのおらん縄手[4]では、あの、黙って、通っていきまんねや。ほんでまあ、青竹の息杖(いきづえ)もってますねや。ほんでその、ときどき肩を代えるのに、息杖ついて、ほいで肩をこうこうこうお互いにかえもって、ほいで行きまんねや。ほんで、ずいぶん荷があっても、こうやって担うていきましたんや。

ほんでにぎやかにもうどうっとこう、箪笥長持がこう、四つも五つもある、まああの時分によっぽど多い家のは七吊りいうて、箪笥長持が七つもありますわな。ほうすっと、箪笥長持だけでも十四人いりますがな。まあ、だいたい言うと、あのう、いまの嫁入りの荷物は、ほの、その行く嫁さんのもんだけちゅうことおへんわな。ほの時分はだいたい嫁入りの衣装というものは、ほの嫁さんのものだけやわな。自分の着たりはいたりするもんだけ、持っていくということやったわな。

だいたいまあ、ほれがなくなったのは、車がでけるようになってから、まあだいたい始まりは、荷車に乗せて、ほいで、二人ほど寄ってやなあ、一つの車に、箪笥長持、三本くらいつけて、そして、車二台ぐらいでいきましたわいな。ほうすると、小箱となにで三人くらいでいけるようになりました。ほんでその次には、リヤカーができましたで、ほいでリヤカーに乗せてまた運ばはりますねや。

ほいでまあ、ほれからこんどは、また自動車ができたけんども、字によっては自動車の入れん字が、その時分にはありました。ほんで、ようこの辺でも、中一色(なかいっしき)やたら、ほいから磯部やとかこの辺で、ああいう在では、その時分の自動車が入れんちゅうてましたわな。ほうすっとあのう、その、入れるとこまで自動車で行ってほいで車で、ほの在で、通うてはったこともあるんやし。こらまあ、だいぶん、もう五十年も六十年も昔のことですさかいな。嫁入りの荷物運ぶようなときには、歌いもっていくとにぎやかにおすやない。

【注】

  • [1] ハバキ 旅行や作業などの際、すねに巻きつけてひもで結び、動きやすくしたもの。(デジタル大辞泉より)
  • [2] 息杖:駕籠、天秤棒などをかつぐ人が休息する際、支えに用いる杖(歴史民俗用語辞典より)。 辻さんのこの談話から、「肩を替える」つまり、重い嫁入り道具を下げた天秤棒をかつぐ肩の左右を入れ替えるときに、一時的に荷を支えるのに「息杖」を使ったことがわかる。
  • [3] お針箱のこと。
  • [4] 縄手、もしくは畷。田んぼの中のあぜ道のこと。

談:辻甚蔵さん(明治22年生まれ)/放送:1973年1月「丑年生まれをたずねて」
調査:滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科:北出鈴花、高田咲季、田渕実央、豊田涼平、東野紗奈、松尾朋、山脇綺音
文責:細馬宏通
(2016.6.29 掲載/2016.7.4 改訂:一部をより語りに近づけました)