宇曽川の思い出

湖東平野を西進する宇曽川は、古来内陸と琵琶湖を結ぶ水運が盛んだったそうです。河口近くの荒神山や曽根沼の緑地で遊んだことのある方もいらっしゃるでしょう。宇曽川の四季とともに育った子供時代のお話を伺いました。雄大な景色、暮らしのありさまが目に浮かんできます。

わたしは蚊野外に生まれ、幼少時代ここで育ちました。当時このへん一帯は雑林と竹やぶに覆われて、こんなところに集落があったのか、と不思議に思われたぐらい物静かな寒村でした。大字を縦断している宇曽川は東西に流れ南北には高野街道が通っております。この道路は古くから交通の主要な幹線であり、人々に親しまれてきました。いま宇曽川の橋上に足を止めて遥か東方を望めば、鈴鹿連山の雄姿が眺められ、季節の装いも鮮やかで、自然の美しい表情に見とれるばかりです。

さらに、この渓谷から森林地帯を縫うように宇曽川が流れています。水涸のときは河原の石が真っ白に見え、ちょうどサラシを川幅いっぱいに敷き詰めたかのようで、流れのままに滑らかなうねりを見せつつ 下っています。青い空、変化に富む森林地帯、白い河原。これが見事にコントラストされ、その景観は、わたしたちの心を清め、清々しい気分にしてくれます。

なお、この橋下あたりは地区住民の生活の広場になっていました。春は子供をつれての散策、夏はカンピョウ干し、秋はもみのやたたて(千歯扱きあるいは足踏み脱穀機で脱穀した籾には葉屑等多くのゴミが混入しているが、それを箕に入れて高いところからパラパラと落とすと、自然の風でゴミが飛び去り籾だけになる。この作業を「やたたて」という。作業としては、唐箕で行う選別と同じ)で賑わっていたところです。水涸どきには子供たちが中洲で砂遊びや土俵をかいて相撲に歓声をあげ、時間のたつのを忘れていたこともあります。

また、水が出ると大騒ぎでした。この川は丸二日もたつと、水量が急に減り清らかな流れに変わるので、魚つかみに声を弾ませたものです。わたしの父が少年時代には、学校の運動会が、この橋のすぐ下流で行われたことを、母がよく話をしてくれました。

わたしの遊び友達は、同級生に男がいなかったので先輩の人と交わっていましたが、子供の世界には子供のルールがあって、これを守らんと叱られたり泣かされたものですが、自然のなかでのびのびと育った幼少時代が懐かしく、川を眺めるたびに思い出が蘇ってきます。

アーカイヴズNo. 235
番組名:あの地区この地区「宇曽川の思い出」
語り手:上野友一さん(蚊野外)
放送日:1982年1月29日