宇曽川の思い出

湖東平野を西進する宇曽川は、古来内陸と琵琶湖を結ぶ水運が盛んだったそうです。河口近くの荒神山や曽根沼の緑地で遊んだことのある方もいらっしゃるでしょう。宇曽川の四季とともに育った子供時代のお話を伺いました。雄大な景色、暮らしのありさまが目に浮かんできます。

わたしは蚊野外に生まれ、幼少時代ここで育ちました。当時このへん一帯は雑林と竹やぶに覆われて、こんなところに集落があったのか、と不思議に思われたぐらい物静かな寒村でした。大字を縦断している宇曽川は東西に流れ南北には高野街道が通っております。この道路は古くから交通の主要な幹線であり、人々に親しまれてきました。いま宇曽川の橋上に足を止めて遥か東方を望めば、鈴鹿連山の雄姿が眺められ、季節の装いも鮮やかで、自然の美しい表情に見とれるばかりです。

さらに、この渓谷から森林地帯を縫うように宇曽川が流れています。水涸のときは河原の石が真っ白に見え、ちょうどサラシを川幅いっぱいに敷き詰めたかのようで、流れのままに滑らかなうねりを見せつつ 下っています。青い空、変化に富む森林地帯、白い河原。これが見事にコントラストされ、その景観は、わたしたちの心を清め、清々しい気分にしてくれます。

なお、この橋下あたりは地区住民の生活の広場になっていました。春は子供をつれての散策、夏はカンピョウ干し、秋はもみのやたたて(千歯扱きあるいは足踏み脱穀機で脱穀した籾には葉屑等多くのゴミが混入しているが、それを箕に入れて高いところからパラパラと落とすと、自然の風でゴミが飛び去り籾だけになる。この作業を「やたたて」という。作業としては、唐箕で行う選別と同じ)で賑わっていたところです。水涸どきには子供たちが中洲で砂遊びや土俵をかいて相撲に歓声をあげ、時間のたつのを忘れていたこともあります。

また、水が出ると大騒ぎでした。この川は丸二日もたつと、水量が急に減り清らかな流れに変わるので、魚つかみに声を弾ませたものです。わたしの父が少年時代には、学校の運動会が、この橋のすぐ下流で行われたことを、母がよく話をしてくれました。

わたしの遊び友達は、同級生に男がいなかったので先輩の人と交わっていましたが、子供の世界には子供のルールがあって、これを守らんと叱られたり泣かされたものですが、自然のなかでのびのびと育った幼少時代が懐かしく、川を眺めるたびに思い出が蘇ってきます。

アーカイヴズNo. 235
番組名:あの地区この地区「宇曽川の思い出」
語り手:上野友一さん(蚊野外)
放送日:1982年1月29日

サンタクロースは誰?

寒い冬こそ温かな催しが必要。厳かに祝うお正月に先立って訪れるクリスマスは、大人も童心に帰れる楽しい行事です。区長さんがサンタに扮する手作りイベントを、子供からお年寄りまでそれぞれに喜ぶ様子が賑やかな声で伝わってきます。


3分49秒

12月24日はクリスマスイブ。各家庭はもちろん、各字の子供会でもクリスマスパーティーで賑わったことでしょう。そんななか、松尾寺北地区では、区長さんがサンタクロースに扮してプレゼントを配るというユニークな催しが行われました。

—あの、区長さんね、いまサンタさんの姿になられたんですけど、赤い服でヒゲつけられていかがですか?

「んー、なんかこう照れくさいな。これからずっと、あんまり遅くなると子供ら寝ますんで、はい」

—この鈴(りん)は何ですか?

「まぁ、これ鳴らしていくと、サンタさん来はった、ということで子供が喜んで出迎えてくれるんやと思いますし。これから回ってきます」

—午後6時、公民館でサンタクロースに変装した松尾寺北区長、北川忠太郎さん62歳は、さっそく子供たちと一人暮らしのお年寄りの家を訪ねました。

「こんばんはー」「ご苦労さまですー」「ほれ、サンタのおじいちゃん」「ありがとございます」「おもちゃ!」「おもちゃないわ(笑)。これや」「わぁ~、ありがとうございます!」「あっくん、何入ったある? いっぺん開けてみ」「開けてみて、て」「バッグや」「やったねぇ、いいの」

—プレゼントの中身は、18人の幼児にはクリスマスブーツ、17人の小学生にはスポーツバッグやナップサック、靴に鉛筆。また二人のお年寄りにはクリスマスケーキなど。プレゼントにはメッセージもついています。

「あっくん、農園で覚えた、ものを育てる心をいつまでも大切にしてくださいって書いてある。農園のサンタクロースから、やて。いいなぁ!」「ありがとうございます」「ありがとう」

—サンタクロースの訪問は三年前から続いている、と、区長さんです。

「なんかこう、三年ほど前に当時の役員さんがこうゆうこと思いついてやってくれはって、それからもうずーっと毎年やってまんねやけど。まぁ今年は子供らが、子供農園で大変よく頑張ってスイカとか芋とか、なんやかや野菜も作って、またそれを各家に配ってくれまして。また地蔵盆にもスイカなど割ってみなに食べてもらうよなことやってましたので。まぁ今年は子供会が大変頑張ったので、こういうことをやって喜んでいただきたいと思いますし」

—また今年はプレゼントの中身が例年より豪華になりました。

「今年、子供会が自分らの欲しいもんを希望して、それに近いものを子供会の方で準備したり、字でもそれに付け加えたりして、毎年よりはちょっとカサのはるもんが配られてると思いまんねやわ。子供らが廃品回収やって、そのお金も多少こっちのほうに回ってるようです」

—子供たちが夢にまで見たサンタクロースがイブの夜、自分の家にやってくると、いまでは子供だけではなく家族中で楽しみにされています。富永善五郎さんのお宅もそのひとつです。

「もうお爺さんお婆さん大喜びです」「あぁ、お爺さんお婆さんのほうが」「へへへへ」

「まぁ、いま子供の教育なんかも難しい言われてますので、在所ぐるみでこゆこと考えてくれはるのもありがたいんですけど、それに増して我々親のもんが、もっとしっかりせなあかんおもてますけども」

「毎年子供も楽しみにしてまして、今晩もいつ来はるか、いつ来はるか、りんりんりんりん、いうて口真似してずっと待ってました」

「これからもご苦労さんですけど続けてやっていただきたい思います」

—松尾寺北のサンタクロース。毎年プレゼントの中身も、サンタクロースの顔も変わって、楽しさ2倍です。

アーカイヴズNo. 300
番組名:町のアンテナ「区長さんがサンタ」
語り手:北川忠太郎さん他(松尾寺北)
放送日:1990年12月26日

水の苦労話

昔は風呂は何日に一回入ったか。髪は何日に一回洗ったか。こうした問いを考えるとき、わたしたちはつい、蛇口からいつでも水の出てくるのことや、いつでも好きなだけ井戸水の汲める環境を思い浮かべます。でも、それが当たり前ではない環境がありました。大正期の東出の話です。

(58秒)


私の子供の頃、大正の5、6年頃、いまから60年ほど昔のことでございますが、その時分、東出の飲料水は在所にひとつだけ親池というのがございまして、その親池は岩倉川の土手の下にひとつあっただけです。というのは、非常にひどい金気のとこでございまして、どこを掘っても真っ赤の水しか出ないので、とても飲料水、洗濯、風呂、間に合うものではございませんでした。
徳川の終わり頃だと思いますが、わたしたちの先祖が苦労に苦労を重ねて、やっとのことで岩倉川の土手の下に、わずかに金気の薄い水源地を見つけました。そこへ親池という池を掘って、その親池には私たちの子供の時分、いまも残っていますが、御影石の玉垣をこしらえて、そして字の住民全部が、まるで神さんのようにあがめたてまつっていたのが親池でございます。

私たちの子供の時分のこと覚えておりますが、朝、顔を洗う時に、昔、三本足のついた木の洗面器がございましたが、それに一杯水汲む。で一番におじいさんが顔洗う。その次お父さん顔洗う。男の子が顔洗う。おばあさん顔洗う。お母さん顔洗う、と、一杯の洗面器で家族が7人も8人が顔洗う。顔洗うといいましても、猫が顔洗うようなもんで、両手にわずか水すくって、2、3べん顔なでるだけです。そうして、そう7、8人が顔洗った水もごぃっとほかしては怒られる。もったいないといって、それをナスとかキュウリとか畑のもんにやる、というふうに一滴の水も非常に大事にしたもんです。

もし隣の家にお葬式とか嫁入りとか、そういう大勢ひと寄りがありますと、たちまちその家の隣5、6件は水が出んようになってしまう、と、そういうことをよく覚えております。
で、お風呂も水がございませんから、隣5、6軒が寄ってもらい風呂をした。そのもらい風呂というても、風呂の底に20cmぐらい、あるいは15cmぐらいの水があるだけです。で、そんだけの風呂にまぁ15人も20人もが入るわけです。で、お風呂に入るというても、いまのように洗い場があって、石鹸で洗うというような清潔なもんではございません。木の桶に、下に鉄の釜があって、その下から藁を炊いてわかす、と。そうして中へまたいで入る。で、上からは藁で編んだ蓋がある。大きな大きな帽子のような蓋がある。それが滑車でひっぱると降りてくる。で、冬ならば、ちょこんとも音をささずにその風呂の中にあぐらをして、蓋をして、じぃっとぬくもっておる、と。時間がきたら、あがる、というようなお風呂でございました。


アーカイヴズNo. 098
番組名:ふるさと談話室「水の苦労話」
語り手:高橋長兵衛さん(東出)
放送日:1979年7月28日

 

太鼓づくりの名人

彦根三十五万石も近い村。武士たちが登城する朝、厳かに打ち鳴らされていた太鼓。神社の儀式や折々の祭りで祈りを込めて打たれた太鼓。昔の人々の日常に欠かせなかった響きを生み出していたのは、ここ長塚村の名工だったようです。素材を求めての旅のようすや太鼓づくりの音までも聞こえてきそうなお話をうかがってみましょう。

江州長塚村の太鼓、いまから120年前まで栄えていたと、記録にのこっております。長塚村では北沢家と西川家の二軒が太鼓屋として栄えていました。北沢家は、いまのの北の方。西川家は、かしわ屋の前あたりから西川りょういちさん宅の土地にあったと記録にのこっております。いずれも太鼓屋一党は彦根藩の厚い保護のために全盛を誇っていた江戸時代です。しかもこの太鼓は美濃、信州、山城、摂津、河内の国々までも知られているのであります。

この家に働いていた、磯七(?)という若い大工が、いつも美濃の方へ行って太鼓の胴を作ることがあった。そして、仕事熱心で、北沢家の娘を嫁にもらった、といわれています。太鼓の胴を作るのには木目の美しい欅が必要です。その、木目の美しい欅を木曽川上流の方まで単身行って、この木を買いにいかれたということです。いま、岐阜県の本巣郡真正町真桑という部落がございます。揖斐川のほとりにございます。このあたりでも、磯七さんの仕事をしておられたこと、真桑の老人の方が知っておられました。この真桑の老人の人は、このようにお話をしておられました。真桑の老人のおじいさんからの話をいまでも耳にしているということです。

磯七さんはこのあたりまで来ておられて、山小屋を建てて良い欅を見つけると適当な寸法に横切りして中央を(真ん中ですね)これをくりぬいていた、と。それを木曽川へ流すということですね。こういう仕事をしておられたようです。そして磯七さんは大変学問家で、歌も大変上手である、ということも聞いているということです。特に知っておられるのは

奥山の 羽生の小屋にわれひとり こころ寂しきみみがねの音

羽生の小屋というのは草ぶきの小屋、みみがねの音というのはノミの音、ゲンノウの音ということですね。このおじいさんはよく知っておられますのでびっくりいたしました。長塚においてはこの歌を語り継がれてきたそうでありますけれども、それを覚えているものはいなくなっております。大変恥ずかしいことだと思いました。その他に、長塚に作られた太鼓が、その付近にあるということでありますが、時間がありませんので省略さしていただきますけれども、わたくしたち長塚には、こんないい歴史があるんだなぁということ、つくづく嬉しく思ったわけでございます。なお秦荘町のみなさんにおいても、わたしたちの住むふるさとについて、もっともっと誇りをもたないといけないなぁ、と思っております。

アーカイヴズNo. 221
番組名:話の広場「江州長塚村の太鼓」
語り手:藤岡明信さん(長塚)
放送日:1984年10月9日

村の守りを固めるお地蔵さん

散歩の途中でお地蔵さんに出会うのはよくあることですが、なぜそこにおられるのでしょう? こちら栗田集落のお地蔵さんは、疫病退散の強い願いを込めて建立されたようです。鬼門封じや陰陽道の聖獣、また道祖神などが担う守り神の役割をもった特別なお地蔵さんの話を伺いました。

今回は、わたくしたちの字の周りに守り本尊として祀られているお地蔵さんの縁起について回想してみたいと思います。

わたくしたちの大字は、あんまり大きな部落でもありません。戸数わずか60戸あまりの、だいたい標準的な部落でありますが、その形状もだいたい四角い枡の中に収まったような形状でまとまっています。そして大字への出入り口が、6本の道路がありまして、東西南北どこからでも出入りができる大変便利になっています。しかも、これらの字の入り口には、お地蔵様が色々なお姿で祀られています。立派なお地蔵堂のあるもの、また露天に鎮座されているもの、個人がお祀りされているもの、また子供たちが子供会活動のなかで一番にとりあげ楽しみにしている地蔵盆の催しをするお地蔵さん。いろいろありますが、こうしてわたくしたちの字の入り口には、必ずお地蔵様が守り本尊として、いつの時代からか祀られています。

東の入り口には、とのえ(?)の地蔵さんといって、ひとつの石面に三体のお地蔵さんの尊像が刻まれて日の出の守りをかためていただいています。また辰巳よりの入り口には、個人の屋敷内からですが、道路に面して小さな祠のような地蔵堂にお祀りされています。南の入り口には、女の地蔵さん(小学生の女の子が祀る)とも呼ばれている大小二体のお地蔵様がお祀りをされています。もひとつ西口には、新道の地蔵さん、またの名を首切り地蔵さんとも言って、栗田の代表的なお地蔵さんで、立派な地蔵堂が建てられ数体のお地蔵さんが合祀されています。その真ん中の一番大きなお地蔵さんが、ちょうど首のところで切られておられているので一名首切り地蔵さん(「男の地蔵さん」とも言う。小学生の男の子が祀る。)とも呼ばれているのでございますが、この首切り地蔵さんの縁起につきましては時間の関係でまたの機会に譲りたいと思います。次に北の入り口には八体のお地蔵さんが一列に並んでしっかりと字の戌亥の守りをかためていただいております。もう一ヶ所、栗田から長塚への間道があって、○○の地蔵さんといって、これまた大小二体のお地蔵さんが祀られていましたが、ここは田んぼの畦に祀られていましたので、こんどの圃場整備で整備の対象になり、一時別のところの入り口で祀られておりましたが、やはり先祖が選ばれた元の場所へ帰っていただくのが一番よかろうということで色々協議の末、土地改良組合の計らいの結果、元の場所にこの地蔵さんの敷地を作っていただき、近々この場所へお帰りいただくことと思います。このようにしてわたくしたちの大字をとりまく道路のすべての入り口にお地蔵さんが祀られていることになります。このような姿は近郷近在にもあまり見受けられない姿と思います。

さて、このお地蔵さんを祀られた縁起を調べてみますと、昔は疫病といって、いま伝染病といわれます流行り病がよく流行し、いったん発生すると医術の進まない昔のことでございますので、次から次へと感染し、部落内に多数の死者が出るといって大変恐れられたものでございました。こうした疫病が、わたくしたちの部落に伝染しないよう入りこまないようにとの願いをこめて、わたくしたちの先祖は、その守りにと字の入り口入り口に建立し祀られたものだときいております。そのおかげで当字には、昔からこうした疫病が発生しなかったと言い伝えられております。もちろん今日の時代に馬鹿馬鹿しい迷信と一笑にふせられることと思います。しかし医学の道すら開けていなかった昔の人々の素朴な、そして真剣な願いから、こうした守り本尊として祀られたものと推察されます。わたくしたちの先祖の、こうした純真な気持ちを、いま微笑ましくしのばせていただいている次第でございます。

アーカイヴズNo. 235
番組名:あの地区この地区「字のお地蔵さん」
語り手:岡部正三さん(栗田)
放送日:1982年1月21日

竜神さんの伝説

まるでおとぎ話に出てくるようなお話。琵琶湖の水の恵みを、なによりも大切にしてきた地域ならではの竜神伝説は、滋賀県の各地に残っています。さて、愛荘町界隈に残る伝承はどんなものでしょうか。水を統べる神様を畏れ敬う人々の心が連綿とつながって、地域の祭になったいきさつを伺ってみましょう。

昔、このへんが彦根藩の領地であった時代に、島川を中心とした近在の農家から年貢米が集荷され、このから田舟で積み出し、肥田まで下がり、肥田でもう少し大きな舟に積み替えられて琵琶湖へ出て彦根藩へ送られていたそうであります。

その祐善介淵の舟寄せ場として、荻田喜蔵さんのすぐ裏に三畝ほどの浅い池がありました。これを笠やの池と名付けられていましたが、河川改修によりまして、祐善介淵も笠やの池もなくなり、現在は「かさや」とか「地蔵」とか地名だけが残っております。

ところが、河川改修が行われた直後、その近くで相次いで火災が起こり、近所の人が「なにかの祟りではないだろうか」と気味悪がって、枝村の観音さんにお伺いをたてたところ、かさやの池を中心にして昔から住んでおられた竜神さんが住処がなくなって困ってはるのだ、ということで「それでは」と早速五部(五組のこと、島川集落では隣組を「部」で呼称しました。)の方々が発起人となり在所中の篤志を募り37年3月に、笠やに石塔を立てて、それ以来、毎年一回3月の吉日に有志の家がまわりもちで、(まつりなどの当番の家)をしてお祭りをなさっているそうで、その日は午前中仕事を休み、善言賛辞という祝詞をあげ、お供え物をして、そのお下がりでお茶をいただきながら去りし一年の無事を喜び、これからの無事を祈って楽しく語り合い、地域のふれあいを深めていなさるそうです。おかげさまでそれ以来その地区では不時災難がなくなったと喜んで、お祭りを楽しみにしておられます。

このようなことは迷信だと言ってしまえばそれまでですが、何百年も前から先祖の人々が「さいかせさん」「青木の権現さん」また「地蔵さん」に家族の無事を祈り、地域の安全を祈願されて祀られた、その魂が、いまの人々の心を揺さぶり、その魂を呼び戻したものと言えるのではないでしょうか。

また現代的に解釈しましても、最近のギスギスした世相のなかで、とかく忘れがちになっている地域のふれあいを深めるという意味あいにおきましても大きな遺産を残してくださっているような気がいたします。

最後に、石塔に刻まれました歌を朗詠いたしまして、かさやの竜神さんのご紹介を終わります。

 妙なるや のりをとのうる雲間より 琵琶湖をともう白竜の神

アーカイヴズNo. 198B
番組名:あの地区この地区「かさやの竜神さん」
語り手:小杉栄治さん(島川)
放送日:1983年2月13日

ゲートボール

お年寄りといえばゲートボールというのは今は昔。現在ではむしろグランドゴルフの方がポピュラーなようです。けれど昭和58年のこの録音では、無趣味で仕事一筋だった村川さんが、ゲートボールと出会い、日々ワクワク楽しんでいる様子が伝わってきます。

5メートル先の距離にあるゲートへボールを打ち込むのは、なかなか難しく、うまくいきません。お互いに語り合い、笑い声が響き、日の暮れるのを惜しむような楽しいひとときは「ゲートボールをはじめて良かったなぁ」としみじみ感じました。そして10月10日の町民体育祭には未熟ながらも香之庄代表として2名が参加し、また区民運動会には会員こぞって一生懸命ボールをゲートへ打ち込みました。

場所が狭いため正式の練習ができないのが残念でしたが、元持の老人会長さんから「ぜひ一度来るように」とお誘いを受けまして、11月6日、元持グラウンドへ10名あまりのものが出かけまして、広々とした運動場で午後のひとときを楽しくゲームをさせていただきました。そして帰るときに「また時々出てきてや。対抗試合をしよやないか」と親しみのこもったお誘いの言葉をいただいて、ゲートボールに対する熱がいよいよ盛り上がってまいりました。

アーカイヴズNo. 198B
番組名:あの地区この地区「ゲートボール」
語り手:村川忠一郎(香之庄)
放送日:1983年1月28日

東出長寿会の数え歌

東出長寿会で長年歌い継がれている数え歌です。歌っておられる中村さんは明治生まれ。4人の子どもと8人の孫に恵まれ、結婚50年のこの頃、老人会の例会にも月2回お出かけになるというお達者ぶりでした。


やれまた 一つとせ 人も羨む長寿会
今日も来たぞえ 8回目
互いに笑顔を やれ 見せあおうぞえ

あら 二つとせ 二人より三人寄りおうて
待ちに待ったる今日の日に
苦労を忘れて やれ 長寿会

やれまた 三つとせ 皆さんご機嫌さんだよ長寿会
飲んでうとうてそれからは 
おうて踊って やれ 囃すのかえ

やれまた 四つとせ 嫁と舅が今日もまた
話し合うのも心意気
長寿会では よく話が合うぞえ

あら 五つとせ いつもニコニコ幸せに
第一体が健やかで
今度の出会いも やれ 長寿会

あら 六つとせ 昔のことをば思い出す
盆も正月も変わらねど
変わりはてたは やれ 我が姿じゃ

あれまた 七つとせ 泣くのも笑うも心意気
呑気に暮らして心配するな
思うようには やれ なりゃしないぞえ

やれまた 八つとせ 病んでクヨクヨ思うより
楽に暮らして明日もまた
命ながらえ やれ 長寿会

あれまた 九つとせ 苦労して思案して
毎日を暮らしていても まあ 一日じゃ
笑ろうて暮らせよ やれ 長寿会

やれまた 十ととせ 父さんや母さんの時代は過ぎまして
いまでは爺さんや婆さんよ
皆さん長らく楽しむ やれ 長寿会


アーカイヴズNo. 174A
番組名:ふるさと談話室「東出長寿会の数え歌」
語り手:中村菊蔵さん(東出)
放送日:1980年6月7日

地蔵盆の思い出

京都や滋賀で盛んに行われる夏の行事が地蔵盆です。娯楽の少なかった昔でも、この日ばかりは子どもたちが主役、大いに楽しんだようです。宇野さんが7才当時(明治30年代、いまから120年ほども前)の地蔵盆のようすを、俳句の名調子とともにありありと語ってくださいました。どうぞお聞きください。


やあ、まあ、いよいよ明日から地蔵盆だ。夜空を眺めて「一番星(ほうし)見つけた。明日は天気になあれ」。子どもの一念が天に通じたものでしょう。8月の22日はお天気であったと思います。朝早くから地蔵盆の飾りつけの釣り行灯、麻糸につるした無数の日の丸、岐阜提灯、南無地蔵大菩薩と書いた旗、それから黒盆に盛った落雁、紅白の雑菓子、スイカに茄子、まくわに瓜、ナンバ……それはところどころ狭く並べ、それはそれは忙しかった。またその忙しさは格別でしたね。やれやれ出来上がった、と思って一息をついたら、どこからとなくアリの群れがやってきてね。油断大敵だ。こまめにアリ追いで、これまた忙しい。ちょっと俳句一句やってみしょう……

アリあがる 地蔵菩薩の途上まで

夕日が落ちた。お地蔵さんには一番に燈明、次に提灯、行灯にろうそくで、あかしをつけ、町民の広場で、肥松(松の小さな枝、樹脂の多い松の割り木)をどんどんと焚いたものです。

お盆中は連日連夜踊りに明け暮れましたな。またここで一句でましたわ。

盆踊り きくや木々の間 風のすき

どこかの村から賑やかな盆踊りのはやし声が漏れてくる。浴衣に草履ばき、うちわと手ぬぐいを腰に差し、踊り見物によくいったもんだ。わたくしの子ども時分は電灯はなく、高張提灯に大きなろうそくをとぼしてね、踊り場を活気づけた。きょうふう会(蚊野の神社の若衆会の名称)のおじさんたちが、手に手に弓張り提灯を途上高くかざして警護に懸命でしたな。そのおじさんのいかめしい姿が、まだ目の前に見えますよ。

スズメ百まで踊り忘れんとやら。踊る阿呆なら見る阿呆や。同じ阿呆なら踊らにゃ損じゃ。

知らぬ間に 踊りの渦の中にいる


アーカイヴズNo. 165A
番組名:ふるさと談話室「地蔵盆の思い出」
語り手:宇野さん(蚊野)
放送日:1980年8月15日

宮世話

村の神社に奉仕する男子の集団を「宮世話」と呼ぶのは、滋賀県の湖東地域に見られる習慣のようですが、みなさんの地元ではいかがでしょうか? 都会の方には聞きなれないかもしれませんが、愛荘町には約500年前の戦国時代に由来する村々に宮世話が残されているようです。中村さんが語ってくださっている東出集落の場合、12歳から33歳までの男子全員が入会。年頭に厳粛な入会と昇級の儀式が行われるそうです。

かしら、したえ、まえがみ等の階級があり、したえ以上のものは部落総出の場合、一人前の男子として取り扱われ、また他所から養子等に来た人も、必ず入会することになっております。

神社の祭礼等に際し、奉仕することが会の主な目的でありますが、字内青少年の健全な育成と、あわせて字内の秩序を維持する役割も兼ねております。また反面、神社に奉仕するものは「かくあるべき」だということを教えたものではないかと考えられます。したがって私ども子どもの頃まではかなり厳しい掟があり、一人前の男子として恥ずかしくない行動を強制されました。

軽野神社の氏子は現在、秦荘町の十ケ字と甲良町の二ケ字でありますが、秦荘町の九ケ字を郷内といい、戦前まで宮世話なる名称は郷内で東出以外使用できなかったようですし、また軽野神社に関し、東出は宮もとと称し、その発言力は非常に強かったように記憶しております。


アーカイヴズNo. 165A
番組名:ふるさと談話室「宮世話について」
語り手:中村俊二さん(東出)
放送日:1980年9月6日