水の苦労話

昔は風呂は何日に一回入ったか。髪は何日に一回洗ったか。こうした問いを考えるとき、わたしたちはつい、蛇口からいつでも水の出てくるのことや、いつでも好きなだけ井戸水の汲める環境を思い浮かべます。でも、それが当たり前ではない環境がありました。大正期の東出の話です。

(58秒)


私の子供の頃、大正の5、6年頃、いまから60年ほど昔のことでございますが、その時分、東出の飲料水は在所にひとつだけ親池というのがございまして、その親池は岩倉川の土手の下にひとつあっただけです。というのは、非常にひどい金気のとこでございまして、どこを掘っても真っ赤の水しか出ないので、とても飲料水、洗濯、風呂、間に合うものではございませんでした。
徳川の終わり頃だと思いますが、わたしたちの先祖が苦労に苦労を重ねて、やっとのことで岩倉川の土手の下に、わずかに金気の薄い水源地を見つけました。そこへ親池という池を掘って、その親池には私たちの子供の時分、いまも残っていますが、御影石の玉垣をこしらえて、そして字の住民全部が、まるで神さんのようにあがめたてまつっていたのが親池でございます。

私たちの子供の時分のこと覚えておりますが、朝、顔を洗う時に、昔、三本足のついた木の洗面器がございましたが、それに一杯水汲む。で一番におじいさんが顔洗う。その次お父さん顔洗う。男の子が顔洗う。おばあさん顔洗う。お母さん顔洗う、と、一杯の洗面器で家族が7人も8人が顔洗う。顔洗うといいましても、猫が顔洗うようなもんで、両手にわずか水すくって、2、3べん顔なでるだけです。そうして、そう7、8人が顔洗った水もごぃっとほかしては怒られる。もったいないといって、それをナスとかキュウリとか畑のもんにやる、というふうに一滴の水も非常に大事にしたもんです。

もし隣の家にお葬式とか嫁入りとか、そういう大勢ひと寄りがありますと、たちまちその家の隣5、6件は水が出んようになってしまう、と、そういうことをよく覚えております。
で、お風呂も水がございませんから、隣5、6軒が寄ってもらい風呂をした。そのもらい風呂というても、風呂の底に20cmぐらい、あるいは15cmぐらいの水があるだけです。で、そんだけの風呂にまぁ15人も20人もが入るわけです。で、お風呂に入るというても、いまのように洗い場があって、石鹸で洗うというような清潔なもんではございません。木の桶に、下に鉄の釜があって、その下から藁を炊いてわかす、と。そうして中へまたいで入る。で、上からは藁で編んだ蓋がある。大きな大きな帽子のような蓋がある。それが滑車でひっぱると降りてくる。で、冬ならば、ちょこんとも音をささずにその風呂の中にあぐらをして、蓋をして、じぃっとぬくもっておる、と。時間がきたら、あがる、というようなお風呂でございました。


アーカイヴズNo. 098
番組名:ふるさと談話室「水の苦労話」
語り手:高橋長兵衛さん(東出)
放送日:1979年7月28日

 

東出長寿会の数え歌

東出長寿会で長年歌い継がれている数え歌です。歌っておられる中村さんは明治生まれ。4人の子どもと8人の孫に恵まれ、結婚50年のこの頃、老人会の例会にも月2回お出かけになるというお達者ぶりでした。


やれまた 一つとせ 人も羨む長寿会
今日も来たぞえ 8回目
互いに笑顔を やれ 見せあおうぞえ

あら 二つとせ 二人より三人寄りおうて
待ちに待ったる今日の日に
苦労を忘れて やれ 長寿会

やれまた 三つとせ 皆さんご機嫌さんだよ長寿会
飲んでうとうてそれからは 
おうて踊って やれ 囃すのかえ

やれまた 四つとせ 嫁と舅が今日もまた
話し合うのも心意気
長寿会では よく話が合うぞえ

あら 五つとせ いつもニコニコ幸せに
第一体が健やかで
今度の出会いも やれ 長寿会

あら 六つとせ 昔のことをば思い出す
盆も正月も変わらねど
変わりはてたは やれ 我が姿じゃ

あれまた 七つとせ 泣くのも笑うも心意気
呑気に暮らして心配するな
思うようには やれ なりゃしないぞえ

やれまた 八つとせ 病んでクヨクヨ思うより
楽に暮らして明日もまた
命ながらえ やれ 長寿会

あれまた 九つとせ 苦労して思案して
毎日を暮らしていても まあ 一日じゃ
笑ろうて暮らせよ やれ 長寿会

やれまた 十ととせ 父さんや母さんの時代は過ぎまして
いまでは爺さんや婆さんよ
皆さん長らく楽しむ やれ 長寿会


アーカイヴズNo. 174A
番組名:ふるさと談話室「東出長寿会の数え歌」
語り手:中村菊蔵さん(東出)
放送日:1980年6月7日

地蔵盆の思い出

京都や滋賀で盛んに行われる夏の行事が地蔵盆です。娯楽の少なかった昔でも、この日ばかりは子どもたちが主役、大いに楽しんだようです。宇野さんが7才当時(明治30年代、いまから120年ほども前)の地蔵盆のようすを、俳句の名調子とともにありありと語ってくださいました。どうぞお聞きください。


やあ、まあ、いよいよ明日から地蔵盆だ。夜空を眺めて「一番星(ほうし)見つけた。明日は天気になあれ」。子どもの一念が天に通じたものでしょう。8月の22日はお天気であったと思います。朝早くから地蔵盆の飾りつけの釣り行灯、麻糸につるした無数の日の丸、岐阜提灯、南無地蔵大菩薩と書いた旗、それから黒盆に盛った落雁、紅白の雑菓子、スイカに茄子、まくわに瓜、ナンバ……それはところどころ狭く並べ、それはそれは忙しかった。またその忙しさは格別でしたね。やれやれ出来上がった、と思って一息をついたら、どこからとなくアリの群れがやってきてね。油断大敵だ。こまめにアリ追いで、これまた忙しい。ちょっと俳句一句やってみしょう……

アリあがる 地蔵菩薩の途上まで

夕日が落ちた。お地蔵さんには一番に燈明、次に提灯、行灯にろうそくで、あかしをつけ、町民の広場で、肥松(松の小さな枝、樹脂の多い松の割り木)をどんどんと焚いたものです。

お盆中は連日連夜踊りに明け暮れましたな。またここで一句でましたわ。

盆踊り きくや木々の間 風のすき

どこかの村から賑やかな盆踊りのはやし声が漏れてくる。浴衣に草履ばき、うちわと手ぬぐいを腰に差し、踊り見物によくいったもんだ。わたくしの子ども時分は電灯はなく、高張提灯に大きなろうそくをとぼしてね、踊り場を活気づけた。きょうふう会(蚊野の神社の若衆会の名称)のおじさんたちが、手に手に弓張り提灯を途上高くかざして警護に懸命でしたな。そのおじさんのいかめしい姿が、まだ目の前に見えますよ。

スズメ百まで踊り忘れんとやら。踊る阿呆なら見る阿呆や。同じ阿呆なら踊らにゃ損じゃ。

知らぬ間に 踊りの渦の中にいる


アーカイヴズNo. 165A
番組名:ふるさと談話室「地蔵盆の思い出」
語り手:宇野さん(蚊野)
放送日:1980年8月15日

宮世話

村の神社に奉仕する男子の集団を「宮世話」と呼ぶのは、滋賀県の湖東地域に見られる習慣のようですが、みなさんの地元ではいかがでしょうか? 都会の方には聞きなれないかもしれませんが、愛荘町には約500年前の戦国時代に由来する村々に宮世話が残されているようです。中村さんが語ってくださっている東出集落の場合、12歳から33歳までの男子全員が入会。年頭に厳粛な入会と昇級の儀式が行われるそうです。

かしら、したえ、まえがみ等の階級があり、したえ以上のものは部落総出の場合、一人前の男子として取り扱われ、また他所から養子等に来た人も、必ず入会することになっております。

神社の祭礼等に際し、奉仕することが会の主な目的でありますが、字内青少年の健全な育成と、あわせて字内の秩序を維持する役割も兼ねております。また反面、神社に奉仕するものは「かくあるべき」だということを教えたものではないかと考えられます。したがって私ども子どもの頃まではかなり厳しい掟があり、一人前の男子として恥ずかしくない行動を強制されました。

軽野神社の氏子は現在、秦荘町の十ケ字と甲良町の二ケ字でありますが、秦荘町の九ケ字を郷内といい、戦前まで宮世話なる名称は郷内で東出以外使用できなかったようですし、また軽野神社に関し、東出は宮もとと称し、その発言力は非常に強かったように記憶しております。


アーカイヴズNo. 165A
番組名:ふるさと談話室「宮世話について」
語り手:中村俊二さん(東出)
放送日:1980年9月6日

繭玉


滋賀県の湖東地区は、米どころとして知られています。なかでも愛荘町は、米作りをはじめとする農村地帯として長い歴史を刻んできました。

年末、どの家からも聞こえてきた威勢のいい餅つきの音。臼と杵が便利な餅つき機に変わっても、やはり農家にとっては大事な行事。来年の豊作を願う繭玉づくりについて、教えていただきました。


私の家では、このお鏡餅をつくときに、繭玉というものを作ります。枝ぶりのよい小枝を切ってきて、それに小さく切った餅をいくつもいくつもひっつけるのです。ちょうど稲の穂がいっぱいに実ったように餅を付けるのです。そうすると枝がたわみ、本当に実りきった稲穂のようになります。

これは何のためにするのかというと、言わずとも知れた稲の豊作を祈るためのものなのです。この繭玉のように、枝もたわわに実ってほしいというお祈りです。

なお、この繭玉の枝の中心部に、大きな餅を二つくっつけます。これは、両親を表し、家内じゅうが親を中心にして家じゅうの和合と安全を、合わせて祈るものです。この繭玉は、私たちの地区が全部やっていることではないのですが、私の家で古くからやっている行事として、皆様にお伝えさせていただきました。


アーカイヴズNo. 165A
番組名:ふるさと談話室「年末の餅つき、お正月のまゆ玉」
語り手:森惣十市さん(宮後)
放送日:1980年8月9日

水の苦労話

昔の人は何日に一度お風呂に入ったでしょう? 昔の人は何日に一度髪の毛を洗ったでしょう?
こんなことを考えるとき、わたしたちはつい、現在のように蛇口をひねると水の出る生活のこと、あるいは近場に井戸があってすぐに汲みに行ける生活のことを想像してしまいます。でも、そうではない生活もありました。大正期の愛荘町の話です。水の苦労もたいへんなものですが、冬場の風呂の蓋の使い方がおもしろい。


私の子供の頃、大正の5、6年頃、いまから60年ほど昔のことでございますが、その時分、東出の飲料水は在所にひとつだけ親池というのがございまして、その親池は岩倉川の土手の下にひとつあっただけです。というのは、非常にひどい金気のとこでございまして、どこを掘っても真っ赤の水しか出ないので、とても飲料水、洗濯、風呂、間に合うものではございませんでした。

徳川の終わり頃だと思いますが、わたしたちの先祖が苦労に苦労を重ねて、やっとのことで岩倉川の土手の下に、わずかに金気の薄い水源地を見つけました。そこへ親池という池を掘って、その親池には私たちの子供の時分、いまも残っていますが、御影石の玉垣をこしらえて、そして字の住民全部が、まるで神さんのようにあがめたてまつっていたのが親池でございます。

私たちの子供の時分のこと覚えておりますが、朝、顔を洗う時に、昔、三本足のついた木の洗面器がございましたが、それに一杯水汲む。で一番におじいさんが顔洗う。その次お父さん顔洗う。男の子が顔洗う。おばあさん顔洗う。お母さん顔洗う、と、一杯の洗面器で家族が7人も8人が顔洗う。顔洗うといいましても、猫が顔洗うようなもんで、両手にわずか水すくって、2、3べん顔なでるだけです。そうして、そう7、8人が顔洗った水もごぃっとほかしては怒られる。もったいないといって、それをナスとかキュウリとか畑のもんにやる、というふうに一滴の水も非常に大事にしたもんです。

もし隣の家にお葬式とか嫁入りとか、そういう大勢ひと寄りがありますと、たちまちその家の隣5、6軒は水が出んようになってしまう、と、そういうことをよく覚えております。

で、お風呂も水がございませんから、隣5、6軒が寄ってもらい風呂をした。そのもらい風呂というても、風呂の底に20cmぐらい、あるいは15cmぐらいの水があるだけです。で、そんだけの風呂にまぁ15人も20人もが入るわけです。で、お風呂に入るというても、いまのように洗い場があって、石鹸で洗うというような清潔なもんではございません。木の桶に、下に鉄の釜があって、その下から藁を炊いてわかす、と。そうして中へまたいで入る。で、上からは藁で編んだ蓋がある。大きな大きな帽子のような蓋がある。それが滑車でひっぱると降りてくる。で、冬ならば、ちょこんとも音をささずにその風呂の中にあぐらをして、蓋をして、じぃっとぬくもっておる、と。時間がきたら、あがる、というようなお風呂でございました。


アーカイヴズNo. 098
番組名:ふるさと談話室「水の苦労話」
語り手:高橋長兵衛さん(東出)
放送日:1979年7月28日

大正大阪米騒動

歴史の教科書でしか見ないと思っている米騒動ですが、ここではその生々しい体験談をきくことができます。


(2分46秒)

いまから62年ほど前の米騒動を実際にこの目で見たままをお話ししたいと思います。

それは大正8年で、大阪にいた時のことでありますが、あの当時米の相場が一升17、8銭から20銭ぐらいまでであったものが、一部財閥の米の買い入れにより急に倍以上の50銭ぐらいまで上がったのであります。そのため一般大衆は生活を脅かされ、不安の日が続いたのであります。この実情に義憤を感じた勇ましい町の男が立ち上がり、日頃の鬱憤を晴らすべく米屋を襲撃したのであり、これが米騒動となったのであります。

(音声はここから)

「おとついはどこそこの米屋がやられた」「ゆうべはどこそこの米屋と、炭屋までやられた」と、噂はだんだんと近づいてきました。ある米屋は、自分の家に米を置けば危ないので、近所の氷屋の二階に隠したのであります。それを誰いうとなく伝わり、今晩は米屋だというので、夕方から町はなにか騒々しくなり、わたくしも当時16歳で、面白半分やじうまと一緒に集団について氷屋へと行きました。

氷屋の前へ行くと店の若い衆が向う鉢巻で片肌を脱ぎ、氷切りの大きなノコギリを構え「入るなら入ってみろ」と凄みました。群衆の先頭にいた威勢のいいのが十人ほど「かまうものか、それいけ」と家の中へドっと入りこみ、ドカドカと二階へ駆け上がりました。そうして二階の窓をぶち破り、米俵を二階から道路へ次々と投げ落としたので、米俵は破れ、米は道路へ散乱しました。待ち受けていた女子供と群衆が、我先にと袋や風呂敷に米をかきいれていました。後から来た男「米はまだあるか」と新手が次々と来て、なかには米俵を担いで持って行くものもあり、大変な騒ぎでした。

その翌日「米の買占めの張本人は貿易商の鈴木だ」というので「今晩は上本町の鈴木の別邸だ」と口々に言い合い、3キロほどの道のりを鈴木の別邸へ押し寄せたのであります。その時、別の集団がすでに来ており、門を破ろうとしていましたが頑強で破れず、閉ざされた門の外から大勢が石や木を投げ込みましたので、中ではガラスや家具が壊れる大きな音がしていました。通行中の自動車は次々と止めて「この不景気にクルマに乗るとはけしからん」とクルマを横倒しにしては歓声をあげていました。市電が来たのでこれも止めて倒そうとしましたが、電車は重くて倒れなかったです。

そのうちだんだん人が増え、午前1時頃には電車道いっぱいの人で埋まり大変でした。警察から多数の警官が出動し、署長がクルマの上から群衆に向かって解散を命じ、聞かないものは逮捕すると警告をするが、誰一人聞くものはなく収拾がつかないありさまでした。しばらくすると近くの歩兵8連隊から銃を持った歩兵が4列縦隊で繰り出し、空に向かって発砲しましたが「あれは空砲やからかまわねぇ」と一向に効き目がありません。しまいには騎兵隊が繰り出され8列横隊で道路いっぱいになり、砂けむりをあげて突進してきました。これには群衆も悲鳴をあげ左右の軒下に逃げ込みました。騎兵は折り返し二度三度と往復しましたので、さしもの群衆も手が出せず、ついに解散したのであります。

その翌日、戒厳令がしかれ布告文がそこここの電柱、辻々に貼り出されました。そうして着剣の兵士が二人ずつ辻々に立ち「三人以上連らって歩けばグサっとやる」というので町には人影もなく、これで騒動も収まりました。

数日後政府から、だいまい(代米?)一升10銭で売り出され、わたくしも行列に加わり買いにいきました。それでめでたく一件落着したのであります。以上が大正の米騒動であります。どうも失礼しました。


アーカイヴNo. 174A
番組名:ふるさと談話室 「大正大阪米騒動」
語り手:古川佐一郎さん(竹原)
放送日:1980年7月11日

 

昔の電話

 戦後、まだ電話が珍しかった頃。滋賀の町村では電話はどんな存在だったのでしょう? 有線電話/放送の成り立ちの話も。

(昔の電話 2分40秒)

 わたくしが昭和25年に現在地で(薬局を)開業いたしました当時は島川に電話機が4機ございました。すなわち、役場、学校、農協に各1台ずつ。個人の加入者としては元代議士の西村伊亮さんの家にあるのみでした。他に記憶しておりますのは下八木に、これも堤代議士(堤康次郎)のお宅に1台と元持の池田先生、お医者さんの家にと、あと1、2だったと記憶しております。

  その当時は電話も貴重品扱いでございまして、当時は、皆様も毎朝見ておられる朝のドラマの「なっちゃんの写真館」にも出てきます、ああいうふうに畳半坪ぐらいの大きさのボックスの中に大事にしまわれておりました。

(音声はここから)

 わたくしも26年から毎年電話の新設を申請しておりました。やっと29年につけてもらいました。そのとき他に2機…計3機、島川につきました。当時の電話は磁石式といいまして電話機の横についているハンドルを回し、そして交換台を呼び出して交換手に番号を告げます。市内ですとすぐにつないでくれますが、これが市外通話になりますと相手の電話番号とこちらの電話番号を告げまして、また受話器を下ろしてしばらく待っております。これを待時通話と申しまして、相手方につながるまでしばらく待たなければなりません。

 ちょっと遠方へでもかけますと、ときによっては何時間も待つということが普通でした。それで待時通話の申し込みに普通と至急と特急と三種類ありまして料金がそれぞれ倍、3倍となっておりました。急ぎのときは随分と高くついたものでございます。なお当時の基本料金は月額事務用が800円、住宅用が500円でした。それと市外へかけますと市外通話料が別に加算されました。

 その後も電話の新設は遅々として進まず33年頃から電話のない字(あざ)をなくそうということで、各字に今でいう赤電話…その当時はまだ黒電話でございましたが、公衆電話がつけられました。しかし当時はその受け手がなくて、ほとんどの字がお寺さんが奉仕的に引き受けられて今日におよんでいるような状態でございます。受託されたお家の人は大変で、在所の端から端まで呼び出しに、また言伝てにご苦労なさいました。(音声はここまで)

 そうこうしているうちに38年に有線[1]が放送を開始いたしまして、呼び出しとか伝言も有線ですませるようになりましてだいぶ楽になってまいりました。40年代にはいり電電公社のほうも増設計画もやや進しょうし、また高度経済成長の波にのり、そのうえ有線の開通がその潜在需要を喚起いたしまして、ぼつぼつ電話の新設も増えてまいりましたが、それでも44年1月のダイヤル式に改式された当時はまだ30機たらずしかありませんでした。

 が、その後はこの電話の自動化を契機といたしまして全県的に飛躍的に増えてまいりました。県の電話も45年10月に十万台、49年6月に二十万台を突破。ついに54年10月には所帯数を上回る三十万台を超えました。当島川でも現在100余機、もうほとんどのお家にございます。その間、県の自動化も53年8月に全部完了いたしました。なお54年10月には全国の自動化が完了。日本全国どこでも即時にダイヤルでかかるようになりました。まことに結構なことといわねばなりません。

 その反面、マナーの低下というようなことがだんだんと問題になってまいりました。電話の向こうはどんな顔、と言います。電話は顔が見えません。声だけが頼りです。言葉づかいに十分気をつけて愛情を込めて応対をしたいものであります。どうもご静聴ありがとうございました。


アーカイヴNo.: tape-174Bk
ふるさと談話室/島川/小杉栄治さん/昔の電話のこと
放送:昭和55年7月12日


【注】