大正大阪米騒動

歴史の教科書でしか見ないと思っている米騒動ですが、ここではその生々しい体験談をきくことができます。


(2分46秒)

いまから62年ほど前の米騒動を実際にこの目で見たままをお話ししたいと思います。

それは大正8年で、大阪にいた時のことでありますが、あの当時米の相場が一升17、8銭から20銭ぐらいまでであったものが、一部財閥の米の買い入れにより急に倍以上の50銭ぐらいまで上がったのであります。そのため一般大衆は生活を脅かされ、不安の日が続いたのであります。この実情に義憤を感じた勇ましい町の男が立ち上がり、日頃の鬱憤を晴らすべく米屋を襲撃したのであり、これが米騒動となったのであります。

(音声はここから)

「おとついはどこそこの米屋がやられた」「ゆうべはどこそこの米屋と、炭屋までやられた」と、噂はだんだんと近づいてきました。ある米屋は、自分の家に米を置けば危ないので、近所の氷屋の二階に隠したのであります。それを誰いうとなく伝わり、今晩は米屋だというので、夕方から町はなにか騒々しくなり、わたくしも当時16歳で、面白半分やじうまと一緒に集団について氷屋へと行きました。

氷屋の前へ行くと店の若い衆が向う鉢巻で片肌を脱ぎ、氷切りの大きなノコギリを構え「入るなら入ってみろ」と凄みました。群衆の先頭にいた威勢のいいのが十人ほど「かまうものか、それいけ」と家の中へドっと入りこみ、ドカドカと二階へ駆け上がりました。そうして二階の窓をぶち破り、米俵を二階から道路へ次々と投げ落としたので、米俵は破れ、米は道路へ散乱しました。待ち受けていた女子供と群衆が、我先にと袋や風呂敷に米をかきいれていました。後から来た男「米はまだあるか」と新手が次々と来て、なかには米俵を担いで持って行くものもあり、大変な騒ぎでした。

その翌日「米の買占めの張本人は貿易商の鈴木だ」というので「今晩は上本町の鈴木の別邸だ」と口々に言い合い、3キロほどの道のりを鈴木の別邸へ押し寄せたのであります。その時、別の集団がすでに来ており、門を破ろうとしていましたが頑強で破れず、閉ざされた門の外から大勢が石や木を投げ込みましたので、中ではガラスや家具が壊れる大きな音がしていました。通行中の自動車は次々と止めて「この不景気にクルマに乗るとはけしからん」とクルマを横倒しにしては歓声をあげていました。市電が来たのでこれも止めて倒そうとしましたが、電車は重くて倒れなかったです。

そのうちだんだん人が増え、午前1時頃には電車道いっぱいの人で埋まり大変でした。警察から多数の警官が出動し、署長がクルマの上から群衆に向かって解散を命じ、聞かないものは逮捕すると警告をするが、誰一人聞くものはなく収拾がつかないありさまでした。しばらくすると近くの歩兵8連隊から銃を持った歩兵が4列縦隊で繰り出し、空に向かって発砲しましたが「あれは空砲やからかまわねぇ」と一向に効き目がありません。しまいには騎兵隊が繰り出され8列横隊で道路いっぱいになり、砂けむりをあげて突進してきました。これには群衆も悲鳴をあげ左右の軒下に逃げ込みました。騎兵は折り返し二度三度と往復しましたので、さしもの群衆も手が出せず、ついに解散したのであります。

その翌日、戒厳令がしかれ布告文がそこここの電柱、辻々に貼り出されました。そうして着剣の兵士が二人ずつ辻々に立ち「三人以上連らって歩けばグサっとやる」というので町には人影もなく、これで騒動も収まりました。

数日後政府から、だいまい(代米?)一升10銭で売り出され、わたくしも行列に加わり買いにいきました。それでめでたく一件落着したのであります。以上が大正の米騒動であります。どうも失礼しました。


アーカイヴNo. 174A
番組名:ふるさと談話室 「大正大阪米騒動」
語り手:古川佐一郎さん(竹原)
放送日:1980年7月11日