蛍雪録:昭和11年の卒業記念文集

昭和11年、尋常高等小学校を卒業するときに書かれた手書きの卒業記念文集について、外川みつ子さんが、近江弁豊かに語っています。

(蛍雪録:2分55秒)

I(インタビュアー): 今日は蚊野の外川みつ子さんをお尋ねしました。外川さんの宝物は蛍雪録 — 学校を卒業した時の記念詩集とでもいいますか、ご自身で製作されましたものを大事に保存しておられます。高等2年を卒業されたのが昭和11年頃ということですから、もう44年も経っているわけです。時々それを眺めながら昔を懐かしんでいるという外川みつ子さんです。

満14歳の時に書きましたのやでちょうど…44年どすな。わたしの父がまあ、とっても厳格な方でして、嫁入りする時は卒業証書からお前のもんはみんな持っていかいえ(「いきなさい」の意)と言うておくれまして、箱に入れときましたら後で持ってきておくれまして、蛍雪録もお父さんが入れてておくれまして。もう来たちゅうたら、もうこんなことそうばやおませんでして(「こんな場合(状況)ではありませんでして」の意)。まぁそいで娘が大きなりまして、お母ちゃんの字はこんなもんやでて見せたり。また孫がこの頃、字を稽古したりしてますでな。お婆ちゃんのこんなもんやでて、また見せてやろと思てますねんけど。なかなか読む機会もおせんけど、こないだもちょっと、わたしも体の具合が悪うおすもんやさかい、まぁ両親もみなこっちの舅さんもみないておくれませんし、一人留守番しておりますと、友達のことを思いまして「あー、あの蛍雪録、あっこにしもといたがあるかなぁ。ネズミがかじっておっきょへんか(「かじっていないか」の意)」思いましてな。ちょうど5年ほど前、家新築する前に大事にまあ、包装紙に包んでおきましたさかいに見にいきましたら、倉庫にちゃんとありましたさかい出してきまして読んでますの。

I: この表紙は、昭和11年、東尋常高等小学校高等科2年卒業、蛍雪録、大橋みつ子(旧姓大橋)と。

そうですの。これもまた先生が「お前らの努力次第で分厚うしよと、半分で終えとこと、3枚で終えとこと、それは自分自分の努力次第や」ちゅうとくれ、わたしもまぁ記念になるさかいにおもて一生懸命に名簿こしらえもって書きました。

I: いまの卒業の記念集なんかですと、ほとんどが印刷されておりますけれど

そう、そう。まぁ自筆ですでね、これは。みんな自分で書きまして。いま、こう読みましてな「あぁ、懐かしい!」– 教育勅語が書いてますさかいに。ほしてまた友達の和歌やら、せんせの字やら、ほしてから…友達の和歌に俳句。せんせの所在地にお友達の字名やら保護者の名前、みんな書いてまっさかいに。まぁ懐かしく1ページ1ページをわたし、こないだから広げて思い出しては読んでますの。

I: 印象に残っているところを読んでもらいたいんですけど

ええっ。もうあんた14歳の時に書いたあるもんやで幼稚な文章で、もう恥ずかし。もう宝もんいうもんやございませんけどね…

「恥ずかしかったこと

尋常一年生の時であった。いまの朗読会のかわりに、3月1日に学芸会がありました。その日は各学年、男女別に、いろいろの劇がありました。わたくしたちは男女一緒に舌切り雀の劇でありました。
とうとうわたくしたちの番でありました。わたくしら5人のものが、雀の踊りをするのでありました。5人のものが舞台に座りました。少しすると、幕を開けられる人が幕を開けはじめました。その時どうしたことか、わたくしが被っていた帽子が幕についていきました。わたくしは急いで帽子をとりに、被りましたところ、前と後ろがわからずに逆さまに被りました。
あの時、わたくしはどんなに恥ずかしかったかしれません。それがすんでからせんせが、あんた帽子がとれたねぇ、といって抱いてくださいました。講堂いっぱいの父兄の方が参観にきてくださいました。いま思い出しても顔が赤くなります。」

いまもこのせんせがね、そこの隣の軽野いうとこに姓変わって宇野せんせで、まぁわたしらの時は堀川せんせでしたけど、まぁ一生懸命、赤い海老茶の袴はいて長いたもとの袖きて、踊りを教えとくれました。あぁ、あのせんせ見ると、いっつも思い出しますわ。


アーカイヴズNo: tape-177Bk
内容:私の宝物 蚊野 外川みつ子さん 蛍雪録
録音日:1980.7.9