250年前のお雛様

古いお雛様を、かつては旧暦の三月三日、すなわち四月に飾っていました。大菅さんのおうちで飾るのは江戸期の由緒正しいもの。「館」を建てるのにも相当な時間がかかります。

さてそれがどんなお雛様か、お話に耳を傾けてみましょう。


(昔のお雛様:3分49秒)

— 普通のお宅はですね、三月三日の桃の節句ですか、を境にですね、もうお雛さんは全部しまわれるわけですが、大菅さんのお宅は、今日からが始まりと

わたしのうちは昔から旧の節句ということで、四月ですか、それに昔から菜種の花が咲いたり桃の花が咲いたり、まぁ桃の節句ていいますわね、その桃の花の咲く時分ということで旧の桃の節句、三月三日ということ基準に合わして、いつも四月に飾っておるわけなんでございます。

— これから一ヶ月ほど、部屋を賑わすと

はい、そうです、毎年そゆことやってございます。まぁ、この館、普通のお雛さんと違いまして寝殿造りのお雛様ですので、建てるのに3時間4時間の時間がいりますので、毎年建てるのが大変ですので、こうゆうふうに飾らん年もあるわけなんですけど。

— 大変珍しいお雛さんなんですけど、もう250年前からあるだろうというようなことなんですね

ええ、だいたい寛政年間であろうというようなことで、だいたい今から200年そこそこ前の品もんだろうということで。箱書きにも寛政というようなこと書いてるんですけども。このお雛さんの垂木鼻とか、また欄間あたりに十六菊のですね紋が全部打ち込まれてるということは、武家政治の時分、紋は自由だったということきいておりますので。明治時代以後になってきますと十六菊が民間で使われないと、使ってはいけないということでございましたんですけども、この十六菊が使用されているということは、やはり武家政治、江戸時代、その時分の作だろうというようなこときいておるんですけど。

— そういう古いものであるがために旧暦の桃の節句を大事にしたいということなんですか?

まぁそういうようなことで、わたしの家では昔からそういうふうになっているわけなんです。

— いまいわれたお雛さんなんですけれども、館がちょうど二つありまして、この館を組むだけでも大変ひと苦労と。いま言われました3時間ぐらいかかる、と。

はい、かかるんです。この柱一本一本立てていきまして、御簾なんかも、また欄間なんかも、畳を敷いたり襖はめたりしていきますので、やはり館たてるだけでも2時間半から3時間ぐらいかかってまいります。

— その館の中の屏風とかにも凝った色彩の絵が描かれてるわけですね

はい、だいたいこれまぁ御前雛って言いまして、京都の寝殿造りですね、御殿の寝殿造り、それを模倣してるもんだときいてるんですが。だからこゆふうに屏風とかそういうものに綺麗なね、屏風がはまっているんですが。天井も見ていただいたらわかりますように格天になっておりまして、それにこう絵がですね描かれておるんですけども。

— はぁ、なるほどねぇ。こう触られるのも、よっぽど注意して…

はい、古いもんですので、もう痛みがきておりますのでね、十分注意してやらんと、こう剥がれてきたり壊したりしたら大変ですのでね、細心の注意をはらって組み立てておるんですけど。なんせ古いもんですので、ほんとに気ぃつかいます。

— これがまだ途中なんですけど、お雛さんみんな飾ってしまうと畳三枚ぐらい?

まぁそうですね、だいたい三枚ぐらいの広さで、それくらいいるんですけど。

— 大菅さんのお子さん、いま高校生だということですけど、小さい頃、まぁ段雛とだいぶん違いますので…

お雛さんは段々雛できらびやかなもんですけども、うちの子供が小さいとき、よそへ友達んとこへ遊びに行きますと、段々雛のきれいのん飾ってありますと「わたしんとこも飾ってほしい」ということで、このお雛さん飾っておいても、これが「お雛さんじゃない」というような感じでね「段々雛が欲しい」と無理をいったようなこともあるんですけども。

— いまはどうですか

いまはもう古さというものにね、値打ちがあるんだということを感じまして、誇りに思っておりますけど。

— これを飾って、なにか特別なことをやるとかは?

別にね、特別なことはやっておりませんけども、ほんとに珍しいお雛さんですので「ご存知ない方はぜひ一度見に来てください」てなことでね、一服がてらに、このお雛さんを見学していただくというようなことをやっておるんですけど。

— お雛さんは段雛と同じくらいあるんですか?お雛さんの数は?

お雛さんのねぇ、この人形の数は、だいたい何体おられるでしょうねぇ。普通のお雛さんより多いんじゃないでしょうかねぇ。ぜんぜんもうねぇ、いまのお雛さんのようなかっこじゃなくって、いろんなかっこしたねぇ、あの大名行列とか七人官女のお給仕する行列とか、またこの境内を掃除してる人とか、そうゆうようなこう物語的な人形さんがね、おられますね、たくさん。

— 大菅さんは呉服屋でしてね、この衣裳なんかパッと見てよくわかると思うんですが

だいたいこの素材はですね、いまですとナイロンとか化学繊維を使っておりますので、きらびやかな色なんか出ておりますけど、これはまぁ昔の古いもんですので絹とか麻とか、そうゆうな天然素材を使っておりますし、髪の毛も人毛っちゅんですかね、そゆよなもん使っておりますので、虫の保存が第一に、虫に食われんようにするということで、いちっばん細心の注意をはらって保存しておるようなわけです。

— そうすると一年に一回ぐらいは出さないと…

そうですね。やっぱり殺虫剤、樟脳やなんか入れまして、一体一体が全部その箱に入っておりまして、ほしてその元結(もっとい)と言いましてね、昔その髪の毛をくくられた紐があるんですけど、その元結で一体一体を箱に固定しまして、そんなかに必ず殺虫剤、樟脳なんかを、防虫剤いうんですか、そゆなんこう入れまして、虫のつかんように保存することに細心の注意はらっております。でもその天然素材ということで、だいぶんこう色もね褪せてきまして、写真に撮りますときれいになっておりますけども、実物見ますとだいぶん色も褪せてるんですけども。

— いま作り直そうとすると、ちょっと難しいような感じですか?

そうですねぇ、人形師さんと相談すればねぇ、なんとかなるかと思うんですけども、まだ修繕せんならん域まできてませんので。一部はまぁ部分的にはそんなとこもあろうかと思いますけど、いまのところはこのまま、この古さがまた値打ちが、と思いまして、このまま大事に保存してるわけなんですけど。

— これから何日ぐらいまで?

まぁ今月いっぱいぐらいまで飾っておきまして、有線でも放送していただくんでしたら、皆さんご気楽に、いっぺん見ていただいたらと思うんですけども。

— 他でこういうのご覧になったことは?

ぜんぜんこういうよなお雛さんは見たことないですね。テレビやなんかでお雛祭りのときになりますと、いろんなかっこのお雛さんが紹介されますけども、わたしんとこのお雛さんとよう似たのがあるかな、と思ってテレビでも見せていただいてるんですが、わたしんとこのお雛さんのようなのはちょっとこう見たことないですね。ぜひこの機会に、組み立てるのんが大変ですので飾らない年もありますのでね、今年なんかこうして出させていただいたので、一人でも多くの方に見ていただいたらと思うんですけども。

 

アーカイヴズNo. 300k
番組名:おじゃまします 「250年前のお雛様」蚊野 大菅清さん(52歳)
放送日:昭和38年3年2日

 

蛍雪録:昭和11年の卒業記念文集

昭和11年、尋常高等小学校を卒業するときに書かれた手書きの卒業記念文集について、外川みつ子さんが、近江弁豊かに語っています。

(蛍雪録:2分55秒)

I(インタビュアー): 今日は蚊野の外川みつ子さんをお尋ねしました。外川さんの宝物は蛍雪録 — 学校を卒業した時の記念詩集とでもいいますか、ご自身で製作されましたものを大事に保存しておられます。高等2年を卒業されたのが昭和11年頃ということですから、もう44年も経っているわけです。時々それを眺めながら昔を懐かしんでいるという外川みつ子さんです。

満14歳の時に書きましたのやでちょうど…44年どすな。わたしの父がまあ、とっても厳格な方でして、嫁入りする時は卒業証書からお前のもんはみんな持っていかいえ(「いきなさい」の意)と言うておくれまして、箱に入れときましたら後で持ってきておくれまして、蛍雪録もお父さんが入れてておくれまして。もう来たちゅうたら、もうこんなことそうばやおませんでして(「こんな場合(状況)ではありませんでして」の意)。まぁそいで娘が大きなりまして、お母ちゃんの字はこんなもんやでて見せたり。また孫がこの頃、字を稽古したりしてますでな。お婆ちゃんのこんなもんやでて、また見せてやろと思てますねんけど。なかなか読む機会もおせんけど、こないだもちょっと、わたしも体の具合が悪うおすもんやさかい、まぁ両親もみなこっちの舅さんもみないておくれませんし、一人留守番しておりますと、友達のことを思いまして「あー、あの蛍雪録、あっこにしもといたがあるかなぁ。ネズミがかじっておっきょへんか(「かじっていないか」の意)」思いましてな。ちょうど5年ほど前、家新築する前に大事にまあ、包装紙に包んでおきましたさかいに見にいきましたら、倉庫にちゃんとありましたさかい出してきまして読んでますの。

I: この表紙は、昭和11年、東尋常高等小学校高等科2年卒業、蛍雪録、大橋みつ子(旧姓大橋)と。

そうですの。これもまた先生が「お前らの努力次第で分厚うしよと、半分で終えとこと、3枚で終えとこと、それは自分自分の努力次第や」ちゅうとくれ、わたしもまぁ記念になるさかいにおもて一生懸命に名簿こしらえもって書きました。

I: いまの卒業の記念集なんかですと、ほとんどが印刷されておりますけれど

そう、そう。まぁ自筆ですでね、これは。みんな自分で書きまして。いま、こう読みましてな「あぁ、懐かしい!」– 教育勅語が書いてますさかいに。ほしてまた友達の和歌やら、せんせの字やら、ほしてから…友達の和歌に俳句。せんせの所在地にお友達の字名やら保護者の名前、みんな書いてまっさかいに。まぁ懐かしく1ページ1ページをわたし、こないだから広げて思い出しては読んでますの。

I: 印象に残っているところを読んでもらいたいんですけど

ええっ。もうあんた14歳の時に書いたあるもんやで幼稚な文章で、もう恥ずかし。もう宝もんいうもんやございませんけどね…

「恥ずかしかったこと

尋常一年生の時であった。いまの朗読会のかわりに、3月1日に学芸会がありました。その日は各学年、男女別に、いろいろの劇がありました。わたくしたちは男女一緒に舌切り雀の劇でありました。
とうとうわたくしたちの番でありました。わたくしら5人のものが、雀の踊りをするのでありました。5人のものが舞台に座りました。少しすると、幕を開けられる人が幕を開けはじめました。その時どうしたことか、わたくしが被っていた帽子が幕についていきました。わたくしは急いで帽子をとりに、被りましたところ、前と後ろがわからずに逆さまに被りました。
あの時、わたくしはどんなに恥ずかしかったかしれません。それがすんでからせんせが、あんた帽子がとれたねぇ、といって抱いてくださいました。講堂いっぱいの父兄の方が参観にきてくださいました。いま思い出しても顔が赤くなります。」

いまもこのせんせがね、そこの隣の軽野いうとこに姓変わって宇野せんせで、まぁわたしらの時は堀川せんせでしたけど、まぁ一生懸命、赤い海老茶の袴はいて長いたもとの袖きて、踊りを教えとくれました。あぁ、あのせんせ見ると、いっつも思い出しますわ。


アーカイヴズNo: tape-177Bk
内容:私の宝物 蚊野 外川みつ子さん 蛍雪録
録音日:1980.7.9

昔の電話

 戦後、まだ電話が珍しかった頃。滋賀の町村では電話はどんな存在だったのでしょう? 有線電話/放送の成り立ちの話も。

(昔の電話 2分40秒)

 わたくしが昭和25年に現在地で(薬局を)開業いたしました当時は島川に電話機が4機ございました。すなわち、役場、学校、農協に各1台ずつ。個人の加入者としては元代議士の西村伊亮さんの家にあるのみでした。他に記憶しておりますのは下八木に、これも堤代議士(堤康次郎)のお宅に1台と元持の池田先生、お医者さんの家にと、あと1、2だったと記憶しております。

  その当時は電話も貴重品扱いでございまして、当時は、皆様も毎朝見ておられる朝のドラマの「なっちゃんの写真館」にも出てきます、ああいうふうに畳半坪ぐらいの大きさのボックスの中に大事にしまわれておりました。

(音声はここから)

 わたくしも26年から毎年電話の新設を申請しておりました。やっと29年につけてもらいました。そのとき他に2機…計3機、島川につきました。当時の電話は磁石式といいまして電話機の横についているハンドルを回し、そして交換台を呼び出して交換手に番号を告げます。市内ですとすぐにつないでくれますが、これが市外通話になりますと相手の電話番号とこちらの電話番号を告げまして、また受話器を下ろしてしばらく待っております。これを待時通話と申しまして、相手方につながるまでしばらく待たなければなりません。

 ちょっと遠方へでもかけますと、ときによっては何時間も待つということが普通でした。それで待時通話の申し込みに普通と至急と特急と三種類ありまして料金がそれぞれ倍、3倍となっておりました。急ぎのときは随分と高くついたものでございます。なお当時の基本料金は月額事務用が800円、住宅用が500円でした。それと市外へかけますと市外通話料が別に加算されました。

 その後も電話の新設は遅々として進まず33年頃から電話のない字(あざ)をなくそうということで、各字に今でいう赤電話…その当時はまだ黒電話でございましたが、公衆電話がつけられました。しかし当時はその受け手がなくて、ほとんどの字がお寺さんが奉仕的に引き受けられて今日におよんでいるような状態でございます。受託されたお家の人は大変で、在所の端から端まで呼び出しに、また言伝てにご苦労なさいました。(音声はここまで)

 そうこうしているうちに38年に有線[1]が放送を開始いたしまして、呼び出しとか伝言も有線ですませるようになりましてだいぶ楽になってまいりました。40年代にはいり電電公社のほうも増設計画もやや進しょうし、また高度経済成長の波にのり、そのうえ有線の開通がその潜在需要を喚起いたしまして、ぼつぼつ電話の新設も増えてまいりましたが、それでも44年1月のダイヤル式に改式された当時はまだ30機たらずしかありませんでした。

 が、その後はこの電話の自動化を契機といたしまして全県的に飛躍的に増えてまいりました。県の電話も45年10月に十万台、49年6月に二十万台を突破。ついに54年10月には所帯数を上回る三十万台を超えました。当島川でも現在100余機、もうほとんどのお家にございます。その間、県の自動化も53年8月に全部完了いたしました。なお54年10月には全国の自動化が完了。日本全国どこでも即時にダイヤルでかかるようになりました。まことに結構なことといわねばなりません。

 その反面、マナーの低下というようなことがだんだんと問題になってまいりました。電話の向こうはどんな顔、と言います。電話は顔が見えません。声だけが頼りです。言葉づかいに十分気をつけて愛情を込めて応対をしたいものであります。どうもご静聴ありがとうございました。


アーカイヴNo.: tape-174Bk
ふるさと談話室/島川/小杉栄治さん/昔の電話のこと
放送:昭和55年7月12日


【注】

 

雨乞いの唄(2)「雲のお多賀詣り」

あの雲はもうすぐ雨を降らせる。
昔の人はよき天気読みでもありました。

前回に引き続き、昭和53年(1978年)に放送された「愛知郡録音風物詩」から、「雨乞い」の話。今回は澤島嘉一郎さんの談話の終盤部分を紹介します。

今回は特におもしろいのは、この地方での雲の動きの話。Google Mapで多賀神社と愛知川流域を表示すると分かるように、愛知川から見ると「お多賀さん」はちょうど北にあります。また、かつては愛知川の左岸(南側:御薗、建部、八日市など)は「神崎郡」で、愛知川の右岸(北側:秦荘、愛知川、澤島さんの住む湖東を含む地域)は「愛知郡」でした。これらのことを頭に入れておくと、澤島さんの雲の話がよくわかります。


(雨乞いの唄(2):3分33秒)

ナレーション:
田植えの前、水がなければ、田を耕すことができない。ついには、送水に、消防車まで出動したと語るのは、今年八十じゃという澤島さんである。

澤島:
その時代に、からずっとこっちきてからやけど、ほの水がのうて田が「くならん」な。田植えのなにに、くならんやろ、ほんであの、あっこから水もろうたことあるがな。いま、○○さんのあの運動場のあっこに、溜池が○○。あの、ボウリングして、学校へ送ってやる水があるやろうが、ああ。あっこいー、消防ポンプを町からもってきてもろて、ほいでホースをつないで、あそこいらずうっと一群に、わりに、ふんでぇ、ひどい勢いでぎょうさんきたぞ。ほうっともうはえ、しぃから、この時代は、耕耘機はないし、牛じゃわいな。牛を連れてって、この時期には鋤いたわけだ。

ナレーション:
干ばつや恵みの雨が、百姓の死命を制する澤島さんの当時、もちろん、雲の動き一つにも、敏感になるのは言うまでもない。だが。テレビのスイッチを押す、「南よりの湿った風が流れこみ近畿地方のお天気は下り坂に向かいましょう」というわけにはいかない。

澤島:
南風が吹いてくるとな、雲が、北向いて行っきょるわな。ほすると、「雲がお多賀詣りしとる」って。○○ほんで○○○。ほんでお多賀さんより向こうは何と言いよるやろう? お多賀帰りって言いよるんやろか?
ほしたらなこの愛知川の河原な、より向こうへ、ほんで、神崎のほうへ行ってな、それを言うたら、「川越え」ていうよ。「雲が川越えや」。ほうっと雨が降ると。

ほうっと、こうこんだけのわりあいでこんだけ違うねや、ここでは、お多賀詣りっちうて。雲がお多賀詣りしとると、こういいよる。ほして神崎のほうへいくと、「川越え」。雲が川越えしよる。いまじゃ出会うたら「こんにちは」とこうか「よい日じゃな」とこう言うけんど。そのうち雨が降ってきたら「ええ雨やったな」と。んなあ、あ−、おはようの、こんばんも、んなこたあらせん。「ええ雨やったな」と、こう雨降ったら。いうたら、水きちがいみたいなもんだな百姓は。

ナレーション:
百姓は水きちがいみたいなもんやと笑う澤島嘉一郎さん、明治30年生まれ、80歳。

澤島:
じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ。
あみだぼいーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ…


 

語り:澤島嘉一郎さん
放送日:1978年「愛知郡録音風物詩」
文責:細馬宏通

(2016.8.2 掲載 *現在から見れば不適切にきこえる表現もありますが、当時のことばを尊重してそのまま掲載しています。)

雨乞いの唄(1)

雨乞いって、童話や神話の中の話だと思っていませんか?現在ではほとんどきかれなくなった雨乞い唄が、録音に残っていました。

今回は昭和53年(1978年)に放送された「愛知郡録音風物詩」から、「雨乞い」の唄を紹介します。「愛知郡録音風物詩」は、当時の愛知郡内にあった愛知川、秦荘、湖東、三つの放送局による共同制作の番組です。

現在の愛荘町を含む愛知川流域は、戦後の国営愛知川土地改良事業(昭和27-58年度)で激変しました。上流には永源寺ダムができ、平野のあちこちには頭首工と呼ばれる用水路へ引き入れるための施設や、幹線水路がめぐらされました(地図をごらんになりたい方は、その後に行われた国営かんがい排水事業の概要(PDF)をどうぞ)。

しかし、こうした農業用水がまだ整備されていなかった戦前には、流域の人びとによって「雨乞い」が行われていました。今回は、当時、東近江市南花沢におられた澤島嘉一郎さん(明治30年生まれ)の出演された回から、雨乞いの唄を歌っておられる部分を抜粋します。


(雨乞いの唄:3分16秒)

 

 

ナレーション:
ダムも頭首工も、幹線水路も人びとが想像もしなかった三十数年前(注:放送は昭和53年当時)まで、植え付けが済んだ湖東平野のあちこちで、このような祈りの声が聞かれた。

澤島さん:
あーみだぼ、いーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ

ナレーション:
大昔から、水は百姓の命。この命の水も、天にまかせるよりない。干ばつが続けば、百姓にとって、文字通り命取りである。ただ、神に祈る以外にない。いわゆる、雨乞いである。

澤島さん:
雨が降らんと、ほうっと、まあ、ある二三の人がもうこれではどうもならんと言うのでな。井戸水は涸れてくるし、もうどうもこうもしょうがないで。ええ、まあお宮さんに頼ろうかと、こう言うて、総集会を開いて、ほいて、雨乞いをかけようかと、こうなって。ほうすっと、雨乞いということは、えーっと、こもろうか、いさめようかと、こういうことになる。な。

ほうっと、こもるということは、ただじっとお宮さんにみんなが、寄って詣ってったらええんやし、いさめようかっていうと、まあ太鼓を叩いて、鉦も叩き、えー、ま、いろんなおかしな節つけてぇ、へへ、あみだーぼいーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ、と、こういうようなまあ 歌の文句やな。ははっ。三日三夜(さんにちさんや)とか、五夜五日とか、いうことを、えー、お願いして。ほうっと、それが三日三夜でー、あがれば、ほんでまあ三日三夜の日割りをして誰それは行くか、誰それは行くかとこうやって、夜は全部夜とか、こういうことを決めてな。ほいてぇ、まあやったようなもんや。

総出っていうことになってくるとまた、いろんなことがでけてくるとかなんしな。ほんでー、まあ字を半分に割って、今日はこっち、今日はこっちと、こういう具合にやったこともあるし、いろんなこと。はあ。

ほいで雨が降ってきた、ちょっとしょぼしょぼ降ってきたら、ま太鼓が破れようがなんじゃろうがほんなこと構うやろうかい、もうむちゃくちゃに叩いて叩いて

ナレーション:
雨が降れば、狂喜乱舞する。干ばつが続けば、やかんや土瓶に入れた水を一株ずつ稲にかけて歩く。近代の農業から、こんな姿が想像できるであろうか。

澤島さん:
井戸水を、ま、むかしいうたら、いまは桶、バケツていうから、「つるべ」っていうたわな。ほのつるべでこう井戸水をちっとずつまあ釣って上げてって、ほいでやかんや土瓶に入れて。ほいて、田のもとに一丁ちょっとずつかけに歩いた。わしの子どももいま四十二か、なると、こいつらほれに出よったことあるで、学校から。


語り:澤島嘉一郎さん
放送日:1978年「愛知郡録音風物詩」
文責:細馬宏通 (2016.8,2 掲載)

すり鉢ころがし

一厘線の転がる軌跡。子ども心にぐっとくる「勝負事」の話。

西澤ますさんは、明治22年生まれ、当時84歳。インタビュアーに子どもの頃正月に何をして遊んだかを問われたあとのやりとりです。西澤さんが「勝負事をしました」とおっしゃるので、もしや子どもが博打を?と、どきりとするのですが、実はそれは一厘銭(当時一番小さな単位の貨幣)を取り合うという他愛のないもの。「ころころーっと」「こーんところかけて」というあたり、軽い手首の所作が目に見えるようです。オノマトペには、その時代その時代の感覚が詰まっているのかもしれません。実はこの遊び、菊池寛の小説にも見られるのですが、その話は書き起こしのあとで。


(すり鉢ころがし/1分18秒)

あたしむかしはほいで、あの、一厘銭でな。あの、擂り鉢(すりはち)ころがしいうてあの、あれで勝負事しましたことあんのよ。

(ほうほう、それは、どういうような遊びですか)

ふん、これな、すりはちとってきてな、ほいで、一文銭をな、ころころーっとまわすにや。ほうすっとほれがちょんとこう、重なって、ほれが、ほうっとほれ、ほれ二文に重なっても三文に重なってもほれみなもらうん。ほういう勝負事したん 、 へえ。ほいでハァほれ、あのう、なんどすか、いろはかるたもありましたしな、はい、やっぱあれは昔からあった、ほんでも。へえへえ。

ほいですり鉢ころがし正月ようして、ほいで、こういう壁にな、こーんところかけて、あの壁にころころっところげてくんのん。ほするところげてくるとくとその、先きたのが、あの、一文やら、十円ちゅうなもなあれへんなら、むかしはなあの時代に、たいがい一文銭でしましたのよ。ほの時代のほんで、ほれでよ、あのう、 ○○まい、○○ 、十銭もうけたたら二十銭儲けたたらいうてよろこんで、したようなことあったけんど。

(もう最近はそんでも、そういうのどかなあの、遊びというのは、なくなりましたね)

あぁ、ないなあ、もう、もうほいて昔、明治時代はな、お金も小そうおしたしな、そらあ、あのう勝負事ちゅうたて、わずかどしたわいな、へえ。


さて、「すりはちころがし」という遊びは、はたして近江特有の遊びだったのか、それとも全国いたるところにあったのか。丼にサイコロを振り入れる「チンチロリン」は『麻雀放浪記』などで有名ですが、はたしてどうでしょう。調べていくうちに、実は菊池寛の小説にこの西澤さんの語りとそっくりなものが記されていることがわかりました。

 私達兄弟も、よくそれを見習つて、零細な金を賭して、いろいろな勝負事をした。摺鉢こけらしと云つて、摺鉢の縁から、穴の開いた一文銭をこけらし込む。一文銭が、摺鉢の真中に幾つも溜る。自分のこけらした一文銭が、中に溜つてゐる一文銭に重ると、重つた丈の一文銭を勝ち得る遊びもあつた。穴一と云つて、一文銭を幾つか宛出し合つて、それを壁に投ずる。跳ね返つて来た一文銭を、自分の手中の一文銭で打ち当てて取る遊戯があつた。そんな金をかけた遊びには、私も兄との平生の疎々しさを忘れて、ついて一生懸命に勝負を争ふのだった。
(菊池寛「肉親」大正十三年より)

どうやらこの遊び、近江だけのものではなかったようです。菊池寛の「肉親」では擂り鉢「こけらし」、西澤さんのお話では「ころがし」。菊池寛は香川県高松の出身なので、もしかしたら彼の地では「こけらし」と呼んでいたのかもしれません。

 

語り:西澤ますさん(明治22年生まれ)/放送日:1973年1月「丑年生まれをたずねて」/文責:細馬宏通
(2016.7.29 掲載)

忠臣蔵の覗き節

 明治・大正期の見世物、覗きからくり。「覗き節」は、レンズ越しに覗きからくりのおどろおどろしい絵を見ながらきく、怖くて不思議な物語。それは香具師が各地に広めた流行歌でもありました。

戦前には全国あちこちの境内などで「のぞきからくり」の見世物がありました。これは、いくつものレンズを備えた巨大な箱状のものに、子供たちがとりついて、交替するおどろおどろしい絵を覗くという見世物で、箱の横では、香具師が「覗き節」(からくり節)と呼ばれる語りを述べて絵を説明しました。

お金のない子どもも、竹の棒を叩きながら調子よく唄われる覗き節をそばで聞き覚え、口ずさめるほどになります。落語「くしゃみ講釈」の中には、物覚えの悪い男が「八百屋お七」のからくり節に乗せて買い物の内容を覚えるというくだりが残っており、全盛期の覗き節がいかに人びとの間に広まっていたかを伺わせます。

新潟県巻町に現存するのぞきからくり「幽霊の継子いじめ」
 のぞきからくりは各地の縁日の盛り場、社寺の境内でよく見られましたが、活動写真の流行とともに衰退し、昭和9年(1934)になると、覗き屋の盛んだった大阪とその周辺でさえ神戸、大阪、兵庫にわずかに4軒(河本 1934)という状態になりました。 かつてののぞきからくりの口上は小沢昭一による「日本の放浪芸」の記録に残っています。また、新潟県巻町には、覗きからくりの箱と絵が保存されており、現在でも保存会の方による口上の再現が行われています。

今回の録音は、明治22生まれの古老による赤穂浪士の「覗き節」。これは、覗きからくりの基本資料である河本正義 (1935/1993) 『覗き眼鏡の口上歌』にもないもので、記憶に基づくものとはいえ、音声とともに残されているのはたいへん珍しいものです。語り手がかつて多賀神社や愛知川などで覗き節が見られたことを証言していること、こうした覗き節が、語り手のようにそれを子供時代に享受していた人によって克明に記憶されている点も貴重です。ではどうぞ。


(忠臣蔵の覗き節:3分4秒)

 

「いまは若い者にはちょっと向きが悪いかもしれませんが愛知川とか、お多賀さんで香具師が非常に歌った、覗き節というのがございます。これから、下手ではござりますが、ちょっと真似方だけさしていただいて、みなさんにその昔の思い出を考えてもらいたいと思うのでございます。ええ、さっそくはじめます。」

ころは元禄十四年
しゅがや宵のなかばごろ
七重八重咲く九重の
花の都の空よりも
勅使が幕府にご到着
さてもその日のまかなえやくが
たくみのかみ
ししょうはばんたる上野(こうづけ)に
まかないそできんなきために
あれやこれやの手違いを
受けてこうむる身の恥辱
おのれやれとははられども
殿中でやいばを抜いたなら
家は断絶
身は切腹
死するこの身は厭わねど
残る家中が不憫ぞと
こらえこらえた十四日
こともあろうが、松の廊下のいりぐちで
いぬざむらいだの人非人ぬすびととののしられ
もうこれまでの堪忍袋の緒が切れて
まいはんにたばさんだ小さな刀がみつかり
はってまってとはっと切り込む太刀先が
額の金輪にじゃまとなり
無念や本懐遂げられず
たむら屋敷にあずけられ
無念の最期あそばずばかり
家来四十と七人は
怨みはあつごの雪の夜に
吉良の屋敷に乱入し
主君のカタキ
上野の首討ち取って
これに○○か
無事に泉岳寺にとあずけられ
四十七人、そろうて切腹なされ
武人の鏡いつまでも
泉岳寺にて線香(せんこ)のたえまなく
武勇残るは
誉れは高輪泉岳寺
おそまつでございました。

語りと唄:明治22年生まれの古老の方
放送日:1973年1月「丑年生まれをたずねて」
文責:細馬宏通
(2016.6.29 掲載)