昔の電話

 戦後、まだ電話が珍しかった頃。滋賀の町村では電話はどんな存在だったのでしょう? 有線電話/放送の成り立ちの話も。

(昔の電話 2分40秒)

 わたくしが昭和25年に現在地で(薬局を)開業いたしました当時は島川に電話機が4機ございました。すなわち、役場、学校、農協に各1台ずつ。個人の加入者としては元代議士の西村伊亮さんの家にあるのみでした。他に記憶しておりますのは下八木に、これも堤代議士(堤康次郎)のお宅に1台と元持の池田先生、お医者さんの家にと、あと1、2だったと記憶しております。

  その当時は電話も貴重品扱いでございまして、当時は、皆様も毎朝見ておられる朝のドラマの「なっちゃんの写真館」にも出てきます、ああいうふうに畳半坪ぐらいの大きさのボックスの中に大事にしまわれておりました。

(音声はここから)

 わたくしも26年から毎年電話の新設を申請しておりました。やっと29年につけてもらいました。そのとき他に2機…計3機、島川につきました。当時の電話は磁石式といいまして電話機の横についているハンドルを回し、そして交換台を呼び出して交換手に番号を告げます。市内ですとすぐにつないでくれますが、これが市外通話になりますと相手の電話番号とこちらの電話番号を告げまして、また受話器を下ろしてしばらく待っております。これを待時通話と申しまして、相手方につながるまでしばらく待たなければなりません。

 ちょっと遠方へでもかけますと、ときによっては何時間も待つということが普通でした。それで待時通話の申し込みに普通と至急と特急と三種類ありまして料金がそれぞれ倍、3倍となっておりました。急ぎのときは随分と高くついたものでございます。なお当時の基本料金は月額事務用が800円、住宅用が500円でした。それと市外へかけますと市外通話料が別に加算されました。

 その後も電話の新設は遅々として進まず33年頃から電話のない字(あざ)をなくそうということで、各字に今でいう赤電話…その当時はまだ黒電話でございましたが、公衆電話がつけられました。しかし当時はその受け手がなくて、ほとんどの字がお寺さんが奉仕的に引き受けられて今日におよんでいるような状態でございます。受託されたお家の人は大変で、在所の端から端まで呼び出しに、また言伝てにご苦労なさいました。(音声はここまで)

 そうこうしているうちに38年に有線[1]が放送を開始いたしまして、呼び出しとか伝言も有線ですませるようになりましてだいぶ楽になってまいりました。40年代にはいり電電公社のほうも増設計画もやや進しょうし、また高度経済成長の波にのり、そのうえ有線の開通がその潜在需要を喚起いたしまして、ぼつぼつ電話の新設も増えてまいりましたが、それでも44年1月のダイヤル式に改式された当時はまだ30機たらずしかありませんでした。

 が、その後はこの電話の自動化を契機といたしまして全県的に飛躍的に増えてまいりました。県の電話も45年10月に十万台、49年6月に二十万台を突破。ついに54年10月には所帯数を上回る三十万台を超えました。当島川でも現在100余機、もうほとんどのお家にございます。その間、県の自動化も53年8月に全部完了いたしました。なお54年10月には全国の自動化が完了。日本全国どこでも即時にダイヤルでかかるようになりました。まことに結構なことといわねばなりません。

 その反面、マナーの低下というようなことがだんだんと問題になってまいりました。電話の向こうはどんな顔、と言います。電話は顔が見えません。声だけが頼りです。言葉づかいに十分気をつけて愛情を込めて応対をしたいものであります。どうもご静聴ありがとうございました。


アーカイヴNo.: tape-174Bk
ふるさと談話室/島川/小杉栄治さん/昔の電話のこと
放送:昭和55年7月12日


【注】