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その4:雨乞いの唄(1)

雨乞いって、童話や神話の中の話だと思っていませんか?
現在ではほとんどきかれなくなった雨乞い唄が、録音に残っていました。


 今回は昭和53年(1978年)に放送された「愛知郡録音風物詩」から、「雨乞い」の唄を紹介します。
 「愛知郡録音風物詩」は、当時の愛知郡内にあった愛知川、秦荘、湖東、三つの放送局による共同制作の番組です。

 現在の愛荘町を含む愛知川流域は、戦後の国営愛知川土地改良事業(昭和27-58年度)で激変しました。上流には永源寺ダムができ、平野のあちこちには頭首工と呼ばれる用水路へ引き入れるための施設や、幹線水路がめぐらされました(地図をごらんになりたい方は、その後に行われた国営かんがい排水事業の概要(PDF)をどうぞ)。

 しかし、こうした農業用水がまだ整備されていなかった戦前には、流域の人びとによって「雨乞い」が行われていました。今回は、当時、東近江市南花沢におられた澤島嘉一郎さん(明治30年生まれ)の出演された回から、雨乞いの唄を歌っておられる部分を抜粋します。





(3分16秒:音声プレイヤーが表示されないときはここをクリック)

ナレーション:
 ダムも頭首工も、幹線水路も人びとが想像もしなかった三十数年前(注:放送は昭和53年当時)まで、植え付けが済んだ湖東平野のあちこちで、このような祈りの声が聞かれた。

澤島さん:
 あーみだぼ、いーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ

ナレーション:
 大昔から、水は百姓の命。この命の水も、天にまかせるよりない。干ばつが続けば、百姓にとって、文字通り命取りである。ただ、神に祈る以外にない。いわゆる、雨乞いである。

澤島さん:
 雨が降らんと、ほうっと、まあ、ある二三の人がもうこれではどうもならんと言うのでな。井戸水は涸れてくるし、もうどうもこうもしょうがないで。ええ、まあお宮さんに頼ろうかと、こう言うて、総集会を開いて、ほいて、雨乞いをかけようかと、こうなって。ほうすっと、雨乞いということは、えーっと、こもろうか、いさめようかと、こういうことになる。な。

 ほうっと、こもるということは、ただじっとお宮さんにみんなが、寄って詣ってったらええんやし、いさめようかっていうと、まあ太鼓を叩いて、鉦も叩き、えー、ま、いろんなおかしな節つけてぇ、へへ、あみだーぼいーぼいぼ、じゃんじゃこじゃんとぶっちゃーけ、と、こういうようなまあ 歌の文句やな。ははっ。三日三夜(さんにちさんや)とか、五夜五日とか、いうことを、えー、お願いして。ほうっと、それが三日三夜でー、あがれば、ほんでまあ三日三夜の日割りをして誰それは行くか、誰それは行くかとこうやって、夜は全部夜とか、こういうことを決めてな。ほいてぇ、まあやったようなもんや。

 総出っていうことになってくるとまた、いろんなことがでけてくるとかなんしな。ほんでー、まあ字を半分に割って、今日はこっち、今日はこっちと、こういう具合にやったこともあるし、いろんなこと。はあ。

 ほいで雨が降ってきた、ちょっとしょぼしょぼ降ってきたら、ま太鼓が破れようがなんじゃろうがほんなこと構うやろうかい、もうむちゃくちゃに叩いて叩いて

ナレーション:
 雨が降れば、狂喜乱舞する。干ばつが続けば、やかんや土瓶に入れた水を一株ずつ稲にかけて歩く。近代の農業から、こんな姿が想像できるであろうか。

澤島さん:
 井戸水を、ま、むかしいうたら、いまは桶、バケツていうから、「つるべ」っていうたわな。ほのつるべでこう井戸水をちっとずつまあ釣って上げてって、ほいでやかんや土瓶に入れて。ほいて、田のもとに一丁ちょっとずつかけに歩いた。わしの子どももいま四十二か、なると、こいつらほれに出よったことあるで、学校から。


 

語り:澤島嘉一郎さん/放送日:1978年「愛知郡録音風物詩」/文責:細馬宏通 (2016.8,2 掲載)