声の玉手箱
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その3:すり鉢ころがし

一厘線の転がる軌跡。
子ども心にぐっとくる「勝負事」の話。


 西澤ますさんは、明治22年生まれ、当時84歳。インタビュアーに子どもの頃正月に何をして遊んだかを問われたあとのやりとりです。西澤さんが「勝負事をしました」とおっしゃるので、もしや子どもが博打を?と、どきりとするのですが、実はそれは一厘銭(当時一番小さな単位の貨幣)を取り合うという他愛のないもの。「ころころーっと」「こーんところかけて」というあたり、軽い手首の所作が目に見えるようです。オノマトペには、その時代その時代の感覚が詰まっているのかもしれません。実はこの遊び、菊池寛の小説にも見られるのですが、その話は書き起こしのあとで。





(1分18秒:音声プレイヤーが表示されないときはここをクリック)

 あたしむかしはほいで、あの、一厘銭でな。あの、擂り鉢(すりはち)ころがしいうてあの、あれで勝負事しましたことあんのよ。

(ほうほう、それは、どういうような遊びですか)

 ふん、これな、すりはちとってきてな、ほいで、一文銭をな、ころころーっとまわすにや。ほうすっとほれがちょんとこう、重なって、ほれが、ほうっとほれ、ほれ二文に重なっても三文に重なってもほれみなもらうん。ほういう勝負事したん 、 へえ。ほいでハァほれ、あのう、なんどすか、いろはかるたもありましたしな、はい、やっぱあれは昔からあった、ほんでも。へえへえ。

 ほいですり鉢ころがし正月ようして、ほいで、こういう壁にな、こーんところかけて、あの壁にころころっところげてくんのん。ほするところげてくるとくとその、先きたのが、あの、一文やら、十円ちゅうなもなあれへんなら、むかしはなあの時代に、たいがい一文銭でしましたのよ。ほの時代のほんで、ほれでよ、あのう、 ○○まい、○○ 、十銭もうけたたら二十銭儲けたたらいうてよろこんで、したようなことあったけんど。

(もう最近はそんでも、そういうのどかなあの、遊びというのは、なくなりましたね)

 あぁ、ないなあ、もう、もうほいて昔、明治時代はな、お金も小そうおしたしな、そらあ、あのう勝負事ちゅうたて、わずかどしたわいな、へえ。


 さて、「すりはちころがし」という遊びは、はたして近江特有の遊びだったのか、それとも全国いたるところにあったのか。丼にサイコロを振り入れる「チンチロリン」は『麻雀放浪記』などで有名ですが、はたしてどうでしょう。調べていくうちに、実は菊池寛の小説にこの西澤さんの語りとそっくりなものが記されていることがわかりました。

 私達兄弟も、よくそれを見習つて、零細な金を賭して、いろいろな勝負事をした。摺鉢こけらしと云つて、摺鉢の縁から、穴の開いた一文銭をこけらし込む。一文銭が、摺鉢の真中に幾つも溜る。自分のこけらした一文銭が、中に溜つてゐる一文銭に重ると、重つた丈の一文銭を勝ち得る遊びもあつた。穴一と云つて、一文銭を幾つか宛出し合つて、それを壁に投ずる。跳ね返つて来た一文銭を、自分の手中の一文銭で打ち当てて取る遊戯があつた。そんな金をかけた遊びには、私も兄との平生の疎々しさを忘れて、ついて一生懸命に勝負を争ふのだった。
(菊池寛「肉親」大正十三年より)


 どうやらこの遊び、近江だけのものではなかったようです。菊池寛の「肉親」では擂り鉢「こけらし」、西澤さんのお話では「ころがし」。菊池寛は香川県高松の出身なので、もしかしたら彼の地では「こけらし」と呼んでいたのかもしれません。

 

語り:西澤ますさん(明治22年生まれ)/放送日:1973年1月「丑年生まれをたずねて」/文責:細馬宏通
(2016.7.29 掲載)