〜滋賀県における在日朝鮮人による民族教育の歴史〜
2005年5月10日 ゼミ発表レジュメより 作成:原智幸
李圭台「民族の誇りを伝えて ― 聞き書き湖国私史」1〜5『朝日新聞』(1980年8月26〜30日)のまとめ |
日本の敗戦により、民族教育がスタートする。
(日本の政策のせいで母国語が話せない人がほとんどのため)
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満足に教室・教材もないまま民族学校が開校(昼は子供、夜は青年・成人学級)
*成人学級は女性が多かった。また、この時の「一人の落後者も出さない」という精神は後の朝鮮初中級学校に受け継がれる。
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滋賀県内にこういった民族学校が17ヶ所あり、生徒数は子供だけで600人ほどいた。
1948年からは東京の在日本朝鮮人連盟で教科書の印刷も行われるようになった。
軌道に乗ったかに見えた民族教育はGHQによって弾圧される。
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1949年9月、民族学校の閉鎖が強行される。
しかし、青年や成人への夜間学級は個人の家で続けられていた。
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1950年初め、醒井村の村長に民族学級の開設を願い出る。
→毎日のように頼んだこと、全国的に同じような運動が起き無視できなくなったこともあり、3月末に認められる。
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1950年4月、醒井小に民族学級ができる。
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後に、近隣の小・中学校の民族学級で構成された湖北朝鮮初中級学校ができる。
湖北朝鮮初中級学校…米原・醒井・彦根城東の3小学校計6クラスと米原中の1クラスの計7つの民族学級で構成。
・学校といっても校舎はなく、教師の任意の研究会的集まり。
・運動会・学芸会等の統一行事があり、市町村が許可しないため民族学級がない地域の子供も参加した。
・朝鮮からの教育援助費(280億円以上にのぼり、県内だけでも1億3千万を越す)
・中学校での民族学級は全国唯一で、李氏が米原小に赴任してから交渉、設置されたもの。
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こうした状況の中でも民族教育に無理解な人や、朝鮮人に排他的な人はいた。
集団帰国が始まったため、帰国を前提に日本の学校を辞めて通学する滋賀朝鮮中級学校(滋賀朝鮮初中級学校の前身)が近江八幡で公民館を借りて(1年間の期限付きで)スタート。
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しかし、様々な問題により、帰国できなくなる生徒が増加。
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専用の校舎を建て、長期的・本格的に民族教育を進める運動が始まる。
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学校は在日朝鮮人の多い大津に建てられることになり、校舎は八日市のある小学校の校舎が移築された。
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1962年12月に完成し、翌年4月には小学校部門も設けられる。
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県下の民族学級を順に廃止し、児童を学校に一本化する方針を取る。
*教師不足と、その方が充実した民族教育が行えるため。
・授業料や通学バスの費用など、経費は割高(義務教育ではないため)
・1978年から県と大津市が運営費に限って補助金を出すようになる。
・1980年当時、生徒数は180人。県下全体の朝鮮人子弟の数から見ると少ない。
(大津という地理的な不便さもあったが、民族教育への正しい理解が欠けていたり自分たちの都合で転校を阻んでいたこともあった)