在日朝鮮人教育における民族学級の位置と性格

2005年5月10日 ゼミ発表レジュメより 作成:網谷真由美

中島智子「在日朝鮮人教育における民族学級の位置と性格 ― 京都を中心として」『京都大学教育学部紀要』XXVII(1981年3月)のまとめ

民族学級…朝鮮人を対象に朝鮮語その他を習得させることを目的として日本の公立学校に設置されたもの。通常、朝鮮人講師が担当する。特別・抽出・課外の三形態がある。

1.民族学級設置の経緯

 民族学級の設置が本格化するのは、全国的には1949年以降。
(京都では)1945年の開放直後、朝鮮人が「国語教習所」を設ける。
その後、即時帰国を前提とした講習所形式は、在日本朝鮮人連盟(朝連)の指導のもと、全国的に学校形態へと整備発展。一方、京都朝鮮人教育会(後の大韓民国京都教育会)が結成され、京都朝鮮中学校が開校。
 このような自主的な活動に対し、占領軍の方針を受けた政府当局が通達を出し、朝鮮人学校は日本の教育法規に従うべきものとした。各地で反対運動が起こり、私立学校として認可申請するという内容の覚書が交わされた。しかし1949年、朝連の解散に伴う措置として、朝鮮人学校の閉鎖改組が全国に通達された。
 こうして朝鮮人学校で学んでいた生徒は日本の学校に転学させられ、日本の学校での民族教育の実現形態=民族学級が要求されることになった。
 朝鮮人学校の閉鎖直後、政府では「課外として朝鮮独自のものを教えることは自由である」とし、外国語や自由研究の時間の利用も示唆。その後も、限定つきで、朝鮮人のみの特別学級及び分校設置の可能性を提示した。(朝鮮人の反発・教育現場の混乱を静めるのが目的で、教育の独自性を認めた結果ではなかった。)しかし、地方当局及び各学校がその実施に着手することはなかった。朝鮮人の熱心な要求運動があってやっと、京都市内で特別1、抽出6、課外3校の民族学級が発足した。これは市教育委員会と朝鮮人側との妥協点であり、学校側の姿勢は不十分だった。
 各府県でも、運動や交渉が重ねられることによって、民族学級が誕生した。その内容には統一性がなく、各地域で形態が異なっていた。その采配は地方当局に任され、当局と朝鮮人側が朝鮮人学校を焦点として対立していた間で民族学級は誕生したため、不安定な位置と曖昧な性格を持つこととなった。

  1. 民族学級の設置が覚書によっているため、基盤が弱い。いったん当局が方針を変えた場合、簡単に廃止される危険性があった。
  2. 当局と朝鮮人側では、民族学級に対する認識に大きな開きがあった。当局は「混乱を収拾するための妥協策」、朝鮮人側は「朝鮮人学校に代わって民族教育を行う任務を要請」だった。
  3. 日本の学校内で、民族教育擁護の思想に裏づけられた正当な位置が確保されていなかった。学校側の協力が不十分だった。「朝鮮人迷惑論」

2.民族学級衰退の経緯と要因

 65年通達…公立朝鮮人学校及び分校と民族学級の設置を禁じ、日本の学校における朝鮮人教育は「日本子弟と同様に扱うものとし、教育課程の編成・実施についての特別の取り扱いをすべきでないこと」として、公立学校内の民族教育の可能性を封じた。民族教育を否定し、同化教育を強要するこの通達は、その後の政府の在日朝鮮人教育政策の基本となるものだった。
 (京都では)この通達を受けて市教育委員会によって廃止措置がとられた。同時に、朝鮮民主主義人民共和国への帰国事業の開始に伴う民族教育熱の高まりによる朝鮮人学校への転学者が増えたこと、日本の学校に在学する者の中に講師が総連系であることへの反発があったこと、朝鮮人であることが知れることによって差別を受けるという理由で民族学級の希望児童が減少し、民族学級は減少していった。
 (滋賀では)総連が講師を派遣していたが、講師がやめて廃止された場合が多く、1校も残っていない。総連の自主校中心の教育方針があり、滋賀朝鮮中級学校(1960)、滋賀朝鮮初級学校(1961)が開校され、1970年代には講師・児童ともに自主校に引き上げさせる方針がとられた。
全国の民族学級設置校数
1953〜54:95校(ピーク) 1958:63校 1961:50校 
1960年代半ば:30校 と急激に減少。

  1. 総連が結成(1955)以来、自主校の発展に力を入れてきた。在日朝鮮人を「外国公民」と明確に位置づけ、その教育は自主校で行われるべきものとし、自主校の復興・整備拡充に着手。民族学級への出席数の減少と講師不足を招いた。
  2. 在日朝鮮人の「在日」意識に分極化が生じ、それが教育観に反映された。在日朝鮮人社会の南北分断をも激化させた。朝鮮人学校に行く者−日本の学校へ行く者の分岐を深めた。朝鮮人学校の大部分は総連系で、政治的意味も強かった。
  3. 行政当局及び学校が民族学級の存続及び質的拡充に積極的でなかった。講師の身分・待遇の面と、学級運営に対する姿勢(教室の確保や運営費の保障、カリキュラム編成や課外授業設定の際の配慮、日本人児童の朝鮮人差別・偏見を根絶させるための教育など)に問題があった。

 以上の3つの要因に、65年通達が効果的に加わり、民族学級の衰退を招いた。

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