◆ピグミーチンパンジーまたはビーリャ、またはボノボの紹介

 ピグミーチンパンジーはチンパンジーの兄弟種です。同じPan属に分類され、写真のようにチンパンジーに比べると、頭髪や頬毛が多く、多くの個体がよりつややかな黒い毛と肌をしています。
 DNAを人間と比べると、ピグミーチンパンジーとチンパンジーはいずれも人間と1.5%ほどしか違いません。これら2種のDNA間では0.7%ほどの違いがあります。両種の行動や生態を比べると、基本的には似ていますが大きく異なるところも少なくありません。人間との比較ではどちらがより似通っているかはいえません。
 ピグミーチンパンジーの名はチンパンジーより小型だからです。個体差が大きく、チンパンジーとの差は一概にいえませんが、一般に、チンパンジーよりほっそりして毛がふさふさしています。
 最近通り名としてよく知られているボノボは由来不明のことばです。ピグミーチンパンジーがいるコンゴ民主共和国の中央部のンガンドゥ民族は、エーリャ(単数)、ビーリャ(複数)と呼び、また人間の兄弟と考えて「森の人」とも呼んで、ちょっと前までは殺すことは避けていました。残念ながら、現在は狩猟の対象にする地域が多くなっています。
 ピグミーチンパンジーはチンパンジーとともに、私たち人間の兄弟です。彼らと森で対面したとき、私は自分が何者か一瞬わからなくなったことがあります。その時の感じはもはや正確には思い起こせませんが、強いて表現すれば、彼らがもう一つの私だったかもしれないと感じた気がしたからです。動物園のチンパンジーたちを見るのを嫌う人たちの話を聞きますと、人間に似すぎていることが理由に挙げられます。つまり、身体の類似や、まっすぐに見つめてくる行動・態度が見る人の心を揺さぶるわけです。それによって、私たちは、自分と彼らが何者なのか、改めて考えさされることになります。これが、彼らの存在の力です。
 ピグミーチンパンジーの行動上の特性では、性行動の発達、雌が主導権を握る社会を作ることが、研究者に特に注目されています。これ以外の私が重要と考えることは、相互依存が強いことです。私は(私だけですが)、これは初期発達が遅いことと関連し、言語能力の進化や人間の共同性の起源を考える上で大変重要なことだと、考えています。こうした問題については、拙著『ピグミーチンパンジー:未知の類人猿』や『人類進化再考:社会生成の考古学』を読んで下さい。その他にも、日本のピグミーチンパンジー調査隊長の加納隆至さんの『最後の類人猿』をはじめとして、いくつかの本が出版されており、ボノボの本のキーワードで調べることができます。
 
 

◆新版ピグミーチンパンジー・あとがき

初版のあとがき

 私は、一九七四年度、一九七五年度、一九七八年度の琉球大学アフリカ類人猿調査隊(加納隆至隊長・文部省科学研究費)および一九七九年度の東京大学アフリカ霊長類調査隊(西田利貞隊長、文部省科学研究費)に参加し、ピグミーチンパンジー(ボノボ)を対象に調査を行なった。本書はその記録である。
 私がこの類人猿の存在を知ったのは、伊谷先生の『チンパンジーを追って』(筑摩書房)の挿し絵を描かせていただいたときのことである。先生は、「まだまったく未知の類人猿がコンゴ・フォレストの奥にいる。霊長類の研究を通じて人類の進化過程を考察するには、この類人猿の研究は不可欠であり、今度はこれを手がけたい」と、ことば少なく語られた。
 もちろん、そのとき私は、私自身が四年後にその類人猿にめぐり会うことなどは想像もしなかった。しかし、先生のことばが、暗く湿った森の奥深くでひっそりと暮している小さな類人猿の像を結び、それが脳裏に焼きついてしまったのを憶えている。彼らは樹上に身を寄せ合いながら、そっと私を見つめていた。その後に勤めた高校を辞し、自然人類学を志してアフリカでの研究を想うようになったのは、このイメージが無意識のうちに働きかけていたからかもしれない。しかし、実物に会ったとたん、そのイメージは消し飛ばされた。彼らは森の隠者などではなく、ダイナミックな存在であった。ナミチンパンジーのたんなるヴァリエーションでも・なかった。独自の社会と生態を有し、類人猿全体の社会と生態をより立体的に理解する視点を与えてくれる存在であった。その意外性は、最初私を唖然とさせ、そして興奮させ、虜にした。
・・・・・・・・・

新版のあとがき

 本書は一九八二年に「ちくま・ぶっくす」の一冊として刊行されたものである。私はここに記したピグミーチンパシーの研究によって、霊長類を観察する楽しさとアフリカの魅力に取りつかれ、人類学を生涯の仕事とすることになった。その過程の記録が、こうして新しい装いで再刊され、再び多くの人々の目に触れることになったのはたいへん嬉しい。また、この類人猿が人間の活動によって絶滅しそうになっている今、彼らの魅力を広く紹介でき、それを通して多くの生物への共感と共存を訴える機会に恵まれたことを深く感謝したい。
 この本は、ピグミーチンパンジーというそれまでまったく知られていなかった類人猿の観察記録であるとともに、私のアフリカの自然と人々との交流の記録でもある。私にとっては、これらは分ちがたく絡み合っている。ワンバでは、私はできるだけ村人の感覚に近づこうとし、ことに自然に対しては、彼らが動物や植物をみる視線に私自身の視線を一致させて真似、彼らの感覚をそのまま写し取ろうとした。森では木々を一本一本知り、その息吹きを肌で感じようとした。人も自然も日本とはまったく違う場所に身を置いて新しい感覚で生きることに、私は酔っていた。
 ピグミーチンパンジーとの接し方もそうだった。森を知ることによって、彼らの生きる世界と私のそれとを重ねようとした。そして私は、この物言わぬ相手にいつの間にか激しい思い入れをしており、彼ら同士の微妙なやりとりも手にとるようにわかると感じるようになっていた。観察対象とまるごとつきあっていると、このような感覚は誰にもやってくるものだが、私の場合は極端だったかもしれない。
 私は今、ワンバの自然との一体感と、ピグミーチンパンジー社会の内面が見えてくるという感じの過程を、もっと明確に書くべきだったという気がしている。それこそが私のフィールドワークの中身だったからだ。時を経て本書をみると表現や分析の未熟さが目立つが、再刊に当たっての訂正は最小限にとどめ、不鮮明だった写真を少し取り換えた。記述の多くは現在もピグミーチンパンジーの実像を伝えるものとして有効であると思っているし、私が最初にアフリカの自然と人に出会った印象を大切にしたいからである。
 私が本書を書きあげたのは十七年前である。その後の十七年間は、E集団にとって激動の時代であった。密猟で何頭もが殺され、集団が分裂し、そして、集団の中心的存在であったカメ一家が崩壊した。このE集団の社会変動は、彼らの社会がその歴史を考慮することによって初めて理解でき、また各個体の個性が歴史的な事件に大きく関わっていることを示すものであった。一方この間に、ピグミーチンパンジi研究は類人猿研究、人類進化研究の新しい局面を開くものと認識されるようになってきている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ピグミーチンパンジー研究の動向

 私たちのピグミーチンパンジー研究の大きな成果は、まず、類人猿の性行動についての考えを一変したことである。この研究によって、生殖から分離した性行動はヒト特有のものとする従来の考えが否定され、比較材料が出現したので、人類進化と性行動の関連をより具体的に考察できるようになった。
 ピグミーチンパンジーに顕著に見られる頻繁な食物分配、緊密な母子関係、重層構造化している社会、オスとメスの対等性なども、人類学者の注目を集めている。チンパンジー社会をモデルにしたこれまでの人類進化論は、男による狩猟活動を中心にした社会進化論に傾きがちであった。ピグミーチンパンジー社会の上記の特徴は、それを多面的角度から再検討し、より包括的なものに修正する材料である。すでに、加納さんの家族起源論を始め、それらを材料にした新しい人類進化論が出されつつある。
 米国エモリー・ジョージア大学言語研究所のデュエインとスーのランバウ夫妻は、別な方向から研究を進めてきた。夫妻は2頭のチンパンジーと、カンジというオスのピグミーチンパンジーに、記号文字を記したコンピューターのキーボードを使わせ、彼らの言語能力を調べている。チンパンジーの場合、キーボードによる発話は一語か二語の繰り返しが主で、その内容は研究者への返答か食物や遊びの要求が大部分である。しかしカンジの場合は、自発的かつ叙述的で意味のあることばの連鎖が多く、発話量も多い。たとえば・小鳥の鳴き声を聞き、「赤い、鳥、鳴く」ボタンを押すのだ。研究者が眼前にないものについて語ってもその意味をよく理解し、語順の意味の理解も速い。しかも、通常の音声による簡単な英会話もほとんどわかり、不完全だがいくつかの英単語をしやべるのだ。彼の妹たちも同じような能力を示したが、上の妹は残念たことに死んでしまった。
 また夫妻は、このつきあいを通して、ピグミーチンパンジーがいかに友好的な生物であるかがわかった、と語っている。これは野外で彼らと向かい合ってきた私たちの直感でもあるのだが、夫妻の研究の結果は、彼らの認識力や心理の内面をも射程におくような観察と分析の方法を工夫しないと、彼らの社会はとらえきれないことを示している。私たちはまだその方法を得ていない。しかし、このすぐれた認識力をもち、相手と通じ合うことを求める生物の発見そのものが、何よりも喜ばしい。これは、人類にとって新しい隣人との出会いなのだ。
 ピグミーチンパンジーの系統的位置については、これが人類と類人猿の共通祖先に近い始原型かどうかが論争されたが、始原型説を出したA・ジールマンは古人類学者たちに徹底した反論を挑まれ、葬り去られた。ピグミーチンパンジーの円みを帯びた頭骨形態と手足のプロポーションは、アウストラロピテクスのものとよく似ている。しかし、その他の形質も併せて検討すると、ピグミーチンパンジーがチンパンジーよりも猿人に近いとはいえなくなるのだ。行動の面でも同じで、この二種はそれぞれに人類と共通する特性をもっていて、いずれがより人類に近いともいえない。しかし、ピグミーチンパンジーの頭骨が幼型化の特徴を示し、行動上にもそれと平行する多くの現象が見られることは、始原型かどうかに関わらず重要なことである。形態の幼型化は人類進化を特徴づける要因の一つであるといわれながら、それと行動との関連を具体的に論じる材料がこれまではなかったからである。
 この類人猿の特異性、重要性の認識が高まるにつれ、チンパンジーとの違いをはっきりさせるために、その呼称を「ボノボ」に統一しようということになってきた。欧米では、「ボノボ」がこの類人猿の現地名だと信じられ、よく使用されているが、ザイールのどこにもこの一言葉はなく、出所不明のものだ。ワンバチームの加納隆至隊長は、ザイールで広く使われている「ビーリャ」を提案したが、大方の賛意を得ていない。わたしも「ボノボ」には最後まで抵抗したが、「意味が同じなら短いほうがよい」という科学雑誌の方針と圧力に抗しがたくなってきた。今後は「ボノボ」が一般的になるだろう。
 研究の高まりとは逆に、ピグミーチンパンジーの生息数は急速に減りつつある。原因は狩猟と森林伐採である。現在の生息頭数はせいぜい一万から二万のあいだであろう。一九九一年五月、世界の関係者がアメリカに集まって保護のプランを練り、ワンバチームもワンバ付近の三千頭を保護する計画を実行に移そうとした途端、内乱で頓挫した。内乱続きで地域住民の生活はきびしく、ピグミーチンパンジーを蛋白源とせざるをえなくなってきている。住民の生活も考慮した包括的な保護のためには、まず政治の安定が必要だが、見通しは暗い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

成長遅滞と共有関係の希求

 私は本書で、ピグミーチンパンジーの行動特徴として、性行動の多彩さと頻繁さ、幼型的行動の残存を挙げた。あとのことは幼児期の成長遅滞によってもたらされる。そのことがもつ意味について少しつけ加えておきたい。
 北村光二さんは、相互交渉の根底には「ある種の共有関係にはいることの満足感、すなわち楽しみ」があるとし、ピグミーチンパンジーの性行動の頻繁さや集まりを、こういう観点から理解すべきであると提案している。これにはまったく異論はないが、私はさらに、この共有関係の希求の強さと成長遅滞との関連を強調したい。
 ピグミーチンパンジーの幼児は母親によく甘え、その関心を引こうとする。サンジエゴ動物園の飼育係もランバウ夫妻も、ピグミーチンパンジーの子は一人にされることを嫌い、特に手がかかるという。サベージ"ランバウによれば、カンジは子供のとき、研究者にああしてこうしてとよくねだったが、チンパンジーたちはあまりしなかった。これはカンジが、研究者が彼の関心を理解することをよく知っていたことを示す。
 これらの行動は人間の幼児のやり方によく似ている。彼らは一人遊びのときにもそばの人間に注視と聞くことを要求し、自己を他者との関心の共有の中に置こうとする。発達心理学では、こうした態度は人間の幼児の発達遅滞に帰せられ、またコミュニケーション発達の基盤として重視されている。人間ほどではないが、ピグミーチンパンジーの幼児も明らかにそうした態度を身につけている。
 母親とのあいだで培われた関心共有の態度は、他個体にも向けられる。ただこの関係では、共有関係はそれなりの行動によって示されなくてはならない。彼らの多彩な性行動は、この共有関係の希求を満足させるための方法である。食物分配行動も、彼らにとっては同様のものである。その分配量は少なく、生存上の意味はほとんどもたない。彼らは食物を共有することによって、共有関係の具現を図ることを発明したのだ。共有関係に入ることは、基本的に対等的関係にはいることでもある。
 関心の共有は、お互いに相手の心理を理解し、おもんばからなければ成立しない。したがって伊谷純一郎先生が指摘するように、そうした相互交渉は、他者への思いやりと平等性の具現化でもある。ある行動型を共有関係の具現化に使用すれば、当然その行動はもとの意味とは異なる社会的意味をも担うことになり、多義化する。また、その行動の当為者の社会的意味も多義化し、存在が多重性を帯びてくる。これは自己意識、社会的認識力の発達の契機となるだろう。逆に、集団が分節化し重構造化することによって個体の社会的意味が多重化すれば、共有関係のもち方にも多様性が生じるということも考えられる。成長の遅滞は、共有関係の希求を強化し、平等原理の発達と社会の複雑化の原動力にもなるのである。

 本書で設定したいくつかの研究課題はまだ解決にはほど遠いが、その成果の一部を本書と同時に発刊される『人類進化再考-社会生成の考古学』に発表してある。併せて読んでいただくことで、ピグミーチンパンジーという私たちの隣人についての理解を深めていただければ、これ以上の喜びはない。この本を読めば直ちに知れるように、私はコンゴの熱帯林でピグミーチンパンジーを追う時、現地の人びとの森に対する感覚を写し取るようにして学び、ピグミーチンパンジーの生きる世界に私の感覚を重ね合わせて社会の内部を知ろうと努めた。ピグミーチンパンジーのたべものは、ミミズを除いて残らず味わったし、夕闇が迫る森で彼らのように鳴き、暗闇の森を星明かりだけで歩いた。このようにしたおかげで森をひとりで自由に歩けるようになり、美味な果物の匂いにうきうきし、ピグミーチンパンジーが去った方向を何となく察知できたり、予想が当たってトラッカーたちとにんまりする楽しさを味わった。それだけでピグミーチンパンジーの世界を知ったと言いたいわけではないが、彼らの挙動に敏感になり、よりよく見えるようになったことは確かである。
 それだけでなく、このことによって類人猿社会や人類進化を考察するとき、自己の感覚に引き寄せて考える癖が付いたのである。異種の観察対象の世界を経験し相手に自己を重ね合わせて見る方法を、私は〈生態的参与観察〉と名付けている。これは観察を観察主体の主観と不離の関係にするが、必ずしも擬人化を招くわけではない。ここの微妙な問題は本書を読んで判断してもらうしかない。〈生態的参与観察〉は、異種の相手に自己を合わせながらそこでの同化・異化作用を対象化する方法ともいえる。本書はその実践をそのまま記述してあるが、そうしてみるとこれは人間を相対化する方法でもあることに気づく。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


トップへ


[生態参与観察のススメ] [『人と地域』 ] [ エコ・キャンパス・プロジェクト ] [地域文化学科 ]

人間文化学部

人類学会人類進化学分科会