『人と地域17号』表紙

『人と地域』は、<地域をどうとらえるか、地域でどう生きるか>をテーマに、幅広い視点から考え意見交換することを目指して、地域文化学科の高谷好一、武邑尚彦(主宰)、黒田末壽の教員と岸川綾(編集担当)、上田洋平ら学生・卒業生有志が共同発行しているミニコミ誌である。以下に2号、4号に対するコメントを再録。なお、『人と地域』に関する問い合わせは、0749-28-8421(武邑尚彦)まで。

 

 

1.『人と地域』2号の「一本のうちわから」(耳の会)へのコメント

<<人と人、人と自然のかかわりを表現する楽しさ>>

 「一本のうちわから」は昨年の夏、本学のオープンキャンパスで初めて展示された。そのご、少しずつ内容を充実しながらいろいろなところで発表・展示され、現在は彦根市での展示を計画中と聞いている。

 オープンキャンパスでは、展示版と階段の手すりを利用した立体的な場に、実物を見ないと結びつきが納得できないような様々なもの、向之倉から出てきた多数のうちわ、うちわの出所である旅館や商店の往時と現在の写真、それらの聞き取り、重量感のあるうちわ作りの道具や店屋の古い看板、うちわ作りの説明が飾られていた。

 展示の専門家から見れば、これは焦点が定まらない失敗作と言われるものかもしれないが、多賀町歴史民俗博物館での展示に対するアンケートに示されたように、見る方にとって意外性のあるおもしろい展示だった。意外性というのは奇抜という意味ではなく、三〇年以上前の向之倉や多賀、高宮、彦根の生活がうちわを通して身近に浮かび上がってくるおもしろさである。

 少なくなったとはいえ、誰でもまだうちわを使った経験は何度かある。だから、竹製の一昔前のうちわを見れば、そのスマートなデザインの手触りや使い具合を思い起こすことができる。私の場合、この実感、聞き取りの「語り」を生かした表現、写真があいまって、多賀町の亀屋旅館や西村商店がにぎわっていた世界に連れて行かれた気がしたのだが、おそらく他の人にとってもそうだったのではないか。

 今回の『人と地域』誌上の発表には、上田さんの丸亀でのうちわづくりのついての聞き取りが付け加えられている。とくに職人さんの聞き取りでは、うちわの骨づくりといった一見単純に見える手作業の背景に竹の生態に関する実用的で詳細な認識があること、子どもの労働の大切さ、地域社会の機能などが浮かび出ており、これらを否定してきた現代を考え直すきっかけを与えてくれる。

 うちわは<扇ぐもの>という固定観念から見ればそれまでのものが、それを大事に取っておいた人の慎ましさの印として見たり、裏に書かれた商店名で当時の村の生活圏を知ることもできれば、デザインで当時の流行や価値観を知る手がかりにもなる。私が上田さんに「うちわで展示をしたら」と提案したのは、このように考えたからであるが、できあがった展示との比較で思い返すと、私はうちわをせいぜい<資料>としか考えていなかったと気づいたのである。<うちわチーム>の発想と行動はもっと自由だった。

 <うちわチーム>は、聞き取りのみごとな再構成と展示によって、山と町をつなぐ生活の表現、過去と現在をむすぶものとして、古いうちわを新たに生かしたと思う。きざに言えば、彼らは向之倉のうちわを<手に取る詩>にしたのである。

 昔のにぎわいの世界にいざなわれた後、私たちは現在の地域社会について考えざるを得ない。地域社会は変わるべくして変わる。しかし、変えたくないものがありはしないか、それは何か・・・。

 私はこのチームの諸君がこのような問題意識を深めていったのを知っているが、それ以上に、楽しそうにこの企画に取り組んでいたことが印象深い。ものを作り大事に使うこと、それが表現する人と人、人と自然とのかかわり。それらの大事さ、そうしたことを表現することの楽しさが、この<詩>から伝わってくる。

 

2.『人と地域』4号の「琵琶湖に生きる漁師の姿」(渡辺大記)へのコメント

<<じっくり話を聞くことの大切さ>>

 ひとに話を聞くことの意味が素直に伝わってくる初々しい作品だと思う。大学に来て毎日身近に見る琵琶湖を、自分の位置する陸からだけでなく、漁師さんの目を通じて湖の側から捉えてみようという視点がよかった。この論文の話題は盛りだくさんで簡単に触れられているだけではあるが、読者のみなさんには琵琶湖のしじみ漁や環境問題に関する問題提起とともに、「話を聞く」ということについても考えながらこれを読んでいただきたい。

 この論文では「聞く」という行為の豊かさがしっかり表現されている。私たちは、自分でわからないことや知りたいことを人に「尋ねる」ことも「聞く」に含めるが、これらは別の行為である。尋ねることはものごとのやり方や知識を得る行為であり、自分の目的をかなえる手段である。つまり、自己本位の行為である。それに対し、聞くことは相手の思いを受け止めることである。

 渡辺君は、たとえば、「・・・どんどん続けて話され、また話が脱線したなあということもたびたびで、メモをとるのがたいへんであった。しかし、その脱線した話が面白く、また鋭いところを突いていて・・・」と書いている。用意した質問をきっかけにして中山さんの話が自由に展開し、渡辺君たちはそこに引き込まれていったのである。そうして中山さんの立場や心を敏感に感じ取っていることは諸処に現れている。密漁せざるを得ない漁師に対する中山さんや松原漁協の同情と配慮を大事なものと考え、そのことの重さを受け止めて、琵琶湖の環境悪化を自分の問題として捉えているところはその一つである。

 「地域に学ぶ」ことにとって、相手の話をじっくり聞くことはなにより大切である。それは、自分が見たり考えたりできる事柄はしれているという謙虚さがもたらす行為であると同時に、他人とその立場を大事にすることである。このような態度は、地域共同体を支える原理そのものと言ってもよいだろう。しかし、今日では私たちは時間に追われ、話をじっくり聞くことが少なくなっている。マスコミやいわゆる識者の見解や情報機器に現れるものばかりを大事にし、また、話を聞く場合も、多くが内実は尋ねることであったりする。

 とくに学問を頭に入れた人間は、往々にしてそれにそった知識だけを有用なものとして聞き取り、相手の心を感じるような聞き方ができなくなる、つまりは相手をおろそかにしてしまうことが多い。しかも困ったことには、その自己本位さを「学問」とか「主体性」とか「認識」の用語で自他共にごまかしている。渡辺君の聞き方の素直さは、かく言う私もそのたぐいであることをつくづく反省させられるものだった。「耳の会」を主宰する上田洋平さんも、話をじっくり聞くことを実践している希有な人だが、渡辺君とは違ったスタイルをもっていることは、『人と地域』2号と読み比べればよくわかる。同じ言葉の表現になり、目指すところが同じようでも、スタイルにはいろいろあることがおもしろい。

 ここでの様々な問題提起にどう取り組むかが今後の課題だが、その前に渡辺君たちにぜひやってほしいことがある。しじみ採集の現場を見させてもらい、できれば手伝いをさせてもらい、瀬田しじみを手に取って調べ、澄まし汁の作り方を習って味わうことである。自分で採集してみるのもいい(密漁にならないように!もう浅いところには残っていないか?)。ものを味あわないと、そのよさは語れないからね。


 

生態的参与観察のススメ

人間文化学部