生態的参与観察のススメ

1.木や草をさわり、その葉を草の葉をかんでみよう、そうすれば生物の世界が立体的に見えてくる

生態参与観察とは格別に新しいことで難しいことでもなく、相手の世界にできるだけ身を入れて相手を見、聞き、味わい、触れ、感じることをさしています。相手が現に対話している人間ならば、私たちはこのことをかなりの程度深く行っているわけで、そうでなければ、会話は成立しないでしょう。しかし、相手が人間と違う生物、たとえば、モンシロチョウの幼虫である青虫、あるいは、チンパンジーだったらだったらどうでしょうか。

Y・V・ユキュスクルとG・クリサートが指摘しているように、世界のありようは個々の生物種によってそれぞれ違います。おそらく時間の現れも異なっていることでしょう。ですから、虫やチンパンジーの感覚をそのまましることは不可能ということです。が、人間はその違いも想像しつつ、彼らの世界を見つめ、感じることを<試みる>ことができます。この<試み>は、意外と奥行きが広い世界を広げてくれます。

「タデ食う虫も好きずき」は、人間にとって理解できない虫の世界に思いをはせた言葉といえないこともありません。(実際にかんでみれば、タデの葉にはシュウ酸の酸っぱさと苦みで人間の食べ物に向いてないことはすぐわかりますが、こんなものを食べるものの気が知れないというほどのものではありません。)毒草もありますから、むやみやたらに口に入れてはいけませんが、個々の草や木をよくみながら葉や皮を噛んでみましょう。そのうちに木の葉の形状で味や匂いが想像できるようになるでしょう。木に登って小枝を折って果実を採り、口に入れてみれば、その木の肌触り、もろさとしなやかさなどが、ゆらゆらする感覚や樹上の視野や茂みの世界とともに身体に宿ってくるでしょう。

こういうことを続けていると、風にそよぐ「あの木」のきしみ、「あの光る実」の渋さ、などを直感するようになります。あたりが一つ一つ生きた者たちに満たされていることに感づくと言ってもよいかもしれません。

2 類人猿の世界に近づく:『自然学の未来_自然への共感』から

 僕は、村や森ではトラッカーに自分を重ね合わせ、まねをし、ピグミーチンパンジー(ボノボ)の食物を見れば自分で味わい、ときには彼らと同じように森で吼えて、猟師やピグミーチンパンジーの世界を知ろうとした。それは、ワンバの村人やピグミーチンパンジーが感じている世界を少しでもこちらが共有していなければ、彼らのことをわかり得ないと思ったためである。もちろん、一部を彼らと共有したからといって、わかった気になるのは危険である。しかし、僕にはわかりたい相手と何ら接点がないままの観察やデータ収集は、それ以上に無意味なことにしか思えなかったのである。

それには、人類学でいう参与観察の考えが大きく影響している。そしてこれからヒントをえて、ピグミーチンパンジーのように異種の動物の世界を知ろうという観察方法を生態的参与観察と名付けた。まず、参与観察から簡単に説明しよう。

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 僕自身は、参与観察の独自性は、生活という仲間と体を動かし命を保持する場の共有にある、つまり、新たな人々とともに彼らのやり方で、食べ・味わい・体を動かし・見聞きし・喜び・悲しみ・感じることだと思っている。したがって、参与観察は、具体をベースにし対象に対する驚きを出発点にする、いわばフィールドワークの精髄である。それが人類学的方法として成り立つのは、新たな生活への違和感や慣れの過程を観察し、意識化し、その表現の方法と意味を考えるからである。つまり、相手の観察と同時に自分の変化を観察し、その意味を考えることによってである。

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 生態的参与観察は、参与観察の相手を自然あるいは特定の動物にうつしたものと思ってもらうといい。相手は人間と違うから、感情を分かち合ったり、生活をともにするのはむずかしい。サルたちと自然のなかで生活をともにすることはできないが、生活空間をある程度共有することはできる。とくに、相手が高等ほ乳類ならば、「飼い主はその犬に似る」というように、気分や表情を共有することだって起こりうるし、ニホンザルやチンパンジーそっくりの表情をかいま見せる霊長類学者は何人もいる。

 だが、<生態的>という言葉をつけるのは、相手の動物の生活空間、すなわち自然を、観察者が生活空間として共有する大切さを強調したいからだ。僕の場合は、チンパンジー、ピグミーチンパンジーを観察するときは、彼らの顔と行動の特徴を覚え、歩くところを丹念に歩き、食物を口に入れて味わい(口やのどが腫れる物もある)、彼らが見る物を見つめ、同じように鳴いてみることをやった。そして、夜の森林を星明かりだけで歩けば、月が出たときチンパンジーが鳴く気分がわかるような気になるし、同じように雨に濡れると、その心地よさも心細さもわかるような気になる。そのような態度で目を凝らして彼らを見ていると、ちょっとした身振りに敏感になり、その意味するところに見当がつくようになってくる。ある方向に走りだしたとき、それがパニックなのか、おいしい果物を求めての移動か、それとも他集団と闘うためかが、予測がつくようにもなる。もちろん、見当だけで彼らの行動を説明するわけにはいかないから、その成り行きを確かめて予測の正否をチェックするのである。

 このやり方は多かれ少なかれ動物・植物の行動や生態の研究者、霊長類学者がやってきたことである。そして、猟師がそうだ。日本霊長類学のパイオニアの一人、河合雅雄は、サルに人格を認めて彼らを人間を見るのと同じ眼で観察する方法を「共感法」と名付けているが、僕はそれを類人猿が棲んでいる空間ごとすることを目指したのだ。これはチンパンジー、ピグミーチンパンジーの観察眼を磨くだけではなかった。森の細部や動物が見えるようになり、植物はそれぞれの臭いと味と場所として、あるいは柔らかいクッションとして意味を持ってくるのだ。季節の変化にも敏感になってくる。つまり、自然になじんでくるのである。それは参与観察で相手の文化が自己に参入してくるのと同じで、自然が僕の中に入ってきたのである。

 しかし、このように表現したからといって、生態的参与観察が特殊な能力を要求したり、熱帯林で類人猿を観察するという特殊な経験にともなうものというわけではない。むしろ、参与観察が異文化の普通の生活への参加であったように、生態的参与観察も普通の生活に自然を重ねるというごく普通のやり方で成立し、そこから豊かな自然認知が引き出されるのである。



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