ユニバーサルデザインの現在

UDは万能ではない

ユニバーサルデザイン(以下、UDと表記)を前面に打ち出した新型「ラウム」がトヨタから発売された。助手席側のセンターピラーを取り払って乗降性を格段に向上させたほか、ドア、ハンドル、シート、メーターなど、随所にUDの考え方が取り入れられているという。UDへの社会的な要請が高まる中、当然予想されていた「UDカー」の登場であるが、もともと旧型のラウムもUDの方向に沿う車だった。

旧型ラウムが発売されたとき、あるデザイナーの友人が話してくれた言葉が気に掛かっている。彼は、当時から広告コピーなどで乱用されていた「人にやさしい○○」という言葉の薄っぺらさにいらだっていたが、車の魅力というものはラウムのような「乗る人すべてに使いやすい」こととは大きくかけはなれているというのだ。たとえ使いやすくなくとも、乗る人に負担をかけるようなものであっても、乗りたくなる。車というものの魅力とはそういうものではないか、と彼はいう。(ちなみに私も彼ほど伝統的な自動車信者ではないが、次の自家用車はラウムではなく、同じトヨタの「ウイッシュ」にしようと思っている。)確かに、モノ(製品・商品)の魅力・価値というものは、使いやすさだけではとうてい決まるものではない。UDの理想は全ての人に使いやすいものを作ることだが、全ての人に魅力的なものはつくれないし、つくりようがない。UDの「ユニバーサル」の語とはうらはらに、UDは決して万能なデザインというわけではない。

UDのわかりにくさ・むつかしさ

このような限界はあるにもかかわらず、今後のものづくりに関してはUDを抜きにして語ることはできないだろう。それは社会の、あるいは時代の、要請だからである。数年前から、UDに関する出版物や企業向けセミナー・展示会などが急に目に付くようになった。UDを取り入れたまちづくりの試みも全国各地で増えている。滋賀県でもUDを施策の大きな柱としてさまざまな取り組みが始められている。これらの背景には、社会全体の人権意識の変化がある。社会のすべての構成員が、つまり老人や子どもや障害者や在日外国人などの社会的弱者も含むすべての人が、等しく社会の便益を受ける権利があるとする人権意識の高まりによって、UDへの動きは今後もさまざまな領域で推進されていくことだろう。その意味でUDは一時の流行現象ではない。UDの概念が米国でおこったのも、米国社会での高い人権意識と無関係ではない。(類似の概念である「バリアフリー」が福祉の分野で多く語られてきた。UDをバリアフリーの延長・発展ととらえることもできるが、それとは別の発想による新たなデザイン思考ととらえた方がかえって理解しやすい。)

米国由来の言葉であるためか、ものつくりに携わるデザイン関係者や製造業者の間でUDはすでに半ば常識化してきているのに、一般生活者のUDの認知度は未だに高くない。「ユニバーサル」という外来の語からは、今あるものよりも使いやすいデザインにしていく、という方向性を感じにくいのも一因だろう。もちろん重要なのはUDの語を広めることではなく、現実の生活環境の中でUDを実現していくことであり、一般の生活者はUDという言葉を知る必要はないのかもしれない。UDという概念の「わかりにくさ」を補うためか、こういうデザインこそがUDなのだ、とするUDの原則やガイドラインがいくつか発表されている(表1、表2)。

「使いやすくて良いデザイン」を広めていこうとする思考は、モダンデザイン、特にインダストリアルデザインの考え方の中に昔からあった。いまUDへの流れが取り組もうとしているのは、この「使いやすさ」をもう一度新たな目で問い直すこと、さらに「使いやすさ」の主体(いったい誰にとっての使いやすさなのか)を、社会の構成員のすべてに押し広げていくことである。

UDへの取り組み手法

では、UDの主旨に沿った製品開発に取り組むとしたら、具体的にどこから手をつけたら良いのだろう。まずは国内外の先行事例などから学ぶことになるだろうが、以下に、UDに沿う開発のポイントであろうと思われることを瞥見しておこう。

ユーザーとともにつくる

「誰にとっても使いやすい」UDを実現するためには、まず従来の開発手順・手法の大幅な見直しが不可欠となる。これまで、開発がほとんど済んだ後の最終チェックとして、メインターゲットとなるユーザーを想定したモニター評価にかけることは、どこでもある程度は行われていたことだろう。これに対し、UDでは、開発の最初の段階からユーザーによる使いやすさの評価を取り込みながら開発を進めることが求められる。しかも、そのときに想定される「ユーザー」には、これまで見逃されがちだった老人や子ども、身障者や外国人などの多様な人々を含む必要がある。製品の「使いやすさ・使いにくさ」が、実は人によってまったく多様であること、少数者(と、これまで思われてきた人々)の要望がこれまで軽視されてきたことへの根本的な対応が、UDに求められている。

評価法をつくる

開発のさまざまな段階で、想定されるユーザー(あるいはそのユーザーの反応を熟知した専門家)による使いやすさの評価を加えながら開発を進めていく。そのような仕事の手順に習熟している開発現場はほとんどないのが実情だろう。製品のどこをどのような指標で評価し、その評価をどのように開発にフィードバックしていったらよいのか、どこでも頭を悩ませている。この評価項目や評価指標として、どのような製品にもあてはまるようなものはまだない。開発体制や開発対象に応じて、UDに取り組む各社が、独自の評価システムを試行錯誤しているところであろう。実はこの評価システムを独自に作りあげること自体が、その開発現場でのUDへの有効な取り組みになるはずである。なぜならそこでは、製品そのものとユーザーの多様さに関して、徹底した見直しが必要になるからである。

ユニバーサルリレーションをつくる

昨秋、県のUDセミナーに招いた赤池学氏(ユニバーサルデザイン総合研究所所長)は、独特のUDを主張している。これまで主流だった福祉からの視点のUDを超えて、いま社会的に優遇されてない生産者たち、職人や町工場の技術者などと、ハイテクの研究者、芸術家などとのこれまでなかった結びつき(リレーション)をつくることでまったく新しいものづくりが出来るとして、自らがかかわったユニークな開発事例を多数紹介してくれた(ユニバーサルデザインセミナー。2002年10月31日と11月1日、草津・彦根で開催)。赤池氏は「健常者、高齢者、障害者、子どもたちがあまねく参加するモノつくりの活動」を「ユニバーサルリレーション」と呼び、これがUDに先立つという。UDを実現するには、特にそれを魅力ある新しい製品として世に出すためには、従来通りのものづくりの体制ではなく、それを打ち破るような新しいリレーションをまずつくらなければならない、というわけだ。確かに従来通りの開発手順、従来通りの開発メンバーで、ただ多様なユーザーに配慮を加えたくらいでは、従来とそれほど違うものができてくる可能性は低い。新しいリレーションをつくれば、上に述べたユーザー参画や評価システムづくりなどの課題にもいっしょに取り組めるだろう。

UDのもうひとつの意義

「誰にとっても使いやすいデザイン」の実現は、実はかなり手強い課題である。設計手法をはじめ、開発プロセスや組織体制までを見直さなければならないとすると、UDに関心があっても本格的導入に足踏みする企業が多いのもうなづける。開発の期間やコストの制約もある。しかし私は、UDに取り組むことにはひとつの隠された意義があると思っている。それはアンチ・デザイン(従来型のデザインの改革)運動としての意義である。

デザインといえば、一般にはデザイナーという専門職が確立しており、余人が関与しにくい雰囲気があった。そこではデザイナーの経験とセンスが開発の成功・失敗を左右する。デザインの素人が口を出せるのは、開発の最終段階で、それも色や形の個人的な好みを述べることくらいがせいぜいであった。しかし、UDの考え方では、ユーザーとなる可能性を持った誰もがデザインに参画できるし、実際そうすべきだ、というのである。なんという大きな違いだろう。思えば、従来型のデザイン方法は、量産・量販のための効率化を大前提にしたものだった。だから市場を熟知した専門家(デザイナーおよびマーケティング専門家)がデザイン開発を主導できた。ところがUDでは、量産・量販の市場ではターゲットからはずれてしまう社会的弱者までを含めた「出来うる限り全ての人」にとって使いやすいデザインをめざそうとしている。UDは、これまでのデザインのあり方への根本的なアンチ・テーゼであり、デザインについて専門外の人々までを巻き込んだ大きなチャレンジなのだ。

(初出:滋賀県工業技術総合センター『テクノネットワーク』No75,2003年)