フィールド知らずのデザイン

十数年にわたるデザイン会社勤めの後、大学教員になって2年半になる。仕事がら、いわゆるデザイン雑誌の類には目を通すし、デザイン関連の展覧会などにも足を運ぶ。

これらのメディアを通して浮かび上がってくる今日のデザイン状況(いわゆる、デザイン・シーンというやつ)は、私たちのいう「フィールド」からみえてくるもの(大多数にとっての日常の風景や生活の現実)とは、ほとんど無関係といってよい。メディアによって流布されている「デザイン」の姿は、すでにそのような所まで来てしまっている。一般庶民のデザイン理解もこのようなメディアやイベントを通してつくられている。「デザインって、よくわかんないけど、カッコイイ仕事みたいですね」というような。ついでにいえば、大学のデザイン系コースには、そのようなデザインに憧れる学生が多く集まってくる。

そのような「カッコイイ」だけのデザインなら、フィールドを知らなくとも(むしろ知らない方が?)できてしまう。

もちろん、市場調査として、店頭や街頭で既存の商品を見たり、新製品のショーに行ったり、ユーザーにコンタクトして商品の使われ方や購買意識を調べることならば、デザインをする誰もがやっている。しかし、ここで問題にしたいのは、そのような商品づくりというはっきりした目的意識をもった「調査」ではなく、そういう商品デザイン、デザインされた商品がやがて行き着く先、あえていうなら、デザインされたモノの成れの果ての姿を見て歩くようなフィールドワークについてである。

私たちは、なぜフィールドに出るのだろう。フィールドに出ることがデザインの糧になる、というのは理想論である。生活の現実の姿を深くとらえた上で、そこにフィットするデザインを送り込む、といえば聞こえはよいが、その「現実」を見れば見るほど、デザインへの熱意が失われてくるとはいわないまでも、デザインへの迷いは確実に深くなる。デザインを志す者たちにとって、フィールドは危険な場所なのだ。現実のフィールドに迷い込むよりも、上で見たようなデザイン・シーンとやらのなかで、つまりは狭い業界の世界のなかで生き抜く道を探す方がよっぽど安全、ということになってしまう。

それでも、そのような狭いデザインの世界に本気になれない者たちがいる。町を歩き回っている者もその中の一群だろう。メディアの中で華やかに踊っているようなデザインが嘘くさく思えてしまう人たちだ。そんな嘘くさいデザイン(商品としては魅力にあふれていても生活の現実とはかけ離れたモノ)をなんとか相対化したい、笑いとばしてやりたい、そんな気持ちが、町に出るきっかけになっているのではないか。

嘘くさいデザインに対比して言えば、泥くさいデザイン、意識的にデザインされていないデザイン、キッチュなデザイン、詠み人知らずのアノニマスなデザインなどにフィールド派の目と心が動かされる。

このような、デザインといえないようなデザインを見つけて、観察や記録をすることは、あえていうなら現在のデザイン状況への無意識の批判・批評なのではないだろうか。

だとすると、フィールド派デザイナー(あるいは、デザインのことを考えようとしているフィールドワーカーたち)がこれからやるべきことは、今おこなわれているようなデザインのあり方、いわばフィールド知らずのデザインを、ひとつひとつ真っ向から批判・批評していくことではないか。

最後に大学での経験を一つ。授業で考現学を教えているのだが、デザインの学生よりもむしろ他の分野の学生(食生活や人間関係論など)の方が、熱心に受講してくれる。フィールドのレポートでも遜色がない。若者たちにとって、デザインへの関心とフィールドへの関心とはまるで別のものになっているらしい。今のデザインをめぐる問題の根の深さを痛感する。

(初出:野外活動研究会『フィールドから』Vol.69.1998)