国際学会参加報告「デザインと進化」

(デザイン史学会年次大会2006/デルフト工科大学/2006年8月31日〜9月2日)

道具は、進化するのか?道具の歴史的変化・変遷を「進化」ととらえることができるのか?できるとしたら、それはどのような点においてか?また、生物の進化と道具(人工物)の進化とではどのような違いがあり、どのような共通点があるのか?総じて、道具の歴史的変化を探るために「進化」の概念の可能性と限界はどこにあるのか?・・・以上のような問いは道具学にとって避けることのできないものだろう。

この夏、以上と共通する視点をテーマの正面に掲げた国際学会に参加したので、以下にその概要を報告する。

主催したのはイギリスを中心として活動してきたデザイン史学会(Design History Society)。今回の大会は、学会として初めてイギリス国外で開催する年次大会で、その大会テーマとして「デザインと進化(Design and Evolution)」を掲げ、研究発表を募ったもの。開催主旨によると、近年の経済史や技術史で盛んな進化論的視点による研究は、デザイン史の領域ではこれまであまり高く評価されていなかったが、進化の原理、つまり互いに競い合うグループが変わりゆく環境の中でどのように生き残っていくのかについての理論、は人工物のデザイン変化、特に大量生産品のデザインの時系列的変化の解明に使えるばかりか、進化モデルをあてはめることによってデザイン史の多様な切り口を統合することができるかもしれない、との期待が表明されていた。

会場となったのはデルフト工科大学の工業デザイン・エンジニアリング学部。オランダ西部の小さな観光都市/大学都市であるデルフトに各国からの研究者が集まった。研究発表は約100件。参加者は学生を含めるとのべ200名前後であった。なお、日本の国内学会と同様に、個別の研究発表のほかにも、3名の高名な研究者のキーノート・スピーチ(招待講演)、主催校の収蔵品を利用したテーマ展示、旧市街へのエキスカーション(デルフトはデルフト陶器のほか17世紀の画家フェルメールの生きた町としても有名)、参加者懇親会などのプログラムが組まれていた。

キーノートスピーカーは錚々たる顔ぶれで、ヘンリー・ペトロスキー(工学/『鉛筆と人間』、『フォークの歯はなぜ4本になったか(原題:The Evolution of Useful Things)』の著者)、ジョエル・モキーア(経済史)、そして、この大会のテーマそのものの発想源にもなった『デザインの進化(Evolution of Design)』(1979、未邦訳)の著者であるフィリップ・ステッドマン(建築学)の3人だった。

最初の講演者ペトロスキーは「有用物の進化」と題して、氏の著書に親しんだ読者にはおなじみになった語り口でモノの進化事例のいくつかを披露。どんなデザインも完全ではなく、問題がある所に改良・発明が生まれる。つまりモノの発明は相対的にベターであるものにすぎず、失敗したデザインこそが隠されていた問題をあきらかにする、という氏の持論が展開された。

2番目の講演者モキーアは、「キングコングと冷たい核融合、進化・技術・仮想的歴史」と題して、アジアからの参加者も少なくなかったこの大会では刺激的な歴史上の仮定、「もし西洋文明がなかったら中国文明は独自に現在のような技術文明を築き得たか」(氏の答えは、否定的)について経済史的観点から大胆に論じてみせた(近く同様の視点による近刊の論集”The Unmaking of the West" に所収予定)。 

そして、大会の個別研究発表がすべて終わったあとの最終講演者となったステッドマンは、「モノの進化史の歴史」と題して、20数年前の自著の中からいくつかの観点を引き出し、モノの系譜を探った先駆者としてのピット・リバース(ダーウィンと同時代の軍人で物質文化研究者。オーストラリア原住民等の武器を収集し、その進化の系譜を探求)の仕事から説き起こし、生物進化とのアナロジーの是非、自然選択と人工的選択の違い、人工物の進化をスピードアップするためのアナロジーの活用例、人工物の模倣の連鎖の事例に触れつつ、人工物と生物それぞれの進化系統樹モデルの違いに注意を喚起した。そして、生物進化とのアナロジーを単純に人工物に適用するのは危険ではあるが、それでもなお、アナロジーしてみる意義はある、との旧著の見解を繰り返した。私もその一人だが、かつてその旧著に強く影響されたであろう多くの参加者にとって、感慨深い講演であったと思う。会期中に話しかけてみると、ステッドマンは実直な建築学研究者といった印象の人物で、進化至上主義者というわけではないようだった。

合計100件に上った個別発表は6つの会場に分かれ同時進行で行われた。学会の年次大会であるため、必ずしもすべての研究発表が進化をテーマとしたものではなく、タイトルを無理矢理に進化と関連づけているが内容は通常のデザイン史の研究というものも多かった。参加者にはごく短い(1件1ページに満たない)梗概集が配布されていたが、タイトルと梗概だけで判断し、聴講できた10数件の発表の中から、今回のテーマに沿い、特に興味深かったものを簡単に紹介する。

まず、進化の概念そのものを問ういくつかの発表があった。「進化概念はどのようにデザイン概念に移行されるか」(ウィボ・ホークス/オランダ)では、ランダムな生物進化と意図的な人工物進化との原理的な違いを指摘する一方で、デザインにおいてはその2つの進化のあり方がさまざまなかたちで併存すると論じていた。人工物の進化はダーウィン的進化ではなくラマルク的進化(改良が後の世代に受け継がれるという意味で)だ、との指摘が、座長からなされていた。

「革命/進化:デザインイデオロギーの歴史的変化の力学構築におけるクーンとそのパラダイム論の再考」(キーティル・ファラン/ノルウェイ)は、タイトルはやや意味不明ながら、科学哲学的にデザイン史におけるイズム(例えばモダニズム)の変化を、トマス・クーン以来のパラダイム論/科学革命論から考察している、らしかった。デザインは革命的に変化するものではなく、継続性(つまり以前のものから受け継ぐもの)の方が大きい(だから進化的?)との指摘もあった。

「スタイルはどのように働くのか」(レイ・バチェラー/イギリス)は、人間の進化とそれにともなうモノへの対しかたについて論じ、手作りの物に対する我々の特別な感じ方には、古代の人間感覚から受け継がれたものがあり、それが現代の機械製品への美意識にまで繋がっていると論じていた。工芸品に魅せられる我々の感覚の起源を人間の進化過程に探ろうとしているようだった。なお、レイ氏は私とは旧知。デザイン史研究者になる前にはアンチック・ミシンのコレクター/ディーラーや科学博物館の学芸員をしていたせいか、彼の物の見方にはどこか道具学に近しいものが感じられた。

「なぜ、デザインのパラダイムとして進化を問うのか」(クリスチーナ・コッデル/アメリカ)は、デザインは生物が進化するようには進化しない、との視点で、1930年代における優生学(つまり人間による進化のコントロール)思想とデザインの機能主義との関連を指摘した。レイモンド・ロウイーによる物の進化図を前に映し出した会場では、人工物の進化とは、生物からのメタファーにすぎないのか、あるいは(少しアブナい)イデオロギーなのか、歴史的事実なのか、の議論が展開された。

「自然選択とデザイン史」(ジョン・ラングリッシュ/イギリス)は、デザインの論者たちのなかに根強くある誤った進化観について論じたもので、いくつかの段階を経て事物が「理想型」に向かって進化していく(はず)だとするスペンサー流の進化観(ハーバート・スペンサー。社会進化説など)とダーウィン起源の進化論(自然選択説)との違いを指摘、デザインの変化を正しく捉えることができるのはダーウィン的進化の方だとする。さらにダーウィン流進化論の現代化として、物の進化を描き出すためのミーム(複製子)論に注目、デザインの変化を論じるための何種かのミームを提案してみせていた。人工物それ自体が進化するのではなく、進化するのはその人工物のアイデアやデザインであるとの指摘に改めて納得させられた。

「建物タイプの進化」(フィリップ・ステッドマン/イギリス)は進化論的アプローチの提唱者自らの発表で、アメリカにおける多層階の自動車駐車場の歴史的変化を事例として、エレベータ式、傾斜路式、セルフサービス式等さまざまに試みられた駐車場形式・プランのうちのごく一部だけが生き残った過程を、利便性や建設コスト、収益効率などの比較を通して解明してみせるものだった。デザインにおいては、(生物のように)まったくランダムなバリエーションではなく、そのデザインが意図していた方向性の違いがバリエーションを生み、それが後の生き残りを決めることを示唆。進化論的アプローチによる手堅いケーススタディの見本だった。

このほか、多く見られたタイプの発表は、進化の概念自体を問題にするのではなく、人工物も進化することを自明のものとして、具体的なモノ(道具)の進化過程を描き出す事例研究だった。大会の研究発表すべてを聴講することはできなかったが、その発表タイトルからはさまざまな「道具」の進化が研究対象とされていた。

試しにタイトルから例を拾ってみると、「コンピュータのマウス」、「(フェンスの)針金引き締め具」、「ギター」、「客船」、「クロムメッキされたプラスチック」、「真空掃除機」、「台所道具(具体的にはトルコ式サモワール等)」、「鋼管家具」、「ナイフ/フォーク/スプーン」、「テレビ」、「靴(スニーカー)」などの進化、あるいはそれらのデザインの歴史的変遷に関する研究発表があった。しかし、あくまでもこの学会は「デザイン史」の学会であり、そのアプローチや論じ方、関心のありどころは道具そのものに迫る道具研究とはかけ離れていることもある。(例えば、以上の中の「真空掃除機」の発表は、大戦間イギリスの家事支援技術一般の比喩として発表タイトルに入っていたに過ぎず、真空掃除機の具体的変遷を追うものではまるでなかった。研究タイトルに意匠を凝らすことのあるイギリス流デザイン史では、よくある誤解だが。)

また、数は少ないが、ダーウィン流進化論の文化事象への適用として近年流行した「ミーム」(文化の遺伝子。進化生物学者のリチャード・ドーキンスが提唱)の概念に言及している発表もいくつか見られた。

以上のようなさまざまな個別発表、3つの基調講演、そして参加者との懇談から感じられたのは、その安易な適用には問題があるものの、進化の概念はデザインの、そして道具の歴史的変遷を考えるために、これからも重要な概念的ツールであるということだった。道具は必ずしも人間社会にとって有益な方向に進歩(progress)するとは限らない。しかし確かに進化(evolve)してきた。生物進化のアナロジーから離れて人工物進化を改めて捉え直し、それを論理的に説明しようとするさまざまな試みが、道具学と少し距離を置いた学問領域であるデザイン史学の中で、決して主流とは言えないながらも確かに存在している。これを改めて確認できた大会であった。

後記

基調講演者のヘンリー・ぺトロスキーの著作の多くは、幸いなことに日本語で読める。特に薦めたいのは、『鉛筆と人間』(晶文社・1993)、『フォークの歯はなぜ4本になったか』(平凡社・1995)、『ゼムクリップから技術の世界が見える』(朝日新聞社・2003)等。どれもおもしろい。

道具の進化論的研究に手をつけるためには、ミーム(文化の遺伝子・複製子)論の現在を知っておくと良いだろう。リチャード・ドーキンスの著作も多く邦訳があるが、まずはミームの概念がはじめて提唱された『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店・1991)から。なお同書はかつて『生物=生存機械論』のタイトルで1980年に邦訳が出ていた。

またミーム論の日本への紹介では、佐倉統の以下の著作が手に入りやすい。『進化論の挑戦』(角川文庫・2003)、『進化論という考え方』(講談社現代新書・2002)、『遺伝子vsミーム』(2001・廣済堂出版)。しかし、ミーム論が単なる知的なたとえ話にすぎないのか科学として育っていくのかについては、まださまざまな議論がある。佐倉が訳者のひとりになった論集『ダーウィン文化論:科学としてのミーム』(ロバート・アンジェ編、産業図書・2004)では、生物進化学、心理学、哲学、社会人類学、認知科学など、多様な学問分野からの12人が寄稿しているが、ミーム概念に批判的な論も目立つ。進化論的に文化を研究することには大きな可能性があるとしても、それをミーム論ばかりに特化するのはどうやら早とちりであるらしい。

やはり道具学がやるべきことは、個々の道具の進化・歴史的変化について良く見つめることだろう。そして、その道具の進化の系譜を描いていくときに、その進化において何がミーム(複製子)として働いたのか、何がその道具を進化させてきたのか、そのあたりから道具の進化論を考え始めてみたらどうだろうか。

(初出:『季刊道具学』15号、2006.12)