彦根に残る和ろうそく屋

1996年の2月、彦根市内中心部・河原町にある和ろうそく屋さん・蝋喜(ローキ)商店にうかがい、家の建物や内部の様子、ろうそくづくりの現場を記録に残す機会を得ました。

家の建物は江戸末期に建てられた町屋造り。その家を近く建て替えるとの知らせが市史編纂室に入り、急遽、教育委員会との合同で調査に入ることになりました。しかし、建て替えまでの期日は迫っており、ろうそくづくりのお仕事も忙しそうです。そこで、昔ながらの作業場での和ろうそくづくりの工程の映像記録と、店舗と通り庭部分の現状を図面に記録化する調査を許していただきました。これは、彦根の人々の日常生活を記録化する私たちの試みの一環でした。

日常の暮らしの記録と考現学

私たちの日常の生活は、この50年ほどを考えてみても大きく様変わりしています。これからの彦根の人々の暮らしも大きく変わっていくでしょう。

ところが、日常の暮らしの具体的な様子というものは、普通は記録に残されることがきわめて少ないものです。ほんの数十年前の暮らしの姿さえ、今、具体的に細部にわたって再現してみようとすると大きな困難を伴います。日常生活に使う道具などのさまざまのモノ(生活財)は、その時々の暮らしぶりを最もよく伝えてくれるものですが、生活様式の変化によって失われやすく、記録化しておかなければ正確に再現することができません。

生活の細部にわたる記録化の方法として、考現学といわれるものがあります。その創始者・今和次郎(1888〜1973)は、わが国の民家研究の草分けでもありましたが、関東大震災直後のバラックをスケッチ記録に残し、昭和初期の東京銀座街頭や当時の新興住宅地などで、種々の生活・風俗調査をおこないました。今和次郎たちの調査手法としては、街頭でみられた服装の統計的調査が有名ですが、そのほかにも重要な手法として、家の中のすべてのモノの形や配置を事細かにスケッチした生活財調査があります。当時の学生下宿の持ち物調査、新婚家庭の持ち物調査など、今では他では得難い生き生きとした生活記録の資料です。今回のローキ商店の調査でも、限られた時間でしたが、店や作業場、通り庭に置かれていたモノの考現学的なスケッチ記録をおこなってみました。家の中に置かれているモノの集まりの全体を、この家の暮らしの歴史の積み重なりを示すものとして見てみようとしたのです。

和ろうそく屋の家と暮らし

ローキ商店が現在の場所に開業したのは、現当主の4代前がここの家屋を購入して袋町の借家から移ってきた明治3年のこと。裏にあった離れは、もと彦根藩士の屋敷にあったものを購入し、引っ張ってきたものだそうです。

現在、彦根で和ろうそくづくりをおこなっているのは、ここ一軒のみになってしまいましたが、ローキ商店で和ろうそくづくりを続けている古川五郎さんによれば、かつて彦根には53軒ものろうそく屋があったそうです。「いま電気屋が各町に必ず一軒くらいあるように、昔は各町にろうそく屋があった」ほどだということになります。

ローキ商店では、ろうそくを手作りし、卸・小売りするほかに、仕入れたろうそくや線香・沈香などの小売りもおこなってきました。かつてはもぐさも商っていました。現在の店先には、このほかにもろうそく立てや灯明皿、花立てなども並んでいます。明治時代のものだという大きな戸棚二つには、できあがった和ろうそくの他、さまざまな種類の線香や焚香、いろいろのサイズの洋ろうそくなどが納められていました。

和ろうそくづくりの中心になる「蝋かけ」の作業は店の一部に小さな作業場所を設け、店とは障子で仕切っておこないます。溶かした蝋の温度を微妙に調節しながら作業する必要があるためです。ここには二人が並んで作業できる道具がそろっていました。和紙を巻いてろうそくの芯をつくる「芯巻き」の作業は、店の板の間、ときには座敷でおこなったものです。原料になる木蝋を溶かす「蝋炊き」は、通り庭の竈でおこないます。蝋かけや蝋炊きの燃料の薪や炭は、通り庭の先の小屋や奥の離れの脇に積まれていました。全体として、この町屋の限られた空間が、ろうそく屋の仕事のために高密度に使われていたことがわかります。

通り庭はこういう町屋形式の家に特有の細長い空間ですが、ここにも生活の歴史が積み重なっています。このお宅では、座敷側に人が一人通れる位の間隔を残して、壁側には、木蝋や芯のストック、立派な水屋の棚、竈と神棚、流し、調理台、冷蔵庫や給湯器、食品や調味料の買い置きなど、新旧含めて実にさまざまなものが見事に配置され積み重なっていました。この家の仕事や生活の行動が行き交う大切な場所であることがうかがわれます。座敷は、ごく親しい人が上がり込むことがあるのを除けば家族のくつろぎの場所のようでした。食事をする座卓や、ろうそくの「口切り」(ろうそくの先を切って芯を出す工程)にも使うことがある火鉢などが置かれていました。大きな夜具箪笥や衣装箪笥なども目に付きます。奥の座敷はテレビや仏壇が置かれ、濡れ縁を通して中庭の立木や植木鉢が眺められる落ちついた部屋でした。

ローキ商店にはかつて家族のほかに最大で五人の職人がいたそうです。調査にうかがった時点では、中庭の奥の離れは物置として使われていましたが、かつて住み込みの職人さんがいたころは、ここが職人3人が寝る部屋でした。店・作業所の2階(つし)にも職人が2人寝ていたことがあります。職人が大勢いたころは店の板の間の方でも蝋掛けの作業をおこなったといいます。芯巻きも家族と職人合わせて一家総出でおこなったものだそうです。このように、この家の代々のご家族、住み込みの職人たちの毎日の暮らしのお話をうかがっていくと、今回作成したスケッチは、単なるモノの配置状況の記録というばかりでなく、この家の代々の生活が繰り広げられたいわば舞台装置の説明図のようにも見えてきます。

一般に和ろうそくの最盛期は明治時代までといわれます。菜種油を使う行灯や火皿に比べて高価だったろうそくが庶民の間に一般化してくるのは江戸時代も後期以降のこと。明治になると石油ランプにとって変わられていき、大正頃からは電灯にも押されて、和ろうそくづくりはさらに減ってしまいます。彦根に何十軒ものろうそく屋があり、ローキ商店に職人が五人もいたのは五郎さんの祖父・父の時代、明治から大正はじめにかけてのことでしょうか。現在でも和ろうそく屋さんが健在なのは、彦根に多数の寺社が存在することや、報恩講など和ろうそくが欠かせない信仰行事がよく維持されていることの証といえるでしょう。

21世紀にむけた暮らしの記録化

旧城下の町々に限ってみても、彦根には様々な生業の人々が暮らしてきました。今回調べることのできた和ろうそく屋さんのような手仕事と小売りというなりわいは、今でこそやや少数派と思われがちですが、旧城下町で古くから続いてきた典型的な生業のひとつなのです。このような典型的な暮らし方を他にもいくつか見いだし、同様の考現学的な記録づくりを進めていけば、やがて次の世紀にむけて、旧彦根城下町全体の日常の暮らしぶりをいきいきと伝える資料となるのでは、と考えています。

なお、ローキ商店は以前と同じ場所に新築された店舗で営業を続けています。建て替え前後の最も忙しい時に、私たちのめんどうな調査にこころよく協力していただいたローキ商店のみなさんに心から感謝いたします。

(初出:『彦根市史編纂だより』平成9年2月)