近世庶民の住まいと調度

1 近世庶民の住まい

近世の庶民の住まいとはどのようなものであったろうか。幕末・明治初年頃の人口約3500万人のうちマチ(非農業地区、都市)に住まっていたのは約1割の約400万人であった(佐々木、1999)と推計されることから、庶民のほとんどはムラ(農山漁村)の住まい、現在の語でいう民家に住まっていたことになる。都市に住む庶民のうち、幕末までには富裕な商家なども生まれるが、長屋などの粗末な住まいに住む者も多かった。明治以降になって、これらのうち小さな民家、粗末な長屋は急速に姿を消していった。今日まで文化財として残されているような民家からだけでは、庶民の住まいの全体像を正確に知ることは難しいのである。

例えば、一般民家に畳が普及するのは明治以降のことであり、江戸末期までは、土間住まいあるいは土間の一部に床を付けた住まいが大半であった。その床も、もとは板張りでなく竹を編んだ簀の子が多かった。板間は鋸が発達して板の製作が容易になってからのことであり、幕末の頃までは都市を除いて、民家の大半は竹簀の子張りであった(宮本、2007)という。明治以降になると田の字型の四間取りの住まいが発達し、床部分への畳敷きが増えていくが、それでも台所と寝間は床を張らない土間が後年まで残った。都市の住まいとしての町家も、もとは土間と床とをもつ粗末な小屋造りから発達しており、関西では間口が狭く奥行きが長い町家の片側を土間(通りニワ)とする片側造りとなった。このような庶民の慎ましい住まいのあり方には各藩がとった領民への統制も関わっている。特に小作農には、板床、厚畳、天井、障子、縁など、今日では日本の住まいの基本的構成要素と思われる部位にまで禁制があった(宮本、同上)。

2 住まいの中の調度

もし「調度」の語が、空間を美しく調え、支度する道具という意味であるなら、近世庶民の住まいには、調度とよべるほどのモノはほとんどなかったといってよい。そこで、調度の意味を拡張して、住まいの中で庶民が使った生活設備および生活道具として捉え直してみよう。

江戸中期の『和漢三才図会』(正徳3年、1713年刊)の巻三十二「家飾具」が、ここでいう「調度」の範疇になろう。『図会』の「家飾具」には、次のようなさまざまの道具類が含まれている。まず幕、簾、障子、屏風など空間を仕切る障壁具。続いて椅子、脚立、台、梯子などの身体支持具。筵、畳、菰、円座、毛氈などの床敷具。湯湯婆と枕などの就寝具。箱、櫃、箪笥、葛、行李などの収納具。衣桁と物干竿などの衣類管理具。箒、塵取、唾壷などの掃除衛生具。行灯、提灯、灯籠、燭台、油壺などの灯火具。以上に加えて、同書の巻三十一の「庖厨具」、現代風に言えば台所道具に含まれる調理道具、食器、飯台および調理熱源設備としての囲炉裏、竃、火鉢を合わせたくらいまでが、庶民の住まいの中にみられた生活道具類の範疇といってよいだろう。

近世町家の生活道具(家財道具)の数量については、文書記録から想定することができる。例えば、大阪の堀江で標準的家持ち層と思われる家(夫婦二人暮らし、酒小売り業)の弘化3年(1846)の家財道具は合計107点、最下層の借家人と思われる家(3人家族)で37点であった(大阪市立住まいのミュージアム、2001)という。

また明治初期に来日滞在したE.S.モースは『日本の住まい』(原著1886年刊)の中で、当時彼が見た日本の「中流階級」の家屋について主に描写している。博物学者モースは日本の家屋とその内外の空間にある道具を精密に記述しており、庶民というよりもやや上流のすまい(富裕な商家など)についてが中心であるが、それに数十年先立つ明治維新前の庶民のすまいとその調度は、同書に描写されているものと大きくかけ離れたものではなかったであろう。特に同書の「家屋内部」の章では、「家具類が見当たらないことが何よりも先に注意を引く」ことや、「外国人として、日本家屋の調度品が、あまりに質素であること、そして当初は無味乾燥とおもわせかねないものであることに満足できず、、、(後略)」とその家具の無い内部空間の特質に触れている。下層の庶民ばかりでなくある程度富裕な層の住まいにおいても、今日いうような独立型の「家具」にあたるものは非常に少なかったことは強調されてよいだろう。

2.1 畳・筵

前述したように、畳を常に床に敷き詰めるようになったのは比較的新しい習慣である。農村では土間住まいも多く、土間では藁を敷いた上に筵を敷くことが多かった。板床を張った部分でも、来客や祭事の際を除いて畳を敷き詰めることはせず、普段は板床で暮らす(畳は隅に積み重ねておく)ことも多かった。

2.2 障子・襖・板戸・屏風・衝立

屋内の空間をさまざまに仕切るこれらの多様な建具、障壁具が発達したことは日本の住まいの特色といえるだろう。明かり障子は贅沢品として制限された地方もあった。

2.3 囲炉裏・竃・火鉢・七輪・炬燵

囲炉裏は、住まいの中の火使いの設備としての地炉あるいは床上炉の総称である。竃は調理用の備えとして主に西日本で発達・普及したが、東日本ではあまり見られず、囲炉裏を用いて調理をする地方が多かった。町家では竃が主要な設備となった。江戸と大阪では竃を床上に設置したが、片作り町家では通りニワ(土間)に置くこ とも多かった。都市では炭の利用が盛んになり、簡便な小型の炉として移動して使える火鉢や七輪が使われた。炬燵は囲炉裏の残り火の利用法として、囲炉裏の上に櫓を乗せ、布団を被せたものである。

2.4 流し・水瓶・水屋・井戸

屋内で調理の水を利用するためには、大型の民家ならば土間に井戸を掘ることもあったであろうが、多くの民家ではどこかから運び入れ、水瓶に溜めていた。洗い物は屋外の水場、井戸等で行なったが、町家では土間あるいは台所の板床上に木製のハシリ(流し)を設置していた所もあった。

2.5 便所

田畑での糞尿の利用のため、庶民の便所は屋外からそれを取り出しやすい位置に設けられていた。入り口近くに小便器などを置くのもそのためであった。大小とも便器は木製、すぐ下には糞尿を溜める瓶などが埋められていた。都市の長屋では各戸に便所はなく、共同便所が設けられていた。

2.6 風呂

空間的に仕切られた風呂場(浴室)は、庶民の住まいには少なかった。桶型の浴槽の胴部に銅製の焚き口(窯)を設けた風呂は遅くとも近世末にはあったが、多くは土間に設置された。風呂場を設ける場合でもおそらく防火上の理由から母屋からは独立した小屋として作られることも多かった。都市では湯屋・風呂屋が発達し、家に風呂を設けることはさらに少なかった。

2.7 布団・押入

綿入れの布団が農村の庶民にまで広く普及したのは近世も後期、地域によっては明治以降である。寝間である納戸は土間であった地方もあり、納戸では多くの場合、藁を敷いていた。寝具としては中に藁を入れた藁布団などが広く使われていた。また庶民の住まいに押入が設けられるようになったのも新しい。押入のない住まいでは、布団は万年床か畳んで部屋の隅に積み重ねていた。

2.8 箪笥・長持・行李・衣桁

今日、和家具の代表とされる箪笥であるが、これも庶民全てに普及していたものではない。箪笥に入れるほどの衣類が豊富に供給されるようになり、庶民がたくさんの衣類を頻繁に出し入れ・収納するようになってはじめて、その収納具として、引き出しつきの箱物家具である箪笥の普及が近世中期におこった(小泉、1982)とされる。都市には指物師などの職人がおり、箪笥は都市の商家などに普及したが、収納具としては、長持や櫃などの引き出しのない箱物の方が作りやすく、古くからあった。衣類の収納には植物材料で編んだ葛籠や行李などの簡便な容れものもあった。脱いだ衣類を掛けておくには衣桁などが使われた。

2.9 食膳・文机・縁台・行灯

以上の生活用具の他にも、いくつかの木製小家具があった。例えば食膳。農村では普段は箱膳だが、豊かな家では祭事のために塗り膳を多数持つような場合もあった。台所には、膳を収納する膳棚、食器や食物を入れる水屋棚などを備える家もあった。書き物、読み物をするための簡単な文机は、おそらく寺院などから庶民にも広まったであろう。また縁台・踏み台などの台、行灯などの灯火具などもあった。

参考文献
  • 小泉和子『箪笥』pp.64-144、法政大学出版局、1982
  • 宮本常一『日本人のすまい』、農文協、2007
  • E.S.モース、『日本人の住まい』pp.124〜245、八坂書房、1991(原著1886)
  • 大阪市立住まいのミュージアム編『住まいのかたち 暮らしのならい』、pp.101、平凡社、2001
  • 佐々木高明「マチ」、日本生活学会編『生活学事典』pp.50、TBSブリタニカ、1999
  • 寺島良案『和漢三才図会(一)』(『日本庶民生活史料集成』第28巻)、pp.457-484、三一書房、1980
(初出:朝倉書店『家具の事典』第3部第2章)