生活空間とプロダクトデザイン

日本の日常的な生活空間(住宅)の現在とその中に存在する無数のモノ(道具、プロダクト製品)のあり方の観察から、以下のような視点とトピックを挙げ、議論の俎上にのせてみたい。

住宅と家電は異なる原理でデザインされてきた

住宅と、そこに投入されて使われるプロダクト製品(その代表が家電製品)とは全く異なる仕方、考え方で設計され、作られ、供給されてきているのではないか。その耐用年数も、購入コストも、供給のルートも大きく違う。

近代的プロダクトとしての家電は、多くの場合それまでの住宅空間に「異物」として(特異なもの、なじみのない新奇なものとして)唐突に入ってきた。もちろんこの「異物」は同時に新しい生活への夢やあこがれを体現する対象として、さしたる抵抗感もなく受け入れられてきた。

家電をはじめとする近代的プロダクトをほとんど抵抗感なく、むしろ積極的にその生活空間に受容してきたのは、日本に特徴的な現象かもしれない。高度成長期以降の日本にそれを可能にする社会的・経済的条件がそろっていたことに加え、新製品を次々と導入しまた買い替えてきた一般消費者の生活志向、生活心理など何らかの日本特有の動因が働いてきたのかもしれない。

また、家電をはじめとする近代的プロダクトは、「製品/商品/道具/廃棄物」のライフサイクルを通過していく。製品として生まれ、商品として流通し、道具として使われ、やがて廃棄される。そのスピードは住宅とは比べものにならないほど速く、少なくとも一度は商品とならなければ生活者のもとに届かない。商品としての魅力づくりのためにデザインの力が注がれ、有力な家電メーカーが多数存在する日本の生活者は心そそられる膨大な製品情報に絶えず曝されている。さまざまな供給/入手の方法があり、「あつらえ」が可能な住宅(これも現代では多く商品ではあるが)とは異なる原理がそこに働いている。

デザイナーがデザインするモノの広がり

日本の生活空間におけるこの数十年の最大の変化は、身の回りのほとんどのモノがそれを専門職とするデザイナーによってデザインされるようになったことではないか。私が1970年代から在籍した大手デザイン会社では「everything through industrial design」(すべてのモノをインダストリアルデザインを通じて)と唱えていた。系列のデザイン雑貨店では「美しい道具、美しい暮らし」をスローガンとしていた。以来三十年、身の回りの無数のモノは(美しく?)デザインされ続けてきたが、「美しい暮らし」の実現はどれほど進んできただろうか。

町屋の暮らしの現在を見る

かつての日本の生活空間の中にモノは少なかった。今はモノがあふれている。現代日本の生活空間は増え続けるモノ(プロダクト)によって特徴づけられている。特に伝統的住居空間は現代生活に必要な無数のモノを所有する暮らしに合わせてつくられていない。それでも全国に伝統的形式の住居で暮らす多くの人々がいる。ここでは滋賀県彦根の旧城下町でおこなった町屋の考現学的調査の一端を紹介する。町屋の限られた生活空間の中で展開されてきたそれぞれの家ごとの暮らしが、その生活財配置の様相から読み取れる。

古い器(住居)の中にも新しいモノ(プロダクト製品)が受け入れられ続ける。古いモノは捨てられて交代することもあるが、そのまま保有され続けることもある。すでにあまり使わなくなったモノを残しておくのは一見すると非合理にみえるが、生活者たちが自らの生きた証、生活の記憶を残しておきたい感情からくる行為かもしれない。

テレビのまわりには何があるか

現代家庭の景観に最も影響を与えたプロダクト製品はテレビであろう。テレビの中に現れる生活景観(テレビの中)と現実の生活(テレビの前)とのギャップは誰もが経験している。誰もが日々目にしていた家庭内景観をふりかえって考えるために、滋賀県立大学生がスケッチした自分の思い出の中のテレビまわりの空間を紹介する。

1990年代のテレビまわりの空間と道具(の記憶)は、どの家庭も互いに良く似ている。住宅の形式や年代がさまざまであっても、テレビのまわりに集まるモノ、テレビの置き方には各家の個性がありながらも全体的にはかなり画一化している。テレビ台(テレビを上に置く前面ガラス扉のキャビネット)の広範な普及、ビデオ収録、テレビゲーム使用の習慣化のほか、テレビまわりに小道具や飾り物の集積する風景は、この世代の、互いに良く似た生活体験の記憶となっていることがわかる。

「普通の生活風景」はどうやって形成されるのか

この例のような家の中の「普通の生活風景」は、誰が「デザイン」しているのだろうか。

住宅デザイン、プロダクトデザインの行き着いた先で、できあがってくる風景は「美しく」できるものなのか。ひとつひとつの小さな夢を買う。そこにも喜びがある。(それが「美しく」なくとも、だれが批判できよう。)その時々の夢の跡が堆積した見慣れた風景ができあがり、そこで暮らしは続いている。『Tokyo Style』(都筑響一)に活写されたような生活空間の混沌は東京だけの現象ではなく、程度の差こそあれ日本中に広がっているのではないか。

(意匠学会第49回大会シンポジウム「テレビのある風景」2007.11.10発表要旨)