最近の学生の変化について

学生たちの最近の変化について、いま大人たちの間でさままざな議論がおこなわれている。大学進学率が上がり、豊かな社会になった日本では、大学生になる若者が、昔とはずいぶん考え方や行動規範が変わってきたことをめぐる議論である。

かつて大学生といえば将来のエリート、とまではいかなくとも、卒業すれば安定した職が半ば約束されていた。結婚して家族を養える程度の収入と安定した職場がやがては用意されていた時代が確かにあった。こういう条件がいつのまにか崩れた今、大学生であることの意味が大きく違ってきたのもしかたないことなのだろう。

豊かな消費社会に生まれ落ち、そこで育ってきた今の学生は、すべてを消費者の目線で判断しがちである、という。たとえば大学の授業でも、その授業を受けることが自分にとってどの程度のメリットがあり、そのメリットのためにどの程度の負担(時間や精力の負担)までならしてもよいのかを無意識に計算している、というのだ。そんな負担をするほどのメリットが無いと判断した授業には身が入るはずもなく、単位を取りこぼしてしまう科目が増える。取りこぼしが増えて来ると奮起して頑張る者もいるが、中にはそうならない学生もいる。これは授業が悪いのだ、教員が悪いのだ、大学が悪いのだと考えるようになる。これが消費者視線というものらしい。消費者である私にきちんとした商品を提供してくれないなら、買ってやらないもんネ。ということらしい。本当だろうか。もし本当だとしたら、こういう消費者学生はだんだん大学が嫌いになるかもしれない。嫌いにならなくとも、だんだん足が向かなくなる。もっと自分に合った場所が、自分にもっと消費者させてくれる場所が、どこかにあるのじゃないか、などと考え始めてしまう、、、。

こういう現象は昔の学生には少なかった。サボりの常習犯はいつもいたが、それは他にどうしてもやりたいことが他にあったからサボっただけで、その授業で勉強する内容を見限っていたわけでは決してなかった。勉強が自分にとってメリットがあるかどうか、などとは昔の学生はそもそも考えていなかったふしがある。大学は勉強するために入って来たのだし、その勉強とは、やればやるだけ深められるのだろうから、ともかくやりとおすしかないものなのだとみんなが単純に信じて、あるいはアキラメて(?)いた。思えば良い時代だったのかもしれない。

ところで、もし、上で述べて来たようなことに思い当たるふしのある学生がいたら、これだけは助言しておきたい。逃げてもだめです。その勉強が君にメリットがあるかどうかなんてずっと先になるまでわからない。だから今はとりあえず、大学を自分たちにとって楽しい場所に、自分たちでしていこう。もちろん勉強にもしっかり向き合うかたちで。合氣道部の活動が、そんな大学生活の良いアクセントになってくれていることを期待したい。

(合気道部機関誌「縁」(えにし)のための原稿)