現代の学生にとって大学とは

明るい話題のない昨今である。世界情勢はもちろん国内経済においても良い兆候はあまり見えてこない。学生の就職も希望通りにゆかないことが多く、卒業後はフリーター生活に入る者も少なくない。

こんな時代にたまたま大学生となってしまった若者たちはよほど運が悪いということになるのだろうか。しかし、考え方を変えると必ずしも不運とばかりも言えない。学生時代が一種のモラトリアム、一般社会とは少し距離を置いた特殊な猶予期間であることは今も昔もあまり変わりがなく、今の学生たちはそのモラトリアム生活を、昔の学生以上に上手に楽しんでいるふしも見られるからだ。

活発な海外渡航、音楽をはじめとする多様なサブカルチャー活動など、学生時代に味わえる「楽しみ」は一昔前より格段に充実している。このような「楽しみ」を大規模に提供する文化産業にとって、今や学生およびその同年代の若者層は大きなマーケットとなっている。若者を楽しませることで大きな金が動いている、というとあまりに夢のない話だが、経済的に豊かになった今の社会では、「苦学生」という言葉はすでに死語になりつつある。(もちろん、あまり一般に知られていないかもしれないが、経済的理由で退学する学生も毎年いる。親の経済的破綻が原因の悲しい現実である。)

問題は、大多数の学生にとって、大学(およびそこで学ぶ学問)が、多様な「楽しみ」のうちのごく一部分として、あるいはそれを享受するための一手段として、位置づけられてしまってきていることだ。アルバイト全盛の弊害については以前にも本誌に書いたのでくり返さないが、成績優秀で卒業しても良い就職にむすびつかない現在の状況が、この傾向にさらに拍車をかけている。

大学卒業がすぐさま安定収入の就職に結びついていた良き時代が再びやってくることはないだろう。だとすれば、大学で学ぶことの意義は大きく変わらざるを得ない。良い就職を求める競争は激しくなる一方で、かならずしも定職につかなくてよい、という自由なライフスタイルも拡がってゆくだろう。大学で過ごす数年の猶予期間が、そのどちらの方向にも生きるものであって欲しいと願うが、「学業(これも死語)が学生の本分」という言い古されたことばの意味を、学生自身や我々大学人ばかりでなく、社会全体がもう一度思い返してみるべきときにきているのではないだろうか。

(合気道部機関誌「縁」(えにし)のための原稿)