県大ミニ博物館 過去に実施した展示の紹介

樹霊 (1998年度) 展示企画者 上田 洋平 (人間文化学部)

 
1.展示の趣旨
 多賀大社の鎮座する土地とあってか、多賀町には巨樹が数多くそびえている。それら巨樹には、人との関わりの中で大きく成長し得たものも多い。巨樹を見るとき、自然を畏れ敬いつつも、自然と上手く折り合いをつけながら日々を営んできた先人の姿が偲ばれる。巨樹は、単に神の依り代としてだけではなく、神=自然=森と人とをつなぐ仲介者でもあったのである。
 身近な多賀の巨樹を紹介しながら自然と人との関わりを見つめるのが本展の目的である。
 
2.多賀町の巨樹一覧

  名 称      幹周          樹種
多賀御神木 11.9m(2分幹、県内最大) 杉
時習館の梅 4.5m(2分幹、県内最大) 梅
井戸神社の御神木 11.6m(株立木、県内最大) 桂
後谷の杉 6.3m 杉
山の神 8m(工事に伴い伐採) 欅
権現杉 6.5m 杉
地蔵杉(乳の杉/薩摩杉) 7.3m(合計3本) 杉
飯盛木(いもろぎ) 9.7m 欅
十二相神社御神木 6.3m 杉

(小林圭介 編著「滋賀の植生と植物」1997年サンライズ印刷株式会社より)
 
3.解説パネル
樹霊

 天をつく巨樹を伝って、神が地上に降臨する。巨樹を目指して、神が彼方からやって来る。
 巨樹には神霊が宿る。
 巨樹の下に立ち、巨樹を仰ぎ見るとき、それは当然の感慨である。
 巨樹は天から地への一方通行路ではない。巨樹は天地の往復路である。人は死ぬと樹木の根元に潜り、洞の中に入って、樹木を伝って天に昇る。
 世界の中心にあって、世界を支えるトネリコの木、世界樹ユグドラシル。
 こんこんとわき出す清い泉を抱える木。
 峠の目印、結界点、山の神。
 人は、自然への畏怖と敬意を巨樹に託し、祈り願い、巨樹はそれを養いとしてさらに太く高く、威厳に満ちて成長した。
 人を阻む巨樹もあり、人とのかかわりなしには育たなかった巨樹もある。
 巨樹は風土の顕現、人の営みのあらわれである。
 ことばを持たないがゆえに真っ直ぐに、いや、曲がりくねりもしながら、巨樹は物語る。
 巨樹、神木、霊木♢樹霊は、垂直にそびえ、天と地をつなぐ。水平に枝を伸ばし、それは森と人とを結ぶ。
 
多賀御神木 イザナギの木
 芹川上流、栗栖の集落から杉坂越えの急な山道をひたすら登りつめた杉坂峠にある。御神木となっている樹林には巨大な杉が4本、天をついてそびえる。昔は13本あったが失われ、今はこの4本で、最も太いものは県内最大の巨樹である。
 「伊邪那岐神が老翁の姿で杉坂に現れたときのこと、村人が粟飯を献じると大層喜んだ。飯を食べ終え、箸をそこにさしたその箸が生長して御神木になった」という言い伝えがある。
 夏、多賀大社の万灯祭の元火は毎年この地できり出され、神社へ運ばれる。
 この神木を過ぎてしばらく行くと、旧脇ヶ畑村の杉地区に至る。
この杉の集落には代々神木を守る人々が住んでいたが、すでに廃村となった。
 
峠の神の木
 峠には神が座す。
 峠はしばしば土地の境界、国境であった。山を越え、峠を越すということは、いわばわが郷から異郷へと歩み入るということであった。峠は日常と非日常との境界点でもあった。
 また、峠にはおいはぎがいた、鬼もいた。村人が峠で恐ろしい目にあうという話は数多い。峠には善き神もいたが悪しき神もいたのである。
 地形上のことではなくても、険しい道程をあえぎあえぎ登りつめ、頂点の峠でようやく人は一息つける。苦しみの末のハレの場ともいえる峠で人々は心の切り換えを行うのである。
 そのような場である峠に、神が宿ることは当然の帰結である。
 人々は峠に木を植え、守り育てて、峠の指標としたのであり、峠神の依り代あるいは峠神そのものとしておまつりしたのである。峠には他に岩や馬頭観音などもまつられる。
 そのような峠も、交通手段の発達によって次第に忘れられつつあるのである。
 
巨樹の誕生と人
 巨樹が育つ条件には、人の用、不用が関わることがある。
 用とは、場所の指標・目標(当て木)、境界の標識の用である。
他に貴人にまつわる伝説や村の由来などと対になって守り育てられる樹木もある。
 不用というのは、主に林業とのかかわりにおいて見られ、しばしば山の神の禁忌と結び付いたりもした。
 林業に携わる人たちから伐採を忌まれたのは、多くは形状の異様な樹木であった。
 窓 木♢幹が途中で2分し、それがまたひとつになったもの。
 箒 木♢幹が途中で止まり、複数の枝がそこから出ている木。
 日通し♢幹の途中から2本の枝がU字状に出て、太陽がこの木の又の間を通るような木。
 これらは決して伐ってはならないとされた。形状の異様な樹木は、それ自体の神秘性もあるが、伐採しても材として使えないという理由からも残されたのであろう。
 このようにして伐採を忌まれ、免れた樹木は年を経てますます巨大、異様になり、神木・霊木となるのである。用、不用という人為的な事情で植えられ、守り育てられ、あるいは伐採を免れた樹木が、転じて人に畏怖の念を抱かせるということもあるのである。
 それは自然と人との交渉の証でもある。
 
「神の山」と「人の山」
 山の神といわれた欅の木は、道路の拡張工事のために伐採され、今はない。代わりに「山の神」と彫られた岩がある。
 山や森に対して最も強い畏怖と敬意を持っていたのは、山の仕事に携わった山人・杣人・猟師たちであった。
 山の神の依り代とされる巨樹や岩を境として、山は人間の領域と神の領域とに分かれる。山の神の木は「神の山」と「人(里)の山」とが接する結界点なのである。
 山人は、神の山に入る前には山の神に祈願し、神の山では里ことばを使わずに山ことばを使った。山の神より先は女人禁制だが、これは山の神が嫉妬深い女神だと信じられたため。
 山では数多くの禁忌を守らねばならず、破れば山の神の怒りに触れ、身に災いがおこるとされた。現実に禁忌を破ってケガをしたなどという話が多いのは、禁忌を破るような者はえてして気性が横着であり、安全の智恵でもある禁忌を省みず無理をするためであろうし、山仕事従事者数に対する事故件数の比率の関係もあろう。
 大切なのは、人は自然に対して一方的に服従したわけはなかったが、自ら領域を限り、分をわきまえ礼儀をもって自然♢神と接したということである。木を伐る者の深い信仰に結びついてこそ、森は守られた。
 だが、ひとたび得体の知れない恐ろしさや身の危険が取り除かれたとき、まるで報復をするかのように相手に対し尊大で横暴になりうるという性質を、われわれ人は秘めているのである。
 
井戸神社の御神木 水源の桂
 向之倉は芹川上流の山間の集落であった。現在は無人である。
 村の氏神、井戸神社の御神木は県内最大の桂として堂々たるたたずまいである。
 古来、井のほとりの樹木には神が降臨するという信仰がある。
 樹木は水に養われながら地の水を保ち、そのために山は豊かなのである。人はその恩恵を受ける。
 樹木の中でもことに桂は水と深いかかわりを持つ木である。
 桂は日本の名木で、英語でもカツラ・ツリーとして通用する。桂はかなり潤沢な水を必要とし、しかもそれが流水であることが条件として望ましい。だから必然的に泉や水辺に育つことになる。せせらぎを辿って桂の木の根元に抱かれた泉に行きつくことがあるのである。日本に「桂川」は多い。
 記紀にもわたつみの宮の井泉のかたわらに立つ「ゆつかつら(=聖なる桂)」として登場する。
 神社名に「井戸」とつくように、この御神木も根に泉を抱えている。「井戸の主の蛇は年一回の水替えの時にこの御神木に移る」。四月と九月の十七日に近い日曜日は、かつての村人が戻って祭を行う。
 豊かな水と緑と土に恵まれた日本の風土を象徴するみずみずしい桂の木である。

飯盛木 「けやけき」木
 多賀大社の西の田んぼの真ん中に立つ。広い田園にぽつんとありすぐに目に付く。
 2本あり、やや大きい方を女飯盛木、小さいのを男飯盛木と呼ぶ。飯盛木の名の由来は次のとおりである。
「養老元年に時の天皇が病を得たので、平癒の祈祷を行い、神供の飯にシデの木につくった杓子を添えて献上したところ病が治った。杓子をつくった木の余りを地に挿したのが生長して飯盛木になった」一説に「お多賀杓子」が転じて「おたまじゃくし」になったとも。
 以前12本あったが2本を残して朽ち果てた。
 ケヤキは神の宿りやすい木という。ケヤキの名は「けやけき=きわだってすぐれている」木から来ているとも。
 別名槻の木。すぐ間近に「月の木」という集落がある。「月にかかる木あり、邪魔だからと伐ったところ、伐った者はこの木の下敷きになった」。槻が月に転じたものか。
 
4.参考文献
「古事記」倉野憲司校注 岩波文庫
「日本の樹木」辻井達一著 中公新書
「滋賀の植生と植物」小林圭介編著 サンライズ印刷出版部
「日本民俗文化体系5 山民と海民」大林太良他著 小学館
「狩猟伝承研究後編」千葉徳爾著 風間書房
「ものと人間の文化史53 森林」四出井綱英著 法政大学出版局
「樹霊」司馬遼太郎他著 人文書院
「森の世界爺」多田智満子著 人文書院
「神々の風景」野本寛一著 人文書院
「世界宗教事典」ジョン・R・ヒネルズ編 青土社
「湖国百選 木」滋賀県企画・発行


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