県大ミニ博物館 過去に実施した展示の紹介

碓氷峠の今と昔〜アプト式鉄道と新幹線〜 (2001年度)
展示企画者 
猪飼 順子 (環境科学部) 
1.展示の趣旨
 “軽井沢”と聞けば避暑地やオシャレなショッピングタウン、グルメの観光地として有名であり、私も大好きな街である。軽井沢は長野県にあり、関西人の私にとってこの地に行く手段は高速道路を利用して車で行くか、もしくは新幹線を利用して東京経由で行く方法が考えられ、身近なリゾート地として手軽に行ける。しかし、北陸新幹線が開業する前、信越本線の時代に東京から軽井沢へ行くには「碓氷峠」を通らなければならず、通称「横軽越」と言われた難所であった。
 私がこの難所の「軽井沢」と「横川」の間を初めて通ったのは、小学校4年生の夏休みであった。鉄道のビデオ撮影に行く父に連れられて、特急「あさま」号の運転台に乗せてもらい、数多くのトンネルを通ったことを覚えている。このときは単に特急電車の運転台に乗れて、横川駅で降り、機関車と電車が切り離されていく光景を見ていただけの思い出にすぎなかったが、その後、軽井沢を訪れるたびに「碓氷峠」、「アプト式鉄道」、新幹線で「消える信越本線『横軽越』」などの記事を目にし、なぜこの区間が話題に取り上げられるのか、段々と興味がわいてきた。そして昨年、東京から軽井沢に行くときに乗った新幹線は、難所と言われていた碓氷峠を一瞬で上りきったのが印象に残っている。

 今回の展示テーマは、
1. 自分自身が年月を隔てて実際に経験して感じたこと
2. 技術の進歩がスピードアップと人の移動手段を手軽にしたこと
3. 展示見学者が碓氷峠を通るときに、この歴史的推移を思い出してほしい
という思いで展示のテーマに選んだ。

2.展示内容
@ 構成
 展示内容は「碓氷峠の今と昔」のタイトルから見て、時代の推移と技術進歩の観点から3段階に分類した。第1部は碓氷峠の歴史と峠を越える方法でアプト式鉄道が採用された時代、第2部は輸送量の増加によるアプト式鉄道の廃止と新線建設により電気機関車と電車の協調運転時代、第3部は北陸新幹線開業による現在の新幹線の時代をパネル解説と写真展示を主体に構成した。
 第1部は、アプト式鉄道が碓氷峠に採用された経過をパネルで解説した。信越本線「高崎〜直江津」間の開通は1885年の「高崎〜横川」に始まり、1888年には「軽井沢〜直江津」間も開通し、東京と長野、直江津を結ぶ未開通は「軽井沢〜横川」間の碓氷峠越を残すのみになった。碓氷峠は直線距離で9kmの区間であるが標高差が550mもあり、この勾配をどのようにして上るかが未開通の原因であった。鉄道が山を越えるためには2つの方法が必要となる。1つ目はトンネルを掘って山を越える方法で、トンネルを掘る技術があれば勾配の傾斜はきつくなく列車はスムーズに走行できる。2つ目の方法は山を登りきって高いところへ列車を引き上げることであり、古くはケーブルカー方式のロープで引き上げる方法が使われていた。しかし、鉄道の一部区間に採用することは不可能で、列車の自力で山に登る方法、つまり強力な動力推進で列車をけん引するか押し上げる方法しか手段はなかった。そこで当時ドイツのハルツ山岳鉄道で採用されていたアプト式鉄道が検討され、レールの真ん中に歯車つきのラックレールを敷き、車軸に付けられた歯車がラックレールと噛み合って急勾配を上り下りする方式が誕生した。
第2部は、輸送量の増加と輸送力の形態が変わり、アプト式時代の機関車+列車から機関車+電車列車への運行形態の変更である。列車の主力が電車に変わり、電車と機関車の連結運転には「協調運転」が絶対条件になり、また、ラックレール方式では列車のスピード化は望めず、強力な機関車による電車列車の横川方面から押し上げ方式で、一般の鉄道運行方式に変更された経過を説明した。
第3部は、長野オリンピックに向けて開通した北陸新幹線が、時速160km の高速で走り抜ける現在の碓氷峠を説明し、104年間の峠越えの移り変わりを年表で表した。

A 資料収集
 資料収集は、第2部の機関車協調運転の資料が、小学校のときから毎年軽井沢に行き、駅舎や機関車の連結を写真に撮ったものが手元にありこれを使用した。
 第3部の現在の碓氷峠についての資料は、「鉄道文化むら」や「軽井沢駅舎記念館」が整備されていて、実際に調査し、収集することができた。
 苦労したのは第1部の資料であった。アプト式鉄道は1963年9月に廃止されており、当時の機関車が記念館に展示されているだけであった。特徴のある歯車のラックレールも記念館には短い部分しか残されていなかった。そのため、峠を行くイメージの資料が表現できないため、軽井沢にある「土屋写真館」で購入して利用した。

3. 解説パネルと展示品
@ パネル展示
 鉄道関係の展示は、内容から見てパネル解説と写真の構成が主体になる。そのため、展示で表現する解説内容と写真のインパクトが重要な要因になり、アプト式以外は自分で収集した資料で企画した。
 展示のバランスは、鉄道パネルの解説が横書きで写真との組み合わせが基本となる。鉄道写真は一般的に横型に写すため、「ミニ博物館」の縦長の展示ケースとパネルのバランスの構成に苦労した。
 第1部のアプト式時代、第2部の機関車と電車の協調運転時代、第3部の新幹線時代、の各時代の推移を鉄道線路の記号で結んだことは鉄道展示の表現を出せたと思うが、線路記号が展示スペースの関係で短くなった点は残念であった。
 アプト式鉄道を生み出した碓氷峠の勾配は、アプト式時代の機関車・電車協調運転時代の66.7%の傾斜を切り出しで作り、1km進んで66.7m上る実感を表現した。

A 展示品
 新幹線の開業で、信越本線が廃止(横川〜軽井沢間)になるのを記念して発売された軽井沢駅や横川駅の記念切符(写真入)3種類を実物展示として出品した。また、「横軽越」で有名になり、全国駅弁大会でも評判になり、細腕繁盛記「天からの贈り物」の主人公にもなった「荻野屋」の「峠の釜めし」の容器も峠越えの思い出の品として展示した。
 総評として、テーマの設定時は、自分の体験した内容で、時代の推移の変化が把握でき、見学者が同じ体験をしたとき、思い出が共有できることを基本に企画した。
 パネルの解説、写真展示が主体で、実物展示が少なく、他の作品と見比べるとインパクトの点で弱かった様に思う。これを反省に、次回展示の機会があれば動画(VTR、DVD)や音声で、臨場感を出し、パソコン等で見学者が参加できるようなことに挑戦できれば、と思う。

4. 参考文献
「碓氷峠の歴史物語」 (小林 收 著)(株)櫟
「碓氷線煉瓦造構造物を訪ねて」<重要文化財.碓氷峠ガイドブック>(松井田町教育委員会)
「新幹線あさま&信州の特急列車」(イカロス出版)
「北陸新幹線 高崎〜長野間建設の歩み」<企画協力 日本鉄道建設公団>(山海堂)
「写真資料」    (軽井沢 土屋写真館)
「資料」       (碓氷峠鉄道文化村)
「資料」       (旧軽井沢駅舎記念館)


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