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研究室の調査活動 己高山山岳寺院の調査 

はじめに

 己高山(こだかみやま)は、滋賀県伊香郡木之本町古橋にある伊吹山地の一支峰である。標高1377.1mの伊吹山から北西15kmの位置にある、標高922.6mの山である。この山中には、古代から中世に栄えた数カ寺の山岳寺院群があった。この寺院を中心とした仏教文化は湖北地方の仏教文化に大きな影響を与えたといわれ、「己高山仏教文化圏」とも表現されている(注1)。この山岳寺院群の中で、中心的な寺院が今回報告する己高山頂上近くの寺院跡で、この寺の名は地元では、近年までここに鶏足寺(けいそくじ)が存在していたために、「鶏足寺跡」といわれているが、当時の正確な寺院名は不明である。
 
 己高山にはその山裾に、この鶏足寺以外に、法華寺・飯福寺・高尾寺・石道寺など平安時代の仏像などを安置する寺が点在していたが、今はいずれも廃寺となっており、その寺宝の一部は地元で保存され公開されている。なかでも鶏足寺の薬師如来像は唐招提寺旧講堂の薬師如来像に近似しており八世紀末から九世紀のごく初期の作と考えられている(注2)。また、十二神将像は三体ありいずれも木心乾漆像で滋賀県内ではこの三体しか確認されていない(注3)。これらは延暦十年(791)銘の興福寺北円堂四天王像よりやや古いものと考えられている。十一面観音像は衣文表現がやや単調で形式化されており時代が下るものと思われる。
 このように、かつての伽藍の様相を彷彿とさせる仏像など文化財が伝えられているがその実態は不明である。


己高山位置図



1、調査の経緯
 木之本町教育委員会では平成11年度から、町内の遺跡の現状を確認する分布調査を実施中である。その一環として、己高山山頂の寺院跡の測量調査を行い、正確な伽藍配置などを把握する調査を行うこととなった。この調査によって、木之本町の歴史を明らかにする基本的な資料を収集するものである。そのため、木之本町教育委員会より滋賀県立大学考古学研究室(高橋美久二研究室)が己高山測量調査の委託を受け、2000年7月20日から7月28日まで行った。己高山山頂付近の鶏足寺跡までは、徒歩で片道二時間のため、現地でキャンプをはり調査を行った。なお、地元古橋地区の方々、敦賀短期大学生の方々には草木の伐採や荷物の運搬など調査を行う上で大変お世話になった。


2、遺跡の位置と概要
 己高山は滋賀県の北部、福井県と岐阜県にまたがってのびる伊吹山地上にあり、琵琶湖の北東に聳える標高922.6mの山である。この山頂を中心として、古代から中世に栄えた数カ寺の山岳寺院群が存在したことが窺えるが、今ではすべて山の下に下りてしまっているか廃寺となっている。
 今回調査した鶏足寺跡とよばれている場所は、己高山の山頂よりほぼ西にのびる尾根をやや下った南側斜面に位置する。観音堂跡といわれる基壇と礎石、塔跡がある広い平坦面を中心にいくつかの平坦面が存在する。左右を谷で区画されており、南西方向に視界が開け眼下には湖北平野や、遠くには山本山や琵琶湖がひろがる。
 鶏足寺跡とよばれている場所は、己高山山頂寺院の中枢部分と思われる広い平坦面がある。残っている遺構としては、観音堂跡とよばれる建物跡を中心にいくつかの平坦面、基壇や礎石及び庭園跡などがあげられる。


3、測量の方法
 測量調査は山頂寺院跡(鶏足寺跡)の中枢部を中心に、東西110m、南北70mの範囲を調査対象とした。これは、寺域内には真夏のために夏草が生い茂っていて、あらかじめ地元の方々に、予定の期間内で測量できる範囲だけの草木を伐採してもらったていたためである。この範囲以外にも寺域は四方に広がるが、今回の測量で寺院の中枢部だけは測量ができた。
 測量は、寺院中枢部の内とくに中心部である観音堂跡と呼ばれている基壇の南側に平行するように基準線を設定し、基準杭を打つことから始めた。さらにこの基準線に直角になる基準線を設け基準杭を打つ。その基準杭の位置を測距機で正確に測り、その基準杭の上に平板を立て、平板測量によって、基壇や礎石の位置、地形などを正確に測量した。
 高さは正確な標高を出すことが難しいため、一万分の一の地図より観音堂跡周辺を830m付近と推定し、観音堂跡の基壇南西端の石の上を830mと仮BMに設定し測量した。そのため、実際の標高と10m程度の差があるかもしれない。


4、測量の結果

鶏足寺位置図  

 測量した範囲である東西110m、南北70mの範囲には12の平坦面(A〜L)と基壇と礎石が露出して建物跡と確認できるものが8棟(SB01〜SB08)ある。なかでも最大の平坦面Aは、東西43m南北34mで、東西に二棟の建物跡がある。西側がSB01で観音堂跡と呼ばれている基壇と礎石がある。基壇の規模は9m×9mで、礎石の並びは三間×三間で基壇の縁に縁側がくる。側柱しかないのは亀腹構造だからであろう。柱間は東西方向が 2.1m、2.4m、2.1mで南北方向が2.0m、2.0m、2.0mである。さらにこの基壇の南側3mほどの所に、かつての基壇であっただろうと考えられる石積みがならぶ。これは基壇及び礎石の向きと一致していない。東側はSB02で基壇と礎石がある。基壇は東側に石がないため東西は不明だが南北は 9mと推定され、心礎はないが四天柱礎石が露出し側石も七個確認でき、礎石の並び方から塔跡と考えられる。柱間は東西方向が1.8m、2.7m、1.8mで南北方向も1.8m、2.7m、1.8mの方形である。現在、平坦面Aハイキング用の道が東西に貫いていて観音堂正面、塔を通っている。西側には下段の平坦面への道がある。東側は己高山頂上へ続く道となっている。中央部北側には一段高い平坦面に行くための通路と階段がある。
 この平坦面Aの北西隅にわずかばかり高く小さい平坦面Bがある。東西14m南北8.5mである。礎石は見当たらない。
 平坦面CはAの北側上段にある東西35m南北8mの細長い平坦面である。石積みの基壇が平坦面の西側と中央に二基ある。中央の基壇がSB03 で基壇の規模は東西3.9m南北4.1mで中心に「伊香具坂神社之旧跡」という石碑が立っており、礎石などが残っている。建物は東西2.7m南北1.8mでその東西と南に幅0.5mの縁側がつく。一間社流れ造りのものである。西側の基壇SB04は、SB03とくらべてやや小さく基壇の東側が崩れている。基壇の規模は東西3.8mで南北3.3mである。礎石は残っていない。平坦面の西隅に別の平坦面に行く北にのびる道があるがその先はブッシュで測量できなかった。

鶏足寺測量図


 平坦面DはAより西に下ってすぐ南側にある。東西9m南北16mで南側にSB05の基壇の石積が南東隅から南西隅まで残る。基壇の南側の長さは4.8mで、礎石が一個確認できた。
 平坦面EはDより西にやや下がった所にある。東西19m南北19mで基壇及び礎石と思われる石がある。この礎石建物SB06の礎石の並び方は不明である。さらに西側の下にも平坦面が見える。
 庭園FはGとEの間にある。東西4m南北16mで、中央に石をつんだ中島があり、周りを石で囲んでいる。中島は中心に大きな石をおいている。滝口が北側と東側の二ヵ所ある。東側の滝口からは現在でも水が西へ流れている。
 平坦面GはFの北側にあり、東西12m南北14.5mほぼ中央に礎石建物SB07がある。二間×三間の並びになる礎石が十個ある。このSB07の柱間は東西方向が1.8m、1.8m、1.8mで、南北方向も1.8m、1.8mである。
 平坦面HはGの東側にあり、Gよりやや高い。東西4m南北13mで南北に細長い。礎石は見当たらない。
 平坦面IはGの西側にあり、Gよりやや高い。東西は3.5m南北は7mで礎石は見当たらない。
 平坦面JはDの南東、Aの南側にあり、東西22m南北12mで平坦面の東部がほんの少し高くなって礎石がならぶ。この礎石建物をSB08とした。少し高くなっている範囲は東西9.5m南北12m。礎石は南北方向に五間以上並ぶようで、東西方向は不明である。
 平坦面KはJの東にある。Jよりやや低い。東西11m南北8m。
 平坦面LはJより少し南に降りた所にある。東西27.5m南北9mで礎石は見当たらない。ここより南西の斜面は緩やかになっている。

鶏足寺本堂平面図  

鶏足寺塔跡平面図  


5、測量の成果〜文献と遺構〜
 己高山は、応永十四年(1407)の奥書のある「己高山縁起」(注4・5)によると、まず行基によって開基され、泰澄が行をおこなう道場を建て、最澄によって再興されたといわれる。再建された本堂は三間四面で、本堂の他にも十社権現と呼ばれる鎮守社、八坊の僧舎があったとされる。泰澄は白山を開いたといわれる人物で、最澄の目前に白山白翁が出現し復興するよう伝えられたなど、己高山は白山との関係が深いと考えられている。
 また、嘉吉元年(1441)の奥書のある「興福寺官務牒疏」(大日本仏教全書所収)には
己高山五箇寺 在伊香郡
法華寺 僧房102宇衆徒50口 行基早創
石道寺 僧房38宇衆徒20口 延法上人開基
観音寺 僧房120宇衆徒60口 泰澄開基 己高山随一
高尾寺 僧房12宇 観音寺に属す
安楽寺 僧房12宇
 観音寺別院 飯福寺 鶏足寺 円満寺 石道寺 法華寺 安楽寺
とある。これによると己高山五箇寺と呼ばれる寺院群と観音寺別院と呼ばれる寺院群があったことになる。但し、観音院別院の六ヶ寺のうち石道寺、法華寺、安楽寺の三カ寺は己高山五箇寺のなかにもあり、計八カ寺となる。「己高山縁起」では「惣山之七箇寺」として法花寺、石道寺、満願寺、安楽寺、松尾寺、円満寺を書き、寺名など若干異なる。この寺院群の中の筆頭寺院が「己高山随一」とよばれた観音寺でその他の寺院はすべて観音寺に属すか別院となっている。
 前述した鶏足寺の薬師如来像、木心乾漆十二神将像は奈良の仏像ときわめて類似しており、これらの像の作られた時期は奈良の影響が強かったのではないかと推定されている。
 「己高山縁起」によるとその後、応安七年(1374)ごろから再び荒廃した己高山の復興が始まる。永徳元年(1381)に行われた本堂再建供養時には、本堂の他にも鎮守社、食堂、楽屋、如法経堂、鐘楼、塔、西之坊、温屋、一切経蔵が建ち並んでいた。
 食堂は十一間の建物、楽屋は鎮守の向かいで十間の建物を建つ。左の岡に鎮守社壇を安置し十所権現となす。右のほとりに如法経堂を造る。南に鐘楼一層を組む。東に塔婆一基を造る。西に新たに坊を造り西之坊と号す。巽に温屋を建つ。艮の壇上に一切経蔵を造り、経論五千巻を納め薬師三尊像を安置する。
 この供養の他には、中世の状況はわからず戦国期の文書がわずかにその様子を記しているだけである(注5)。
 その後、己高山山頂の寺院群が荒廃していく中で中心となる観音寺も例外ではなく、鶏足寺だけが唯一江戸時代末まで残り己高山を代表する寺院と思われるようになっていく。
 それでは、今回実測した遺構と文献にみえる建物と比較してみる。
 SB01は永徳元年(1381)に再々建された三間四面の本堂で、本尊は十一面観音であったと考えられる。これは、地元の伝承通り観音堂という建物であったとしてよい。
 SB02は本堂の東にあったとある、釈迦を安置する多宝塔跡であったとしてよい。これが「己高山縁起」の永仁年間に建立された塔であったはよくわからない。
 SB03は左の岡の上にあって、麓におろされて現存する伊香具坂神社と規模が一致する。
 SB04は与志漏神社の境内に現存する経蔵と規模が一致する。
 SB05は基壇や建物の規模はわからないが「己高山縁起」に本堂の南にあるとすることから「赤銅洪鐘」を釣った鐘楼であったとしてよい。
 SB06は建物の棟数・規模・構造などわからない。地元では本坊とよばれ、復元図では中之坊とあるが確証は得られていない。
 SB07は倉庫と思われる建物であるが、復元図では池本坊とするがこれも確証はない。
 SB08は地元の伝承も復元図も食堂とするがこれも確証はない。「己高山縁起」では食堂の位置について書かれてないが長さ十一間もある長大の建物であるので、この平坦面にあったとする可能性は高い。
 「己高山縁起」では文永七年(1270)に建立され、盛大な供養が行われたとあり、本堂の艮にあるとされる一切経蔵については確定できなかった。
 このように本堂をはじめ己高山山頂の寺院の中枢部は「己高山縁起」の永徳元年(1381)に行われた本堂再建供養時の記録とほとんど一致する。現在の遺構は中世に本堂が再建されたといわれるときのものである。


おわりに
 己高山の今回測量した範囲では現在残る遺構は中世以降のものであると考えられる。しかし、平坦面AはSB01(観音堂跡)に対して大きすぎると思われる。また、SB01(観音堂跡)の南側にある基壇と平行しない石列が、かつての基壇の痕跡であると考えればSB01(観音堂跡)の下層に、より古い時代の建物跡があるかもしれない。
 己高山山頂の寺院群はその仏像などかつての様相を彷彿とさせるものがあるが、寺院そのもの実態についてはまさしく山の向こうだった。今回の調査によってはじめて己高山山頂の寺院群の実態にメスが入れられた。これにより己高山山頂の寺院群の実態を解明する足がかりとなり、己高山の研究が進むことを願いたい。
 なお、己高山でキャンプをしながら測量していると、まさに世間から離れて修行している様な気持ちになる。


参考文献
(注1)宇野茂樹「己高山文化圏の宗教彫刻」(『近江路の彫像』雄山閣出版、1974年)
(注2)高梨純次「小説の舞台の仏たちー鶏足寺と渡岸寺の古仏たち」(松島健編『仏像を旅する=北陸線』至文堂、1989年)
(注3)高梨純次「滋賀・鶏足寺の木心乾漆十二神将立像についてーその制作年代の推定ー」(東京国立博物館美術誌『MUSEUM』437号、1987年)
高梨純次「己高山」(木村至宏編『近江の山』京都書院、1988年)
(注4)『伊香郡志』上巻(江北図書館、1952年)
(注5)太田浩司「滋賀県伊香郡木之本町『古橋区有文書』の伝来と特徴についてー己高山諸寺院の歴史と相伝文書ー」(福田栄次郎編『中世 史料採訪記』ぺりかん社、1998年)


調査参加者
高橋美久二 石口和男 早川圭 稲田孝夫 古関大樹 西中久典 桑山章子 田中梨絵 増田洋平


スクラップ 〜山岳寺院調跡調査を行なうとは〜


  本堂跡調査中。奥に見えるのが宿泊地です

  明るいうちに夕食作り。水は近くの沢から採取


だんだん暗くなってきました。先生採取の山菜も食卓にあがります。今晩の調味料はとれたてのサンショウです。


真っ暗な中での夕食(at PM7:00)。残るは下界の夜景を眺めながら寝るだけです。


★片道2〜3時間の道のりを数十キロの荷物を担ぎ登頂。−山ごもりの1週間−。
もちろん、風呂はなく沢での水浴びで、食事は既に記した通り。日が落ちるとともに寝、日が昇るとともに起きる生活…。
古代中世の山岳寺院に触れることが出来ると共に、俗世を離れ、寺院繁栄時の修行僧生活も実体験できた調査でした。


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