二十歳の頃 |
川北佳奈 |
私は今年、20歳の誕生日を迎えた。約50年前に20歳を迎えた私の祖母は、その頃をどのように生きていたのか。二人の祖母を対象に、育った環境の違う世代の、20歳の頃について調べた。
■ 父方の祖母
昭和11(1936)年7月30日、滋賀県犬上郡多賀町敏満寺で9人兄弟の一番下に生まれた。幼少時代は田んぼや畑に行き、草を取るなど一人で遊ぶことが多かった。
小学生の頃、彦根の空襲を経験した。その時の様子について話してくれた。《サイレンが「ウー、ウー」鳴んの。警戒警報っていうの。ほんでまた、空襲警報っていうとな、「ウー、ウー、ウー、ウー」な、鳴るんや。音の速さが違うの。ほんで、山の方へ、びゃーと逃げるんよ。「B29来たぁ!あれがほやぁ!!」言うて、バカバカと、弾落とさんのが見えるんよ。木の陰から。》当時の、友達の様子について、《お父さんかお母さんが、田舎から東京とか大阪へ行ってやったんやけど、戦争でなぁ、もぉ食べるに食べられんとかで、親元んとこに、もんてきたとか、親戚の人頼って、もんてきゃったのよ。疎開の人、ぎょうさんやった。》と話してくれた。
その頃の都市の人口は、どのようだったのか。参考した『大阪市史』によると、大阪市は市域拡張によって、昭和15(1940)年に、人口が325万2340人へと膨らんだとあるが、第二次世界大戦の勃発による工場の分散、人口疎開、大小合わせ約30回にも及んだ空襲、これらを契機とする人口の大量離散によって、敗戦直後の調査では、人口はわずか110万2959人までに激減したとある。
祖母の話では、疎開してきた家と、百姓の家では、食糧事情にかなりの差があったという。時には、弁当の盗難事件も起こった。当時を、目を瞑りながら振り返った祖母から、戦争中の生活の厳しさを感じ、様子を擬音語で表すことで、祖母が身を以て体験したことが伝わってきた。
昭和27(1952)年、中学校を卒業し、地元の和裁,洋裁,編み物の学校へ4年間通った。
昭和31(1956)年20歳の頃、大阪へ働きに行っていたお兄さんに頼んで、仕事を紹介してもらい、大阪へ働きに行くようになった。当時について、《田んぼやら百姓がかなんし、お金もほしいやろ?ほんで頭もあてもせんと、おかっぱのままで、化粧もなんも、クリームひとつつけんとよ、行ってたやろ?ほんさかいに大阪行って、初めて頭パーマあててな、見習いの人がしてやぁるところは安いんやがな、ほれがな、鶴橋かどこか知らんにあるのよ。ほんでほこに連れて行ってもろてな、ほこで化粧品やらな、ちょっとこおたりよ。》と話してくれた。私は祖母の話の中で、この部分が一番好きである。きっと、どきどきしながらパーマをあててもらったり、化粧品を選んだのだろう。とてもこの年頃の女の子という感じがした。
祖母が働いていたのは、当時の大阪市北区天満橋筋3-25にあった、大江莫大小(メリヤス)(有)というところで、主に肌着を製造していたようだ。工場での仕事について話してくれた。《従業員はな、ミシンが5人、反物そろえたりする下回りのおばあさんが2人やった。社長と息子2人と奥さんと。(社長の息子は3人いるが長男,次男は一緒の仕事場で、三男は輸出物のシャツを製造していたようだ。)社長さんらぁが反物で来たのを裁断して、きれいに縫わぁる人やら、縫うのでも、首周り、袖周り、裾周りやらいろいろ分担があるわけよ。マークつけたり、リボンつけたりする仕事もあるのよ。1枚するのに、いろんな人の手渡らんならん。初めおばあちゃん行ったときは、何もわからへんやろ?ほんで、シャツがズラーとぶら下がってくるのの糸切って、そろえて次のとこ持って行って。下回りの仕事。一番芸がないけど、一番忙しい。》それから徐々に慣れていき、ミシンの仕事をしていたそうだ。そうして出来上がったシャツは、アイロンをあて、たたんで、袋に入れる。収める先が三越や大丸などデパートの時もあった。油などの汚れの検査が厳しいところがあり、作る前に「徹底してやってくれな、返品来るとかなんでぇ。」と言われたそうだ。
参考した資料によると、メリヤス業の主要地域は北区、此花区を始めとし、東淀川区・西淀川区等が之に次ぐとある。また、繊維工業は、戦時中著しく衰退していったが、綿糸は、生活物資の一つの柱とみなされていたので、一般物価と比べて、相対的に低い公定価格に抑えられながら、操業を維持しつつ復興のスタートを切ったとある。工場名簿などを見ると、メリヤス工場だけでも多くの数があった。また、昭和22(1947)年の貿易については、輸出品では綿織物が一位となり、綿糸・メリヤス製品などの繊維製品が上位を占めるようになるとあった。このような時代背景から、「大江莫大小(有)」もその時代、従業員を雇い、シャツを作り、一方で輸出品も製造していたということがわかる。
当時の、生活の様子について話してくれた。《森ノ宮のお兄さんとこから1年は通たかな。バスでな。朝6時頃起きて、ご飯たいて弁当つめて、バス乗って、8時から5時までが仕事。で、夕方6時に社長さんやら、みんながご飯よばれやって、パンくれやぁるんよ。ほんで9時まで残業するんよ。みんなが5時に帰らった後、おばあちゃん一人残って、仕事がたまってんのいろいろしたり、アイロンがけしゃったらアイロンの下回りしたりよ、社長さんの家族の中に入ってしてたん。お金ぎょうさんくれやったもん、嬉しかったんや。ほしたらな、通うの雪降ったんのに、寒いのに大変やし、朝はよから、あんた一人来るの大変やし、兄さんや姉さんに迷惑かけるし、会社の横に寮があんのよ、ほんでほこに住みって言わったんや。ほんでおおきに言うて、風呂もあるしなぁ、良いさかいに言うてよ。ほしたらなぁ、通てる時は1万円のようもろてたのに、3千円ほどになったんやがな。寮にもいるし、食べさせてもぉてるし。風呂もなぁ。通てる時は風呂屋に行くで、風呂代がいるやろ?一月に10枚ほど券こぉて、石鹸もいるし。お兄さんとこにな、3千円かくらい下宿代て、おくのはおいてたけど。ほやけど、何も買うこといらんし、会社のほん近くに郵便局があったんや、ほんで残ったお金は親元に何かかぁかこぉて、ほこにお金入れて送ったりした。》
寮に入る前と後では、給料が大きく違った。それでも親元に仕送りをした。親元を離れ、働きに出るということは、こうゆうことなのだと知った。通っている時は、社長がバス代も払ってくれていたという。寮に入るのを勧めたのは、お金の面からなのではないかと祖母に聞いてみたところ、《ほんなことない。》と言われた。《みんな田舎の子やで言うて、一生懸命働くやろ?町の人は惜しんであんまり働からへんがな。時間から時間までよぉ働かるし、よぉしゃある言うて、喜んでもろて、大事にされるし、あんなありがたいことはなかったわ。》と話してくれた。たとえ給料が減っても、働いた分お金がもらえることに変わりはなく、もらえるというだけで幸せだと、感じていたのだなと気付いた。また、自分が頑張っている様子を、しっかり見ていてくれるというのも、祖母にとって大きな励みになったのだなと感じた。
昭和32(1957)年、働きに出て一年半程経った頃、親元から「滋賀に戻ってきぃ。」と連絡がきた。親戚のおばちゃんの世話をしに行くことと、祖父との結婚の話があった。祖母には、大阪に好きな人がいたが、両親に説得され、泣く泣く行ったそうだ。結婚式までに祖父と会ったのは一度だけで、親同士、家同士が決めた結婚だった。それから、看病、田んぼ、牛の世話、子育て、店の経営など、毎日休む暇も無いくらいの生活が始まった。初めは祖母にとって、あまり良い結婚ではなかったかもしれないが、今ではその頃の体験が、笑い話になる程である。そして、現在も元気に毎日働いている。
祖母は、《もぉ亡くなってやぁるかも知れんけど、社長さんたちにもう一回会ってみたいんよ。》と話してくれた。戦後に存在していたし、家族全員で営んでいたのだから、何かの形で受け継がれたり、残っているだろうと考えていたが、この工場の存在を確かめるには時間がかかった。工場名簿や大阪市史などを何冊みても、祖母から聞いていた「大江メリヤス工場」というのは、なかなか見つからなかった。人物で探してみようと、タウンページを隅から隅まで見て、該当した7人に祖母が連絡を取ってみたが、全員人違いだった。当時の手紙などは残っておらず、祖母の記憶にある「天満橋筋、大江メリヤス工場」だけを頼りに、大阪へ現地調査に行った。環状線の天満で下車し、天満橋筋をずっと歩いた。途中、この建物は古くからありそうだ、と思ったところは写真に撮った。タバコ屋のおじいさんに伺ってみたところ、「そんな人もやったかもしれんなぁ。」と返事が返ってきた。さらに歩いて、散歩をしていたおばあさんにも伺ってみた。しかし、その工場は知らないようだった。当時、その付近は工場が多かったようだが、みんな引っ越してしまったと教えてくださった。もっと古くから住んでいるという方の店を教えて下さったが、あいにく店を開けておられなかったので、聞くことはできなかった。
そして、大阪市立中央図書館に行って調べてみた。すると、ついに祖母から聞いていた情報と、一致する一行を見つけることが出来た。「事業所名、主な製品名、所在地、代表者名、電話番号」と、一行しか情報は載せられていなかったが、その一行は私にとって価値のある一行だった。しかし、『大阪市工業名鑑 昭和31年度版』には記載されていたが、『同 昭和33年度版』には記載されていなかった。丁度祖母が滋賀に戻ってくる前、メリヤス製造自体が変化の時で、今までのように大手の取引先との取引も、困難になりかけていたそうだ。このことから、当時、大江莫大小(有)にも何か変化があったと考えられる。
聞き取りを終えて
祖母は、話を聞きに行く度に、「よぉしてもらったで、もいっぺん会ってみたい。」と言っていた。工場があったと思われるところは、今は別の建物が建っているし、名前の記憶があやふやなため、人物を探し出すことは困難である。しかし、この話を聞いたからには、私自身も会ってみたいし、祖母の願いも叶えたいと思う。祖母が二十歳の頃、自分の意思で大阪に働きに行くことを決め、そこで知り合った人たちに、今でももう一度会いたいと思うほど、幸せな時間を過ごしていた。私も50年後、自分の人生を振り返ったとき、あの時いい人たちに出会えた、と思えるような人生にしたいと思った。
■ 母方の祖母
昭和12(1937)年9月1日、徳島県鴨島で生まれた。女8人、男2人の10人兄弟。
小学校時代に戦争を経験し、疎開の人が多く、小学校だけでは収まらず、消防署やお寺で授業を受けたと話してくれた。昭和20(1945)年8月15日、隣のお豆腐屋さんが泣きながら「日本負けた。」と教えてくれたのを強く覚えていると言う。そのときの光景は、意味を知ってか知らずか分からないが、大人が感じた「敗戦」を、祖母にも感じさせたのだろうと思った。
昭和28(1953)年、中学を卒業し、近江絹絲彦根工場へ就職。ここに就職しようと思った理由は《近江絹絲は、勉強もしながら働けるということだったので。ちょっと遠かったけども。それと、雪が降るって言うことで。雪に憧れて。あと琵琶湖も。面接に来た人が「あのあたりは2mか3m位降る。」言うてね。でも実際は、彦根はそんなことなかった。でも嬉しかって、徳島では、チラチラ降ると皆、雪言うてかけっこして、2,3cm積もると、大雪なんて言うてたけどね。雪を集めてね、おぼんの上でウサギを作ったり、食べたりするのが楽しみやったんやけど。》と話してくれた。
4月28日に入社し、寮での生活が始まった。初めの二週間に、身体検査や社内の案内,説明があり、新入生は、会社側からA番,B番,C番に振り分けられた。《仕事始めは見習いやから、上のお姉さんたちが付いててくれて、何をするにも二人で。何をしたらいいのか分からないということはなかった。中学卒業したばかりやで、一人では何も。(寮では)12人位で一部屋を使って、何せ多かった。部屋長さんがいて、同い年ばっかりじゃなくて、2つか3つ上の人たちと一緒で。部屋ですること(火鉢の炭当番とか)もお姉さんたちが教えてくれる。下やからといって押し付けられることもなく、苦になることはなかった。お風呂に湯たんぽを持っていって、朝、仕事行くまでに掃除があって、湯たんぽのお湯で雑巾ぬらして。》と話しながら、祖母が湯たんぽを出してきてくれた。私自身湯たんぽを見るのは久しぶりで、私も小さい頃使っていたと教えてもらったが、記憶には残っていない。
仕事は各工程があり、祖母は混打綿というところにいた。その中でもいくつかの仕事があり、祖母は、機会がローラーに綿を巻きつけるラップというのをしていたそうだ。ある程度の厚さまで巻かれた綿をローラーから抜き取り、また巻きつけるという仕事だそうだ。混打綿は、糸ができるまでの8つの工程の中の、一番初めの工程である。
昭和29(1954)年6月4日、労働争議が発生。彦根工場は、8日にストに突入した。その朝の様子を話してくれた。《先番で5時からの仕事やったで、用意して、さぁ出ましょう思ったら、ホースで水の掛け合いしてんの。組合の人が、私ら行くのを「出勤するな。」って言ってた人に対して、会社の人が水を。何が起きたのか全然分からなかったで、私らおろおろしてたの。どっち行っていいか分からないし。で、寮の先生の言うことを聞いて、部屋で待機して。上の人たちがきゃあるのを待ってたんちがうかな。工場長とかそうゆう人たちは、だいたいC番で8時半始まりやから。》
『近江絹絲大争議の経過』によると、その年の5月25日に、近江絹絲紡績労働組合が本社有志をもって結成された。会社に対し、自由と人権擁護を主とする要求を決定。6月3日に会社に要求書を提出したが、会社が団交を拒否。4日午前9時半に、会社が要求の前面拒否を回答し、無期限ストを決定した。会社は組合に対し、妨害と切崩しの活動を急速に活発化し、「彦根工場」では会社が宣伝隊に消防ホースで挑戦、とある。祖母はこの、会社が組合に対して、水をかけていた様子を見たと思われる。
争議中は、社長と組合の人が話し合いを進めようとする中で、会社側が暴力団を雇うなど、第三者の加勢があった。その都度被害者が出るなど、激しい争いが行われた。
組合側からの要求は、生理休暇の完全実施、設備の改善、仏教の強制絶対反対、信書の開封、私物検査の即時停止、外出の自由など全二十二項目であった。
《始まって一週間位して、いても分からないということで、仕事もなかったし、一旦徳島へ帰ってた。もうそろそろ解決しそうやから、帰って来た方がいいって連絡受けて。帰ってきたら、組合のほうが強くなってた。ほとんどの人が組合に合流してた。ここで仕事を続ける以上は、同じグループに入らないとという感じ。まだ仕事もしたかったし。》
祖母は8月の終わり頃組合に入り、ピケはりをしたり、集会やデモに参加するようになったという。全て誰かの指示のもと、動いていたそうだ。日が経つにつれ組合員総数は増えていたが、これを機に会社を辞めて、別の工場に行く人も少なくなかったようだ。
中学を卒業し、16歳で社会に出て働くというのは、当時は普通だったかもしれないが、精神的に苦しいことも多かっただろうと思う。親元を離れて生活する寂しさ、慣れない環境の寮生活、仕事中の失敗や、それを見ている上の人からの視線や重圧。それらを本音で綴られている『らくがき』には、その当時の悲しさ、悔しさ、寂しさがたくさん詰まっているように感じられた。各地から働きに来る人がいるだけに、各地の言葉がそのままに現れており、余計に真っ直ぐに思いが伝わってきた。祖母と同じように、何かを楽しみに、彦根へやってきた人は少なくないだろう。実際に彦根に来て数年働いて、楽しむことは出来たのだろうか。
祖母は、入社して一年程経った頃に起こったこの出来事をこのように振り返った。《争議中は、いつまで続くんやろうと思った。入って2年目でそうゆうことが起きたから、会社の様子がはっきり分からんかったし、厳しいってことはあんまり感じてなかった。》こう話してくれたように、祖母はどちらかというと、恵まれた環境の中で生活していたと思う。
『らくがき』には当時の様子が書かれているが、寮の部屋の中には日の当たらない所、雨漏りのする所、 南京虫(注1)が発生する所など、唯一心休まる時間とされている睡眠時間を侵す、悪条件のある部屋があったようだ。工場から寮までの道のりが、一番幸せだと思う彼ら彼女らにとって、そこが居辛い場所になることは、何とも言えない思いだろうと思う。また、祖母の部屋仲間は良い人たちばかりで、けんかはしなかったと話してくれた。同じ部屋の人に嫌な思いをしなくていいのは、一番のことであると思う。およそ、入社して5,6年経った人が中心になって、争議が起こったと聞いた。会社に対し、不満を抱えて仕事をする前に、改善の方向へ向いていったということにも、恵まれていたのかもしれないと思った。
(注1 トコジラミの別称。体調約5o。室内に生息し、夜行性。人畜から吸血し、激しいかゆみと痛みを起こさせる。)
昭和29(1954)年9月、中央労働委員会の斡旋で、労働争議が収まった。何ヶ月か工場がストップしていたため、すぐに仕事再開は出来ず、まずは床掃除や機会の手入れなどをしたそうだ。要求していた項目については、決まり事が緩和されるなど改善された。生理休暇を取れるようになり、夜の9時から9時半まで行われていた一日の反省会もなくなった。門限も、連絡があれば遅くなっても構わないとなった。部屋人数は少人数になり、毎月行われていた、仏間でのお経読みもなくなったそうだ。
後に祖母は、同じ彦根工場に勤めていた祖父と出会い、結婚を機に退職し、寮を出て社宅に引っ越した。数回引越し、現在の家を建てたが、当時、計画途中に祖父の津工場への転勤の話が出た。会社に言ってみたが聞いてもらえず、家を建てるのを迷ったという。しかし、単身赴任で行くことに決め、現在の場所に家を建てた。大学に近いため、おかげで私は前よりも多く、祖父母の家に遊びに行くことが出来る。
聞き取りを終えて
今回、聞き取りの際に録音すると言ったら、初めは少し緊張気味に話していたけれど、話していくうちに、だんだんいつものように話してくれるようになった。16歳で徳島から滋賀までやって来たこと、争議の時に地元の友達や周りが辞めていく中で、残ることを決め、仕事を続けたということには、とても大きな決断をしたのだなと感じた。17歳で自分が勤める会社でこのような騒動が起こった時、私ならどうするだろうと考えると、祖母は強いなと思った。その年だからこそ、変化してゆく周りの状況に、精一杯についていったのかもしれないなと感じた。また、近江絹絲の古い本や資料を、大事に残してくれていたことも、とてもありがたかった。昔の彦根について何か調べるとき、私は必ず祖父母に尋ねに行く。約50年間この土地の様子を見てきた祖父母に、もっと知っていることを聞いてみたくなった。
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■ 参考文献(父方)
・新修 大阪市史 第八巻 新修大阪市史編纂委員会 大阪市 H4.3.31
・日本近代都市社会調査資料集成 3 大阪市社会部調査報告書 29 昭和七年(2)
大阪市社会部労働課 S7.3.25
・大阪市工業名鑑 昭和31年度版 大阪市工業会連合会
・大阪市工業名鑑 昭和33年度版 大阪市工業会連合会
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■参考文献(母方)
・「自由と正義と人権をまもる戦い 近江絹絲大争議の経過―組合結成から中労委斡旋案受諾まで―」 1954.8.10発行 全国繊維産業労働組合同盟
・「らくがき」 1956.5.1発行 近江絹絲紡績労働組合 編集委員会
・「オーミケンシ外史 創立五十周年記念」藤川和一 近江絹絲紡績株式会社 S42.10.15
・「のびゆく・・・オーミケンシ 彦根工場」 |
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