祖母たちの時代 戦争・労働・家族

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私の祖母が生きてきた時代
二十歳の頃
<歴史の中の『一人』として>   
祖母の想い出

宇野 美里
川北佳奈
砺波有希
箱家里美

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私の祖母が生きてきた時代
宇野 美里 
1.はじめに
 私の祖母は大正14年(1925)5月4日,大原村池下(現在の米原市池下)の女3人男3人兄弟の1番目として生まれました.現在,80歳で祖父と共に農作業やゲートボール等のスポーツ,老人クラブでの活動等に積極的に参加しています.そんな祖母は私の人生のちょうど4倍生きてきたわけです.その今までの人生の歩みを時代背景とともに,祖母からの聞き取りしたことと文献等から知ったことをまとめ,特に13〜21歳の戦争時代のことを中心にして記していこうと思います.

2.戦争時代の13〜21歳
2-1.仕事へ
 祖母が小学校を卒業するのと同じ頃,昭和14年(1939)に第2次世界大戦がはじまりました.祖母は募集人さんという人によって草津にある軍需工場敷島紡績に勤めることになりました.

■祖母の語り
 昔はな,募集人さんちゅう人がやあたん.ほんで,その人がみな募集してつれてかあた.銭儲けようの募集人がやあたわけ,会社にな.そんでその人が募集してきゃあて,ほいて,その人に連れだっていったわけ.ほいで友達何人か連れだって行ったわなぁ.
 そこで祖母は寮生活を送りながら,週に1回の休みで早朝5時からの昼勤務と夜勤務を1週間交代で行いました.そして,給料の一部は実家に仕送りしていました.そこの工場では,戦場へ送るテントを織っていました.
  
■祖母の語り
 戦争中やで,男の人はほとんど兵隊に行ってるで,男の仕事もみな女がやってた.機械の油さしからなんからやってたよ.

2-2.敷島紡績会社
 祖母が働いた「敷島紡績会社」は草津駅の東側に位置しており,前身が天幕や雨おい,たび底等を作る「近江帆布草津工場」でした.近江帆布草津工場は大正3年(1914)に竣工し,数社との合併をへて昭和19年(1944)に敷島紡績となりました.戦争中は陸軍の管理工場となり,織機343台を保有し,空襲の被害に遭うことなく戦争終結まで操業を辛うじて維持してきました.そして,その後草津工場は昭和28年(1953)に廃止されました.

2-3.寮生活
 寮での食事はご飯が少なめでお粥の時もあったそうで,おかずはじゃがいもやトマト,グリーンピース,乾燥豆等だったそうです.休日には,卓球やバレー,テニス,お茶会,石山寺参り,有志で踊りや歌を披露する演芸会を楽しんだそうです.しかし,実家に帰りたくても切符の枚数に限りがあったためなかなか切符が買えず帰れなかったとのことでした.

■祖母の語り
 戦争中はな,家の方に帰るにしても切符が買えんで帰れん.1日にいくらって決まってるでダーッと並ばんことには買えん.並んでても買えん.ほんでな,草津から米原までしか買えんわけやな,切符が.米原から池下まで歩いたん.帰るにしても盆か正月しかないよ. 

3.草津と空襲
 祖母は草津で戦争時代のほとんどを過ごしたわけですが,そこで何度か空襲があり防空壕に逃げたことがあったそうです.工場が直接空襲に遭うことはなかったものの,昭和19年(1944)6月にサイパン島が全滅し日本中がB29の空襲にさらされるようになりました.同年12月にはB29が大阪湾から琵琶湖を北上し始めるようになり,昭和20年(1945)には連日のように空襲警報があり,朝8時頃に定期的にといってよい程,草津の上空を通過しました.そして,時にはそれらによる機銃掃射もありました.祖母は大阪での空襲(おそらく昭和20年3月)があった際には,草津の空でさえも真っ黒になったことを覚えていました.

4.滋賀県と戦争
 滋賀県は軍事関連の施設が少なかったため,空襲からは比較的安全な県でした.県下では,農業,繊維産業や窯業といった産業が盛んで,直接戦争と結びつくものはなかったのですが,「企業整備令」という法律ができ,戦争と直接関係のない商店や工場等は軍需産業か,商売を辞めなければならなくなりました.そして,空襲の危険がせまると,京阪神の軍需工場が転廃業した工場に移ってくるようになりました.昭和19年(1944)には,学徒勤労令が公布され,中学生以上の全生徒が県内や名古屋の軍需工場に従事し,食料増産のために琵琶湖の干拓(注1)等に勤めました.
 しかし,空襲がたびたび来るようになると,大津や彦根といった都市部では「建物疎開(注2)」が行われたりもしました.昭和20年(1945)6月には彦根地区が空襲され,7月には大津の東洋レーヨンが被害に遭いました.その東洋レーヨンでは魚雷の部品を製造しており,この空襲によって勤労学徒を含む16名が亡くなられました.
(注1)食糧増産のために農地拡張が始まり,小中の湖(安土町・旧能登川町),野田沼(旧中主町),松原内湖(彦根市),入江内湖(旧米原町)等が干拓された.
(注2)病院や役所等の重要な建物を空襲の火災から守るために,周囲の建物を強制的に壊すこと.


5.おわりに
 祖母はまさに青春時代を戦争とともに歩んできました.その後,終戦を迎え実家へと帰り,長浜の近江絹糸に勤め,昭和28年(1953)にお見合いで祖父と結婚しました.
 現代を生きる私とは全く異なる生活ぶりであったことが多いに知ることができました.祖母は聞き取りを行っているとき戦争時の苦労話よりも,年月がだいぶ経過していることもあるのか良かった思い出の方を多く語ってくれました.戦争時の大変ななかにもうまく娯楽を見出し楽しんでいたことが伺えました.祖母は今でもとてもしっかりしており,活動的だと思います.今の祖母の姿があるのは,これまでの人生の様々な苦難を乗り越えてきたからでこそだと感じます.また,今回の調査にあたって『滋賀県民戦争体験談集シリーズ 記憶の湖』を読んだのですが,どの内容もつらいものばかりで心が痛みました.今まで,滋賀県内での戦争に関して詳しく知らなかったが祖母と同じように軍需工場で働いた人,家族を亡くした人,空襲に遭ったこと等が鮮明に書かれてあり,いろいろと考えさせられました.改めて私の祖母は戦争時代を生きてきたことを再認識した気がします.

■参考文献
・『草津市史 第4巻』 編集 草津市史編さん委員会 発行 草津市役所 1988年4月発行
・『草津百年の歩み』  編述者 水野全雄 発行者 草津市教育委員会 1970年3月発行
・『滋賀県民戦争体験談集シリーズ 記憶の湖 第1巻女性たちの戦争体験・ 第3巻戦争の中の青春』 編集・発行 滋賀県 平成10年8月発行
・『敷島紡績七十五年史』  出版社 敷島紡績 1968年発行

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二十歳の頃
川北佳奈
  私は今年、20歳の誕生日を迎えた。約50年前に20歳を迎えた私の祖母は、その頃をどのように生きていたのか。二人の祖母を対象に、育った環境の違う世代の、20歳の頃について調べた。

■ 父方の祖母
 昭和11(1936)年7月30日、滋賀県犬上郡多賀町敏満寺で9人兄弟の一番下に生まれた。幼少時代は田んぼや畑に行き、草を取るなど一人で遊ぶことが多かった。

  小学生の頃、彦根の空襲を経験した。その時の様子について話してくれた。《サイレンが「ウー、ウー」鳴んの。警戒警報っていうの。ほんでまた、空襲警報っていうとな、「ウー、ウー、ウー、ウー」な、鳴るんや。音の速さが違うの。ほんで、山の方へ、びゃーと逃げるんよ。「B29来たぁ!あれがほやぁ!!」言うて、バカバカと、弾落とさんのが見えるんよ。木の陰から。》当時の、友達の様子について、《お父さんかお母さんが、田舎から東京とか大阪へ行ってやったんやけど、戦争でなぁ、もぉ食べるに食べられんとかで、親元んとこに、もんてきたとか、親戚の人頼って、もんてきゃったのよ。疎開の人、ぎょうさんやった。》と話してくれた。
その頃の都市の人口は、どのようだったのか。参考した『大阪市史』によると、大阪市は市域拡張によって、昭和15(1940)年に、人口が325万2340人へと膨らんだとあるが、第二次世界大戦の勃発による工場の分散、人口疎開、大小合わせ約30回にも及んだ空襲、これらを契機とする人口の大量離散によって、敗戦直後の調査では、人口はわずか110万2959人までに激減したとある。
  祖母の話では、疎開してきた家と、百姓の家では、食糧事情にかなりの差があったという。時には、弁当の盗難事件も起こった。当時を、目を瞑りながら振り返った祖母から、戦争中の生活の厳しさを感じ、様子を擬音語で表すことで、祖母が身を以て体験したことが伝わってきた。
  昭和27(1952)年、中学校を卒業し、地元の和裁,洋裁,編み物の学校へ4年間通った。

  昭和31(1956)年20歳の頃、大阪へ働きに行っていたお兄さんに頼んで、仕事を紹介してもらい、大阪へ働きに行くようになった。当時について、《田んぼやら百姓がかなんし、お金もほしいやろ?ほんで頭もあてもせんと、おかっぱのままで、化粧もなんも、クリームひとつつけんとよ、行ってたやろ?ほんさかいに大阪行って、初めて頭パーマあててな、見習いの人がしてやぁるところは安いんやがな、ほれがな、鶴橋かどこか知らんにあるのよ。ほんでほこに連れて行ってもろてな、ほこで化粧品やらな、ちょっとこおたりよ。》と話してくれた。私は祖母の話の中で、この部分が一番好きである。きっと、どきどきしながらパーマをあててもらったり、化粧品を選んだのだろう。とてもこの年頃の女の子という感じがした。

  祖母が働いていたのは、当時の大阪市北区天満橋筋3-25にあった、大江莫大小(メリヤス)(有)というところで、主に肌着を製造していたようだ。工場での仕事について話してくれた。《従業員はな、ミシンが5人、反物そろえたりする下回りのおばあさんが2人やった。社長と息子2人と奥さんと。(社長の息子は3人いるが長男,次男は一緒の仕事場で、三男は輸出物のシャツを製造していたようだ。)社長さんらぁが反物で来たのを裁断して、きれいに縫わぁる人やら、縫うのでも、首周り、袖周り、裾周りやらいろいろ分担があるわけよ。マークつけたり、リボンつけたりする仕事もあるのよ。1枚するのに、いろんな人の手渡らんならん。初めおばあちゃん行ったときは、何もわからへんやろ?ほんで、シャツがズラーとぶら下がってくるのの糸切って、そろえて次のとこ持って行って。下回りの仕事。一番芸がないけど、一番忙しい。》それから徐々に慣れていき、ミシンの仕事をしていたそうだ。そうして出来上がったシャツは、アイロンをあて、たたんで、袋に入れる。収める先が三越や大丸などデパートの時もあった。油などの汚れの検査が厳しいところがあり、作る前に「徹底してやってくれな、返品来るとかなんでぇ。」と言われたそうだ。
  参考した資料によると、メリヤス業の主要地域は北区、此花区を始めとし、東淀川区・西淀川区等が之に次ぐとある。また、繊維工業は、戦時中著しく衰退していったが、綿糸は、生活物資の一つの柱とみなされていたので、一般物価と比べて、相対的に低い公定価格に抑えられながら、操業を維持しつつ復興のスタートを切ったとある。工場名簿などを見ると、メリヤス工場だけでも多くの数があった。また、昭和22(1947)年の貿易については、輸出品では綿織物が一位となり、綿糸・メリヤス製品などの繊維製品が上位を占めるようになるとあった。このような時代背景から、「大江莫大小(有)」もその時代、従業員を雇い、シャツを作り、一方で輸出品も製造していたということがわかる。

  当時の、生活の様子について話してくれた。《森ノ宮のお兄さんとこから1年は通たかな。バスでな。朝6時頃起きて、ご飯たいて弁当つめて、バス乗って、8時から5時までが仕事。で、夕方6時に社長さんやら、みんながご飯よばれやって、パンくれやぁるんよ。ほんで9時まで残業するんよ。みんなが5時に帰らった後、おばあちゃん一人残って、仕事がたまってんのいろいろしたり、アイロンがけしゃったらアイロンの下回りしたりよ、社長さんの家族の中に入ってしてたん。お金ぎょうさんくれやったもん、嬉しかったんや。ほしたらな、通うの雪降ったんのに、寒いのに大変やし、朝はよから、あんた一人来るの大変やし、兄さんや姉さんに迷惑かけるし、会社の横に寮があんのよ、ほんでほこに住みって言わったんや。ほんでおおきに言うて、風呂もあるしなぁ、良いさかいに言うてよ。ほしたらなぁ、通てる時は1万円のようもろてたのに、3千円ほどになったんやがな。寮にもいるし、食べさせてもぉてるし。風呂もなぁ。通てる時は風呂屋に行くで、風呂代がいるやろ?一月に10枚ほど券こぉて、石鹸もいるし。お兄さんとこにな、3千円かくらい下宿代て、おくのはおいてたけど。ほやけど、何も買うこといらんし、会社のほん近くに郵便局があったんや、ほんで残ったお金は親元に何かかぁかこぉて、ほこにお金入れて送ったりした。》
  寮に入る前と後では、給料が大きく違った。それでも親元に仕送りをした。親元を離れ、働きに出るということは、こうゆうことなのだと知った。通っている時は、社長がバス代も払ってくれていたという。寮に入るのを勧めたのは、お金の面からなのではないかと祖母に聞いてみたところ、《ほんなことない。》と言われた。《みんな田舎の子やで言うて、一生懸命働くやろ?町の人は惜しんであんまり働からへんがな。時間から時間までよぉ働かるし、よぉしゃある言うて、喜んでもろて、大事にされるし、あんなありがたいことはなかったわ。》と話してくれた。たとえ給料が減っても、働いた分お金がもらえることに変わりはなく、もらえるというだけで幸せだと、感じていたのだなと気付いた。また、自分が頑張っている様子を、しっかり見ていてくれるというのも、祖母にとって大きな励みになったのだなと感じた。

  昭和32(1957)年、働きに出て一年半程経った頃、親元から「滋賀に戻ってきぃ。」と連絡がきた。親戚のおばちゃんの世話をしに行くことと、祖父との結婚の話があった。祖母には、大阪に好きな人がいたが、両親に説得され、泣く泣く行ったそうだ。結婚式までに祖父と会ったのは一度だけで、親同士、家同士が決めた結婚だった。それから、看病、田んぼ、牛の世話、子育て、店の経営など、毎日休む暇も無いくらいの生活が始まった。初めは祖母にとって、あまり良い結婚ではなかったかもしれないが、今ではその頃の体験が、笑い話になる程である。そして、現在も元気に毎日働いている。

  祖母は、《もぉ亡くなってやぁるかも知れんけど、社長さんたちにもう一回会ってみたいんよ。》と話してくれた。戦後に存在していたし、家族全員で営んでいたのだから、何かの形で受け継がれたり、残っているだろうと考えていたが、この工場の存在を確かめるには時間がかかった。工場名簿や大阪市史などを何冊みても、祖母から聞いていた「大江メリヤス工場」というのは、なかなか見つからなかった。人物で探してみようと、タウンページを隅から隅まで見て、該当した7人に祖母が連絡を取ってみたが、全員人違いだった。当時の手紙などは残っておらず、祖母の記憶にある「天満橋筋、大江メリヤス工場」だけを頼りに、大阪へ現地調査に行った。環状線の天満で下車し、天満橋筋をずっと歩いた。途中、この建物は古くからありそうだ、と思ったところは写真に撮った。タバコ屋のおじいさんに伺ってみたところ、「そんな人もやったかもしれんなぁ。」と返事が返ってきた。さらに歩いて、散歩をしていたおばあさんにも伺ってみた。しかし、その工場は知らないようだった。当時、その付近は工場が多かったようだが、みんな引っ越してしまったと教えてくださった。もっと古くから住んでいるという方の店を教えて下さったが、あいにく店を開けておられなかったので、聞くことはできなかった。
そして、大阪市立中央図書館に行って調べてみた。すると、ついに祖母から聞いていた情報と、一致する一行を見つけることが出来た。「事業所名、主な製品名、所在地、代表者名、電話番号」と、一行しか情報は載せられていなかったが、その一行は私にとって価値のある一行だった。しかし、『大阪市工業名鑑 昭和31年度版』には記載されていたが、『同 昭和33年度版』には記載されていなかった。丁度祖母が滋賀に戻ってくる前、メリヤス製造自体が変化の時で、今までのように大手の取引先との取引も、困難になりかけていたそうだ。このことから、当時、大江莫大小(有)にも何か変化があったと考えられる。

  聞き取りを終えて
 祖母は、話を聞きに行く度に、「よぉしてもらったで、もいっぺん会ってみたい。」と言っていた。工場があったと思われるところは、今は別の建物が建っているし、名前の記憶があやふやなため、人物を探し出すことは困難である。しかし、この話を聞いたからには、私自身も会ってみたいし、祖母の願いも叶えたいと思う。祖母が二十歳の頃、自分の意思で大阪に働きに行くことを決め、そこで知り合った人たちに、今でももう一度会いたいと思うほど、幸せな時間を過ごしていた。私も50年後、自分の人生を振り返ったとき、あの時いい人たちに出会えた、と思えるような人生にしたいと思った。


■ 母方の祖母
 昭和12(1937)年9月1日、徳島県鴨島で生まれた。女8人、男2人の10人兄弟。
 
  小学校時代に戦争を経験し、疎開の人が多く、小学校だけでは収まらず、消防署やお寺で授業を受けたと話してくれた。昭和20(1945)年8月15日、隣のお豆腐屋さんが泣きながら「日本負けた。」と教えてくれたのを強く覚えていると言う。そのときの光景は、意味を知ってか知らずか分からないが、大人が感じた「敗戦」を、祖母にも感じさせたのだろうと思った。
 
  昭和28(1953)年、中学を卒業し、近江絹絲彦根工場へ就職。ここに就職しようと思った理由は《近江絹絲は、勉強もしながら働けるということだったので。ちょっと遠かったけども。それと、雪が降るって言うことで。雪に憧れて。あと琵琶湖も。面接に来た人が「あのあたりは2mか3m位降る。」言うてね。でも実際は、彦根はそんなことなかった。でも嬉しかって、徳島では、チラチラ降ると皆、雪言うてかけっこして、2,3cm積もると、大雪なんて言うてたけどね。雪を集めてね、おぼんの上でウサギを作ったり、食べたりするのが楽しみやったんやけど。》と話してくれた。
 
  4月28日に入社し、寮での生活が始まった。初めの二週間に、身体検査や社内の案内,説明があり、新入生は、会社側からA番,B番,C番に振り分けられた。《仕事始めは見習いやから、上のお姉さんたちが付いててくれて、何をするにも二人で。何をしたらいいのか分からないということはなかった。中学卒業したばかりやで、一人では何も。(寮では)12人位で一部屋を使って、何せ多かった。部屋長さんがいて、同い年ばっかりじゃなくて、2つか3つ上の人たちと一緒で。部屋ですること(火鉢の炭当番とか)もお姉さんたちが教えてくれる。下やからといって押し付けられることもなく、苦になることはなかった。お風呂に湯たんぽを持っていって、朝、仕事行くまでに掃除があって、湯たんぽのお湯で雑巾ぬらして。》と話しながら、祖母が湯たんぽを出してきてくれた。私自身湯たんぽを見るのは久しぶりで、私も小さい頃使っていたと教えてもらったが、記憶には残っていない。
 
  仕事は各工程があり、祖母は混打綿というところにいた。その中でもいくつかの仕事があり、祖母は、機会がローラーに綿を巻きつけるラップというのをしていたそうだ。ある程度の厚さまで巻かれた綿をローラーから抜き取り、また巻きつけるという仕事だそうだ。混打綿は、糸ができるまでの8つの工程の中の、一番初めの工程である。
 
  昭和29(1954)年6月4日、労働争議が発生。彦根工場は、8日にストに突入した。その朝の様子を話してくれた。《先番で5時からの仕事やったで、用意して、さぁ出ましょう思ったら、ホースで水の掛け合いしてんの。組合の人が、私ら行くのを「出勤するな。」って言ってた人に対して、会社の人が水を。何が起きたのか全然分からなかったで、私らおろおろしてたの。どっち行っていいか分からないし。で、寮の先生の言うことを聞いて、部屋で待機して。上の人たちがきゃあるのを待ってたんちがうかな。工場長とかそうゆう人たちは、だいたいC番で8時半始まりやから。》

  『近江絹絲大争議の経過』によると、その年の5月25日に、近江絹絲紡績労働組合が本社有志をもって結成された。会社に対し、自由と人権擁護を主とする要求を決定。6月3日に会社に要求書を提出したが、会社が団交を拒否。4日午前9時半に、会社が要求の前面拒否を回答し、無期限ストを決定した。会社は組合に対し、妨害と切崩しの活動を急速に活発化し、「彦根工場」では会社が宣伝隊に消防ホースで挑戦、とある。祖母はこの、会社が組合に対して、水をかけていた様子を見たと思われる。
 争議中は、社長と組合の人が話し合いを進めようとする中で、会社側が暴力団を雇うなど、第三者の加勢があった。その都度被害者が出るなど、激しい争いが行われた。
組合側からの要求は、生理休暇の完全実施、設備の改善、仏教の強制絶対反対、信書の開封、私物検査の即時停止、外出の自由など全二十二項目であった。

  《始まって一週間位して、いても分からないということで、仕事もなかったし、一旦徳島へ帰ってた。もうそろそろ解決しそうやから、帰って来た方がいいって連絡受けて。帰ってきたら、組合のほうが強くなってた。ほとんどの人が組合に合流してた。ここで仕事を続ける以上は、同じグループに入らないとという感じ。まだ仕事もしたかったし。》
 祖母は8月の終わり頃組合に入り、ピケはりをしたり、集会やデモに参加するようになったという。全て誰かの指示のもと、動いていたそうだ。日が経つにつれ組合員総数は増えていたが、これを機に会社を辞めて、別の工場に行く人も少なくなかったようだ。

  中学を卒業し、16歳で社会に出て働くというのは、当時は普通だったかもしれないが、精神的に苦しいことも多かっただろうと思う。親元を離れて生活する寂しさ、慣れない環境の寮生活、仕事中の失敗や、それを見ている上の人からの視線や重圧。それらを本音で綴られている『らくがき』には、その当時の悲しさ、悔しさ、寂しさがたくさん詰まっているように感じられた。各地から働きに来る人がいるだけに、各地の言葉がそのままに現れており、余計に真っ直ぐに思いが伝わってきた。祖母と同じように、何かを楽しみに、彦根へやってきた人は少なくないだろう。実際に彦根に来て数年働いて、楽しむことは出来たのだろうか。

  祖母は、入社して一年程経った頃に起こったこの出来事をこのように振り返った。《争議中は、いつまで続くんやろうと思った。入って2年目でそうゆうことが起きたから、会社の様子がはっきり分からんかったし、厳しいってことはあんまり感じてなかった。》こう話してくれたように、祖母はどちらかというと、恵まれた環境の中で生活していたと思う。
『らくがき』には当時の様子が書かれているが、寮の部屋の中には日の当たらない所、雨漏りのする所、 南京虫(注1)が発生する所など、唯一心休まる時間とされている睡眠時間を侵す、悪条件のある部屋があったようだ。工場から寮までの道のりが、一番幸せだと思う彼ら彼女らにとって、そこが居辛い場所になることは、何とも言えない思いだろうと思う。また、祖母の部屋仲間は良い人たちばかりで、けんかはしなかったと話してくれた。同じ部屋の人に嫌な思いをしなくていいのは、一番のことであると思う。およそ、入社して5,6年経った人が中心になって、争議が起こったと聞いた。会社に対し、不満を抱えて仕事をする前に、改善の方向へ向いていったということにも、恵まれていたのかもしれないと思った。
(注1  トコジラミの別称。体調約5o。室内に生息し、夜行性。人畜から吸血し、激しいかゆみと痛みを起こさせる。)

  昭和29(1954)年9月、中央労働委員会の斡旋で、労働争議が収まった。何ヶ月か工場がストップしていたため、すぐに仕事再開は出来ず、まずは床掃除や機会の手入れなどをしたそうだ。要求していた項目については、決まり事が緩和されるなど改善された。生理休暇を取れるようになり、夜の9時から9時半まで行われていた一日の反省会もなくなった。門限も、連絡があれば遅くなっても構わないとなった。部屋人数は少人数になり、毎月行われていた、仏間でのお経読みもなくなったそうだ。

  後に祖母は、同じ彦根工場に勤めていた祖父と出会い、結婚を機に退職し、寮を出て社宅に引っ越した。数回引越し、現在の家を建てたが、当時、計画途中に祖父の津工場への転勤の話が出た。会社に言ってみたが聞いてもらえず、家を建てるのを迷ったという。しかし、単身赴任で行くことに決め、現在の場所に家を建てた。大学に近いため、おかげで私は前よりも多く、祖父母の家に遊びに行くことが出来る。

  聞き取りを終えて
 今回、聞き取りの際に録音すると言ったら、初めは少し緊張気味に話していたけれど、話していくうちに、だんだんいつものように話してくれるようになった。16歳で徳島から滋賀までやって来たこと、争議の時に地元の友達や周りが辞めていく中で、残ることを決め、仕事を続けたということには、とても大きな決断をしたのだなと感じた。17歳で自分が勤める会社でこのような騒動が起こった時、私ならどうするだろうと考えると、祖母は強いなと思った。その年だからこそ、変化してゆく周りの状況に、精一杯についていったのかもしれないなと感じた。また、近江絹絲の古い本や資料を、大事に残してくれていたことも、とてもありがたかった。昔の彦根について何か調べるとき、私は必ず祖父母に尋ねに行く。約50年間この土地の様子を見てきた祖父母に、もっと知っていることを聞いてみたくなった。


■ 参考文献(父方)
・新修 大阪市史 第八巻 新修大阪市史編纂委員会 大阪市 H4.3.31
・日本近代都市社会調査資料集成 3 大阪市社会部調査報告書 29 昭和七年(2)
                     大阪市社会部労働課 S7.3.25
・大阪市工業名鑑 昭和31年度版 大阪市工業会連合会
・大阪市工業名鑑 昭和33年度版 大阪市工業会連合会

■参考文献(母方)
・「自由と正義と人権をまもる戦い 近江絹絲大争議の経過―組合結成から中労委斡旋案受諾まで―」 1954.8.10発行 全国繊維産業労働組合同盟
・「らくがき」  1956.5.1発行  近江絹絲紡績労働組合 編集委員会
・「オーミケンシ外史 創立五十周年記念」藤川和一 近江絹絲紡績株式会社 S42.10.15
・「のびゆく・・・オーミケンシ 彦根工場」

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<歴史の中の『一人』として>
砺波有希
母方の祖母:昭和6年(1931年)1月14日生まれ 現76歳
  祖母の父は、16歳の時に京都府田原町から、子供が居なかった京都府伏見区にある家の養子に来た。後に、父は母と結婚し、左京区下賀茂に住まいを移した。その頃に、祖母が長女として生まれる。その後、岡崎公園の近くに引越し、この地で昭和9年(1934年)9月1日に、室戸台風に遭う。

  『昭和9年の9月に第一室戸台風、その時に岡崎にいててね、家の前の大きな木がばたー倒れたん覚えてるわ、ひさんやったわ。他はあんまり記憶に残ってないねんけど』

  5歳の時に、一家は伏見区の家に戻る。祖母には、兄が2人(次男は、後に“イキリ”と言う伝染病で亡くなる)と弟と妹がいた。

<当時の社会>
(◎民衆に関わる事 太字祖母の話につながる事)
昭和6年(1931年) 9月 満州事変始まる(15年戦争の始まり)
昭和7年(1932年) 5月 犬養首相暗殺(5・15事件)
昭和8年(1933年) 3月 国際連盟脱退
昭和9年(1934年) 9月 ◎室戸台風 死者行方不明者3066人
東方大凶作 欠食児童・自殺・身売りの社会問題化
昭和10年(1935年) 8月 政府『国体明徴』声明 各学校に訓令
昭和11年(1936年)  2月 2・26事件
 伏見第二尋常小学校 昭和12年(1937年)4月~昭和18年(1943年)3月
 祖母は、伏見第二尋常小学校に入学する。ちょうどこの年、昭和12年(1937年)7月7日にシナ事変が勃発する。しかし、日本の戦況は優位であったため、小学生にとっては戦時下にいるという実感は無かったようだ。

  『今でいう日中戦争やな。それまでずっとまぁ日本は勝ってきたから、戦争は戦争やけど、戦時食とかそんな盛んなく、ずっと五年生まで、五年生の昭和16年(1941年)2月8日に大東亜戦争、今でいう第二次世界大戦やな。それからー最初は勝った勝ったばかりやけど、しだいに負け戦ばっかりでな、やけど日本は必ず勝つって洗脳されてな』
 『学校に行くのにそんなジャンパーとかオーバーとか着たこと無かった。毛糸の手編みのカーディガン、セーター、母親が編んでくれた。五、六年なったら、自分で編んだりしてたわ。今みたいにいろんなもん雑貨屋で売ってないしね。靴下でも破れたら、夜に繕って。毎日着替えて学校行くって感じではなかったし。よそ行きの服は作ってくれたけどね。そのよそ行きのカーディガンとか。私の子供の頃は、ずっと学校時代は、祝日は学校で式があってね、お正月、紀元節、天皇誕生日、明治節、学校行かないとあかんくてね。紅白饅頭貰ったり。』

  休み時間は、縄跳び・お手玉・あやとり・かくれんぼなどをして遊んだりしていた。図工が得意だった。三年生の頃に妹が生まれて、よく背中におぶって世話をしていたという。
 昭和16年(1941年)の五年生の時に、南浜国民学校に変わり、昭和18年(1943年)に卒業する。
昭和12年(1937年) 
7月盧溝橋事件 シナ事変
日中全面戦争に拡大
8月国民精神総動員運動始まる
昭和13年(1938年) 
4月国家総動員法公布
6月[集団的勤労作業運動実施に関する件]文部省通達
◎ 学徒動員の始まり
(中等学校低学年、年3日間、その他5日間夏休み前後
を中心に食料増産、家事、清掃、防空施設など集団で働く)
昭和14年(1939年) 
5月ノモンハン事件
◎ 「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」下賜
7月国民徴用令公布
9月独軍ポーランド侵攻
昭和15年(1940年)  9月日独伊三国同盟
10月大政翼賛会結成
昭和16年(1941年)  3月[国民学校令]◎尋常小学校→国民学校へ
義務教育8年に延長
7月文部省「臣身の道」発行
◎ 学校単位に学校報国隊結成を命じる
10月東条内閣成立
11月◎[国民勤労報国協力令]
    勤労動員義務化
    (男子14-40歳・未婚女子14-25歳)
12月 宣戦布告 太平洋戦争始まる
    (真珠湾攻撃・マレー半島上陸)
昭和17年(1942年)  1月◎学徒動員命令出る
4月B25、東京など5都市初空襲
6月◎(京都府労務課)体育に1校1滑走機、女子は
薙刀、弓道などの教練を通達
ミッドウェー海戦大敗(戦局暗転)
7月◎高等女学校
外国語随意科目を週3時間以内
8月◎京都府、女子中学校から外国語追放
昭和18年(1943年)  2月ガナルカナル島撤退
◎電力及び電灯規制始まる

京都府立桃山高等女学校 昭和18年(1943年)4月〜昭和23年(1948年)3月
 口頭試問(戦時中で紙がなかったので)と内申書で合格する。
 昭和18年(1943年)4月入学する。当時の学年は150人(1クラス50人)だった。
 自宅から20分徒歩で通学した。8時始業し、15時半終業して、放課はクラブがあった(テニスやバレー)しかし、このクラブ活動は1,2年生時のみのことだった。

  『桃山女学校時代には、桃山御陵のふもとに学校があったからね、祝日と30日の明治天皇命日には、桃山御陵参拝して、学校出て帰るまでしゃべったらあかんねん。そんな学生生活。女学校やから女ばっかり。だから授業時間、作法の時間があってね、畳の部屋で、お辞儀の仕方とか、歩き方とか』

  当時の教科は、国語・公民・数学・日本史・科学・図工・音楽・体育・薙刀・弓道・英語だった。英語は週二回あった。しかし英語の授業は、主に1,2年時のみで、3年は動員で授業が無く、4年にまた習いなおした。

  『だんだんと食料がなくなってきて、女学校は行っても一年二年は勉強しながら、学徒動員。農作業の動員とか。あと京都連隊区司令部とかにも行ったことあるし。藤森の。勉強ほっといて一日そこに手伝いにとか。ボランティヤやな。毎日違ったけど、でも3年からは4月からは学校の中の一部を片付けて、飛行機の部分の製作とか。ずっと動員生活が始まって、戦争がだんだん厳しくなってきて、それが昭和20年。でもね、先輩らはもっと遠いとこ行ったりしはったよ。一年上の人とか伊丹で空襲にあったりとか。』

  藤森の京都連隊区司令部では、兵隊の名簿作成をしたという。動員時は、制服は着ずに、カーキー色で胸に『学』の赤バッチのある、学徒動員の服を着て作業をした。昭和20年(1945年)の終戦の年にあたる3年生からは、戦況が大変厳しく勉強はできず、全面的に動員生活をした。桃山女学校は、防空壕や貯水池堀り、桃山御陵清掃、稲刈奉仕、祝園の弾丸詰め、大久保飛行機場での草刈りなどを行った。大久保の日本国際航空工業(軍事会社)の人が来て、学校の教室を改造して作業をした。祖母は、カンナをかけたり、刃をといたりして「あかとんぼ」練習機の修正羽を作っており、終戦直前には、練習機に爆弾を乗せる半円形の台を作っていた。

  『兄は、志願して新潟の陸軍少年兵学校に行ったわ。みんな志願していくのが普通やったからね。軍事色一色やったから。それから2年入って佐賀に配属されて、下士官になれるわけ。20歳になったらその時は徴兵検査っていって二等兵からずっとあがっていくわけ。でも、下士官いうたら兵長になれるわけね。ずっと行ってたわ、終戦まで。私らずっと動員で、一生懸命飛行機作ってして、帰ってきたら配給食や。お米少しで豆やら大根やら。白いご飯とかたべたこと無かったね。大根入れたり、ひじき入れたり、今から考えたら結構健康にいいかもな。』
 『家帰ってからはー戦争中なんかは、食べることばっかり手伝わされたわ。
 芋蒸したり、蒸しパン作ったり。なんか代用食っていうのか。唄でも軍歌ばっかりや。テレビもあらへんし、ラジオは聞いてたけど。本も好きやったね』

  父は寿工場という軍事工場で働き、母は祖父母と小さい妹いたので、家事ばかりだった。終戦後3ヶ月は自宅待機で、母と一緒に代用食をいつも考えて作っていた。
 昭和23年(1948年)の卒業の後、4月に学制改革があり、京都府立桃山女子高等学校と改称し10月に学制改革の結果、廃校となり、在校生の大部分は現在の桃山高等学校に移籍した。

  『終戦は女学校3年生。小学校は6年生までそれから女学校は5年生
 ちょうど卒業するときに学生改革があって今の制度が出来てん。小学校6年生中学3年高校3年。だから私が卒業するときは、女学校5年生で卒業してもいいし、新制の高校へ高校3年生まで進学してもいいっていうことになってね。そのときの3年生は、近くに桃山中学ってあってね。そこと男女共学になったわけ、府立の。だから、ほんで校舎も男子の校舎行かあかんくて。でも、一クラスぐらいはいかはったかな。一学年150人くらいかな、その中の50人はそうやって高校行かはった。私は女学校5年生で卒業して就職した。』
昭和18年(1943年) 
6月◎学徒動員徹底強化
(学徒動員が常時本格化・学徒報国隊の強化)
10月◎中等学校一年短縮・動員年間30日が4ヶ月
国防訓練強化・
12月 第一回学徒出陣
徴兵検査一年引き下げ 満19歳
昭和19年(1944年) 
3月◎中等学校以上1年間の通年動員
4月◎学校工場化実施通達
7月 サイパン守備隊玉砕 小磯内閣へ
◎高等学校・中等学校3年以上は深夜業認可
勤務時間10時間→12時間に延長
8月 東京学童疎開開始
女子挺身勤労令 公布
◎学徒勤労令 公布
11月 B29東京初空襲 本土空襲本格化
12月 東南海大地震
◎翌年卒業する5年生、4年生は卒業後も動員継続
昭和20年(1945年) 3月 東京・名古屋・大阪大空襲
◎学校授業4月1日より1年間停止
4月 米軍、沖縄本島上陸
5月 ドイツ、無条件降伏
◎全学校に学徒隊を組織する
7月 ポツダム宣言
8月 広島・長崎に原爆投下
「終戦の詔勅」放送
8月16日 ◎学徒動員解除
9月 ◎伏見深草へ米軍進駐する。レインジャー大隊・通信隊などが
旧師団本部・工兵隊に入り、接収する。
昭和21年(1946年)11月 日本国憲法 公布
昭和22年(1947年)5月 日本国憲法 施行

安田銀行、後に富士銀行 昭和23年(1948年)4月~昭和30年(1955年)11月
学校に求人がきて先生に薦められたので、内申書と面接で、昭和23年(1948年)安田銀行(後の富士銀行)に入社した。伏見支店で、預金係を2年半勤めた。自宅から近かったので、始めは下駄をはいて行ったが、恥ずかしくなって靴をはいたという。当時の月給は3000円ほどで、靴一足も買えなかったので、何ヶ月が貯めて買った。

<当時の安田銀行・富士銀行と経済社会>
昭和23年(1948年)
4月 マーシャル・プラン発足
証券取引法 公布
8月 総司令部、新立法による金融制度の全面的改正を勧告
10月 富士銀行発足
昭和24年(1949年)
3月 ドッジ・ライン実施
4月 単一為替レート設定
6月 日本銀行法 改正
7月 第一回富士割増定期預金取引開始
9月 シャウプ勧告全文発表
11月 外国為替銀行に指定
昭和25年(1950年)
6月 朝鮮動乱勃発
昭和26年(1951年)
3月 総預金残高1,000億円達成
6月 証券投資信託法 公布
8月 普通預金記帳会計機の採用
昭和27年(1952年) 4月 日米安全保障条約発行
10月 新複写方式 採用
ユニット・システム採用
 

『その時分は大阪が、ものすごく戦災でもうほんま全滅してしもてん、町全体が。だけど銀行の建物は鉄筋で丈夫やったから残っててんね。で、終戦後2、3年したらずんずんと経済が発展してきて、あの、京阪沿線の支店に勤めているものは、とられたわけやな、そこに、応援として。その時分、京阪線は天満橋終点やって。降りたとこにあってね。そこでまた2年半ぐらい勤めて。昭和30年11月まで勤めた。ほんで12月に結婚してん』

  祖母も女では珍しかったが、昭和27年(1952年)に天満橋支店に転勤になった。大阪なので、スーツを着て行った。朝は8時半から、夜は残業があれば9時くらいにもなった。本当は女性は、8時までしか働いてはいけなかったから、労働局の人が調べにくると、別の部屋で仕事をしたという。月給は1万円くらい。仕事の後や休憩時間には、歩いて大阪城に行ったりした。このころは、平和で楽しい日々だったようだ。
 ちょうど富士銀行だけでなく、日本社会全体が復興にむけて、経済力を上げてきた時期であり、祖母が入社した昭和23年(1948年)頃から、積極的な行員養成・事務合理化が始まったとされる。また、インフレーション、デフレーションと短期間に、社会の情勢が揺らいで大変不安定な時期だったといえるだろう。
 祖母は、昭和30年(1955年)11月結婚のため退職する。

  昭和30年(1955年)12月14日結婚 25歳
 親戚のすすめで、29歳だった母方のいとこである松井和夫と結婚することになる。祖母は、縁あって母の里に来ることになった。当初、京都府宇治市伊勢田で、姑と夫と夫の弟との4人暮らしだった。夫は、花の栽培など農作業を営んでいた。

  『私全然農場の経験なんもあらへんのにな。畑違いの仕事ばっかりやった。まぁ一生懸命。しゃあない、自分の宿命やと思って』

  姑はワンマンで傲慢な性格だったためとても厳しかった。結婚してすぐに妊娠したが、逆子のために死産してしまう。祖母はこのとき一週間泣き暮らしたそうだ。

  『最初の子が生まれたん結婚して一年目の昭和31年(1956年)の12月。生まれて産声あげんと…。里で、伏見で産んでん。そんな時分ね、産婆さんいうて助産婦でみんなかかってんね。せやから、産む前に産婆さんに見てもらいに行ったら、逆子になってるって言われて、ほんで病院行って、治してもらってください言われて、ほんで病院行って、お腹ぐぅって回してもろうて、でもまた8ヶ月に見てもらった時、また逆子やって。また治してもらいにいってんけど、脂汗が出てすごい痛かった。そんな無理して逆子直してるから、生まれてくるときにへその緒が縄みたいになってねじれてて。縄みたいになるとへその緒が短くなるやん。だから、生まれてくるときに出にくかってんな。』

  翌年昭和32年(1957年)長女を出産し、昭和34年(1958年)に次女、昭和36年(1959年)長男を産んだ。子供三人の子育ては大変で、常にこどもを背におぶったまま農作業や家事をした。

  『網一日中背中におうてた時あるわ。乳飲ますか、オシメ代えるか、そのときぐらいしか、下ろさなかった。でも、そやなかったら誰もみてくれへんもんなー。』
 『掃除洗濯買い物みんなしてたん。で、間があったら田んぼ行ってー。その時分、電気炊飯器ってあらへんやん。朝起きる時に、あんたのお母さんすぐ目があくねん、早起きやねん。私起きるともう起きてしまうから、背中にしょって、ご飯炊くねん。知ってる?お釜さん、釜戸あるねん。薪とか藁くべて。お釜さんでご飯炊くねん。で、後ろに壁があってね。ドーンドーンってあんたのお母さんの頭よくぶつけてしまったハハハ』
 『薪で焚くか、瓦で焚くかして、五右衛門風呂や。桶風呂や。ほんで、水はね、バケツで汲むねん。井戸から20歩ぐらい離れたとこにお風呂があってね、だから満杯に入れられへんし。薄暗い電気でね、今から思ったら汚いお湯やったんやろな。隙間だらけ。で、お風呂上がったら、今の土間のとこをだぁーて走って家の中入らないといかんかった。でも、温まったんかな。木の桶のお風呂やったから。ほんで一人ひとり入らはるやんか。最初、男入らはって、姑さんが先かどっちか入らはるやん。そしたら『お湯加減はどうですかー?』言うて焚いたげんねん。結構用事があってん。それもあんたのお母さん背中におぶってな」

  花の栽培は5,6,7月が一番忙しく、つぼみのまま切り取るので、朝4時に起きて仕事した。今から考えると辛い生活でよく辛抱していたと語る。
昭和57年(1982年)に姑が脳梗塞で半身不随になり、実母も癌で8月に亡くなった。両方掛け持ちで病院行ったりして、この時期はとても大変だったという。

  『まぁお蔭様でみんな公立の城南とか西宇治行って、みんな現役で大学行って。まぁすすすと来たな。順調に。まぁ苦労した甲斐があってこの幸せがあるんやと思って。まぁ上を見たらきりないけど。よう私の母親がね、「人生はこう平行線でずっと行くのが幸せや」口癖に言うてはったからね.
  「自分の子供が幸せに暮らしてくれんが一番幸せや」言うて親の思いは誰でも一緒やな。んー死ぬ前は「あたしは幸せやった」いうて母は亡くなったし、私もそのようにして命を全うしたいな思うてるけどね』

  現在は宇治市伊勢田にて、長男一家と共に夫と暮らしている。家庭菜園などをする傍ら大正琴を趣味として、妹や農協仲間と国内国外と頻繁に旅行に行き、快適な生活を送っているようだ。

<まとめ>
祖母の76年という歳月はとても長い。戦前、戦中、戦後、高度経済成長期を経た現在。そのすべてを祖母は、生きてきた。祖母が見てきた社会とは、どのようなものだったのだろうか。私にとって、今の社会は、大枠としてはずっと絶対安定なものであるだろうという意識が少なからずあるのだが、祖母にとって、社会というものは、常に変わりゆく不安定な存在なのかもしれない。
後世に伝えられる歴史年表には、一人一人の庶民の生き様などもちろん書いてはいない。だから、私たちは、歴史をみるときに、権力者の下にいる庶民の存在を深く考えることはほとんど無い。祖母も、ただの一人の庶民に過ぎないが、この調査によって、歴史を構成している『一人』であるということを、また、そんな『一人』がたくさんいて歴史というものが創られていくのだと、私は改めて考えることが出来た。また、私自身も、祖母の子供の子供として、歴史の中に構成された『一人』であることを実感した。
この調査にあたって、祖母は、大切に保管していた古い資料を、私のためにいろいろと探してくれたようだ。聞き取り調査方法に関して、反省すべき点がいくつかあったのだが、快く協力し、気持ちをこめていろいろなことを話してくれた祖母には感謝したい。

■ 参考資料
『富士銀行八十五年史』昭和35年11月1日 富士銀行八十五年史編纂係
『女たちの戦後史―大阪からのレポート』1989年4月 柴田悦子ほか 創元社
『伊丹動員の回想』平成9年9月11日 桃山高女伊丹動員の会
『昭和18年度 校報』京都府立桃山高等女学校
『月刊 京都』1988年4月号 白川書院新社

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祖母の想い出
箱家里美
【はじめに】
 女性史ということで私の祖母の話を聞いた。今まで詳しく聞いたことがなかったため、どんな話が聞けるのかと楽しみだった。
 祖母は昭和4(1929)年10月14日生まれで現在77歳。滋賀県長浜市出身の男6人、女5人の11人兄弟の4女として誕生する。
 小学校(6年),高等小学校(2年)に通う。家から学校まで4キロの道のりを毎日歩いて行ったという。

  4年生のときにシナ事変が勃発して、6年のときにシンガポールが陥落したって、村の人とお祝いしたよ。そんときはまだ豊かやったよ。みんなでご馳走つくってね。戦争が本格的に始まったのは、そやかて高等小学校1年くらいに学校から軍需工場へ働きに行かされたからね。蚊帳を織ってるところやけどね。そこにね6年のとき一緒やった子がいてね、義務教育は6年やったから、もう働きに行ってやるねん。もうベテランやからね、同じ年の子に指導されたのを覚えているわ。

【戦争時代】
 太平洋戦争は昭和16(1941)年12月8日に始まる。祖母は鈴鹿海軍工廠という軍需工場へ働きにでる。鈴鹿海軍工廠は昭和18(1943)年6月1日にできる。ここでは、1.兵器 2.弾火薬類 3.燃料 4.軍需資材 5.準軍需品 6.軍用建物及工作機械 を作っていた。やはり戦争で使う兵器や弾火薬類が圧倒的に多く作られていた。資料に書かれている量は、私にはとても想像できないくらいの多さだった。
 このほかに三重県での軍需省に属する軍需品生産工場で海軍関係は、昭和16(1941)年4月4日第二海軍燃料廠、昭和19(1944)年4月1日津海軍工廠ができている。

〈海軍工廠での様子〉
 祖母は昭和19年4月〜20年8月までの約1年半働く。年齢は、14〜15歳の頃のことである。

  高等小学校を卒業したら、みんなね、軍需工場へ行け言われた。ほんで私はね、海軍工廠っていうところへ行ったん。13ミリ機銃て言ってな、飛行機の上から打つ機銃やわね。滋賀県の人何人かずつよってな、ほて三重県に就職したんや。寮生活やで。ほんでその三重県の寮からね、工場までが4キロほどあるの。和歌山の子もあれば三重県の子もあり、そんな子ばっかり寄って寮に入ってるやろ。ほんで海軍さんの工場やから海軍さんとおんなし態度とってなあかんねん。敬礼もせなあかんし、海軍の帽子もかぶらなあかんし。ほて寮から工場まで4キロの道を行進して行くんやけど、その間に空襲があるんよ。道にようけ並んでるからバラバラと落ちてくるんよ。そうすっと空襲警報発令と言うとね、お墓であろうがピタッとなって歩かれへんの。地べたに腹ばいになってね、ほて合図するまでじっとしてるの。下がジュクジュクしてるところでも腹ばいで。そんな長い時間でもないんやけどね、もう長かったたら30分くらいやね。短いときは15分くらいでね。行く途中にね、何にもないんやけど、ただひとつだけね、物資部ていうてね、必要なものを売っている店があんの。男の人にはひげそりとかな。一般では売ってないねん。我々の家の方ではね。

  海軍工廠っていうところは、海軍さんと同じもの食べられるねん。そやからね、不自由はないねん。家より不自由せんねん。ほんで会社にはね、大将(たいしょう)奉戴(ほうたい)日(ひ)っていうてね、月の8日になったら海軍さんがきちっと服装揃えてね、冬はマント着て、帽子をかぶってね、たあったあったときはるねん。みなそこに並んでね、敬礼するやろ。その姿にねみんな憧れてね。すごくきれいやからな、その姿が。少尉、中尉、大尉ってそんな人ばっかりやもん、その人達が朝の挨拶をして戦争中の歌を歌ってね、帰りはるんやけどね。それをみんなで「ええなあ、ええなあ。」とみとれてたの。
 1年に1回外泊って帰らしてくれはんねん。切符は自分で買いに行かれへんから、寮の人がまとめてこおてきてくれるねん。こおてきてくれるのはいいけど、汽車が来たかていっぱいの人やねん。座るも何もあらへんがな。みんなぎっしり立ってるねんで。若いからトイレなんていかへんけどな、年寄りなんて乗ってなかったで。ほして兵隊さんがね移動しはるときがあんねん。その汽車にあたったら兵隊さんばっかりや。ほしてその中に乗っていくやろ。近所に桃をつくってはる家があって、夜そこに行くねんな、ほんでいくつかとってきてな。見つかったら怒られるから見つかったっていうて青うなって帰ってくるんや。しばらくするとまた取りにいこかっていうてな。そやから桃は嫌というほど食べたね。(笑)ほして田舎の人がさつまいもをつくってはるんや、それを起こしてね、蒸さはんの。それを買うてくるんや。その芋を買うてきてはみんなで食べたね。若かったから食べたいんやろな。

〈海軍工廠での一日の生活〉
 朝はね6時に起床。ほて海軍と一緒でね、「総員起こし5分前」ちゅうて廊下にきはんのや。ほでその次は「総員起床」といっていいはんの。寮長さんがきはんのや。ほてそれがすんだら「洗面結髪」ていうてね、めいめい顔を洗って、縄のたわしのようなものをもって廊下を磨く。軍隊の歌を歌って。

「1、見よしょうとうに思い出の    Z旗高くひるがえり
    時こそ来たれ令一下       ああ十二月八日朝
     星条旗まず破れたり       きょうかん(凶鑑?)さけたり沈みたり
2、あの日旅順のへいそくに     命のささげた父祖の地
ついでくった真珠湾・・・    (途中までしか覚えていない) 」

  ほでね、それがすんだらな、食堂へ集合。食事はだいたい7時ごろになるんやわ。何百人と食事にきてはるわ。場所は決まってるからな。
 ほして食べたらな、次は出発。「総員集合」ってかかる。運動場のとうな広いとこがあるんや。各寮で並んで、いっぱいや。工場へ出発するんやけど、長い長いんや。とっととっとと歩かなあかん。1時間は歩いたね。工場へついた者からそれぞれの各部署へ行って仕事をはじめたと思うんや。私は器具の貸し出しっていうてね、現場の人がこれ破損したからって持ってきはるのを棚のとこに行ってね、新しいのと交換する。たいした仕事じゃないけどね。ずっとそれをしてる。
 昼は12時から休憩があったんやけどな、向こうで何を食べたか全く覚えてないんやわ。昼の前にラジオ体操があったわ。ほれからまた仕事にかかるやろ。
ほてね、16時ごろになったらな、私らの寮の子らをみな集合させはるねん。そして寮に帰るの。ほで残業っていうて夜暗なるときまですることもあんねんで。「残業してくれ」ってな。その中で一番印象に残ったのは、電気を田舎はそんな使わんのや。電気をつこてると敵に見つかるからな、そやから暗いんやわ。トイレ行くのも怖いからトイレできちっとしやる人がいいひんねん。これは上の人から強く言われたわ。
 18時頃にまたみんなよってご飯食べて、それから洗濯せんならんやろ。風呂が大きい風呂やったんや。私は家の風呂しか入ったことないやろ、だからすごい大きく感じたんかもしれんな。広い大きいとこで洗濯もしてるしな。
 消灯は21時。寮は何号室に入れってね、そんな布団なんてあらへんみんな毛布やで。ほんで毛布を5,6枚くれはるんや。それで寝るんや。一部屋に5人ほど入る。毛布もきちっとたたんで四つ折にしてな、その上で寝るの。四つ折にしたら、みんな幅一緒やからそれを並べて寝るんや。でも寝られへんのや、毎日ぺちゃぺちゃ喋ってんのや。どんな子らと一緒になってるかっていうたらね、年はみんな同じなんや。和歌山の子ほれから私は滋賀県の長浜やろ、当時は坂田郡ていうたね。ほて虎姫の子、大津の子やら、このこら4人で暮らしてたんや。部屋で。だあっと部屋あったんやけどその子らの顔しか覚えてないわ。ほて私は学校から一人やったから、はじめは寂しかったけど、お母さんや弟が餅やらな、農家やからできるんやけど、持ってきてくれたのを覚えてるよ。内緒やけどな。寂しかったけどな、思い出っていうもんは楽しいもんや。そんときは苦しかったしな。

〈服装〉
 服は国防色でな上着とズボンがあって、2着ずつ渡されたんや。帽子にはいかりマークが入っててな、行くとき帰るとき、会社で仕事しているときずっとかぶってんのや。

〈食事〉
 朝はおいもさんの入ったご飯やら、だいこんが入ったご飯やら、だいたいさつまいもご飯が多かったね。おかずはお味噌汁やら、何かたいたものやな。夜はおいもさんのご飯と魚やらがでたね。あと野菜のたいたやつ。お正月は雑煮がでたし、ぜんざいもでたしね。

〈給料〉
 給料もらえたんやけど、私らの手元には一銭もない。ほんで給料みな貯金してはってん。ほんで終戦で帰ってきたやろ、大人の人の月給が100円やったんや。そしたら400円も送ってきはってん。兄弟ようけいるからな、商売もしてるけど、お金に不自由してたしな、そのお金を姉さんらが結婚するためにつこたと思うで。

〈敗戦〉
 戦争が終わった昭和20年8月15日はラジオで敗戦を聞いたという。

  天皇陛下が話されるのを仕事場で土下座して聞いたんや。働いてる人ばかりで聞いてたんやけど「負けたんや」とはがっくりしたけど、次には「帰れる」という気持ちが出てきたな。

【まとめ】
 海軍工廠での生活について色々聞いたが、私が想像していたよりも良い生活だった。食事をきちんとできたことが一番大きいと思う。給料をもらえたということにも驚いた。14,15歳の少女だから親にも会いたかっただろうし、嫌なことがたくさんあったと思うが、祖母は笑顔で「ええ思い出や」と話していた。60年も前の話なのによく覚えていると感心すると同時に、忘れられないほど強い印象だったのだろうと思った。海軍工廠での話にはなかったが、戦争で亡くなった兄弟のことを話した時には、涙を目に浮かべることもあった。
 現在、祖母は祖父とけんかしながらも、仲良く、元気に暮らしている。今このように元気なのは、昔のつらい思いを、乗り越えて生きてきたからだと思う。これから先、私には乗り越えて行かなければならないことがたくさんある。祖母に負けないよう、生きていきたいと思った。

■ 参考文献
「三重県史」      
「三重県史」 資料編 近代3 産業・経済
「馬と兵隊―私のルソン島敗戦記―」

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