INDEX
尼崎を訪れて
富松城
野島断層保存館を訪れて
明石城
南京町を訪れて・・・
福原京
大輪田泊
篠山を歩いて
八上城に登城してからの考察 
澤田 久美子
木下 麻奈美
水谷 有花
高橋 朋美
西田 萌
堀部 久美子
青木 文香
鵜沼 亜依
安川 達朗

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尼崎を訪れて
 尼崎は平安時代頃から港町として発展してきた、中世有数の自治都市である。事前に尼崎について調べていく中で私が最も面白く感じたのはこのことについてである。自治都市として私が思いつくのは堺などの都市で、あまり尼崎にはそういうイメージがなかった。尼崎について調べていくうちに尼崎には有力な問丸ら商人がいたこと、住民の力が強く一度は織田信長の軍勢を退けたことがあることなどを知り、活気のあふれる都市だったのだろうなと自治都市尼崎を想像していた。
 私は尼崎を訪れたことは初めてだった。尼崎をバスの中から眺めながらいろんなことを考えた。マンションや住宅が立ち並ぶ地域、高い建物が立ち並ぶ地域などを通り過ぎながら「ここは昔々は海の底だったんだ」などと少し考えていた。事前調べで縄文時代は海の底だったと知ったためだ。また先ほども書いたように、有数の自治都市であった尼崎の様子はどんなだろうと思いながら眺めていた。
 尼崎に着いて、富松城を訪れた。まず、富松城についての説明や富松城に関する活動の内容、まちづくりなどについての説明をしてもらった。これまでの活動やその成果を聞いていて、私は「尼崎は、今も昔も活気に満ちた町なのだ」と感じた。そう感じた理由には他に、お話を聞いている中で聞いた女子高生の活動がある。富松城跡についての研究活動を行い、城跡の保存活動を展開する地元グループとの交流を深めている2人の女子高生。とても意欲的で努力家でだ。自治都市であった時代の活気は現在の尼崎にも健在で、また女子高生の興味を惹きつける魅力が富松城にあるのだと思った。
 その後、富松城のお堀の跡に案内してもらい、そこでも説明してもらった。「城」と聞くと想像するのはやはり石垣のある城郭で、この富松城は街の真ん中にポンとあって城跡という感じもあまりしなかった。ただ堀の跡はしっかりうかがえ、とても貴重な城跡なんだと思った。
 旅行後、もらった資料をもう一度見た。旅行中には気づかなかった面白い取り組みをいくつも見つけた。富松城一夜城体験学習で富松城土塁復元に挑戦したり、手作り大絵馬に富松城を守る願いを託し奉納したりといったものだ。尼崎の地域誌にも何度か掲載されているし、研修・講座・シンポジウムが行われている。まちづくりには、新しい名所を作るより、自分の地域の知識を増やし、それを広める活動を行い、周囲からの認知を高めることが必要であると思う。そのどれもが進められている。写真を見せてもらったが、鎧を着て行われたパレードなどは直接自分で感じることができるので、見る人も興味がわきやすいだろうと思う。富松城は大切な城跡で、尼崎の自治都市民を思わせる活発な地元の人たちによって守られている、それを強く感じた旅行だった。
(澤田 久美子)

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富松城
 私は今回のゼミ旅行の事前調査で富松城を担当することになり、見学当日に案内をしてくださる「富松城跡を活かすまちづくり委員会」のホームページを見ました。そこには富松城跡とそれに関連する出来事を紹介するバーチャル博物館があり、富松城へのみなさんの熱い思いを強く感じることができました。私は委員会のみなさんが一体どのような思いで「まちづくり」をされているのかとても興味を持ち、どのようなお話を聞けるのかと、見学をとても楽しみにしていました。
 見学当日まちづくり委員会のみなさんと、その代表である善見さんは、とてもあたたかく私たちを迎えてくださり、丁寧にわかりやすくお話をしてくださいました。善見さんは「富松城を活かすまちづくり」というのは、「子どもたちのためのまちづくり」だとおっしゃいました。富松に住む子どもたちにとってよいまち、故郷であってほしいということが一番の目標であり、願いであるのだということをその話しぶりから強く感じました。また「よい故郷というのは、良い大人同士の関係がなければうまれない」、「富松城を過去と現在、そして未来とをつなぐ道標として、富松に昔から住むものと、新たに住みだしたものとをつなげたい」ともおっしゃっていました。それらを実現するために、富松と富松城と歴史について勉強し、それを住民の方にも知ってもらいたいと勉強会をひらいたり、富松城に関連する行事をして世代間の交流をはかったりされてきました。生まれ育った時代の異なる大人と大人、そして大人と子どもをつなぎ、将来の担い手である子どもにとって「よいまち」であるようにと強く思う気持ちを感じました。
 当日は富松城跡にも案内していただきました。外から見ると少し土地の盛り上がったところに木が生い茂っているようにしか見えませんでしたが、茂みの中に入っていくと、外を見張るために築かれたと思われる外側に向かって少し高くなっている部分がありました。私は当時の気分を味わおうと思いそこに立ってみましたが生い茂っている木しか見ることができませんでした。もう一つ、そこに富松城があったと思われる跡がありました。それは茂みの中をすぅっと伸びている堀の跡でした。目ではっきりと見ることができ感動しました。
 最後に、「富松城跡を活かすまちづくり委員会」のみなさん、私たちをあたたかく迎えてくださり、親切丁寧、わかりやすく、そして熱心にお話をしてくださり本当にありがとうございました。また富松城跡へも入らせていただき、とても貴重な体験となりました。今回の旅行を通じて、富松をもうよその知らないまちとは思えなくなりました。これからの富松にも注目していきたいです。
(木下 麻奈美)

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野島断層保存館を訪れて
 野島断層保存館には、実際に断層によって地面がせり上がった様子が、ありのままに残っていた。地層が掘り下げてある部分をみると、別の層が隣り合っていたのが目で見て確認でき、驚いた。館内には、小さな模型があり、ボタンを押すとどのようにして揺れて、断層ができたのかがわかった。すごく大きく揺れて、地層が上下左右に揺れ、そして最終的に右横ずれになったのがわかったけれど、それが実際に起こったと思うと怖くなった。過去の地震の起きた場所や、近年起こり得る地震についてのパネル掲示があったが、新潟が地震の予想地となっていて、実際2年前に新潟で地震が起きたから、すごく現実的に思えた。日本はやっぱり地震大国なんだと思った。
 地震体験コーナーがあり、震度7と震度4の揺れを体験することができたが、体験では、上からものが落ちてくることはないし、手すりにつかまって座っているだけだから、アトラクションのような気持ちで体験できたが、実際そんな揺れが起こったら、我が家は潰れそうで怖い。また、揺れている時間も結構長く感じた。
 メモリアルハウスとして保存されている断層が横切る民家には、台所に震災直後の様子が再現されていて、食器棚は倒れ、床に食器の割れた破片が散らばっている様子を見たら、心底怖くなった。そこで伺った実際に被害にあった方の話では、その再現された台所はまだマシな位だとおっしゃっていて、想像がつかなかった。私の家は全く地震対策をしていないので、食器棚もタンスも倒れてきたら、相当危険だろうなとは思っていたけれど、メモリアルハウスを見て、なんとかしなければとおもった。地震後に家族や近所の人を助けるという話はとても参考になった。メモリアルハウス内には当時の被災した小学生の作文が掲示してあり、読むと家族や友達が亡くなってしまった話で悲しかった。
 阪神淡路大震災では、私の住んでいる地域では震度3〜4程度で、ほとんど被害はなかった。しかし、いつ起こってもおかしくないと言われ、起こってしまえば地震で被害が大きいとされる地域である。命を落としてしまってからでは遅いのだから、過去の地震を教訓にして、被害をできるだけ防ぐことが大事だと思う。
 野島断層保存館へ訪れて、過去の被害のこと、未来に起こりうる地震の
ことについて考えることができた。この経験を無駄にせず、活かしていきたい。
(水谷有花)

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明石城
 私は明石城について調べていた。実際に旅行で現地を訪れてみて、考えていたよりも高い位置に櫓があり、海も見えた。事前に調べていて写真で見ていた時には全く分からなかったが、意外にも小高い丘の上に城があった。今は駅の前が公園になっていて、駅を降りればすぐに石垣が見える。天守台からは辺りが一望でき、今のようにビルや駅がなかった頃は、城下も海もよく見渡せたのだろうと思った。実際、わずかに海と明石海峡大橋を見ることができた。
 城の入り口部分では、敵の侵入スピードを緩めるために曲折させた造りになっているのがよく分かったし、実際に石垣の上に登ってもらって上から矢を打たれるというのを体験できて城を攻める兵士になったつもりで観察できた。上からの攻撃には予想外に恐怖感を感じたが、今は石垣だけで本当は石垣の上に櫓のようなものがあって、隙間から矢が飛んでくるので、城に侵入する時は上からも前からも敵は攻撃してくるため命がけの突入であるということを改めて実感した。また、石垣の反りが非常に美しく、「これを昔は人が組み立てたんだ」という驚きや、「角が整っていてきれい」という声も聞かれた。前日の富松城や翌日に訪れた八上城とは石垣が残っていたり、櫓が復元されているという点において異なっており、様々な時代の城の変遷を知る上でも訪れることで自分の目で確認することができてよかった。櫓は土日しか公開しておらず、見学できなかったのは残念であったが、外観を見ると漆喰の色がきれいで、海を往来する灯台的存在だったというのは納得できた。
 城巡りの旅行ということで楽しみにしていて、行ってみて城と様々な地域を見ることができ、事前学習の大切さと実際に目にすることの重要性を知ることができた。とても有意義な旅行だったと思う。                
(高橋朋美)

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南京町を訪れて…
 私は神戸に初めて行きました。長年暮らしてきた滋賀県とは全く違い、どこか外国を思い起こさせる雰囲気にとても驚きました。その神戸の街の中に、南京町がありました。
 南京町の入り口には立派な門がそびえ立っていて、その門をくぐると、そこは活気あふれる中国の街でした。飲食店などが軒を連ね、前を通りかかる人に呼びかけます。その言語は日本語なのですが、どこか違う言葉に聞こえ、ここは日本なのですが、どこか違った国に迷い込んでしまったかのように思われ、とても不思議な気持ちになりました。
 時間の都合上、短時間しか南京町を見ることができなかったので、またいつか訪れ、次こそは南京町を満喫して帰ってきたいと思います。
(西田萌)

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福原京
 神戸の街を歩いてみて驚いたことは、遺跡の多くが普通の街角にあって、それと知らなければ気がつかないようなところにあるということです。遺跡や遺物などは、博物館にあるものだと思っていたので、こんなに普通にあるものだと驚きました。本当に平清盛がここに居たのだな、と感じることができました。やっぱり資料などで見るのと実際に歩いて実物を見るのとではぜんぜん違いました。地図で見るだけでは分からない坂道の勾配なども体感しました。清盛も考えたように、この地に都を構えるのにはやはり平地が少なすぎると改めて思いました。
神戸大学医学部では実際に発掘が行われたという場所でお話を聞くという貴重な経験ができました。楠・荒田町遺跡というものですが、建物跡や二本の溝などが見つかっています。この二本の溝については用途がはっきり分かっていないそうですが、平氏と関りのある遺跡だそうです。
祇園神社からの神戸の眺めは本当にすごくて感動しました。昔は海まで見えたそうですが今は見えなくなったのが少し残念でした。高いところから見ると、福原京の範囲などが分かりやすかったです。
清盛塚は事前学習のときに見つけていたので実際に見られて本当によかったです。思っていたよりも大きかったし、立派だった。資料にあった写真では清盛の像が写っていなかったのですが、実際にはすぐ隣に像があってびっくりしました。
最後になりましたが、始めから私たちを案内してくださった岡崎さん、菱田さん、神戸大学医学部でお話をしてくださった岡田さん、暑い中私たちに福原京の遺跡を案内していただいて本当に有難うございました。                 
(堀部久美子)

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大輪田泊
 事前学習で、私は大輪田泊について調べました。平清盛が平氏の勢力拡大をするにあたり、重要な役割をしたのがこの大輪田泊です。清盛が貴族たちに反対されても、福原京にこだわった理由の一つが、この大輪田泊での国際貿易による財源確保があげられます。
 そのように、清盛の平氏政権の基盤を築いた大輪田泊でありましたが、度重なる戦乱の舞台となったために、その姿は現在には跡形もなくありません。
 今回のプレゼミ旅行では、岡崎さんと岡田さんと菱田さんに、同じく現存していない福原京と大輪田泊があったとされる神戸市内を案内していただきました。
 現在では閑静な街並みであるけれど、800年ほど昔には平家が栄華を誇った福原京と大輪田泊があったかと思うと大変興味深いものがありました。そして、坂道が多く海抜も高そうに思われるこの土地が、かつては海だったというお話に驚きました。散策の途中にあった祇園神社から見た神戸の街並みは震災の過去を思わせないほど、きれいで新しく整備されていて神戸市民の皆さんの努力が見えるようでした。
 案内してくださった三名の方々は神戸の歴史価値を大変重要視されていて、その歴史を伝えようとする姿が印象的でした。真夏のような日差しの昼下がりの中、貴重なお話をとても丁寧に説明してくださり、また私たちの体調にも気を配っていただいて、大変ありがたく感じました。
 今回のプレゼミ旅行では、個人ではあまりできないような貴重な体験が出来、有意義なものになりました。この体験を今後の学校の授業に生かしていきたいです。
(青木文香)

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篠山を歩いて
 ゼミ旅行3日目、篠山市内を歩きました。最初に、能楽資料館を訪れました。能楽資料館には女性の面や狐、痩せ男、そして般若といったさまざまな面がありました。同じ種類の面でも一つ一つ表情が微妙に違い、どれも生きているかのような印象をうけました。篠山には春日神社があり、その境内には能楽殿があります。また、元旦には能が舞われます。能楽資料館に行って『能』が篠山の重要な伝統芸能であることがよく分かりました。そして次に、丹波古陶館に向かいました。大きさも形も色も違う丹波焼が多く展示してありました。焼物には詳しくありませんが、年代や形、装飾などを分けて展示してあったため、とても見学しやすかったです。展示品を見ていると、どれも作った人の思いがこもっているだろうなぁと感じました。能楽資料館と丹波古陶館では、篠山地方の文化のすばらしさを見ることができたと思います。
 それから篠山城を目指して篠山市内を歩きました。歩いていると、どこでも丹波黒大豆や山の芋などの特産品があり、黒豆茶を飲ませて下さる方もいらっしゃいました。町全体で篠山をアピールしているようで、いい町だなぁと感じました。篠山には有名なものが多いことを実感しました。篠山城跡に着くと広さに驚きました。南馬出しを見に行こうとしましたが、広さのあまり道を間違ってしまいました。ここに城があったのだと考えると不思議な感じがして、ただすごいなぁという思いが込み上げてきました。
少しの時間しか篠山を歩くことはできなかったけれど、城下町としての篠山は落ち着いた町並みで居心地がよかったです。もう少しゆっくり篠山を歩いてたくさんのものを見たかったです。
(鵜沼 亜依)

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八上城に登城してからの考察
 ゼミ旅行最終日私たちは午前中篠山城を見学し、そして午後に八上城を見に行きました。八上城は高城山全体に築かれた山城で、篠山市内から見た高城山は非常に急勾配であるとの印象を受けました。山のふもとは平坦な土地で街道が通っていたそうで、現在も道からすぐに登山口に行くことが出来ました。この篠山の地で山城を築くにはこの高城山が最も良い地形だったのがわかります。
 見かけどおり高城山は非常に勾配が急な山でした。登山道をそれて頂上めがけて真っすぐ登ることは非常に困難を極めるでしょう。城を攻める側は大勢で一気に郭があるところまで行くのは不可能で、時間をかけて斜面を登るか、細い山道を登るかのどちらも困難な方法をとるしかないわけです。さらに籠城側は斜面を登ってくる敵に対して山の上から妨害することが出来ますし、山道を通ってくるにしても道の通し方に攻めてくる敵に対する工夫がされており、地形的に籠城側が有利なことが見て取れました。
 頂上に至るまでの数箇所に郭の跡があり、そこだけ平坦な土地になっていました。逆に郭の前面の斜面は平らにするために削った土を使い、斜面を急にするなど、自然の地形に手を加えた跡が残っていました。味方の移動を容易にし、敵の襲撃に迅速に対応するために城の内部は平らに整備されていたそうです。山頂付近には今でも平らに整地された本丸跡や二の丸跡があり、ほかの郭跡に比べかなりの広さがありました。この城は頂上付近の主郭部分はしっかりとした防御機能を持たせてあることが実際に見てみると良く理解できます。しかし、城全体で見ると防御機能がある場所の数が限られており、またそこに多くの兵を配置するほどの広さが無いので、一国レベルの合戦では十分なものの信長軍を相手にして耐えきれるほどではなく、また大坂城の豊臣秀頼の侵攻を想定しその事態に対応しきれる機能がなく廃城となったのもうなずけます。
 山道を歩くことは普段琵琶湖のほとりで生活している私たちには暑さも手伝いかなり慣れないものでした。それでも文章を読むだけではわからないことが実際に見てみると良く理解でき、事前学習段階で持っていた自分の中のイメージと違う部分が多い事に気づかされました。現地に行ってみることの重要性がはっきりと認識できたと思います。
 最後になりましたが当日お時間をいただいて我々に八上城を案内してくださった西田さんには本当にお世話になりました。各要所では説明を頂いたほか、山頂では資料つきで波多野氏についてや明智光秀との攻防等を話していただき大変勉強になりました。厚く感謝いたします。                       
(安川達朗)

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