祖母たちの時代

INDEX
祖母の記憶  戦争と結婚 竹中記美恵
祖母と戦争と結婚 松本梨沙
「祖母の生きた昭和という時代」 小田 さや華
母の生きた時代 桜田英里子
祖母のクロニクル 元川望


祖母の記憶  戦争と結婚

1. はじめに
 私の祖母は1925年9月25日、岐阜県安八郡北方(現在は大垣市北方)で生まれた。姉2人、兄1人、妹1人。いま、祖母は83歳。

2. 祖母と戦争
 祖母に「昔の話をしてほしい」と頼んだところ、真っ先に話してくれたのが戦争の話だった。
戦争の体験は祖母の人生においてかなりの影響を与えた。まずは戦争のことについてまとめていきたいと思う。

2−1.戦争(終戦時21歳)
 祖母は疎開や軍需工場に働きに出ることは経験しておらず、終戦まで自分の家で生活をしていた。農家であったので、米や野菜を(当時の)自宅近くの畑・田んぼで作っていた。
しかし、兄を兵隊として送り出さなければならなかったり、空襲が度々あったため、恐怖の日々を送っていた。

 戦争のときにはなぁ、兄さを兵隊さんにおくりださなあかんくなってなぁ。小学校まで送りにいったわ。よぉけ兵隊さんがおらした。21歳になって(自分の誕生日を迎えてから)やっとこさ兄さが帰ってきたんや。


2−2.祖母の記憶における空襲とその影響

 田植えの時期やで6月やったか、空襲のせいで田んぼに大きな穴が21もあいたんや。うちの田んぼの近くでなぁ。(爆弾の落ちた田んぼの近くの)家族が4人亡くなってまった。ほて、わしの同級生の子も1人亡くなってまった。空襲はほんにおそがいもんや。防空壕に入ってはいたけどこわてなぁ。
 6月以外の空襲も覚えてはおる。(7月29日の空襲は)家から南を見とったんや。ものすごい赤々と燃えとってなぁ。幸いうちは焼けんと無事やった。大垣の人んらは北へ行かなあかんと言うとった。

大垣市への空襲は全部で6回行われた。そのうち、祖母の記憶に強く残っていたのは6月と7月のもの。6月の空襲はまさしく祖母の住んでいた地区だったため、亡くなった人を雨戸にのせ、リヤカーで運んだという生々しいこともはっきりと覚えていた。

大垣市への空襲が行われた月日と被害
3月3日 県下初の空襲。被害なし。
6月26日 各務ヶ原空襲の一部が北方に飛来。田んぼに爆弾を投下。死者5名。
7月13日 一宮空襲の一部が大垣に飛来。
即死20名、重傷者約100名。
7月24日 原爆模擬爆弾(パンプキン爆弾)を投下。
即死20名、重傷者約100名。
7月28日 揖斐川電気青柳工場、神鋼兵器大垣工場を銃爆撃。
7月29日 B29の編隊90機が大垣に空襲。投弾約2万1千発、不発698個。
死者50名、重軽傷者100余名。
          〈『大垣市史』・『岐阜も「戦場」だった―岐阜・各務原・大垣の空襲―』〉

戦時中の大垣市・その周辺部一帯には、大日本紡績・鐘紡・揖斐川(いびがわ)電気・日本合成化学工業・特殊軽合金など、多数の軍需工場が存在した。それらの工場を爆撃・破壊し、国民の戦意を打ち砕くことが米軍の目的だった。
 7月29日においては、前日に空襲を予告したビラが大量にばら撒かれていた。
 その内容は、
・ 大垣・一宮・津・宇治山田・青森・長岡・函館・郡山・宇和島・西宮・久留米のうち、少なくとも4箇所は爆撃を行う。
・ それ以外の都市でも空爆を行う可能性はある。
・ 目的は軍需工場の破壊であるから、そこの住民は避難するように。
              〈『岐阜も「戦場」だった―岐阜・各務原・大垣の空襲―』より〉
と、書かれていた。
 全体的に自らを正当化した内容だった。しかし、前日にビラ予告を受けていたので犠牲者は少なかった。市の全域が被害を受け、工場や市街地は焦土と化した。祖母が住んでいたところはかつて安八郡であったこと、大垣の中心地からわりと距離があったことから、この空襲の被害はなかったと考えられる。

2−4.大垣市の工場
 大垣の主要工業であったのは、綿紡績・綿織物・毛織物などの繊維工業である。しかし、日華事変・太平洋戦争の影響により、国策上企業整備を行い、工業内容を軍需品製造へ転換していった。
 当時大垣にあった繊維工場
大日本紡績(株)・鐘淵紡績(株)・若林製糸紡績(株)・中央毛糸(株)・太陽レーヨン(株)・大垣毛織(株)・岸和田紡績(株)・岸和田人絹(株)など計76社。

 満州事変勃発(1931年)後、経済統制が強まり、原綿原毛の輸入削減となって繊維業界は苦境に立たされる。その結果、半分以上が繊維工場から機械工場へと顔を変える。機械設備はスクラップして資源を強制供出。そして航空機エンジンの生産をし始めた。中には軍服の製造、陸海軍の毛布、フランネルなどを製造するところもあった。
 もともとの機械工場(太平洋工業・大垣鉄工・東海航空・三菱重工業)では、航空機・自動車の部品・旋盤・ガソリンタンク・補助翼などを生産するようになる。
 繊維工場が機械工場に変わるまで、大垣市の工業種別生産率の80%を繊維工業が占めていたが、1944年(昭和19年度)になると、一変して機械器具製造63%、化学工業18%、あわせて81%あまりを軍需工業が占めることとなった。

                             〈『大垣市史』より〉
まとめ
 戦争による影響で、大垣市のほとんどの繊維工場が軍需工場に変化した。そのため大垣が米軍の空襲の対象となってしまった、と考えられる。
政府の政策でそのような転換を図ったのだろうけど、そうすることで市民の生活が危ぶまれることになった。祖母もそのうちの1人で、「いつ空襲がくるのか、いつ戦争が終わるのか」という恐怖と不安に駆られていた。空襲のために知り合いをなくしてしまったりもした。そんな不安や悲しみのなかで生活することは、今となっては考えられないことだ。
だから祖母は今、平和に生きていることに対して何事にも感謝をしているのだなぁと思った。

3. 祖母と結婚
 次に結婚について。1948年(24歳)で祖母は結婚した。

3−1.お見合い

 おじいさんとはお見合いしたんや。今みたいに写真を事前に見れへんし、場所もうちでやったわ。世話焼き(仲介)と一緒におじいさんが来てなぁ。そのとき初めて顔を見たんや。

 近所で恋愛結婚をした人はなかなかいないようで、お見合い結婚が普通のことであったらしい。祖母と祖父の仲介をしてくれたのは、祖母の家の近所に住んでいた祖父の父親のいとこだった。

 会ったことのない人やったでお見合いのときなんてお互いそんなしゃべっとらへん。ははは。
(お見合いを)断ることは考えてなかったなぁ。

 まったく知らない人と結婚をすることに抵抗はなかったのだろうかと不思議に思った。が、父親の言うことは絶対だったので、断ること自体、考えていなかったらしい。

3−3.結婚式
 
 結婚式は昔やったでたいしたことはしとらへん。おじいさんの家で式したんや。わしは空色の濃いような色の留袖の紋付を着とった。おじいさんはうちに(車で)迎えに来たときは背広やったけど式の時には紋付に着替えたわ。

 結婚式当日は祖父と仲介さんが祖母を車で迎えに来た。祖母の父が祖父の家まで同行し式に出席した。祖母の母は出席してはいけないという風習があったようだが、それが原因なのではなく、体が弱かったために、出席できなかった。
姉妹がいたので、みんなが着られるようにと、祖母の母が留袖の着物を作ってくれた。その着物を家から着て行った。祖父と仲介さんは背広で迎えに来て、家で祖父は紋付に着替えた。
式は午前中に親族(祖母・祖母の父・祖父・祖父の父母・祖母)のみで行った。(まだ誰か参加者がいたかもしれないが覚えていないらしい)
 儀式としては三々九度を行っただけ。
 結婚式の翌日は近所の人たちがお祝いを言いに来てくれた。式の当日に近所の人が来ることはなかった。そしてその翌日(結婚3日目)は「三日帰り」(祖母は「サトガエリ」と言う)。祖父の母と歩いて実家まで帰宅し、1泊して嫁ぎ先へもどる。

4. おわりに
 祖母の歴史は濃い。聞き取りを重ねてそう思った。祖母は20歳までに戦争・農作業のために学校に行かせてもらえなかった、という今となっては考えられないようなことを経験した。戦争・敗戦・高度経済成長・現代。変化を感じ取りながら生きてきたにちがいない。そう思うと自分の人生はまだ薄っぺらい気がした。
 今は戦争もないし、学校にも何の不自由もなく通える。祖母からしてみればそれは当然のことなのではなく、とても喜ぶべきことであると私に教えてくれた。今、特に苦労をすることなく生きている自分の人生を祖母のようにとはいかないが濃いものにしていきたいと思った。
 

参考文献
・ 『大垣のあゆみ―市制70年史−』 大垣市編 1988年
・ 『新修 大垣市史 通史編二』大垣市史編さん委員会 1968年
・ 『岐阜も「戦場」だった―岐阜・各務原・大垣の空襲―』 岐阜市平和資料室友の会 岐阜県歴史教育者協議 2005年

(竹中記美恵)

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祖母と戦争と結婚

1. はじめに
私には祖母が2人いる.父方の祖母は,私が生まれたときから一緒に住んでいたし,母方の祖母も,歩いて5分くらいのところに住んでいたので,小さいときからよく遊んでもらったり,いろいろな話を聞いたりして祖母たちのことは結構知っているつもりでいた.しかし,今回聞き取り調査という形で2人に話を聞くことで,今まで知らなかった祖母たちの人生の一部を知ることができた.
聞き取りによって知ることができた祖母たちのこれまでの人生を戦争と結婚を中心にまとめていきたいと思う.

2. 父方の祖母の話
2-1.祖母の子供の頃
父方の祖母は,昭和3年(1928)9月22日に京都府南桑田(みなみくわだ)郡曽我部(そがべ)村字法(ほう)貴(き)に生まれた.3人兄弟の長女として生まれた祖母には,兄と妹がいた.兄は今も祖母の実家にいるが,妹は結婚後32歳で亡くなったという.

小さい時は,ようソラマメの煎ったんやら,サツマイモの蒸かしたんやらを,作ってくれちゃったさかいに,そんなん食べとったんやで.今みたいなお菓子はなかったわな.ご飯かて,今みたいに白ご飯とちごて,麦の入った麦ご飯やったわ.そやかて,うちは農家やったはけ,都会の子よりは白ご飯も多かったかもしらんけどな.ほて,麦ご飯と,水団いうて,サツマイモとお米で作ったんもよう食べとったわ.今みたいに白ご飯,白米食べるようになったんは,だいぶ経ってからや.大概麦ご飯やったなあ.

子供の頃の食べ物について祖母はこう話してくれた.ソラマメやサツマイモをおやつに食べていたということや,白米ではなく麦ご飯を食べていたということから,祖母の幼少時代の食料不足や貧しさがわかる.また,逆に現代の食が豊か過ぎる様子を感じられるのではないかと思った.

小学校に入学して,戦時中はそないはなかったんや,10歳くらいから始まったんや.戦時中いうても,小学校の間はそないになかったんや.せやかて,高等科になってからずんずんひどなったんや.

祖母が小学校に入学して小学3年生になるまでは戦争はまだ始まっていなかった.戦争が始まってからもしばらくの間は,そんなに激しくはなかったため,小学生時代に戦争を強く感じることはなかったそうである.祖母にとっての戦争の始まりは、昭和12年(1937)の盧溝橋事件を契機とする日中戦争であった。昭和6年(1931)の満州事変によって十五年戦争が始まったが、祖母にとっては十五年戦争の第二段階といえる日中戦争が戦争の始まりであったようである。

学校ではぬか磨き言うて,袋にぬか入れてしゅっしゅしゅっしゅこないして,朝はみんなそういうことして,ほて,ラジオ体操もあって,ほて,朝会があって,それからみんな勉強して.たいがい,それがずっとのことや.長いことずっと.ほて,床がつるつるやった.講堂やら.ほて,並んでな,みんなぬか袋持っていって,きゅっきゅきゅっきゅこすったんやな.

小学校では,毎朝みんなが持ってきたぬか袋を使って床を磨いていたという話をしてくれた.ぬかで磨くことで床がとてもきれいになったということが印象強く心に残っているのだろう.床を磨いた後は,ラジオ体操をし,朝会があって,それからやっと勉強が始まった.小学校では6年間毎日,朝の掃除とラジオ体操と朝会をしていたということがわかった.
祖母が小学校生活の中でもう一つ印象に残っている出来事を話してくれた.それは祖母が通っていた小学校で行われていた体育大会である.そのときのことを祖母はこう話している.

あの,南桑田郡全部,曽我部の小学校が,運動場が広かったはけ,全部来やはって,ほて,それを,体操やらないかい,体育をして,ほて,曽我部の子が5,6年は先頭になって,ずっと並んでこう,後ろにみんないろいろ違う学校の子が来て,寄せたりするのん,みな曽我部の小学校の子が,先頭に立ってしたんや.

亀岡市の資料を見てみると,祖母の通っていた曽我部尋常小学校では毎年,周辺の小学校の子供たちが集まって運動大会が行われていたということがわかった.そのときほかの小学校の子供たちをまとめる役割を曽我部の子供たちがやっていたのである.
戦争が始まるまでと,戦争が始まって激しくなるまでの間は祖母の人生の中での比較的平穏で安定したものだったと考えられる.

2-2.戦争が激しくなってからの暮らし
戦争が激しくなり始めたのは,祖母が高等科に入った頃からである.祖母が高等科に入学したのは昭和16年(1941)である。この年は、太平洋戦争が始まった年で祖母の記憶にもよく残っていたのであろう。

高等科に行く時分になって戦争がだんだんと激しいなって,ほて,高等科は2年で卒業して,ほて,青年学校へ3年行ったんや.青年学校の1年のときは,お針を午前中やって,ほて,それから勉強もして.2,3年になってきたら,戦争やさかいに,開墾に行ったんや.篠村に,開墾に.開墾にいうて,サツマイモやら植えるのにな.この時分はお針やら勉強やらはそないにせんと1日はさみに篠村に開墾にいっとたんやな.

戦争が激しくなり始めると,勉強どころではなくなったのだろう.青年学校でのお針や学業はどんどん減っていって,代わりに篠村への開墾という戦争による食糧不足を補うための仕事をしなくてはいけなくなったのである.しかし,それが当たり前であったと祖母は言う.日本のため,頑張っている兵隊さんのためといいながら自分たちが生きていくことで精一杯だったと話してくれた.
戦争が激しさを増す中で,食糧不足は大きな問題になっていた.学校の運動場にまでサツマイモを植えるようになった.少しでも多くの食料を確保するためには仕方のないことだったのであろう.全てが配給制になり,少ない配給で家族みんなが暮らしていかなくてはならないという状況を考えると胸が痛くなる.そんな食糧不足の中で,京都市内からお米を交換しにきた人々がいたという話をしてくれた.

京都市内のほうからなあ,汽車に乗って,着物もって来ちゃったわな.お米と交換してもらおと思てな,ほて,若い娘がおりそうなとこに来てなあ,せやかて,どこも大変やさかいにそないもらえんかったんとちゃうやろか.うちにも来ちゃったけど,ちびっとしかあげてやなっかたと思うで.おかあちゃんら,ぬか床に隠しとっちゃったんをちびっとあげとっちゃたわ.ほやかて,ほんまはそないなことしたらあかんかったんや.そうして,うまいこともらえたかて,汽車で帰るときに調べられて取り上げられたかもしれんしな.うちはあげるだけやさかいしらんけど,持って帰られんかったんとちゃうやろか.ほやけど,かわいそに思われたわなあ.うちかて,食べなあかんしなあ,そないにぎょうさんあげられへんしなあ.せやかて,あれ,よう見とっちゃったんやなあ,若い娘が,着物欲しそうな娘がおるとこしか行っとってやないしな,見たらわかるんやろなあ.かわいそやったけどなあ.

着物とお米を交換してもらいにきた人たちに申し訳ないと思いながらも,自分たちも生きていかなくてはならないということから少ししかあげられなかったということを今も申し訳ないと思っているのだろうと思った.かわいそうだと思っても,自分たちもギリギリの生活をしているからたくさんはあげられなかったことが,きっと気になっていたのだろう.仕方がないと割り切りつつもそうし切れなかったのではないかと思う.
祖母が住んでいた地域の戦争中の様子を調べていく中で,祖母の記憶にははっきりとは残っていないが,祖母の住んでいた地域の周辺に爆弾が落ちたということがわかった.1945年3月19日,南桑田郡曽我部村山林に爆弾が投下されたらしいのだが,祖母はどこかに落ちたというのは聞いたような気もするという程度だった.自分たちに被害がなかったので,あまり気に留めなかったのだろう.祖母は直接空襲の被害を受けなかったようであるが,大阪で空襲があったときには山の向こうが赤くなっているのが見えたという.それを見て,山の向こうでの空襲の激しさが感じられたと話してくれた.

2-3.結婚について
祖母が結婚したのは23歳のときで,お見合いによるものだった.

結婚はお見合いやったわ,ほて,その時分はお見合いはっかりやった.結婚の前には2回くらい会ったわ.家が遠いとこの人やら,兄弟が多いことの人はかなんさかいに嫌やいうて.仲人さんがこの人はどうやいうて話持ってきちゃったけど,断ることが多かったわなあ.

祖母の時代で恋愛結婚をする人はとても珍しかった.ほとんどの人が仲人さんの持ってきたお見合い話で結婚したと話してくれた.祖母の場合は,祖父と同級生で勤め先が同じだった人が紹介してくれたそうである.
結婚式は祖父の家で行われ,祖母の方から出席したのは,祖母の父,父の弟,母の実家の人,髪結さんで,身内だけの結婚式だった.結婚式当日は箪笥や,長持,下駄箱などの嫁入り道具を先に運び込み,祖母は黒の裾模様を着て,タクシーに乗っていったそうである.結納は2万円,儀式としては杯を交わすだけの簡単なものだったという.結婚式の料理は料理屋が来て作ったもので,ご馳走だったと話してくれた.
結婚式当日の夜には,祖父と祖父の母と祖母の3人で祖母の実家に帰った.祖母の家に帰るときは,黒の紋付で帰り,再び祖父の家に戻ってくるときには赤い訪問着に着替えてきたそうである.祖母の地域ではこれを,ミッカガエリと呼んでいた.祖母の話では,昭和15年ころまでは,結婚式の翌日や3日後に帰っていたということである.

3.母方の祖母の話
3-1.祖母の幼少の頃
母方の祖母は昭和9年(1934)3月10日に亀岡市千代川町拝田に生まれた.小作農家の5人兄弟の三女として生まれたそうである.祖母には姉が2人,弟が1人,妹が1人いた.

小さいときは,託児所に行っとたんや,小学校入るまでやなあ.託児所いうて,お寺にあったんやな.そこの和尚さんが木に紐つけてブランコ作ってくれちゃってな,そんなん私ら見たこともないわな,そらうれしかったわ.見たことないもんやさかいに,みんな自分の番が待ちどおしゅうて,なかなか番が回ってこんかったわいな.ほて,紙芝居聞いたりなあ.みんな,行くの楽しみにしとったわ.日の暮れになるま遊んどったわ.

祖母は小学校に入学するまで,お寺に設置された託児所に通っていた.そのときの話を祖母は楽しそうに話してくれた.このころは,まだ戦争の影響を感じなかったのだろう.
祖母の話で印象に残ったことの1つに,地主と小作人の差の大きさがよくわかる話があった.

うちは小作農やったんやけどな,隣のうちは地主さんやったんや.おかあちゃんらがよう隣に米俵を持っていっとっちゃったのを覚えとるわな.子供やったさかいに,ほないは覚えてないけど,隣の蔵に米俵を5俵もっていっとっちゃったのは見とった.隣のうちのお父さんは役場の助役さんやったんやな,そやさかいに,うちらではよう手に入らんもんもっとっちゃったわな.裏で何かあったんやろな,知らんけんど.よう隣の子がするめもっとっちゃったんを,もろて,わけて,ほて,その地主の子は胴を食べて,足だけ私らにくれてやんや,そやかて,うちでは食べられへんさかいにおいしかったわ.

この話から,地主と小作農の間には,大きな差があったことがわかる.子供だった祖母にとって,その差はするめを通して身近に感じられるものであったのだと思う.そして,地主と小作農の関係が,今も子供のころの記憶と一緒になって残っているんだなと思った.

3-2.戦争中の小学校生活
祖母は小学生のときに戦争を経験している.小学校の様子を祖母に聞いてみた.

学校の教室では,二人机に座っとった.二人机に座るときは,女の子同士,男の子同士で座ったんや,ほて,縦にずっと女の子,男の子で,ほら,男の子らが女の子は汚いいうて,近寄らんかったさかいにな,触ったら汚いいうて嫌がって,ほやさかいに,席はそうなっとった.
運動場にはサツマイモやら豆やら植えて,体育は講堂やら運動場の隅やらでやっとったわ.講堂には,軍用の乾パンがぎょうさん積まれとってなあ,人が1人通るのでやっとやったわ,ほて,今にも崩れるんとちがいやろかと思うくらいに.
クラスごとに配給があってなあ,朝鮮靴やらズックやらあったんやけどな,クラスに3足しかなかったんや,そやけど,おばあちゃんはちっさかったさかいに,ようもろとったわ.くじで決めとったんやけどな.そやかて,みんな裸足で学校に行っとったわ.冬は下駄はいて行っとったけど,冬だけやな,春やらは裸足やった.

祖母が小学生の頃は,講堂に軍の乾パンが積まれていたり,運動場にサツマイモが植えられていたり,クラスの全員が靴を履くことができないよう時代であったということが,祖母の話からわかる.戦争の悲惨さをまだ小学生だった祖母は身をもって感じていたんだなと思った.
戦争が激しさを増すにつれて,食糧不足や衛生状態の悪化が目立つようになった.祖母も,だんだん食べるものが少なくなっていったために苦労したと話してくれた.

下を向くだけで,しらみがぱらぱら落ちてきてな,そら,かゆいし,気持ち悪いし,夜は寝られんかった.

祖母の弟が持って帰ってきたしらみが家族中に広まり,みんなかゆさを我慢していたという.しばらくして,熱湯で服などを殺菌すればいいと聞いて,なんとか退治することができたというが,その話を聞いただけで当時の衛生状態の悪さが理解できるのではないだろうか.

3-3.学童疎開の受け入れ
祖母の地域では学童疎開を受け入れていた.京都市内に住んでいた子供たちが京都府の安全な地域に次々と疎開していったのである.祖母住んでいた千代川には,京都市下京区の修徳国民学校の児童が疎開してきた.疎開児童たちは,嶺松寺と光福寺に分けられ,そこを寮として生活していた.疎開児童は地元の児童と一緒に授業を受けた.食事は,村の婦人会の人たちが作って,それをお寺ではなく,茶務所のようなところで食べていたという.祖母の家は,お寺に近かったようで,ご飯を食べに行く疎開児童の集団がよく見えたと話してくれた.
資料によると,修徳国民学校の学童疎開給食表が残っており,それには,一汁一菜のかなり質素な献立のみが載っているということである.このことからも戦争中の食糧不足は明らかであったといえるのではないだろうか.
疎開してきた児童のことを,祖母は,

そら,かわいそやったやな,親と離れて,食事もろくなもんとちごて,かわいそやとおもた.

と話している.先生から,疎開児童に優しくするように言われたこともあり,みんな疎開児童には優しくしたと話してくれた.

3-4.結婚について
祖母が結婚したのは昭和32年(1957)である.当時は主流であったお見合いによる結婚であった.仲人さんによる紹介で結婚することになった祖母は,祖父からの映画の誘いを恥ずかしいという理由で断っている.結婚前には2回くらい会ったそうであるが,それ以外は会わなかったという.
結婚式の日は昼ごはんを実家で食べてから,12時くらいに祖父の家に行った.荷物は10時頃に出発していて,嫁が婿の家につくころには運び終わって家の中に並べられていたそうである.黒の裾模様を実家から着ていて,ハイヤーに乗っていったらしいが,昭和25年に姉が結婚したときはまだ人力車を使っていたのを覚えていると話してくれた.参加者は嫁のほうが5人,婿のほうがは7人と少なかったそうである.祖母のほうの参加者は仲人,父,嫁,父の長兄,母の長兄,祖父のほうの参加者は仲人,父,母,婿,父の長兄,母の長兄,婿の兄弟であった.儀式としては杯を交わすだけのもので,質素なものだった.
結婚式当日の日の暮れには提灯を持って祖父と祖母の実家に帰った.行くときは黒の裾模様,帰りは赤の訪問着であったそうである.祖母の地域ではこれをカエリゾメと呼んでいたという.

4. おわりに
2人の祖母の話を聞いてみて,同じように戦争を体験していても,体験した時の年齢や地域によって,体験したことや感じ方が違うということがはっきりとわかった.当たり前のことではあるが,実際に2人の話を比較しながら聞いていると違うことがたくさんあるということに気づいた.戦争が激しくなってきたときに,青年学校に行っていた父方の祖母と,小学生だった母方の祖母とでは戦争に対する気持ちに違いがあるかもしれないと思った.
祖母の幼少の頃の話や,お見合いをして結婚したときの話を聞くことができて,普段聞くことがなかった祖母のこれまでの人生に触れることができたのではないかと思う.

5.参考資料
・ 『新修亀岡市史 資料編第5巻』,亀岡市史編さん委員会,1998
・ 『グラフかめおか20世紀』,亀岡市史編さん委員会,2000
・ 『かくされた空襲と原爆』,小林啓治・鈴木哲也,機関紙共同出版,1993
・ 『語りつぐ京都の戦争 空襲・疎開・動員と子どもたち』,語りつぐ京都の戦争出版委員会,1997

(松本梨沙)

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「祖母の生きた昭和という時代」

1)はじめに
私の母方の祖母は昭和8(1933)年6月21日、兵庫県氷上郡芦田村栗住野(現:丹波市)に姉2人・兄2人の5人兄弟の末っ子として生まれた。ただ、終戦時には長姉と祖母、祖母の母の3人だけになっていたそうだ。(長男は戦死し、次男は病死、次女は祖母が生まれる前になくなってしまった)


2)学校生活
2−1)祖母の思い出
小学2年生のときに長兄が出征したのが記憶に残っているそうだ。そのとき、お宮さんまで送りに行った、といっていた。
その長兄の思い出を祖母に聞いてみた。
「一緒におったんは小2までで、小2になる春に行っちゃった」
一回りほど年が違うためか、あまり記憶は無いようだが、祖母の母と兄の2人が、長兄が外地に行くまでいた姫路へ面会に行ったときのことも話してくれた。その中で兄が家に帰る家族を見送るときに、
「何べん振り返ってもずっとぉみえんようになるまで見送っとっちゃった」
という言葉が耳に残った。
そして小6のときに終戦を迎える。
終戦のことについて何か覚えていないかと、祖母に尋ねてみた。そのことについて、当時はラジオを持っている人が少なかったが、放送のあった日にたまたま近所で亡くなった人がいて、そこへ悔やみに来た人が
「今、天皇さんが降伏しとっちゃった」
という話をしていたのを耳にして終戦を知ったのだといっていた。祖母が言うには、おそらく学校でも校長がそのような話をしていたかもしれないのだが、こちらのほうが鮮明に記憶に残っていたようだ。

2−2)授業
当時の教科書は今とは違って薄く、紙もザラバンシ(わら半紙)だったようだ。鉛筆の芯も軟らかくなくて、またノートの紙質も悪かったためよく破れたといっていた。
そして授業は軍隊式で一人間違えると皆たたかれたり、チョークを投げられたりしたようで
「白木(チョーク)を上手いこと教壇から投げよっちゃった」
とも教えてくれた。
学校の教室には時計がなく、授業の開始と終わりはチャイム代わりの鐘だったそうだ。
「小使いさんが鐘を振って廊下を回っとっちゃった」
戦時中とは言っても、休憩時間になると今と同じように外へ出たりして遊んでいたようである。ドッヂボールなどもしていたようだ。
また祖母は終戦時小学生だったため、今まで祖母以外の話できいたことのある墨で塗りつぶした教科書について尋ねてみたが、残念ながら、祖母はそのことについては知らないようだった。

2−3)教室
使用していた机は図のように、私たちが使っていた机とは異なっていた。
席の決め方については決まったものは無く、現在と同様に担任によってまちまちの決めかただった(たとえば、男女別々だったり、部落ごとに座ったりなど)が、基本的に一年間同じ席だったそうだ。
また戦時中だったこともあり、担任が若い男の先生だった場合は召集などで兵隊にとられたために担任が途中で変わることもあった、といっていた。
また、高等小学校の生徒も同じ校舎に通っていたなど、今とは少し学校の様子も違っていたようだ。

←当時の学校机
風っ子博物館
「http://www.kazan-e.kashiwa.ed.jp/kzsekko/newkaze/kaze2004.htm」

2−4)炭焼き
炭焼きとは、その名のとおり炭を焼く仕事のことである。
この炭焼きは当時とてもはやっていたそうだ。というのも汽車など、木炭を動力として動いているものが多かったからのようだ。
これが、小学生だった祖母たちにも大いに関係があった。なぜなら戦時中、授業の一環として炭焼きをしているおじさんのところへ学年ごとに日替わりに行っていたためだ。これは、時間割などに組み込まれて手伝いに行く、というようなものではなく前日に先生が「明日は山に行く」といえば草履などを準備して翌日に手伝いに行っていたそうだ。
「明日は作業の日ゆうちゃったら、クワなどを持ってった」
祖母たちの主な仕事は、炭焼きの小屋まで木を運ぶこと・焼いて出来た炭を学校まで運ぶこと(ノルマあり)、だった。一日がかりなため、弁当持参の子もいるがお昼には「小使いさん(今でいう:校務員)」が学校で掘ったジャガイモをゆでて持ってきてくれていたそうだ。
こうして学校に集まった炭は自分たちで使うことはせず、荷車に乗せて駅まで歩いて運び、汽車で出荷していたそうだ。「どこへ出荷していたか?」というのが気になったが、残念ながら祖母は知らないようだった。祖母いわく
「高等小学校の人やったらわかるかも・・・?」
とのことだ。
またその他にも薪も集めていたようだ。これは炭とは違いストーブなど自分たちで使用する分だったようである。
山行きが無い日は、授業のほかに運動場に豆をまいたり、芋(ジャガイモ・サツマイモ)を植えて栽培していた、とも言っていた。

2−5)疎開
集団疎開で都会から来ていた、ということはなかったらしいのだが、クラスに5,6人くらいは家族で疎開してきている人もいた。また、朝鮮の人もたくさんいて、その子供たちも同じ学校に通い、分け隔てなく一緒に遊んでいたらしい。
彼らの印象について
「朝鮮の子ぉは頭よかった」
「都会の子は着るものがハイカラやった」
といっている。
彼らはその後、戦争が終わるとすぐに祖国や故郷に戻っていってしまったようだ。


3)結婚
祖母が祖父と結婚したのは昭和27年5月3日、19になる前の月だった。
当時はお見合いが多く、祖母も仲人さんに世話をしてもらって相手が決まったお見合い結婚だったそうだ。
ちょうどその頃、祖母は母親と2人きりだったためか、そういった話や相談はすべて母親の方へいっていて、あまり関与できなかったような印象を祖母の話からは感じることが出来た。
また推測の域を出ないが、もし父親が生きていれば、そういった話は父親を通していたのではないかと思われる。

3−1)祖父との関係
戦死した長兄と祖父の兄が同級生だった関係で、お互い相手の家がどんなところなのかは知っていたようだ。ただ、学校は同じでも学年が違うので小学生のときに何らかの行事で見たことはあったかもしれないが、直接は知らなかったようである。
(見合いのときに、その相手が全く知らない人であった場合、その相手の家の近所まで出向いて調べるということをすることがあるそうだ。たとえば「(相手が)どんな子なのか?」や「(学校などでの)成績は?」など)。
結果的に双方の家が互いに「あの兄の弟妹だったらよい人だろう」ということで決まったのではないかと祖母はいっていた。

3−2)結婚まで
当時、「農業がよかった(おそらくはやっていたのであろう)」ため早く男手が欲しかったらしい。ちょうどこの頃には祖母の父親も、2人の兄もともに亡くなっていたため、家に男手がなかったようである。(出征するまでは長兄が農業をしていたようだ)。
そのため仲人さんに
「向こう(婿に)出す、ゆうとってやから、あんたいらんか?」
といわれて「それなら」というので決まったようだと祖母は言っていたが、母親が決めてしまったため本当のところはどうだったのかは分からない。
決まってから祖父と初めてまともに会ったのは、宝塚に歌劇を見に行ったときだと言っていた。結婚前の顔合わせを兼ねていたようで、祖父が家まで迎えに来て行ったと教えてくれた。

3−3)結婚式
結婚式は夕方から夜にかけて行われ、婿にもらうということで祖母の自宅でした。
新郎の衣装は黒の羽織に袴で、新婦の衣装は黒地に裾模様の着物で角隠しと現在とは少し違っていたようだ。しかし、当時の資料によるとどうやら今の白無垢は裕福な家で着られていたようだった。
結婚式の出席者は新郎新婦ともに血のつながりの濃い親戚が出席したようで、祖母方も祖父方もそこそこの人数がいたようである。

←輪タク
トヨタ博物館「http://www.toyota.co.jp/Museum/data/a03_14_3.html」

結婚式の司会をしてくれたのは、親方・子方の関係にあった小林さんである。(祖母の家が子方)
祖母に聞いた話によると、結婚式当日には嫁入り道具のように祖父も婿入りのときに色々と持参していたようである(箪笥・長持ち・ゆこう<衣桁(いこう)>・トランク・自転車など)。
それらの荷物は当日の朝、親戚が車で運んできたそうだ。
新郎である祖父は “輪タク”と呼ばれる三つ車の人力車のような、タクシーの代わりみたいな乗り物でやってきた。
料理は結婚式などで料理を作る人がいて、その人に来てもらって作ってもらったそうである。その他にも髪結いさんにも家に来てもらったといっていた。
結婚式の次の日になると「結婚しました」と結婚の報告にタオルなどをで祖父の名前をフルネームで書いた半紙で包んでを祖母の母と祖父の2人で近所の人に配り、挨拶をして回った。
これは「こういうもんがうちに来ました」と周りに知らせる意味合いを兼ねていたようである。現在でも近所の人が結婚すれば、新婚旅行などのお土産を持って挨拶に回るらしい。
また、その日の午前中には祖父の実家に行き、祖父方の近所の人にお披露目をしたそうだ。このときも輪タクに祖母の母と祖父・祖母の3人が乗ってそこまで向かったようである。

4)おわりに
今までにも何度かところどころ聞いたことはあったけれど、祖母の話をはじめて詳しく聞いたように思う。また今まで祖母が戦時中に小学生だったのは知っていたけれど、学校での様子や出来事、祖父との結婚話(お見合い結婚だったなど)などこういう機会でもなければ聞けない話をたくさん聞くことが出来てよかった。
その他にも疎開者の話や朝鮮の人の話など初めて聞く話も多々あって驚くことも多かった。ただ、戦時中とはいえ思ったよりも食事に困っていなかったようだったのが印象に残った。


参考文献
『丹波市 第11号』  丹波史懇話会  1991年
『昔の子どものくらし事典』  岩崎書店   2006年
『青垣町 稲土の民俗』  2003近畿大学文芸学部  2003年
参考ホームページ
トヨタ博物館
「http://www.toyota.co.jp/Museum/data/a03_14_3.html」
風っ子博物館
「http://www.kazan-e.kashiwa.ed.jp/kzsekko/newkaze/kaze2004.htm」

(小田 さや華)

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母の生きた時代

1、はじめに
1−1、母のインタビューを行った理由
今回の聞き取り調査の対象は、本来なら祖母であった。だが、私の祖母は父方・母方両人ともすでに亡くなっている。私は両親がだいぶ年をとってからできた子供なので、仕方のないことではある。生きていれば2人とも90歳以上であり、また戦争の只中を生き抜いてきた祖母達の体験談を聞けなかったことは、今となってはとても悔やまれる。
 以上のことから、私は例外的に、母に対して行ったインタビューの報告をまとめていく。他のメンバーの御祖母様方の生きた時代との比較対象となることを期待する。

1−2、母の生い立ちを簡単に
私の母は1947(昭和22)年1月6日、京都府京都市東山区にて5人兄弟の三番目、次女として生まれた。現在は61歳、日々父と喧嘩をしたり、頻繁に訪れる孫達に手を焼かされている日々を送っている。
母の生まれた1947年は、ちょうど終戦から1年経ったころである。また、戦後ベビーブーム、そして所謂“団塊世代”にあたる世代であるため、高度経済成長期の只中を生きてきた世代でもある。この二点に注目し、母の歩んできた人生についてまとめていきたい。


2、子供だったころ―戦後の真っ只中で―
2−1、「何べん死にかけたか!!」
聞き取りをはじめて開口一番に母が言った言葉は、「今でこそこんな肝っ玉母さんやってるけどなあ、子供のころは何回も死にかけたんやで!」である。祖母が産気づくのが早く、産婆が家に到着する前に誕生し、その際産声をあげていなかったが、産婆が頭から水につけたところ、産声をあげたという。また幼少のころは体が弱かったため、流行り病によくかかり、その度何度も生死の境まで追いやられたという。
また、死にかけたわけではないが、終戦直後だった赤ん坊のころ、食糧不足のため祖母が米の替わりに芋を食わざるを得なかったため、母乳の栄養状態が悪く、母の頭が膿で頭皮がジュクジュクになる“くさ”といものになっていたという。この話を聞き、物心ついたころには日本の経済状況なども大方修復されていたため、漫画や映画でクローズアップされるような厳しい生活を自身は経験していないため、「敗戦したというイメージは感じてへんかった」と語る母も、まぎれもなく敗戦の痛手をその身に受けた人物の一人であると感じた。

2−2、幼児だったころ
幼いころの話を聞いていく中で何よりも印象に残っているのは、やはり自分の母親が過去実際に、かの有名な「ギブミーチョコ」なる言葉をアメリカ兵に対し言っていたことだろう。前項に記したように、母は5人兄弟であり、上から兄・兄・姉・母・妹という構成である。兄二人に連れられて、母と妹の二人で、現在の第一日本赤十字病院に駐屯していたアメリカ兵に、「ギブミーチョコ」と言ってお菓子をもらいに行っていたという。祖父母には「アメリカ兵からお菓子もろたらあかん」と言われており、自分も怒られるのが怖かったので本当は行きたくなかったが、兄に連れられてしかたなく行っていた。ちなみに、何故母の姉は行かなかったかというと、可愛らしさをウリにするには少し大きくなりすぎていたからという理由であるらしい。また、日赤に行っていた本来の目的は、アメリカ兵の暖房用に使っていたボイラーのお湯をもらいに行くことだった。家に持ち帰るまでに冷めてしまうので、入る際は薪を使って追い炊きをした。当時はまだ五衛門風呂で、ふたにうまく乗れなかったり、フチを触ってしまったりするととても熱かったらしい。

前項にも記したように、終戦2年後に生まれた母だが、「戦後の日本」のイメージに付きまといがちな、極端に貧しい生活ではなかった、普通に白米を食べていたと語る。たしかに今の生活から比べれば貧しいが、当時は「こんなもんや」と思って生活していたという。ただ、兄弟が5人もいるため、何でも一人頭の量が少ないことには不満を感じていた。
また、米は配給制。子供が生まれると登録し、配給を受ける。貰いに行くときは配給手帳を持っていき、引き換えてもらうという制度であった。


2−3、小学生だったころ
まず初めに母が語りだしたのは、何故か学校給食についてであった。給食はこのころからあったという。メニューも現在と大差はなく、食パン(ジャムつき)、おかず、牛乳というのが定番メニューだったという。ただ、牛乳は脱脂粉乳だったため、大嫌いで絶対飲まなかったと力いっぱい語っていた。

2−3−1、授業あれこれ
席順は男子の列と女子の列が隣り合って座るため、隣の席は常に男子だったという。机は一人に一つずつ与えられ、今と変わらない授業環境であった。
授業構成も現在と大差はなく国語、算数、理科、社会、図工、書道などがあったという。
ただし、内容は今よりもっと単純であった。
国語の時間では、「空は 青い」などの主語・述語で構成された単純な文章を読み書きしていた。学年が上がるにつれて修飾語の付け加えられたりし、文章が長くややこしくなっていくのである。私たちは低学年からやっていた定番の、物語を読んで問題を解くという文章読解問題は高学年になるまでやらなかったというのが意外だった。
算数で、「旗の高さ」を問われる問題があり、問題の意味がわからなかったため全問不正解となり、祖母に怒られたらしい。私もこの問題は何を問う問題なのかさっぱり分からない。
また、毎朝食後、窓の外を向いて正座をし、九九を暗唱させられたという。祖父が厳しかったため、九九を習った後は兄弟全員例外なくやらされたらしい。習った分を正しく言いきれるまで朝食を食べさせてもらえなかったとのこと。この風習は形を変え、私が九九を習った頃も行われた。私の場合は九九を言い終わるまで、お風呂から上がらせてもらえないというものであったが。
体育ではドッジボール、鉄棒、マット運動、跳び箱などをやったが、どれも嫌いだったと嫌そうに語っていた。母は今も昔も運動音痴である。嫌なところで血のつながりを感じることとなった。また、サッカー、バスケ、ハードル走などの、海外発祥のものと思われるスポーツはまだなかった。
「理科の実験とかはやらへんかったん?」と聞くと、実験はほとんどしなかったという答えが返ってきた。しかし、どうも豆電球の実験だけは印象に残っているらしく、何回聞いても「豆電球の実験は覚えてんねんけどなぁ…」と頭を抱えていた。
以上から、昔と現在の教育内容の差異が見受けられる。そのため、現在小学生の孫二人がやっている宿題を見ては、父と二人で「こんなん習たか?」と首をかしげている。

2−3−2、私と母の間のジェネレーション・ギャップ
母の小学生時代の話を聞いていく中で、今と大差ないなと感じる点が多かった。しかし、現在ではありえないと思ったことが2点ある。
一つは、宿題をする時間帯である。私や私の甥や姪(母の孫達)は、帰ってきたらすぐに宿題をしろとよく怒られた。だが逆に、母が小学生だったころ、放課後は「暗くなるまで遊んで来い」と、外に出されたという。宿題などは夜、暗くなってからしていた。テレビが各家に一台あることのほうがまれなこの時分では、明るいうちは遊び、何もすることのない夜に宿題をすませるというのが常だったのである。テレビ普及による人々のライフスタイルの変化がうかがえるエピソードである。
二つ目は、登校班がないことである。母が小学生だったころは登校班はなく、各自個別に登校していた。母には兄弟がいたため、毎朝一緒に登校していたという。誘拐事件や通り魔事件の横行する現在では考えられないことである。治安が良かったからこその自由さであろう。

2−3−3、昔の遊び
放課後にあそんでいたという話がでたので、内容に差異があるか気になったので尋ねてみたところ、おはじきやお手玉などの想像どおりのものに加え、想像もしなかったような遊びがでてきた。
まず一つが、缶詰のレッテル集めである。そもそも私にはレッテルが何のことを指すのかすらわからなかった。レッテルとは、缶詰の表面に巻かれた商品内容などが印刷してある紙のことである。キレイな絵柄のものなどを缶から取り外して収集し、みんなで交換していたという。今で言うところのポケモンやムシキングなどのトレーディングカードのような遊び方だったのである。昔も今も子供が好む遊びは変わらないということだろうか。
次に、みかんを房ごとにバラバラにして、糸をつけた針を投げて刺し、吊り上げることができた分だけ食べられる、という遊びがあったという。現在で言えば、魚型のおもちゃの口の中に磁石が仕込まれていて、磁石が先端に仕込まれている釣竿で吊り上げる、というおもちゃのような遊びであろうと考えられる。思い出しているうちに懐かしくなってきたのか、後日我が家で行われることが決定した。


2−4、中学生だったころ
母が通っていた“月輪中学校”は家から遠かったが、お寺の近くだったので環境はよかったという。制服は紺のブレザーとハイソックスという定番スタイルであった。クラスのみんなは仲がよく、“いじめ”は存在しなかった…のか、気づいてなかったのかは定かではない。

2−4−1、やっと、テレビが普及
 母が中学生だったころに、やっと一般家庭にもテレビが普及してきた。とはいえ、一家に一台ではなく、裕福な家庭のみがかろうじて購入できた、という状況であった。サラリーマンの平均月収が1万5千円であった時代に、14インチでも17万円以上するとあっては無理もない話である。母が中学1年のとき、近所の金持ちの家庭がテレビを購入したので、よく見せてもらいに行っていたという。当時はよくみられた風景だった。見るのはプロレスが主で、力道山が大人気であった。また、若き日のクリント・イーストウッドの出演していた西部劇『ローハイド』もよく見ていたという。

2−4−2、“出待ち”されるほどモテていた?
中学生といえば、思春期真っ只中。付き合う友達の変化が性格に変化をもたらしたという話は決して珍しいものではないだろう。母は中学生のころ、小学校が一緒だった友達が一人しかいなかったため、自然と一緒にいるようになった。今まで付き合ったことのないような、活発で姉御肌なその友人の影響で、真面目で引っ込み思案だった母は段々と外交的に、いやむしろ“チョイ悪”になった、と語る。しかし、素行もさることながら、その友人は父子家庭だったため、祖父母に「片親の子と遊ぶな」とよく言われ、嫌な思いをしたという。「悪い虫がつく」といって友人関係にも口出しされていた。そして、このころから祖父母の口出しが激化、自由度も激減。門限は5、6時に設定され、少しでも遅れようものなら、玄関先で怒った祖父が仁王立ちしていたという。

友人環境が変わり、性格が多少明るくなったためか、母はこの頃からモテ始めた。毎日のように家の前でラブレターを持った男子三人組(そのうち二人はつきそい)が、家の門の前で“出待ち”をしていたという話は、私が思春期になったころから何度も耳にタコができるほどに聞かされた話だ。一昔前の少年少女の行動は、現在と比べて男女が逆転しているようである。
だが、先に述べてきたように、祖父は大変厳格な人で「男女交際なんぞ言語道断!!」という考えを実際に持っていたため、母は言い寄られて嬉しい反面、祖父に怒られて大変であったと笑顔で語っていた。ラブレターとは積極的な、と思われるかもしれないが、HRの時間のフォークダンスくらいしか「異性にさわる」ということがなかったほど初心であったという。


3、社会人になったころ―高度経済成長の波―
3−1、中学卒業、そして就職
中学卒業後、15歳でサンスターに就職し、工員として働きだした母。歯磨き粉のチューブを箱詰めする仕事に就いていた。今では機械作業だが、当時は手作業だったのである。
母は本当は進学したかったが、5人兄弟のため学費もなく、「女に学問はいらん」と祖父に言われ、断念せざるを得なかった。「女は〜」という発言は、祖父が考えの若干古い人だったためであり、この時代ではすでに学校全体では就職率よりも進学率のほうが高かった。また、本当は就職するにしてもバスガイドになりたかったが、小さい頃にジフテリアを患ったせいで声が低いことと、車酔いする体質だったため面接で落ちてしまった。

サンスター勤めの頃は朝5時半起床、6時に出勤。出勤した後は一日中働くというかなりハードな職場だったという。昼に1時間休憩をはさみ、3時にサンスター体操を行うのが決まりだった。
給料(月1万程度)はすべて親が回収し、そこから小遣いとして毎月千五百円程度が支給される、というシステム。貧しかったからこのシステムを取ることとなったわけではなく、親(特に祖父)が厳しかったので、親が管理しないと無駄遣いしてはいけないからという理由で回収していた。回収したお金は積み立てしてくれていたのか、それとも生活費に当ててしまっていたのか…祖父母が他界してしまった今となっては、真実は闇の中である。 

母が電車通勤であったということを聞いて私の中に浮かんだのは、昔も電車の中での痴漢の有無と、そこから派生した職場内のセクハラの有無についての疑問である。電車内の痴漢はあったが、セクハラはなかったという。“なかった”のではなく、“そうとらえてなかった”というべきか…と悩んでいた。現在のセクハラの認定も「本人が嫌悪感をもったらセクハラ」であるので、ここでも考え方の差異が見受けられる。

3−2、運命の出会い、そして結婚
3−2−1、駆け落ち
サンスターに勤め初めて数年たったある慰安旅行のとき、機械整備部門の男性グループが母のグループに声をかけた。このときそのグループの中にいたのが父であり、この出会いをきっかけに、母は父と付き合い始めこととなった。(左は,その旅行のときに撮影したもの) しかし社会人となっても依然として門限は厳しく、6時という時間も変わっていなかった。社会に出て自由と自主性を培った母には、次第に厳しい祖父の存在が窮屈に感じられるようになり、ついに父と二人で駆け落ちをする決心をしたのである。高度経済成長のなか、新しい考えをもつようになった団塊世代と、それまでの家父長制の色濃く残った考えをもつその親との世代間の葛藤が産んだ結果である
「父と一緒になりたかった」というよりは「家の束縛から逃れたかった」という理由で、お互いの冬のボーナスを手に持って父と駆け落を決行した。しかし、理由が理由であったため、駆け落ちしてからひどく後悔し、毎日泣き暮らした。母の生家はJRの線路沿いにあるため、

泣き続ける母を見て父は、「帰るわけにはいかないけれど,せめて一目見るだけでも」と二人でJRに乗り,車窓から家を眺めることで母のホームシックを紛らわそうとしたという。

何度も親に連れ戻され、そのたびにまた何度も二人で逃げていたため、「凄く好き」ということはなかったが、父のやさしさに惹かれていたのは確かだったといえよう。
最終的に姉がお腹の中にいることがわかったため祖父も結婚を許可。長い駆け落ち生活をへて、ようやく結婚にこぎつけたのである。
今回のインタビューで結婚についての話を聞くまで、自分の両親がドラマや映画顔負けの駆け落ち劇をしていたとは露にも思っていなかったため、大変驚いた。今回のような機会がなければ一生知ることはなかったのだろうかと思うと、これもまた運命ではないかと思えてくる。
しかし、今現在の二人の様子を見ているぶんには、そんな劇的な恋愛模様を経てきた夫婦には到底見えないのが不思議である。

3−2−2、結婚式の様子
駆け落ちなど紆余曲折を経て、1966年(昭和41年)9月10日にめでたく結婚。母はこのとき19歳で、前述したとおりすでに私の姉がお腹の中にいた、所謂“できちゃった結婚”である。
 
結婚式の儀式内容、披露宴の様子を以下にまとめる
・ 場所と形式:藤森神社にて神前婚。貧乏なので式は簡素。

・ 参加者構成:母方…祖父、祖母、兄二人、姉、妹、長兄の友人(近所に住んでた)
父方…祖母、長兄

・ 衣装:白地に金糸で桐模様があしらわれた花嫁衣裳(↓写真参照)
    母の長兄の結婚式と同時開催をし、長兄の嫁の花嫁衣裳を母が使いまわして着た

・ 儀式の流れ
@ 修跋(しゅばつ)の儀:一同起立してかるく頭を下げ、斎主による清めのお払い(修跋)を受ける
A 祝詞奏上:斎主が結婚を神に報告し、新郎新婦の新しい門出を祝い、神に感謝する祝詞をあげる
B 三献の儀(三々九度の杯):注がれたお神酒は三口で飲み干すものか、飲み干せない場合は口をつけるだけ。母の結婚式のときは、飲みきれなかったお神酒を捨てる容器(?)があったらしい
C 玉串奉奠(ほうてん):巫女からうけとった玉串を神前にささげる
D 親族杯の儀:参列者が親族の契りを結ぶ儀式。
参考とした『結納と結婚しきたり百科』(松田正子 日本文芸社 1998年)では、他に神?奉献(じんせんほうけん)の儀(神前に供物を供える儀式)と、誓詞(せいし)奏上(新郎が結婚の誓いを読み上げる儀式)が神前結婚式の流れの中に含まれていたが、母の結婚式はごく略式のものだったためやっていないとのこと。また、媒酌人もいなかった。
 
披露宴:母の家で祖母がご馳走を作り、家族と近所の親しい人少数を招いて行った。『京の儀式作法書』(岩上力 光村推古書院 2002年)によると、これは京都ではよく行われている披露宴の形態であるという(現代ではほとんどおこなわれなくなっているようだが)。

メニューは赤飯、尾頭付き鯛の塩焼き(お鯛さん)、筑前煮、出汁巻き、ちらし寿司、おすまし、お造り等。
赤飯とちらし寿司とごはんものが被っているのは、これらが祖母の得意料理だったかららしい。
どれも祖母の得意というか自慢のメニューだっただけで、特に地域特有のメニューであるということはないと思われる。強いて言うなら、鯛のことを「おたいさん」と呼ぶくらいだろうか?


3−3、高度経済成長期の結婚式と夫婦のあり方の変化
労働力としての女性の社会進出によって男女の出会いの機会は増加し、配偶者選択の場も見合いの席から職場へと変化していった。昭和24(1949)年には2割にしかすぎなかった恋愛結婚が、昭和40〜44(1965〜1969)年には見合い結婚とほぼ同数になり、高度経済成長期に国民のなかに芽生えた中流意識と相まって、結婚互助会の式場が急増した昭和40〜45(1965〜1970)年ごろには、見合い結婚と恋愛結婚の件数が完全に逆転する。このころから結婚式のありようは急激に変化していく。
日本人が結婚式を意識しはじめたのは、明治33年(1900)の皇太子嘉仁(よしひと)親王(のちの大正天皇)の神前結婚からといわれており、また現行の神前結婚式のしきたりも、日本初の神前結婚であったこのときの儀式に倣って行われている。
嘉仁親王の結婚式により国民の結婚式への憧れが高まり、エリート層から徐々に結婚式が普及していくこととなる。これまでの庶民の結婚式というと、自宅に親類縁者を招き、新夫婦のお披露目として祝宴を開く程度だった。
京都では当時、平安神宮で式をし、都ホテルで披露宴というスタイルが憧れの結婚式だった。しかし、近所の人がそうしていたと淡々と語っていた様子からして、母は特に憧れをもっていなかったようである。また、語り口から察するに、母の住んでいた界隈では流行っていたわけでもないようである。
母の結婚式は、当時流行の結婚式でもなく、また伝統的でもない、双方が融合したような結婚式だったといえるだろう。結婚式の形態変化の過渡期であったからではないかと考えられる。
夫婦のあり方も時代の変化とともに変わっていく。
史上最高の婚姻件数を記録した昭和47(1972)年、これは団塊世代の結婚が盛んだった時代である。団塊世代の夫婦は同年齢結婚が多く、彼らは旧来の家父長制にみられた夫唱婦随とうスタイルではなく、「男女平等」、「自由」で「民主的」、時には「個人主義的」であり、「友達夫婦」であったのである。郊外にマイホームを購入し、休日は家族そろってマイカーでドライブをしたり。夫に従うものという意識の薄れてきた社会のなかで、女性は自立心をもち、結婚した後も仕事に行く人が多かった。

その後20歳の7月に長女(私の姉)出産。出産祝いに赤玉の卵を20個もらって、とても喜んだという。25歳のとき、念願の初マイホーム購入し、25歳の11月に長男(私の兄)出産。その後何度か引越ししながらも、現在にいたるまで平和に暮らしてきたのである。

4、おわりに
 インタビューをしていく中で、わが母の半生ながら、知らない点が数多くあったことに驚き、そして母の人生を日本の歴史の流れと照らし合わせたときに、やはり母はこの歴史の中を生きてきたのだなと、あたりまえのことであるが、ひしと感じた。ふとした折に昔話をすることはあっても、今回のインタビューのように長々と母の過去の話を聞くということはあまりない。しかし、インタビューを通じて母の歩んできた道を見つめ、考え、まとめることは、大昔の歴史書偏者のなすところと同じ、重要な行動であるといえるだろう。人間はいつか死んでしまう。それと同時に、語られることのなかったその人の歴史も闇の中に葬り去られることとなる。人の歴史の中には、新たな発見があるというのに。母の歴史を無に帰させないように、こうして聞き取りを行い、母の歴史を記録することができた。とても有意義な作業であったと、この報告書をまとめ上げた今、心からそう思う。

<参考文献>
・『結納と結婚しきたり百科』 松田正子 日本文芸社 1998年
・『京の儀式作法書』 岩上力 光村推古書院 2002年
・『昭和の時代』 伊藤正直・新田太郎監修 小学館2005年

(桜田英里子)

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祖母のクロニクル

1.祖母の幼少期
1−1.小学校に上がるまで
 私の祖母は1933年、1月2日に生まれたことになっている。今も1月2日はお寿司を作って持っていってその日に祝う。だが、本当に生まれた日というのは1932年の12月23日なのだと言っていた。「あの時はそんなんしょっちゅうやったて」と言って笑っていた。
 祖母は6人兄弟の中の次女。姉がおり、下に弟と妹がいる。
神戸に生まれた祖母は、幼稚園までそこで暮らしていた。近くに住んでいた人に、外国行きの船に乗っているおじさんがいたと言う。そのおじさんは帰ってくるとたいていどっさりと天津甘栗をくれたそうで、祖母はそれが好物で、あれば自分で殻をむいてポリポリと食べていたと言う。同じように外国で買ったのか貰ったのかしたらしいチョコレートももらったそうで、「チョコも好き」と話してくれた。
元々住んでいた神戸を離れたのは祖母が4〜5歳の頃であった。親の会社の都合で岐阜市の加納に引っ越したのだが、その会社(川崎重工)は祖母が移り住むことになった地区からは少し遠かったという。

1−2.小学校の頃
 祖母は低学年の頃の記憶が曖昧だと言う。だが、嫌な思い出が主に二つあるらしい。そのときの話をするとき、何か苦いものを口に入れているような表情でいかにも嫌な生活だった……という感じであった。
@やたらと方言を直そうとしてくる先生。
 祖母は神戸にいたこともあり、関西弁が身についていた。しかし先生は岐阜弁。自分があたかも標準語を操っているかのように、イントネーションを何度も注意されたという。
例えば端のことを、「くろ」と言ったり、準備のことを「まわし」と言ったりするのだが、はじめてそれを聞いた祖母はぽかんとして何のことか分からなかったという。しかしそれが当たり前で、居心地が悪かったらしい。だから国語の時間、朗読の部分を当てられることが嫌でしょうがなかったという。
その代わり、音楽で歌ったり、図工で絵を描いたりすることが好きだったようで、絵に関しては今でも時々スケッチをしている。
A体育が嫌い。
走るのが特に遅かったと言うわけではないが、身体を動かすのが嫌だったという。それに付随して成績もあまりよくなかったためにやる気がなくなってしまった。

 祖母が戦争を認識したのは小学校の3・4年の頃。祖母はこの頃まで疎開しておらず、従弟が神戸から来ているという状態であった。それは加納という場所が、親戚中で一番田舎だったということが理由である。
 戦争中は食べ物にも困らなかったという。祖母の父が軍関係の仕事であったことで、利用していた八百屋さんからかぼちゃをどっさりと貰ったり、履物屋さんから下駄を支給してもらったり、兄弟そろいで服を作ってもらったりと、いろんなものを貰っていた。お米や砂糖、果物などがあったらしい。これに加えての配給であったため、とても裕福に生活できたであろうと推測する。
 配給で貰った大豆がおやつだったらしい。炒った大豆なのだが、あまりに何もやることがなくて暇なので、わざと本来剥く必要のない皮の部分まで剥いてポリポリと食べて、散らかしたことを怒られたといっていた。
 
2.祖母の女学校時代
 そこそこ良いとこの子であり、不自由のなかったこの状況が一変してしまう出来事が起きる。

2−1.終戦までの生活
 1945年、7月9日。祖母が女学校1年生のこの年、岐阜にも空襲があった。岐阜は主に駅周辺、市役所周辺などを攻撃の対象にされており、市街地の8割が壊滅状態になり、死者は800人を超えたという。翌朝には焼死体が川にいくつも浮いていたとも言われているくらい凄まじいものであったようだ。祖母の通っていた女学校もこの空襲で焼失している。
 次の日の用意を枕元にしておき、空襲警報が鳴ったらさっとそれを身につけて外へ、という訓練は何度かしていたらしいのだが、本番ではそれが全く用意出来なかったという。祖母の父は空襲警報がなったら会社のほうへいつも行ってしまったのだという。子どものことは祖母の母任せであったようだ。万一のときのことは、長女であった祖母の姉にはいろいろと話があったようだが、祖母は教えてもらうことがなかったらしい。
一番いい下駄を履いて逃げろと親に言われていたため、気に入っていた下駄で必死に兄弟と共に逃げていたのだが、低いほうへ低いほうへと避難を促されるので、最終的に田んぼの中に逃げるということになってしまった。勿論身動きに制限が出るし、着物はどろどろ、履物を失ってしまった。なきそうになりながら脱げてしまった場所で探すのだが、容易に見つからずに諦める。家に一端戻りたいと思っても、道が焼けているので裸足では無謀で、すぐには戻れなかった。その後、履物屋さんがまた下駄を持ってきてくれてとてもありがたかった。やっとのことで見にいけた家は、鉄製品はボロボロでひずんで歪んだり、お釜が割れたりと悲惨であった。それを呆然とした表情で見た。祖母にとって印象深かったのは、たくさん積んであったレコードが、赤々とずっと燻っていたことだという。
本当は自分たちの服は庭に掘った穴に箱に入れておいてあったのだが、空襲の後取り出せなかったために、疎開してきた子達の分をまわして着ていた(疎開してきていた子の分は箱に入れなかった)。通りの反対側で少し行ったところは、家が無傷で普通に残っているところがあって、とても悔しかったと祖母は言う。
裏手の市会議員さんの家から上手く缶詰を分けてもらったり(非常時で、少しだけ防空壕の中にあるものを人に分けていた)、炊き出しのときにすぐもらえたりと、ここでも食糧に不自由はしていなかったそうだ。とても幸運である。

このあと、家が焼けてしまったので、友人宅の離れを借りて生活した。たまたま友人も使っていないのでと快く貸してくれたのだが、やはり迷惑がかかることを考えてあまりいい気はしなかったため、会社のことがあって父だけを残して神戸の親戚のところへ行くことにした。友人のところにいたのは1週間ほどだった。
列車に乗るのに罹災証明をもらい、真っ暗な駅で電車を待つ。空襲で駅をやられたため、ライトなどは一切ついていないだけでなく、階段は足でしっかり踏めるコンクリートの部分がなく、骨組みだけになってしまっていた。ホームを移動するのにとてもひやひやしたという。列車を待つ間、隣に座ったのは、包帯でぐるぐると巻かれた子どもを抱いた母親であった。その子の包帯の合間からうじがもぞもぞと動いていたのを今でもよく覚えているという。気持ち悪いとは全然思わず、痛くないのか、かゆくないのか、と不思議に思ったという。誰もしゃべらず、子どもが泣いている声も聞こえなかったそうだ。
一端米原の駅で降車しなければならない。それは昔からのことらしい。その日はもう西へいく電車はないといわれ、祖母の一行は困ってしまう。駅にいてもらっても困るということで駅から外に出る。しかし、駅から出てもどこかに泊まりにいけるわけでもないため、駅を出てすぐのところで野宿ということになってしまった。夏のこの時期、外にはたくさん蚊がいてとても大変だったという。
親戚の家ではまた安定した生活に戻ることが出来た。食料に困ることはなく、山のおじさん(どういう人なのか、本当のところは謎で曖昧な記憶)が月に1回ほど荷車に芋やかぼちゃを持ってきてくれたという。夜になると朝鮮人が蜂蜜や砂糖を売りにきたらしい。

2−2.終戦後の生活
終戦のときには岐阜にいたというので親戚のところにそう長くいたわけではないようだ。社宅の空き家へ住むことにしたのは良いが、畳や布団がなかったので、無人の家や、人のいない(既に使われていない)家から畳や布団などを失敬してきたという。今なら窃盗以外の何ものでもない犯罪だ。家の前に小さな畑を借りて水菜を育てたことがあるらしく、「明日切ろう」といって楽しみにしていたのに、朝畑を見たらきれいに他の人にとられてしまっていたという。根は残っていたが、再び伸びるには時間がかかるしがっかりしたそうだ。だが、そうしてまで食料がほしいという気持ちはよく分かったので我慢しかなかった。
終戦後、祖母の父の会社が上手く回らなくなる。飛行機などを扱う会社だったため、給与が期日に出なかったり、減額されていたりした。また、そのことにより食料に困るようになる。前のように誰かがくれるということはなくなってしまった。6人家族を配給のみで養うのは難しい。お粥、おからに野菜をたくさん盛り込んだつくね(ハンバーグっぽかったかも)はまだよかったほうだが、不味くて祖母はいつも残していたという。小さなりんごの木箱をひっくり返し、風呂敷を敷いてテーブル代わりにしていた。
祖母の残したものを、妹が食べていたので、妹は当時にしてはまだふっくらと育った。しかし祖母は栄養が足りていなかったことで体力が格段に落ちただけでなく、視力も一気に落ちてしまう。体力がないせいで好きだった歌を歌うのにも支障が出たほどだった。学校に向かう電車の中で気分が悪くなり、行った電車が引き返すので乗車したまま家に戻ってしまうことが重なり、勉強がどんどん遅れていった。そのため、学校から先生が来て、5年制の学校であるから、もう1年頑張らないと卒業とは認められないが、特別に月謝だけでいいといわれたという。祖母の母がOKしたことで祖母は気が楽になったという。
授業は、今の体育館のようなところに1学年全部を押し込めて行っていた。端から端まで机がくっついてぎっしり詰まっていたので先生は後ろまで見に行けない様子。また、焼けてしまって教科書のない状態で授業を受けている生徒もいた(祖母もその一人)。問題など、回答を指名された場合は何処からともなく教科書が回ってきて「今ここ!」と教えてくれたらしい。その後、新聞のようにページが印刷されたものが配られ、それを切って閉じることで教科書にするということもあったそうだ。
学校とあれば、やはり昼食の時間が存在する。学校は弁当。戦争前ならば堂々と蓋を開けて食べることができたというのに、今では見られたくなくてこそこそと食べなければ恥ずかしかったと祖母は言っていた。前は友達のほうが隠すように食べていたのだが、生活ががらりと変わったと実感した、と。畑を持っている農家の子は彩が整った弁当だったのが羨ましく感じたらしい。
着物と引き換えにお米を貰う、ということが出来たのだが、どうやらそれを祖母の父はあまりよく思っていなかったことが食生活難を増長させていたらしい。勿論全て交換に出してないわけではない。出し惜しみしていたのである。「軍に関わっていた、前はもっといい生活だった」というプライドが、服などをさっと出してしまうことを拒んだために、6人全員が苦しい思いをしたのではないかと祖母は言う。今までの面子は丸つぶれで惨めだ、と子供心に思ったという。
配給を貰いに行った先で、6人家族だという紙を見せるらしい。そのときに、その係りの人が「大変でしたねえ」といって量を多くしてくれたり、一週間分余計にくれたりしたこともあったという。そのときもまだ給料を払ってもらう期日が遅れていたため、とても助かったらしい。


3.祖母のお仕事
3−1.アルバイト
 卒業後、祖母は勉学を修めたという認識が自分でもあまりなく、引け目もあったためにしばらくは職に就くことも出来ず、アルバイトをしていた。その場所は岐阜にあった米軍のキャンプ地でのコーヒーショップのようなものだったという。
思い出として、祖母はまずお菓子をもらったと話してくれた。キャンプの中で、兵隊さんの中でも少し位の高そうな人(どうやらこの人は祖母のことがお気に入りであったらしく、何度か来たらしい)が自分に向かって来い来い、と手を振るので、オーダーなのかと思って行って見ると、コーヒーにセットでついていたお菓子と、自分で買ったであろうケーキのようなものがティッシュペーパーにくるまれており、そっと渡されたのだという。戻って同僚と食べようと広げたが、同僚は「あんたがもらったものなんだから」といって遠慮していたらしい。

実はこの岐阜の米軍キャンプで、祖母と祖父の出会いがあった。
祖父は戦争中にその父が病死してしまっていた。祖父自身は海軍兵学校で学び、成績もよかったので進学を希望し、大学を受験したが、学費を母に任せるのはよくないとアルバイトをしていた。
祖父は京都大学を何とか卒業後、教師になって鹿児島の高校に赴任する。祖母が忘れた頃に祖父からの手紙が届き、「これ誰やろ?」という感覚で文通が始まった。

3−2.川崎重工に入社
 アルバイトの後、祖母は近所に住んでいた叔父(当時祖母は引越しをした後で雄飛ヶ丘に住んでいた。一軒屋だが、この辺りは川崎重工の人間が多く住んでいた) のコネによって、川崎重工の事務員にならないかといわれ、面接を受けて事務員に採用された。祖母の父はいい顔をしなかったらしいが、母のほうがよかったといって送り出してくれたそうだ。

4.祖母の結婚
祖母はウェディングドレスを着て結婚式を挙げた。結納の品の代わりに祖父のほうから白い布を貰ったので、それを使い、洋服の型紙を持っている知り合いに頼んでわざわざ作ってもらったオーダーメイドである。京都に住んでいた祖父方は礼服、もしくはちょっと余所行きの服という感じだったらしい。祖母のほうはお米などの交換のために礼服を持っていなかったので、一張羅だった。祖母の妹は友人に頼んで着物を着たようだが、服装はばらばらだった。兄弟と親のみが参加した。
ウェディングドレスは1回しか着ないということで祖母はとても贅沢でもったいなく思ったという。しかも段々黄ばんでいってしまうのが残念だったらしい。両家とも親、兄弟のみの出席で、礼服が揃っておらず、当時持っていた一張羅で参加していた。
祖父のほうの人間は空爆がなく、礼服の着物も大体揃っていたようだが、祖母のほうは食料との引き換えに最初に出すのがあまり使わない着物=礼服、という認識から既に差し出してしまった後だった。そのため、祖母の妹は友人から借りて着物を着ていたが、他は持っている一番相応しそうなものであった。

5.その後の祖母
5−1.祖母の出産
 母の出産に関しては、初めてではあったが余り印象はなかったようだ。しかし母の弟(叔父)が生まれるときというのはとてもひやひやしたという。
 出産が近くなれば、お腹の中を蹴ってよく動くという。それは叔父の場合も同じであったのだが、祖母は階段から足を踏み外してお腹を打ってしまった。すると、昨日までしっかり動いていたのがぱたりとやんでしまったという。その後しばらくしてから回復したらしく、無事に生まれた。しかし、その打撃のためなのか、生まれた子は斜頸であった。
 しばらくすれば治ると医師から聞かされてはいたが、祖母はとても心配したという。それなのに、医師が「気になるでしょう、反対側にポキン、て倒したくなるでしょう」などというので、その医師を殴ってやりたかったといっていた。


5−2.祖母の教育
 母や叔父は岐阜高校に入ったこともあり、学業的には優秀に育った。しかし、母は途中、学校に行きたくないといって休むことを考えるようになる。「休もうかなあ」と母が言ったとき、祖母は「?うん、そうしたら?」と、特に何も聞かないまま承諾したという。母はそのあとも何日か休むのだが、行かなくていいの?といった気遣いも何もなかったので、母は自分からまた学校に行くようにしたという。
 今考えてみると、祖母も同じように学校に行けなかったことがあったために母に学校へ行くよう進めようとも思わなかったような気がする(理由は違うが)。
 現在祖母の住んでいる場所は、母と叔父の授業参観のあと、遠回りして帰ろうという軽い気持ちで通ったところである。ちょうど今祖母宅がある場所が売られており、「買いだ!」と頭金分のお金を出してしまった。何時それを祖父に言い出そうかと本当に困ったという。

5−3.祖母のそれから
 祖母は一昨年まで華道と茶道を教えていた。その頃私も片鱗をかじらされていたのだが、そのときよく言っていたのが、「あの時あの釜を持っていっちゃうなんてもったいなかったわあ」という言葉である。戦時中はお寺の鐘や、茶道で使う湯を入れる釜まで差し出さなければいけないこともあったという。野ざらしになっている立派な釜があったのを思い出し、あの時茶道を習っていたらよかったなあと思ったという。
 祖母が茶道を習い始めたのは結婚して子どもを産み、落ち着いてからだった。学校を卒業したという実感がないのがやはりコンプレックスだったらしく、何かやり遂げたと思えることがほしい、ということで茶道・華道・裁縫を習ったという。特に茶道はやりこんだことと、元々器用だったのがよかったらしく、他の人よりも速く上達し、習っていた先生の字から一つもらって自らも先生となっている。一昨年から時間が合わずに辞めてしまうお弟子さんや、祖母の事情もあって辞めてしまったが、今でも旅行先などで茶道具を見るたびにじっと見つめていることから、とてもその経験を大事に生きてきたことがわかる。
 

6.最後に
 祖母と接していてもこんなに話したことはなかったし、祖母のことをぜんぜん知らなかったのだと思った。「戦争中を生きてきた」という漠然とした意識はあったものの、どういう生活をしてどういった気持ちだったのかということは、しっかり聞いて見なければ分からなかった。いろいろな質問をして、そろそろ終わりにしようとすると、決まって祖母は
「今が一番やね、今はやっぱり平和なんやなあって思うよ。いろんなとこで事件とか事故とか起こっているけどね、昔と比べたらやっぱり違う。今が本当に一番幸せやね」
という。祖母は今満たされて生活にとても満足しているのだと思うと、私も嬉しい。祖母は自分の時代から見た、祖母なりの平和を感じて幸せと感じている。時代によって平和というものの形は違うし、幸せの形も違うのだと改めて私も思った。戦争があって生きることが大変だった祖母の時代とは違う私たちの「今」の平和の視点もあるだろう。しっかり意見をもって強い人だと感じていた祖母を構成する裏には、こんなに苦労した経験が積み重ねられていたのだと驚いた。

<参考文献>
 『岐阜県史 通史編』 
              岐阜県編 1981年
『岐阜も「戦場」だった 岐阜・各務原・大垣の空襲』
岐阜市平和資料室友の会 岐阜県歴史教育者協議 2005年

(元川望)

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