1. はじめに
私には祖母が2人いる.父方の祖母は,私が生まれたときから一緒に住んでいたし,母方の祖母も,歩いて5分くらいのところに住んでいたので,小さいときからよく遊んでもらったり,いろいろな話を聞いたりして祖母たちのことは結構知っているつもりでいた.しかし,今回聞き取り調査という形で2人に話を聞くことで,今まで知らなかった祖母たちの人生の一部を知ることができた.
聞き取りによって知ることができた祖母たちのこれまでの人生を戦争と結婚を中心にまとめていきたいと思う.
2. 父方の祖母の話
2-1.祖母の子供の頃
父方の祖母は,昭和3年(1928)9月22日に京都府南桑田(みなみくわだ)郡曽我部(そがべ)村字法(ほう)貴(き)に生まれた.3人兄弟の長女として生まれた祖母には,兄と妹がいた.兄は今も祖母の実家にいるが,妹は結婚後32歳で亡くなったという.
小さい時は,ようソラマメの煎ったんやら,サツマイモの蒸かしたんやらを,作ってくれちゃったさかいに,そんなん食べとったんやで.今みたいなお菓子はなかったわな.ご飯かて,今みたいに白ご飯とちごて,麦の入った麦ご飯やったわ.そやかて,うちは農家やったはけ,都会の子よりは白ご飯も多かったかもしらんけどな.ほて,麦ご飯と,水団いうて,サツマイモとお米で作ったんもよう食べとったわ.今みたいに白ご飯,白米食べるようになったんは,だいぶ経ってからや.大概麦ご飯やったなあ.
子供の頃の食べ物について祖母はこう話してくれた.ソラマメやサツマイモをおやつに食べていたということや,白米ではなく麦ご飯を食べていたということから,祖母の幼少時代の食料不足や貧しさがわかる.また,逆に現代の食が豊か過ぎる様子を感じられるのではないかと思った.
小学校に入学して,戦時中はそないはなかったんや,10歳くらいから始まったんや.戦時中いうても,小学校の間はそないになかったんや.せやかて,高等科になってからずんずんひどなったんや.
祖母が小学校に入学して小学3年生になるまでは戦争はまだ始まっていなかった.戦争が始まってからもしばらくの間は,そんなに激しくはなかったため,小学生時代に戦争を強く感じることはなかったそうである.祖母にとっての戦争の始まりは、昭和12年(1937)の盧溝橋事件を契機とする日中戦争であった。昭和6年(1931)の満州事変によって十五年戦争が始まったが、祖母にとっては十五年戦争の第二段階といえる日中戦争が戦争の始まりであったようである。
学校ではぬか磨き言うて,袋にぬか入れてしゅっしゅしゅっしゅこないして,朝はみんなそういうことして,ほて,ラジオ体操もあって,ほて,朝会があって,それからみんな勉強して.たいがい,それがずっとのことや.長いことずっと.ほて,床がつるつるやった.講堂やら.ほて,並んでな,みんなぬか袋持っていって,きゅっきゅきゅっきゅこすったんやな.
小学校では,毎朝みんなが持ってきたぬか袋を使って床を磨いていたという話をしてくれた.ぬかで磨くことで床がとてもきれいになったということが印象強く心に残っているのだろう.床を磨いた後は,ラジオ体操をし,朝会があって,それからやっと勉強が始まった.小学校では6年間毎日,朝の掃除とラジオ体操と朝会をしていたということがわかった.
祖母が小学校生活の中でもう一つ印象に残っている出来事を話してくれた.それは祖母が通っていた小学校で行われていた体育大会である.そのときのことを祖母はこう話している.
あの,南桑田郡全部,曽我部の小学校が,運動場が広かったはけ,全部来やはって,ほて,それを,体操やらないかい,体育をして,ほて,曽我部の子が5,6年は先頭になって,ずっと並んでこう,後ろにみんないろいろ違う学校の子が来て,寄せたりするのん,みな曽我部の小学校の子が,先頭に立ってしたんや.
亀岡市の資料を見てみると,祖母の通っていた曽我部尋常小学校では毎年,周辺の小学校の子供たちが集まって運動大会が行われていたということがわかった.そのときほかの小学校の子供たちをまとめる役割を曽我部の子供たちがやっていたのである.
戦争が始まるまでと,戦争が始まって激しくなるまでの間は祖母の人生の中での比較的平穏で安定したものだったと考えられる.
2-2.戦争が激しくなってからの暮らし
戦争が激しくなり始めたのは,祖母が高等科に入った頃からである.祖母が高等科に入学したのは昭和16年(1941)である。この年は、太平洋戦争が始まった年で祖母の記憶にもよく残っていたのであろう。
高等科に行く時分になって戦争がだんだんと激しいなって,ほて,高等科は2年で卒業して,ほて,青年学校へ3年行ったんや.青年学校の1年のときは,お針を午前中やって,ほて,それから勉強もして.2,3年になってきたら,戦争やさかいに,開墾に行ったんや.篠村に,開墾に.開墾にいうて,サツマイモやら植えるのにな.この時分はお針やら勉強やらはそないにせんと1日はさみに篠村に開墾にいっとたんやな.
戦争が激しくなり始めると,勉強どころではなくなったのだろう.青年学校でのお針や学業はどんどん減っていって,代わりに篠村への開墾という戦争による食糧不足を補うための仕事をしなくてはいけなくなったのである.しかし,それが当たり前であったと祖母は言う.日本のため,頑張っている兵隊さんのためといいながら自分たちが生きていくことで精一杯だったと話してくれた.
戦争が激しさを増す中で,食糧不足は大きな問題になっていた.学校の運動場にまでサツマイモを植えるようになった.少しでも多くの食料を確保するためには仕方のないことだったのであろう.全てが配給制になり,少ない配給で家族みんなが暮らしていかなくてはならないという状況を考えると胸が痛くなる.そんな食糧不足の中で,京都市内からお米を交換しにきた人々がいたという話をしてくれた.
京都市内のほうからなあ,汽車に乗って,着物もって来ちゃったわな.お米と交換してもらおと思てな,ほて,若い娘がおりそうなとこに来てなあ,せやかて,どこも大変やさかいにそないもらえんかったんとちゃうやろか.うちにも来ちゃったけど,ちびっとしかあげてやなっかたと思うで.おかあちゃんら,ぬか床に隠しとっちゃったんをちびっとあげとっちゃたわ.ほやかて,ほんまはそないなことしたらあかんかったんや.そうして,うまいこともらえたかて,汽車で帰るときに調べられて取り上げられたかもしれんしな.うちはあげるだけやさかいしらんけど,持って帰られんかったんとちゃうやろか.ほやけど,かわいそに思われたわなあ.うちかて,食べなあかんしなあ,そないにぎょうさんあげられへんしなあ.せやかて,あれ,よう見とっちゃったんやなあ,若い娘が,着物欲しそうな娘がおるとこしか行っとってやないしな,見たらわかるんやろなあ.かわいそやったけどなあ.
着物とお米を交換してもらいにきた人たちに申し訳ないと思いながらも,自分たちも生きていかなくてはならないということから少ししかあげられなかったということを今も申し訳ないと思っているのだろうと思った.かわいそうだと思っても,自分たちもギリギリの生活をしているからたくさんはあげられなかったことが,きっと気になっていたのだろう.仕方がないと割り切りつつもそうし切れなかったのではないかと思う.
祖母が住んでいた地域の戦争中の様子を調べていく中で,祖母の記憶にははっきりとは残っていないが,祖母の住んでいた地域の周辺に爆弾が落ちたということがわかった.1945年3月19日,南桑田郡曽我部村山林に爆弾が投下されたらしいのだが,祖母はどこかに落ちたというのは聞いたような気もするという程度だった.自分たちに被害がなかったので,あまり気に留めなかったのだろう.祖母は直接空襲の被害を受けなかったようであるが,大阪で空襲があったときには山の向こうが赤くなっているのが見えたという.それを見て,山の向こうでの空襲の激しさが感じられたと話してくれた.
2-3.結婚について
祖母が結婚したのは23歳のときで,お見合いによるものだった.
結婚はお見合いやったわ,ほて,その時分はお見合いはっかりやった.結婚の前には2回くらい会ったわ.家が遠いとこの人やら,兄弟が多いことの人はかなんさかいに嫌やいうて.仲人さんがこの人はどうやいうて話持ってきちゃったけど,断ることが多かったわなあ.
祖母の時代で恋愛結婚をする人はとても珍しかった.ほとんどの人が仲人さんの持ってきたお見合い話で結婚したと話してくれた.祖母の場合は,祖父と同級生で勤め先が同じだった人が紹介してくれたそうである.
結婚式は祖父の家で行われ,祖母の方から出席したのは,祖母の父,父の弟,母の実家の人,髪結さんで,身内だけの結婚式だった.結婚式当日は箪笥や,長持,下駄箱などの嫁入り道具を先に運び込み,祖母は黒の裾模様を着て,タクシーに乗っていったそうである.結納は2万円,儀式としては杯を交わすだけの簡単なものだったという.結婚式の料理は料理屋が来て作ったもので,ご馳走だったと話してくれた.
結婚式当日の夜には,祖父と祖父の母と祖母の3人で祖母の実家に帰った.祖母の家に帰るときは,黒の紋付で帰り,再び祖父の家に戻ってくるときには赤い訪問着に着替えてきたそうである.祖母の地域ではこれを,ミッカガエリと呼んでいた.祖母の話では,昭和15年ころまでは,結婚式の翌日や3日後に帰っていたということである.
3.母方の祖母の話
3-1.祖母の幼少の頃
母方の祖母は昭和9年(1934)3月10日に亀岡市千代川町拝田に生まれた.小作農家の5人兄弟の三女として生まれたそうである.祖母には姉が2人,弟が1人,妹が1人いた.
小さいときは,託児所に行っとたんや,小学校入るまでやなあ.託児所いうて,お寺にあったんやな.そこの和尚さんが木に紐つけてブランコ作ってくれちゃってな,そんなん私ら見たこともないわな,そらうれしかったわ.見たことないもんやさかいに,みんな自分の番が待ちどおしゅうて,なかなか番が回ってこんかったわいな.ほて,紙芝居聞いたりなあ.みんな,行くの楽しみにしとったわ.日の暮れになるま遊んどったわ.
祖母は小学校に入学するまで,お寺に設置された託児所に通っていた.そのときの話を祖母は楽しそうに話してくれた.このころは,まだ戦争の影響を感じなかったのだろう.
祖母の話で印象に残ったことの1つに,地主と小作人の差の大きさがよくわかる話があった.
うちは小作農やったんやけどな,隣のうちは地主さんやったんや.おかあちゃんらがよう隣に米俵を持っていっとっちゃったのを覚えとるわな.子供やったさかいに,ほないは覚えてないけど,隣の蔵に米俵を5俵もっていっとっちゃったのは見とった.隣のうちのお父さんは役場の助役さんやったんやな,そやさかいに,うちらではよう手に入らんもんもっとっちゃったわな.裏で何かあったんやろな,知らんけんど.よう隣の子がするめもっとっちゃったんを,もろて,わけて,ほて,その地主の子は胴を食べて,足だけ私らにくれてやんや,そやかて,うちでは食べられへんさかいにおいしかったわ.
この話から,地主と小作農の間には,大きな差があったことがわかる.子供だった祖母にとって,その差はするめを通して身近に感じられるものであったのだと思う.そして,地主と小作農の関係が,今も子供のころの記憶と一緒になって残っているんだなと思った.
3-2.戦争中の小学校生活
祖母は小学生のときに戦争を経験している.小学校の様子を祖母に聞いてみた.
学校の教室では,二人机に座っとった.二人机に座るときは,女の子同士,男の子同士で座ったんや,ほて,縦にずっと女の子,男の子で,ほら,男の子らが女の子は汚いいうて,近寄らんかったさかいにな,触ったら汚いいうて嫌がって,ほやさかいに,席はそうなっとった.
運動場にはサツマイモやら豆やら植えて,体育は講堂やら運動場の隅やらでやっとったわ.講堂には,軍用の乾パンがぎょうさん積まれとってなあ,人が1人通るのでやっとやったわ,ほて,今にも崩れるんとちがいやろかと思うくらいに.
クラスごとに配給があってなあ,朝鮮靴やらズックやらあったんやけどな,クラスに3足しかなかったんや,そやけど,おばあちゃんはちっさかったさかいに,ようもろとったわ.くじで決めとったんやけどな.そやかて,みんな裸足で学校に行っとったわ.冬は下駄はいて行っとったけど,冬だけやな,春やらは裸足やった.
祖母が小学生の頃は,講堂に軍の乾パンが積まれていたり,運動場にサツマイモが植えられていたり,クラスの全員が靴を履くことができないよう時代であったということが,祖母の話からわかる.戦争の悲惨さをまだ小学生だった祖母は身をもって感じていたんだなと思った.
戦争が激しさを増すにつれて,食糧不足や衛生状態の悪化が目立つようになった.祖母も,だんだん食べるものが少なくなっていったために苦労したと話してくれた.
下を向くだけで,しらみがぱらぱら落ちてきてな,そら,かゆいし,気持ち悪いし,夜は寝られんかった.
祖母の弟が持って帰ってきたしらみが家族中に広まり,みんなかゆさを我慢していたという.しばらくして,熱湯で服などを殺菌すればいいと聞いて,なんとか退治することができたというが,その話を聞いただけで当時の衛生状態の悪さが理解できるのではないだろうか.
3-3.学童疎開の受け入れ
祖母の地域では学童疎開を受け入れていた.京都市内に住んでいた子供たちが京都府の安全な地域に次々と疎開していったのである.祖母住んでいた千代川には,京都市下京区の修徳国民学校の児童が疎開してきた.疎開児童たちは,嶺松寺と光福寺に分けられ,そこを寮として生活していた.疎開児童は地元の児童と一緒に授業を受けた.食事は,村の婦人会の人たちが作って,それをお寺ではなく,茶務所のようなところで食べていたという.祖母の家は,お寺に近かったようで,ご飯を食べに行く疎開児童の集団がよく見えたと話してくれた.
資料によると,修徳国民学校の学童疎開給食表が残っており,それには,一汁一菜のかなり質素な献立のみが載っているということである.このことからも戦争中の食糧不足は明らかであったといえるのではないだろうか.
疎開してきた児童のことを,祖母は,
そら,かわいそやったやな,親と離れて,食事もろくなもんとちごて,かわいそやとおもた.
と話している.先生から,疎開児童に優しくするように言われたこともあり,みんな疎開児童には優しくしたと話してくれた.
3-4.結婚について
祖母が結婚したのは昭和32年(1957)である.当時は主流であったお見合いによる結婚であった.仲人さんによる紹介で結婚することになった祖母は,祖父からの映画の誘いを恥ずかしいという理由で断っている.結婚前には2回くらい会ったそうであるが,それ以外は会わなかったという.
結婚式の日は昼ごはんを実家で食べてから,12時くらいに祖父の家に行った.荷物は10時頃に出発していて,嫁が婿の家につくころには運び終わって家の中に並べられていたそうである.黒の裾模様を実家から着ていて,ハイヤーに乗っていったらしいが,昭和25年に姉が結婚したときはまだ人力車を使っていたのを覚えていると話してくれた.参加者は嫁のほうが5人,婿のほうがは7人と少なかったそうである.祖母のほうの参加者は仲人,父,嫁,父の長兄,母の長兄,祖父のほうの参加者は仲人,父,母,婿,父の長兄,母の長兄,婿の兄弟であった.儀式としては杯を交わすだけのもので,質素なものだった.
結婚式当日の日の暮れには提灯を持って祖父と祖母の実家に帰った.行くときは黒の裾模様,帰りは赤の訪問着であったそうである.祖母の地域ではこれをカエリゾメと呼んでいたという.
4. おわりに
2人の祖母の話を聞いてみて,同じように戦争を体験していても,体験した時の年齢や地域によって,体験したことや感じ方が違うということがはっきりとわかった.当たり前のことではあるが,実際に2人の話を比較しながら聞いていると違うことがたくさんあるということに気づいた.戦争が激しくなってきたときに,青年学校に行っていた父方の祖母と,小学生だった母方の祖母とでは戦争に対する気持ちに違いがあるかもしれないと思った.
祖母の幼少の頃の話や,お見合いをして結婚したときの話を聞くことができて,普段聞くことがなかった祖母のこれまでの人生に触れることができたのではないかと思う.
5.参考資料
・ 『新修亀岡市史 資料編第5巻』,亀岡市史編さん委員会,1998
・ 『グラフかめおか20世紀』,亀岡市史編さん委員会,2000
・ 『かくされた空襲と原爆』,小林啓治・鈴木哲也,機関紙共同出版,1993
・ 『語りつぐ京都の戦争 空襲・疎開・動員と子どもたち』,語りつぐ京都の戦争出版委員会,1997 |