知の迷宮

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◎「京都新聞」連載 「古典に親しむ 竹取物語の世界」

執筆者:滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科教授 京樂真帆子

第一回 竹林には砂金がざくざく!? 2011年4月3日掲載

 十二単(ひとえ)を着たお姫様が月を眺(なが)めて泣いている、という絵を見たら、「あ、『竹取(たけとり)物語(ものがたり)』のかぐや姫だ」、とわかりますよね。中学校の国語教科書にも載(の)っているほど有名なお話なので、おおよそのストーリーは誰(だれ)でも知っています。かつての人気テレビ番組「ラブ・アタック」や様々(さまざま)なギャグの元ネタになるなど、笑いと一緒に親しまれてきたこの物語。実は、言葉遊び、つまりはオヤジギャグがそこここにちりばめられています。今回は、そこを訳すのに苦労しました。
 『源氏物語』に「物語の元祖(がんそ)」と見え、一〇〇〇年を超えて愛読される『竹取物語』。平安時代のはじめに出来たことは確かだけれども、作者の名前も性別もわからないこのお話を、ご一緒に読み通してみましょう。
 さて、この物語冒頭(ぼうとう)は、とっても有名な部分。だけど、竹取の翁(おきな)が見つけた黄金(こがね)がどういう形だったのか、が問題です。子ども向けの絵本では大判(おおばん)小判(こばん)が描かれますが、平安時代に金貨は存在しません。「竹流(たけながし)金(きん)」(竹筒(たけづつ)などに流し込んで固めた金塊(きんかい))だとする向きもあるけれども、こうした形の金塊が確認されるのは戦国時代以降のこと。翁が目にしたのは、平安時代の史料に出てくる「砂金(さきん)」でしょう。とすると、節(ふし)を上手に切らないと砂金がこぼれちゃう、と心配になってきますね。当時の砂金は、袋に入れた重さで価値を決めていました。ですから、翁も袋に詰め替えて、家に持ち帰ったに違いありません。
 タケノコの名産地・乙訓(おとくに)に暮(く)らす私は、犬を連れて竹(たけ)薮(やぶ)(孟宗(もうそう)竹(ちく)ですが)の横を通る時、重そうに風に揺れながら光る竹を探してしまいます。犬の散歩には排泄物(はいせつぶつ)処理のエチケットバッグと、砂金を入れるためのエコバッグを忘れずに!

第二回 なかなか辛辣 貴公子への目 2011年4月10日掲載
 『竹取物語』が面白いのは、この五人の貴公子(きこうし)たちが実在の人物をモデルにしている、ということです。石作(いしつくり)の御子(みこ)は丹比(たじひの)真人(まひと)島(しま)、くらもちの皇子(みこ)は藤原(ふじわらの)不比等(ふひと)、右(う)大臣(だいじん)阿倍(あべ)のみむらじは阿(あ)倍(べの)御主人(みうし)、大納言(だいなごん)大伴(おおとも)の御行(みゆき)は大伴(おおともの)御行(みゆき)、中納言(ちゅうなごん)石上(いそのかみ)の麻呂(まろ)足(たり)は石上(いそのかみの)麻呂(まろ)、です。この五人、大宝(たいほう)元年(西暦七〇一)には実際に左大臣・右大臣・大納言で、政界のトップを占めていました。大宝元年というとピンと来ますよね。そう、大宝律令(りつりょう)が制定され、日本に律令国家ができあがった年。この物語は、二〇〇年ほど前の政治状況を思い起こしながら書かれたのです。さしずめ、今なら幕末に活躍した坂本(さかもと)龍(りょう)馬(ま)を主人公にする小説、でしょうか。『竹取物語』の背景に、歴史を感じる所以(ゆえん)でもあります。
 但(ただ)し、この五人のうち藤原氏を除く氏族は、平安初期にはすでに落ちぶれていました。だから、でしょうか、作者がこの貴公子たちを描く筆はなかなか辛辣(しんらつ)です。美人と聞くと心が騒ぐ「女好き」で、一目見るためには無駄(むだ)な努力も惜(お)しまない。上級貴族の御曹司(おんぞうし)なのに庶民の翁(おきな)にへりくだる様子(ようす)まで描かれ、その哀(あわ)れさを滑稽(こっけい)なまでに強調しています。かぐや姫も、こうした貴公子(きこうし)の求婚(きゅうこん)に喜びもしません。つまり、作者は「上級貴族なんて、たいしたことない!」と言っているわけです。
 権力者への批判の眼を持つことは大切です。が、落ちぶれた者にさらにむち打ち、他人の不幸を喜び、あざ笑う、という卑怯(ひきょう)な大人になってはいけません。と、みなさんに説教したいところですが、こういう大人は一〇〇〇年以上も前からいたわけですから、説得力がないですよね。

第三回 父を論破し翻弄しよう 2011年4月17日掲載
 『竹取物語』を読み直してみると、翁(おきな)の妻、つまり媼(おうな)の影が薄いことに気付きます。平安時代の結婚相手選びでは、娘の母の意思が重視されました。が、ここで姫と議論するのは翁です。父と娘の関係が軸となるこの物語の作者は、お年頃の娘を持つ父親なのかもしれません。
 ところで翁の年齢ですが、ここでは「七〇歳を超(こ)えた」と言っていますが、かぐや姫が月に帰る時には「今年、五〇歳になった」と言っています。作者のケアレスミスか、後の人が写本(しゃほん)を写し間違えたのか、とにかく『竹取物語』にはこうした矛盾(むじゅん)がいくつかあります。みなさんもぜひ見つけてみてください。
 さて、かぐや姫は、結婚しろと迫る翁に反論をし、自分の意見を論理的(ろんりてき)に述べていきます。美人なだけではなく、頭も良いんです。翁は、人間は結婚するのが当たり前だ、と一般論を展開します。一方、かぐや姫は「愛情の深さを問う」という各論で対抗します。うん、こっちのほうが説得力がある。
 しかし、結婚には愛情が必要だという価値観は、平安時代には存在しません。ですから、翁はかぐや姫の論理を逆手にとり、愛情の深さを問うならば、すでにもう結論は出ているではないか、と言います。貴公子(きこうし)たちが毎日通ってきていることを評価するわけです。夫が妻の元に通う「通(かよ)い婚(こん)」のある平安時代ならではの展開ですね。こうして、姫は愛情を目に見える形で示せ、と言わざるをえなくなりました。
 父に論破(ろんぱ)されるとは、悔(くや)しいですね。現代に生きるみなさんは、父親には堂々と反論し、逆に父親を翻弄(ほんろう)してやりましょう!私はそうやって生きてきました。   


第四回 海の向こうへのあこがれ 2011年4月24日掲載
 さあ、いよいよかぐや姫の課題が発表されました。
 まず注目してほしいのは、課題を出された三人目への呼びかけ方。ここだけ、名前を出さずに「今ひとりには(もうお一人には)」と言っています。これは最後の貴公子(きこうし)をさす表現だから、『竹取物語』にはもともと三人の貴公子しかいなかったのだとする説があります。こうした登場人物の追加がいつ行われたのかはわかりませんが、物語が読者の要望に応じて変化したことをうかがわせます。
 さて、もう一つ面白(おもしろ)いのは、課題の品が国際色豊かなこと。この品々には、元ネタがあります。いずれご紹介しましょう。今は、宝物(ほうもつ)の中に唐土(もろこし)(今の中国)の品が含(ふく)まれていることに注目、です。
 平安時代というと、八九四年に遣唐使(けんとうし)が廃止され、その影響で日本独白の「国風(こくふう)文化」が花開いた、とされます。『竹取物語』が成立したのは、おそらく西暦八〇〇年代前半でしょうから、海外との交流が描かれるのは当然のこと。が、注意したいのは、この物語がそれ以降の時代にも読み継(つ)がれ、楽しまれたということです。「国風文化」の時代と言っても、鎖国(さこく)をしていたわけじゃないのです。国同士の正式な国交はなくなっても、商人は行き来しますし、物も流通しています。海外からの珍しい品は唐物(からもの)と呼ばれ、都(みやこ)の貴族たちに珍重(ちんちょう)されました。だからこそ、『竹取物語』を読む人たちは、姫の課題の品々を架空(かくう)のものとは思わずに、まだ見ぬ唐物としてあこがれたのかもしれません。
 ちなみに、私も海外ブランドの品、きらいじゃありません。かぐや姫になった気分で私が出す課題、誰か解いてください。 

第五回 本物の石鉢、縁の形で判断 2011年5月1日掲載
 さて、いよいよ貴公子(きこうし)たちの試練が始まりました。トップバッターは、石作(いしつくり)の皇子(みこ)。課題は、「四天王(してんのう)が仏に献上した石(いし)鉢(ばち)を持ち帰ること」です。が、あっさりと失敗します。その描かれ方も、あまりにもあっけない。偽物(にせもの)を用意するにしても、そこらにあったものを拾っただけでごまかす皇子のずるさと、嘘(うそ)がばれた時の弁解(べんかい)の下手(へた)さが目に付くだけです。あの巨匠・市川崑(こん)監督の作品である映画『竹取物語』(一九八七年、東宝)でも、このエピソードは描かれませんでした。皇子が持って来た汚い黒ずんだ石鉢では絵になりませんからね。
 この仏の石鉢、西暦四世紀にインドを旅した中国のお坊さん、法顕(ほっけん)が実物(とされるもの)を見ています。いろいろな色が混じった黒っぽい石で出来ていて、光沢(こうたく)が有り、縁(ふち)が四つあるのがはっきりとわかったそうです。仏陀(ぶっだ)が四人の弟子からもらった四つの石鉢をぎゅっと一つにまとめてできた石鉢だからこそ、この縁の形が本物かどうかの判断基準となります。七世紀にインドへ行った唐の玄奘(げんじょう)は、すでにペルシアに持って行かれてしまった本物を見ることが出来ませんでしたが、石鉢の縁のことはちゃんと説明しています。 ということは、光ばかり気にするかぐや姫を描いた作者は、玄奘が書いた『大唐(だいとう)西域記(さいいきき)』を読んでいない、ということ。おそらく、法顕の旅行記『仏(ぶっ)国記(こくき)』を元ネタにしたけど、四つの縁とは何なのかわからなかったのでしょう。ちなみに、両書とも奈良時代には日本に伝来しています。
かぐや姫は「縁は四つあるかしら」と言うべきだった、と思いますが、それでもやっぱり映画のシーンにはなりませんね。 

第六回 外国行くふりで「難波」へ 2011年5月8日掲載
 「難波」というと、私たちはつい「なんば」と読んで、大阪の繁華街を頭に浮かべてしまいますが、『竹取物語』の時代では「なにわ」です。豊臣秀吉の辞世(じせい)の句が「難波のことも夢のまた夢」で締めくくられるように、難波と言えば壮麗(そうれい)な大阪城が思い起こされます。今のお城は昭和六(一九三一)年に再建されたものですが、その地下には太閤(たいこう)さんが造った大坂城の遺構(いこう)が眠っています。時々この時期の石垣が発見されますし、最近では城の近くで鍛冶(かじ)工房が発掘されました。もちろん、皇子(みこ)の秘密工房とは無関係です。豊臣時代のさらに下には、あの織田信長と十一年間も合戦を続けた大坂(石山)本願寺の遺構があり、さらにその下には、古代の難波宮の跡が広がっています。いわゆる「大化(たいか)の改新(かいしん)」後にできた都で、平城(へいじょう)京(きょう)が造られてからも副都として活用されました。
 古代の難波は、貿易の窓口でもありました。難波宮の建物が取り壊されて、政治の場が平城京から長岡京・平安京に移った後でも、貿易拠点として機能し続けました。難波津(港)から瀬戸内海を通って、九州、さらに朝鮮半島や中国大陸へとつづく海の玄関口だったのです。今でも、大阪南港からは宮崎などへ向かう国内線フェリーが出ていますし、中国・上海(しゃんはい)へ行く国際線もあります。
 くらもちの皇子は国内での湯治(とうじ)を公欠理由とし(うらやましい)、「東海の蓬莱山(ほうらいさん)」へ行くふりをするために難波にやってきたのでした。私も「ちょっと温泉へ」と届けを出して、関西空港から海外に出るふり、ではなく、出かけてしまいたいものです。が、そんなことをしたら、きっと学長に怒られるでしょう。  

第七回 海の魚は想像もできない 2011年5月15日掲載
 さあ、くらもちの皇子(みこ)の嘘八百(うそはっぴゃく)の冒険譚(ぼうけんたん)が始まりました。今回の部分は、蓬莱山(ほうらいさん)へ着くまでの船旅がいかに大変であったか、についてです。本当は、船に乗っていたのは三日間で、あとは匠(たくみ)たちと隠れ住んでいたのでしたね。
 皇子の作り話を読んでいて、疑問がわきました。最後の所です。「何で貝なんだ?」
 仮(かり)に私たちが絶海(ぜっかい)の孤島にたどり着いたとして、まず探す食べ物は魚ではないでしょうか。釣(つ)り竿(ざお)や網(あみ)などがなくても、なんとか工夫して魚を捕まえようとするでしょう。なのに、皇子は海の貝で飢(う)えをしのいだ、と言います。まあ、貝を掘り出すくらいは、生活力のない貴族でも出来ただろう、という作者の配慮(はいりょ)かもしれませんが、どうせ嘘なら鮪(まぐろ)を素手(すで)で捕まえた、ぐらいは言ってほしいですね。
 貝塚(かいづか)を例に出すまでもなく、貝は古代から食生活に欠かせないものでした。奈良時代の事例ですが、発掘された木簡(もっかん)に書かれた文字から、鮑(あわび)や蛤(はまぐり)、牡蠣(かき)などを都の貴族たちが食べていたことがわかります。一方、鰹(かつお)などの海の魚も塩漬(しおづ)けなどにして都に運ばれていましたが、これは大きな魚ですよね。これを実際に食べた貴族は、料理された切り身しか見ていないでしょう。ということは、貴族がそのままの姿を目にすることが出来た魚は、琵琶湖でとれる鮒(ふな)や鮎(あゆ)が主だったのではないでしょうか。
 だから、物語の作者は海にも魚がいることは知っていても、どんな形をしている魚で、それをどんな風に捕ったらいいのか想像すらできなくて、貝をとったことにしたのだ、と、「551の豚まん」を食べながら、私は考えますね。  

第八回 蓬莱山は日本にある? 2011年5月22日掲載
 蓬莱山(ほうらいさん)というのは、中国の古典(『列子(れっし)』など)に出てくる理想(りそう)郷(きょう)(ユートピア)の一つです。海に浮かぶ島で、仙人(せんにん)たちが住んでいます。そこには宝石でできた木がはえていて、その実はとても美味(びみ)で、食べると不老(ふろう)不死(ふし)になるのだそうです。かぐや姫もおそらくはこの不老不死という効果に期待して、くらもちの皇子(みこ)への課題にしたはずです。が、皇子は言葉通りの「宝石で作った木」を持って来てしまったわけですね。石作(いしつくり)の皇子といい、察(さっ)しの悪い男たちです。
 この蓬莱山、中国の古典には「東の海にある」と出てきます。中国の東ということは、実は日本にあるのでは、と考えたくなりますが、実際そう発想した人がいたようです。秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)の命令で蓬莱山を探しに出かけた徐(じょ)福(ふく)という人が和歌山県の熊野にやって来た、という伝説があります。
 また、中国の古典には、桃源郷(とうげんきょう)という理想郷もあります。川をずっとさかのぼっていくと、桃の花が咲き乱れる林があって、その奥にある洞窟(どうくつ)を抜けると、戦(いくさ)から逃れてきた人々が暮らす、平和な世界が広がっているのだそうです。この様に、不老不死や平和など何をキーワードとして理想郷を描くのかは、現実世界の厳しさ、苦しさの裏返しです。だからこそ、みなが憧(あこが)れるのでしょう。
 私としては、「不老不死」をもたらす、おいしい木の実にも惹(ひ)かれますが、それよりも、グリム童話のヘンゼルとグレーテルが行き着いた「お菓子でできた家」の方に興味がありますね。それが、どれだけ食べても絶対に太らない、とってもおいしいお菓子、だとなお良いのですが。 

第九回 天下の動静が気になって… 2011年5月29日掲載
 「天下(てんか)」というと、「天下を取る」とか、「天下統一」といった言葉が頭に浮かんできて、戦国時代の歴史を思い出します。こういう時の「天下」は、「この国の全部」とか「国家」という意味です。「天下一品(いっぴん)」というと、特に京都に住まう人の目には、とある看板(かんばん)が浮かんできますが、これも本来は、世界にただ一つの逸品(いっぴん)を指(さ)します。「天下晴れ」、「天下太平」などなど、「天下」とは、時代や状況によって様々な意味で使われる面白(おもしろ)い言葉です。
 この『竹取物語』に出てくる「天下」とは、「世間」のことです。くらもちの皇子(みこ)は、自分の失敗談が世間の評判となることを気に病(や)んで、姿を消してしまいました。「人の噂(うわさ)も七十五日」ですけどね。
 平安時代の貴族(きぞく)は、「天下」の動静(どうせい)を結構(けっこう)気にしていました。政策になにか異常事態が生じると、「天下の人が驚くに違いない」とか「それでは天下が納得しない」という評価がなされました。身分(みぶん)制社会に生きた貴族の発言ですから、そこには民衆の意見などは含まれませんけどね。「みんなが持っているから、買って」と物をねだる子どもに「みんなって、誰(だれ)?」と問い返すのはしつけの定石(じょうせき)ですが、「天下」を口にする平安貴族に「天下って、誰?」と聞いてみても、きっと答えは返ってこないでしょう。が、平安京の社会が、こうした漠然(ばくぜん)とした世間、人の噂、世の中の評判というものを気にする段階になっている、ということですね。
 このように「天下」を語る時、「天下布(ふ)武(ぶ)」の向こうを張って、「天下布(ふ)愛(あい)」をキーワードに結婚披露(ひろう)宴(えん)をした若き知人のことを私は思い出します。 

第一〇回 恋は国の重大事に相当? 2011年6月5日掲載
 さあ、三人目の求婚者が登場しました。課題の「火(ひ)鼠(ねずみ)の衣」は、唐(とう)で見つかりました。この貴重な品物は、筑紫(つくし)・大宰府(だざいふ)の港に上陸し、都へと運ばれることになります。
 さて、今回注目したいのは、使者が筑紫から都(みやこ)まで馬を走らせて七日かかった、という日数です。
 平安時代、大宰府から都までは、上りが二十七日、下りで十四日かかりました(『延喜式(えんぎしき)』)。都へ向かう方が時間が長いのは、重量のある税物を運ぶから、です。およそ二週間というのが、通常の旅行日数ということになるでしょう。
 では、緊急事態の時はどうでしょうか。天平(てんぴょう)十二年(七四〇)に九州で起こった藤原広嗣(ひろつぐ)の乱に関する戦況報告書は、およそ四、五日で都に到達しています(『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』)。また、寛仁(かんにん)三年(一〇一九)に海外から来た刀伊(とい)(女真族(じょしんぞく))が北九州一帯を襲撃(しゅうげき)した、との第一報は、一〇日後に都に届きました(『小右記(しょうゆうき)』)。国家の一大事を知らせる情報ですらこのくらいの時間がかかるのですから、物語の中で、七日で品物を都へ届けた、というのはかなりがんばった、ということですね。恋に夢中になっている右大臣にとって、品物をかぐや姫に届けることは国家の重大事に相当するのだ、と筆者は表現しているわけです。おそらく、この部分を読んだ当時の読者たちにとって、ここは「早っ!」と突っ込むところなのでしょう。
 今、博多と京都の間を新幹線は最短で二時間四十四分で結びます。こうした速さに慣れてしまった私たちが驚くには、「どこでもドア」の実現しかない、ってことですかね。  

第一一回 幅広い「青」の範囲 2011年6月12日掲載
 右(う)大臣(だいじん)阿倍(あべ)のみむらじへの課題は、「火を付けても燃えない衣」でした。これは鉱物質(こうぶつせい)繊維(せんい)のアスベスト(石綿)だ、という解釈もあります。原石の中には、青色の物もあるそうです。確かに日本にはない珍品ですから、右大臣がすぐに唐の商人の助けを求めたことにも納得がいきます。
 さて、今回は色に注目してみましょう。火(ひ)鼠(ねずみ)の皮(かわ)衣(ごろも)は、紺(こん)青(じょう)色で、毛先が金色でした。さぞかし美しく見えるでしょうね。この時代、青色は植物染料の藍(あい)で染められました。が、当時は色を引き出す物質が限られていたので、赤みがかった紺(こん)色か、薄い水色しか出せなかったのだそうです。ですから、衣類の色として、深い青色である紺青色はあり得なかったわけで、この物語は人々の好奇心をかき立てたことでしょう。
 さて、大金を払ってだまされた右大臣は、衣が燃えてしまって、顔が「草の葉の色」になってしまいました。青ざめたわけですね。え、草の葉の色って、緑じゃないの?と思ったあなた、そうなんです、日本の古代では青色と緑色の区別はあいまいだったのです。和歌の世界で「奈良」につく枕詞(まくらことば)、「あおによし」にも、色が出てきます。丹(に)は朱色で、都の建物の柱に塗られました。青は瓦(かわら)の色ですが、ブルーではなく、緑色です。青というのは、かなり広い範囲をカバーする言葉です。
 なお、奈良・平安時代の宮廷(きゅうてい)正月行事に「白馬(あおうま)の節会(せちえ)」というものがありますが、ここに出てくる馬は白馬ではなく、もちろん、ブルーの馬でもありません。青光りする黒毛や白い毛が混じる馬のことですが、今でも競走馬の中にいます。探してみてください。  

第一二回 何人も妻がいたくせに 2011年6月19日掲載
 大人になってから『竹取物語』を読み直して、初めてわかったことがあります。それは大納言(だいなごん)大伴(おおともの)御行(みゆき)が未婚ではなかった、ということです。すでに複数の妻と結婚していたくせに、さらにかぐや姫とも結婚しようとするとは、と、びっくりしました。平安時は一夫一妻制(いっぷいっさいせい)ではありませんので、男性貴族に複数の妻がいてもかまわないのですが、ロマンチックな求婚物語が一挙(いっきょ)に崩(くず)れてきます。
 大納言は姫と結婚するつもりになって、様々な準備を始めます。そして、元から居た妻たちを離縁(りえん)し、追い出してしまいました。ひどい男ですよね。
 そもそも平安時代の結婚は、夫が妻の家に入る婿取婚(むことりこん)(もしくは通い婚)でした。『サザエさん』に出てくるマスオさんと一緒です。フグ田マスオさんは、妻(サザエさん)の実家(磯野さん)で、舅(しゅうと)(波平)・姑(しゅうとめ)(フネ)や小姑(こじゅうと)(ワカメちゃん)たちと同居していますよね。
 こうした結婚形態が一般的であった時代にも、夫の家に同居する妻はいたのですが、それは夫を自宅に通わせる身分を持たない者として、いわば使用人と同レベルの扱いを受けていました。
 確かに、本当は天女(てんにょ)であるとはいえ、竹取の翁(おきな)の娘では、貴族を婿として通わせることができる身分ではありません。が、大納言は身分違いをものともせず、あれだけ熱心に求婚しておきながら、姫を正式な妻にしようとは考えていなかった、ということですよね。他の妻たちと離婚し、姫をただ一人の妻としようとしたところで、それで帳消しになるものか、と、当時の女性読者たちも、ブーイングの嵐(あらし)を浴びせかけたことでしょう。    

第一三回 海で身分は役に立たず 2011年6月26日掲載
 今回の面白(おもしろ)いところは、大地の上では身分の高さを誇(ほこ)る上級貴族が、海上では庶民(しょみん)の船頭(せんどう)(「楫取(かじとり)」)に頼り切る、というところです。
 楫取は、『土佐日記』にも出てきます。紀貫之(きのつらゆき)も土佐から船で京へ向かったのでした。在地(ざいち)の人との別れを惜(お)しんでいる時、楫取に「満(み)ち潮(しお)になったから、早く出発しよう」とせかされました。それを、人情(「もののあはれ」)がわからない無粋(ぶすい)な人たちだ、と非難しています。が、海の上に出ると、立場が逆転します。貫之たちが船酔(ふなよ)いに苦しむ中で、楫取は平気な顔をしています。身分差による文化摩擦(まさつ)にいらだちながらも、船の航行については楫取の判断と力量に任(まか)せるしかなく、早く都へ戻りたい気持ちを抑(おさ)えながら一緒に風待ちをします。良き風が吹くための祈りも、楫取が仕切(しき)ります。良い風がうまく吹くと、得意そうにしたそうですよ。
 貫之は、強い風を止ませるための祈りを海の守り神である住吉(すみよし)に行いました。住吉明神(みょうじん)は物欲の強い神だとの楫取のアドバイスに従って、貴重な鏡(かがみ)を海に投げ入れました。すると見事に海がないだので、「楫取の意思こそが神だ、ってことなんだね」と、嫌(いや)みを書いています。しかし、淀川を上り始め、船が都に近づくと、楫取に関わる記述は消えます。再び、攻守(こうしゅ)交代(こうたい)です。
 貫之も、大伴大納言(おおとものだいなごん)も、自らの限界を思い知らされました。いわばアウェーである海の上では技術と経験こそが物をいうわけで、身分など役にも立ちません。が、ホーム・グラウンドである都に戻った時、その理解が消し飛んでしまうところが、やっぱり貴族なんですよね。

第一四回 李のような目はごめん 2011年7月3日掲載
 今、我が家の庭にある李(すもも)の木には、おいしそうな小さな赤い実がなっています。春に咲く花というと桜や梅、桃の方がイメージしやすいでしょうが、白い花が咲く李は、古代から日本にありました。『万葉集(まんようしゅう)』の中に、奈良時代に桃と李の花をながめながら宴会をした時の歌が記録されています。
 桃といえば、『古事記(こじき)』の神話が思い出されます。死んだ妻に会うために黄泉(よみ)の国を訪問したイザナギの尊(みこと)は、追いかけてくる雷神(らいじん)など黄泉の国の軍隊に桃の実を三個投げつけて追い払いました。尊は喜んで、桃の実に「私を助けたように、この世にある人々をその苦しみから助けてやりなさい」と言いました。桃は、マジカルな力を持った植物と考えられていたのです。
 こうした桃に比べると少々影が薄いですが、李も『日本(にほん)書紀(しょき)』や『延喜式(えんぎしき)』などの史料に出てきます。降ってきた雹(ひょう)が李の実の大きさ程だった、と表現する事例も、平安時代末期の史料に見られます(『後(ご)二条師通記(にじょうもろみちき)』)。李は、昔から案外身近にあったのですね。
 『古今和(こきんわ)歌集(かしゅう)』の中に、紀貫之(きのつらゆき)が作った、ちょっとしゃれた歌があります。「今いくか はるしなければ うぐいすも 物はながめて 思ふべらなり」という歌で、ゆく春を惜(お)しんでうぐいすが物思いにふけっている、という内容です。この中に、「李の花」という言葉が隠(かく)れています。歌を全部ひらがなにしてみるとわかりますよ。
 李の花は美しいですし、実もおいしいのですが、それを付けたように眼を腫らすのは、ごめんこうむりたいですね。

第一五回 史実と物語が呼応 2011年7月10日掲載
 最後の求婚者・中納言(ちゅうなごん)石上(いそのかみの)麻呂(まろ)足(たり)への課題は、燕(つばめ)の子安貝(こやすがい)でした。燕は春にやって来て、巣を作り、雛(ひな)を育てて、寒くなると越冬地へ飛び立ってしまいます。ですから、このエピソードはちょうど春の物語なのです。さて、中納言は、大炊寮(おおいつかさ)で働く人々の食事を用意する台所の天井(てんじょう)に燕がいると知りました。大炊寮というのは、全国から税として集まってきたお米などの穀物を貯蔵しておき、必要に応じて分配する役所です。平安京では宮域の東南部、今の二条城の北側あたりにあったとされます。
 では、『竹取物語』の作者は、物語の舞台としてなぜ大炊寮を選んだのでしょうか。この文章から、実際に大炊寮に燕がいたのだ、と解釈する向きもあります。もう少し先ですが、第十七回の原文に、大炊寮にある「八島(やしま)の鼎(かなえ)(中国風の金属器)」が出てくることに注目しましょう。大炊寮の八つの鼎は『日本(にほん)書紀(しょき)』に出てくるもので、不思議なことに、天智(てんじ)天皇が死んだ年に自然に音をたてたといいます。この鼎は他の史料には見えませんので、実際の形や大きさ、また、平安時代の大炊寮にもあったのかは不明です。が、この鼎の中に中納言が落ちるという物語のモチーフは、天智天皇の死を想起させます。
 この中納言のモデルは、石上朝臣麻呂(いそのかみのあそんまろ)(六四〇〜七一七年)でした。彼は、天智天皇の死後、その息子・大友皇子に仕えて壬申(じんしん)の乱(六七二年)に敗北しましたが、うまく危機を乗り越え、政界に復帰します。鼎の音は、石上朝臣麻呂に運命の転回を告げたのです。史実と物語とが、鼎が響くように呼応しているわけですね。 

第一六回 燕の子安貝は安産のお守り 2011年7月17日掲載
 梅雨(つゆ)も明けて、燕(つばめ)の雛(ひな)も巣立っていきました。この猛暑を、若い燕たちにも元気に乗り切ってほしいところです。
 さて今回は、燕の子安貝(こやすがい)について考えてみましょう。子安貝とはタイラガイ科の巻き貝のことで、卵形の美しい貝殻(かいがら)を持っています。アジアには、この貝殻を貨幣として使った地域もあります。この他(ほか)、形が女性性器に似ていることから、安産(あんざん)のお守りとしても使われました。一方で、中国の俗信に「石燕(いわつばめ)」を安産の守りとする考え方があったらしく、こうした知識を持っていた作者が、燕と子安貝とを結びつけて物語を作ったのかも知れませんね。いずれにせよ、かぐや姫(ひめ)は、結婚する前から、自らの出産の準備を始めていた、ということです。
 また、物語には、大炊寮(おおいつかさ)で働く老人、倉津麻呂(くらつまろ)というしたたかな人物が出てきました。当時の官人社会には、定年制はありません。老人になっても、その知識と経験が評価され、勤務し続けることは実際にあったのでしょう。今のような年金システムもありませんから、「生涯(しょうがい)現役(げんえき)」ということですね。
 この倉津麻呂は燕の産卵を事細かく観察したかのように語っていますが、もちろん、燕が七回まわってから卵を産み、卵と一緒に貝を出すというのは大嘘(おおうそ)です。中納言は、あっさりとだまされ、褒美(ほうび)まで出してしまいました。
 全国から都に運ばれた穀物を大量に集積する倉をたくさん持つのが、大炊寮です。そこに長らく勤めたというこの倉津麻呂、その名前に「倉」がつくところも怪(あや)しく、まだ余罪があるような気がします。中納言に追及してほしいところですね。

第一七回 まるでオヤジギャグ 2011年7月24日掲載
 ついに、求婚者(きゅうこんしゃ)の中に死者が出てしまいました。『竹取物語』を子ども向けに書き直した絵本などでは、中納言石上麻呂足(ちゅうなごんいそのかみのまろたり)が死んだ部分はカットされることが多いようです。この様に、大人になって原文を読み直して初めてわかることがあります。
 さて、自分のために大けがをした、ということで、かぐや姫は中納言に「とぶらひ」をします。これは、お見舞(みま)い、という意味で、平安貴族たちは事ある毎(ごと)に「とぶらひ」をやり合いました。体調を崩(くず)されたと聞きましたがお加減(かげん)はいかがですか、という病気のお見舞い、お隣(となり)の家が火事になったんですって、そちらは大丈夫でしたか、という近火見舞い、今回の台風はすごかったですね、被害はありませんか、というお見舞い、などなど、お互いに「とぶらひ」を行うのです。今の私たちはメールや電話で安否(あんぴ)確認をしますが、当時は実際に相手のお宅を訪問したり、歌を詠(よ)んで届けたりしました。案外(あんがい)、平安貴族も私たちと同じようなことをしているのです。
 ところで、すでにお気づきでしょうが、『竹取物語』は、ある言葉の成り立ちを説明する小話(こばなし)を各エピソードのシメにします。今回も、子安貝の貝と甲斐(かい)という言葉を掛(か)けて、「子安貝(こやすがい)がない」から「甲斐なし」、課題には失敗したけれども、姫からお見舞(みま)いしてもらえたから「甲斐あり」という言葉遊びをしています。言葉が生まれた背景や地名のいわれを説明をする物語は、『古事記(こじき)』などにも載っています。が、ここまでオヤジギャグではないですね。『竹取物語』の作者みたいな人は、私の身近にもいます。なんだか親近感が湧いてきますね。 

第一八回 帝の命をになった女性秘書官 2011年7月31日掲載
 貴公子(きこうし)たちの求婚譚(きゅうこんたん)が終わり、『竹取物語』は次のステップへと移ります。ここで、帝(みかど)、つまり、天皇が登場してきます。多くの男性たちの求婚を断り続けているかぐや姫に興味を持った帝は、その容貌(ようぼう)を確かめるために使者を派遣(はけん)します。それが、内侍(ないし)です。
 この内侍というのは、天皇の秘書官の一人です。律令制(りつりょうせい)が導入される以前から、政治の世界には「宮人(くにん)」という女性たちがいました。天皇の傍(かたわら)にいて、臣下(しんか)とのやりとりを仲介する重要な役割をになったのも、女性でした。それが、律令制では内侍という職になります。
 今でも、会社の社長さんや議員さんには男性・女性の秘書がいるようです。そう聞くと、女性秘書はかつてのようにお茶くみなどの補助的な役割にとどまってしまっているのではないかしらと、つい思ってしまいますが、古代では違います。内侍は政治権力をになう一員として、大きな位置を占めていました。平安初期に政治を動かした、あの藤原薬子(ふじわらのくすこ)も内侍でした。しかし、のちに蔵人(くらうど)という男性秘書官が設置され、内侍は徐々に政治力を失っていきます。平安時代には、男女共同参画という言葉も概念もありませんからね。
 今回はかぐや姫という女性の顔を見る、という用務ですので、女性秘書官たる内侍がその役目を負ったのでしょう。それに対応して、媼(おうな)が登場してきます。『竹取物語絵巻』にも、その姿が描かれます。絵巻の中の媼には、老女の描写として、目の下に筋が入っています。目から老いが表れる、と画家が認識していたということですね。と書いて、私も慌(あわ)てて鏡を見てしまいました。 

第一九回 官爵授与を取引の条件に 8月7日掲載
 自分の思うようにならないかぐや姫に業(ごう)を煮(に)やした帝(みかど)は、ついに「伝家(でんか)の宝刀(ほうとう)」を抜きました。翁(おきな)を懐柔(かいじゅう)するために、官爵(かんしゃく)授与(じゅよ)を取引の条件としてちらつかせたのです。
 官爵とは、律令(りつりょう)国家における官職(かんしょく)(左大臣など)と位階(いかい)(正一位など)のことで、ここでは特に五位の位(くらい)を指します。当時、五位を得るということは、すなわち貴族の一員になることを意味しました。といっても、古代は身分制社会ですから、竹取の翁のような庶民(しょみん)を貴族に列する際に使われるのは、「外位(げい)」という別枠(べつわく)の位です。それでも、名誉がほしい翁は、まんまと帝の術にはまってしまったわけですね。まあ、帝の権威になど屈しない姫の猛反撃を受けて、あわてて撤回(てっかい)しますが。
 それにしても、古代国家の最高権力者たる天皇が、時代劇に出てくる悪代官のように見えてしまいますね。尤(もっと)も、天皇といえども好き放題に人事を行えませんので、翁への官爵授与は実現しなかったでしょう。が、手にした権力をむやみにちらつかせたがる政治家は実際にいたようです。藤原実資(ふじわらのさねすけ)(九五七〜一〇四六)を例に取りましょう。
 ある時、平維良(たいらのこれよし)が鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任命されました。これは、維良が左大臣藤原道長(みちなが)に多大な贈与を行ったからで、いわば官爵をお金で買ったようなものだ、と実資は痛烈に批判しました。ところが、その一七年後、右大臣(うだいじん)に昇進した実資を頼ってきた源頼信(みなもとのよりのぶ)に対して、官爵は自分の意のままになる、と豪語(ごうご)しています。暗に賄賂(わいろ)を要求しているわけです。
 権威って、権力を美しく使いこなす政治家だけが獲得できるものだ、と思いますね。   

第二〇回 帝、かぐや姫とメル友に 8月14日掲載
 今日、八月一四日は満月の夜です。もし、天気が良ければ、空に明るく浮かぶ丸い月をながめてみて下さい。八月の満月の日は旧暦(きゅうれき)の七月一五日にあたり、あと一カ月で月に帰らねばならないのか、と、かぐや姫が嘆(なげ)き始めた日です(次回、原文に出てきます)。旧暦(きゅうれき)については次回説明します。明日から次の満月の夜まで、かぐや姫の気持ちを思いながら、月の形を観察してみて下さい。
 さて、ついに帝(みかど)は、かぐや姫が人間ではないことを知ってしまいました。そこで、宮中で一緒に過ごすことを諦(あきら)め、実際には出会わないけれども、歌を贈り合っての交流を続けることにしました。
 これは、今で言うメル友です。みなさんも、絵文字を使ってメールを書くでしょう?宛先(あてさき)の人に喜んでもらうために、字体を選んだりするでしょう?平安時代の貴族たちも同じ効果を考えて、紙に和歌を書く時の文字(もじ)配置(はいち)に工夫(くふう)をしたり、手紙を結びつける花の枝(えだ)を選んだりしました。
 ただ、みなさんと違うのは、筆跡(ひっせき)から人柄を思いやる、という文化があったことです。ですから、そう簡単に肉筆を見せるわけにはいきません。あまり親しくない人には、女房が代筆したりしました。メールが主流になって喜んでいる悪筆家(あくひつか)は、私も含めて大勢(おおぜい)います。
 ところで、和歌には三一文字という字数制限がありますから、これも今のツイッターに似(に)ていますね。現代の政治家たちも盛(さか)んにツイッターをやっているようですが、帝がツイートすると、五人の貴公子(きこうし)たちは喜んでリツイートしそうです。でも、かぐや姫はフォローしないでしょうね。

第二一回 姫の滞在期間は? 2011年8月21日掲載
 かぐや姫が月に戻(もど)らねばならない日のことを思って嘆(なげ)き始めたのは、七月の満月の頃(ころ)でした。今は太陽の動きで月日を計算する太陽暦(れき)(新暦(しんれき))を使っていますが、平安時代の暦は月の満(み)ち欠(か)けを基準にした太陰(たいいん)暦(旧(きゅう)暦)です。つまり、満月の日が十五日になります。今でも満月の夜のことを「十五夜」というのは、この旧暦のなごりです。新暦は、旧暦よりおよそ一カ月早い計算になります(正確には、かなり複雑な計算が必要です)。先週の八月十四日(旧暦七月十五日)の次の満月は、九月十二日です。物語の中では、この日に向かって、姫の滞在(たいざい)期限(きげん)のカウントダウンが始まっているのです。
 さて、帝と姫との交流は三年間ほど続いた、と原文にあります。では、この物語の中では、どれだけの時間が経過しているのでしょうか?ぜひ年表を作ってみてください。
 ヒントはいくつかあります。姫が成人するまでは、三カ月でした。求婚者(きゅうこんしゃ)たちが集まり騒いでいるうちに年が変わっていますから、一年は経ってるようです。石作皇子(いしつくりのみこ)は仏の石鉢(いしばち)の探索(たんさく)をごまかすために、三年間隠れていました。くちもちの皇子は、三年前に難波(なにわ)から船に乗り、蓬莱山(ほうらいさん)にたどり着き、玉の枝を得て戻ってきた、と言いました。そして、姫は帝に出会って、文通が三年間続いた、ということですよね。とすると、およそ七年の間の出来事、ということになります。
 しかし、月からの使者に対して翁は「姫を養って、二〇年以上になる」と主張しています(第二四回)。う〜ん。計算が合いません。姫を手放したくない翁は、はったりをかましたのでしょうか。

第二二回 月のイメージ反転 8月28日掲載
 「波の下にも都があります」と言って、幼い安徳天皇(あんとくてんのう)をなだめつつ、共に海へ身を投げたのは二位の尼(あま)(平清盛(たいらのきよもり)の妻)でした(『平家(へいけ)物語(ものがたり)』)。そして、月にも都がある、とかぐや姫は言います。月には月宮殿(げっきゅうでん)という壮麗(そうれい)な宮殿があって、そこに月の天子(てんし)が住んでいる、と考えられていました。昔の人は月を見て、こんなことを想像していたのですね。
 今でも、お月見に関(かか)わる行事が各地で行われます。が、中秋(ちゅうしゅう)の名月を愛(め)でる歌は、『万葉集(まんようしゅう)』や『古今和歌集(こきんわかしゅう)』にはありません。『竹取物語』でも、月をながめる姫を、侍女(じじょ)たちがたしなめていました。月を忌(い)むというのが、かつての日本の文化だったのです。
 しかし、『竹取物語』は、月をキーワードにして展開します。月からやって来た天女(てんにょ)(かぐや姫)が、中秋の名月の日に月に帰っていく、という物語は、月のイメージを反転させるものでした。『竹取物語』は今では古典ですが、書かれた当時は時代の最先端を行っていたわけですね。
 それにしても、姫の警備のために武官(ぶかん)たちを派遣(はけん)するという、この帝の決断は素早いものでした。一私人のために、ものの二日ほどの間に二千人もの武官を動員できたとは、さすがは帝というところでしょう。また、こうした軍隊の派遣を依頼したのは、竹取の翁(おきな)でした。月からやってくる使者たちと戦うために、男たちが俄然(がぜん)元気になってきます。かわいい娘(むすめ)のために頑張(がんば)る翁、一目惚(ひとめぼ)れした女性のために張り切る帝、物語はステレオタイプの性別役割表現で突き進んでいきます。現代小説ならば、姫自身が戦うんでしょうけれどもね。   

第二三回 「塗籠」で身の安全守る 2011年9月4日掲載
 平安時代の貴族住宅は、用途に応じて大きな部屋を移動式パーテーション(几帳(きちょう)など)で区切って使う、開放的な構造でした。が、一方でその内部には、「塗籠(ぬりごめ)」という閉鎖部分がありました。出入り口以外は土壁(つちかべ)で囲まれていて窓も無く、通常は物置(ものおき)などに使われます。でも、それだけじゃありません。『源氏物語』(夕霧(ゆうぎり))では、言い寄る夕霧(光源氏(ひかるげんじ)の息子)から身を守るために、落葉(おちばの)宮(みや)は塗寵に入って内側から鍵(かぎ)を掛けてしまいました。外からの侵入者から逃れるには、塗籠が最適の場所だったのです。
 だからこそ、『竹取物語』でも、媼(おうな)は鍵のかかった塗龍にかぐや姫と一緒に立てこもるのです。天からの使者は、屋根と塀(へい)の上にいる二千人もの武官(ぶかん)たちからの攻撃をかわした上で、さらに塗籠の鍵を開けないと、姫に近づくことが出来ないわけです。確かに、万全の警備に見えますね。まあ、姫はその効果に懐疑的(かいぎてき)ですけれども。
 この塗龍、自分の好みではない求婚者(きゅうこんしゃ)から、女性が身の安全をはかるのに有効な場所です。が、機転の利(き)く男性は、いとも易々(やすやす)とこの関門を突破してしまいます。だれが塗籠の鍵を開けるのか、って?それは、女性に仕(つか)える女房です。一番身近にいて、一緒に夜を過ごす女房が、そっと塗籠の鍵を開けてしまうのです。『源氏物語』でも、夕霧の意を受けた、とある女房が塗龍の鍵を開け、彼を落葉宮の所へ案内してしまいました。
 女性を得ようとするならば、まずは仕える女房を懐柔(かいじゅう)せよ、というのが当時の恋愛マニュアルでした。女性の性的自己決定権など、思いもよらない時代のお話です。

第二四回 姫は地球へ”島流し“!? 2011年9月11日掲載
 ついに、月から迎えの一行(いっこう)がやって来ました。空中に浮かんだまま居並(いなら)ぶなど、やっぱり尋常(じんじょう)の人間ではありませんね。王自(みずか)らが迎えにやって来るとは、天上(てんじょう)世界(せかい)でのかぐや姫の身分の高さがわかります。原文をよく見て下さい。王は、姫に敬語を使っています。
 さて、この王の言葉には驚くべき情報が含まれていました。姫が天からこの世界へやって来たのは、犯(おか)した罪を償(つぐな)うための措置(そち)だった、というのです。つまり、姫は流刑人(るけいにん)なのです。姫が犯(おか)した罪の内容が気になるところですが、物語は語ってくれません。
 日本古代の刑法にも、流罪(るざい)はありました(「名例律」など)。一番重い刑は、都から遠い国々、伊豆(いず)(静岡県)・安房(あわ)(千葉県)・常陸(ひたち)(茨城県)・佐渡(さど)(新潟県)・隠岐(おき)(島根県)・土佐(とさ)(高知県)への流罪でした。今だったら、簡単に日帰りできる距離ですね。但(ただ)し、女性には流罪が実行されることはなく、少し軽い刑罰(けいばつ)(杖(つえ)打(う)ちの刑など)が科されました。天上の刑罰システムの方が、女性に厳しいようです。
 また、姫のために用意された車も珍しい物です。地上世界の貴族の乗り物のように牛や人が牽(ひ)く車、ではありません。飛ぶ車、という動力を必要としない車のようです。物語を絵にする画家たちは、この車を描くのに苦労していますよ。絵本や絵巻(えまき)を探してみて下さい。といっても、映画『竹取物語』(一九八七年・東宝)のように、宇宙船だった、と解釈するのは、私には納得がいきませんけどね。
 さて、明日の夜、満月から誰かがやって来ないか、空を見上げて見張って下さい。

第二五回 「不死の薬」の正体は 2011年9月18日掲載
 ついに、かぐや姫は月に戻(もど)ってしまいました。その置(お)き土産(みやげ)の一つが、「不死(ふし)の薬(くすり)」です。壷(つぼ)に入っていて、姫が少し嘗(な)めたと書いてありますから、この薬(くすり)は液体ですね。それにしても、翁(おきな)と媼(おうな)への不孝(ふこう)をあれだけわびた姫なのに、二人にではなく帝(みかど)に薬を渡しました。ほんのひとなめでも効果があるのならば、天人(てんにん)の目を盗んででも翁と媼に飲ませてから帝に言付ければ良いのに、と思いますね。が、そうした姫の思いをくじいたのは、天人でした。「不死の薬」は帝に渡すべきだ、との判断が為(な)されたのです。
 帝(天皇)と「不死の薬」というと、史料に出てくる薬が思い起こされます。それは、淳和(じゅんな)天皇(七八六〜八四〇)や仁明(にんみょう)天皇(八一〇〜八五〇)が飲んだ「金液丹(きんえきたん)」です。これはヒ素や水銀を含むもので、現代人の感覚では劇薬(げきやく)です。が、当時は、不老(ふろう)不死(ふし)をもたらす仙薬(せんやく)だと考えられていました。体の弱かった仁明は、淳和に勧(すす)められて飲み始めた、といいます。淳和は医者の制止を振り切って自ら服用を続け、病気を平癒(へいゆ)させたと自信を持っていました。が、仁明はこの薬の副作用に苦しみました。淳和も仁明も、長生きをしたとは言えませんね。やはり、「金液丹」は不老不死の薬では無かったようです。
 とすると、期待されるのは姫が地上に残した「不死の薬」です。が、次回の原文にも出てきますが、この薬は燃やされてしまいました。ああ、もったいない。どこぞの武将が隠したという埋蔵金を探すよりも、燃やされた場所がわかっているこの「不死の薬」のしずくでも探した方が良いのでは、と思いますね。

第二六回 「不死」は富士山の煙だけ 2011年9月25日掲載
 富士山は、火山です。といっても、宝永(ほうえい)四年(一七〇七)以降、噴火をしていません。富士山という名前は、奈良時代の『万葉集(まんようしゅう)』にも見えます。山部赤人(やまべのあかひと)の「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ不尽(ふじ)の高嶺に 雪は降りける」という歌は有名ですね。古くから、富士山は非常に高い山で神々(こうごう)しい姿をしている、と認識されていました。
 富士山の噴火記録の最初は、天応(てんおう)元年(七八一)七月に駿河国(するがのくに)(今の静岡県)が出した「富士山が灰を降らせ、その灰をかぶった木の葉が枯(か)れてしまった」との報告です(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)。その後も、延暦(えんりゃく)十九年(八〇〇)、二十一年(八〇二)(以上、『日本紀略(にほんきりゃく)』)、貞観(じょうかん)六年(八六四)(『日本三代実録』)、承平(しょうへい)七年(九三七)(『日本紀略』)に大噴火をして、降灰(こうかい)などによる大きな被害をもたらしました。富士山は、かなり活発な火山活動をしていたわけです。
 つまり、『竹取物語』が書かれた平安時代の人々は、富士山から噴煙(ふんえん)が上がっているのを見ていた、ということです。ですから、天人から不死(ふし)の薬を得て、この世で「不死」になったのは富士山の煙だけ、というオチに当時の読者は納得したわけです。現代に生きる私は、「不死」なのは富士山の美しい姿だけにして、火山活動はやめて静かにしていてほしい、と思いますけどね。
 さて、半年間続いたこの連載も、今日で終わりです。『竹取物語』という古典文学を、歴史学の立場から読み直してみました。この物語の魅力を再発見してもらえたら、私も嬉(うれ)しいです。またどこかでお会いしましょう。


-無断転載不可-


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