◎「戦争と女性 〜アジア・太平洋戦争期の婦人会活動を通して〜」
高島市男女共同参画推進協議会 もっと人生を楽しみませんか?フォーラム 2010年12月11日
第1部 講演
京楽真帆子 (滋賀県立大学人間文化学部教授)
ただいまご紹介頂きました京楽でございます。今日はよろしくお願いいたします。「人生を楽しみませんか」というタイトルなのに戦争の話をしてすみません。人生を楽しめなかった時代があるのだということを知っていただいた上で、今の楽しみ方を考える、と聴いていただければ良いかなと思います。
それともう一つ。男女共同参画を考える時には、女性の「頑張り」が注目されます。女性の主体性を大事にしよう、ということです。が、そうした女性の主体性が国家にからめ取られていくという歴史があったのです。女性が頑張れば頑張るほどそれが国家に吸い取られていく。その怖さを今日は知っていただけたらいいな、と思います。
まず最初に戦争の話を・・・学校の話みたいで申し訳ないのですが、婦人会の活動を絡めながら、簡単に復習をしておきたいと思いますのでご理解下さい。
いつから「あの戦争」が始まったのかについては、いろいろな議論があってとても難しい。私は1931年から、と考えたいと思います。満州事変が始まって日本と中国が戦争を始めます。それを当時は「大東亜戦争」と呼んでおりました。こうして、日本は戦争状態に入って行きます。1937年7月7日に盧溝橋事件が起こりまして、中国と本格的な戦争になっていきます。戦時中の毎年、この7月7日に、地域婦人会では記念行事をやります。記録に残っているのです。最初、私は何でこんな七夕の日に・・・と思っていたのですけどこの盧溝橋事件を、戦争が始まったことを記念していたのです。
38年になりますと、国家総動員法という法律ができまして、すべての国民を把握する、すべての国民が戦争に協力しなければいけないというという時代に変わっていきます。当然、女性もそこに含まれます。
41年12月8日、日本とアメリカが戦争を始めます。日米開戦、真珠湾攻撃ですね。そして、日本は中国だけでなくてアメリカやイギリスとも戦争を開始する事になります。日本は、はじめの頃は戦争に勝ち続けていって、どんどん占領地域を広げていきました。形勢が変わりますのが、42年の6月のミッドウェイ海戦。この戦いに日本は負け、その後、雪だるま式に負けていきます。しかし、大本営はそんなことは言わずに、日本は勝った勝ったと言い続けていました。
が、実は地域の方々は不利な戦局に気がついていたはずなのです。なぜかと言いますと、42年あたりまでは戦争に行った人は大概みんな生きて帰ってきた。が、この43年あたりから、死んで帰ってくるようになったのです。ということは、日本は負けているということに、もう薄々気付いているはずなのです。
それは、出征兵士の見送り方の変化というところに表れます。それまでは、みんながんばって来いよと言っていたのですけども、もう帰ってこないだろうなということを予想しながら見送るようになっていった。送別会が簡素化されていく様子が、婦人会の記録にも残っています。
そして、43年7月8日にアッツ島が玉砕します。つまり、全滅です。だけども、地域婦人会では、「玉砕」したこのアッツ島のみなさまに感謝しましょうということで、感謝貯金が行われています。これは戦費に使われていくわけです。婦人会の戦争協力の一つです。
6月23日、沖縄が降伏いたします。日本の降伏は8月15日でありますけれど、沖縄は一足早く6月23日が終戦記念日となります。この日付、後で出てきますので、覚えておいて下さい。
こうして、敗戦に終わった戦争ですが、国家総動員法に基づいて、すべて国民は戦争への協力を求められた状況にあった、ということを、まず頭の中に入れておいて頂きたいと思います。
こうした協力に、女性も組み込まれました。それは、婦人会という組織での協力でした。
ここで、婦人会の動きをみていきます。最初に婦人会が作られましたのは、明治です。愛国婦人会という組織で、いわばお金持ちの奥様方の会でした。内務省が音頭をとって、作ったものです。ですから、割と余裕のある支援の仕方でありまして、出征軍人の見送りもやりますけども、慈善事業をやるのですね。保育所を作ったりします。愛国婦人会会員は、全国で450万人でした。
こうした官製の組織では飽き足らない人たちがいて、32年に国防婦人会ができます。今で言う、ボランティア活動から始まったものです。「国の護りに家庭から、台所から奮い立て」というスローガンで、いわゆる庶民のおばちゃんたちが軍事援助をするためにグループを作って立ち上がったのです。
こうした動きを軍は見逃しません。女性たちが自発的に作ったことはすばらしいとした上で、それを軍が掌握する事を模索し始めます。それが10月です。3月に国防婦人会の小さなグループが産声を上げてから半年がたったら、すぐにそれを大日本国防婦人会という全国組織に軍が仕立て上げていきます。これは総本部が東京に置かれて、地方本部、道府県レベルのものがあり、市郡あたりの支部があり、分会一班一組という上から下まできれいに組織化がされていきます。中央本部の意志が、ぱーっと地方の末端組織まで広がるような組織作りがされておりました。国防婦人会の会員は、1000万人以上いました。
愛国婦人会と国防婦人会とは、管轄がそれぞれ内務省と軍部と違っていて、歩調をあわせることができませんでした。戦時下にこれはまずいだろうということで、42年に愛国婦人会・国防婦人会・大日本連合婦人会というこの3つの婦人会を統合いたしまして、大日本婦人会という組織が作られます。これは、もはや自主的にということではなくて、20歳以上の日本の全女性が会員とされました。
プリントの「日本」というところにカギかっこをつけていますが、これは植民地も含むということです。大日本婦人会の満州支部とか台湾支部とか朝鮮支部などがありました。そういうものを含むと、会員数が2000万人以上という大組織に変わっていきます。
こうして、すべての女性を国家が把握し、軍事的なものに協力・援助させるという体制を整えていきました。「根こそぎ動員」ということです。
戦時中に大政翼賛会が、「ほしがりません、勝つまでは」という標語を作ります。それに則して、女性たちが生活の面から戦争を支えていきます。その実態が、地域婦人会の記録や機関誌からわかります。
ここで、この後の話も少ししておきましょう。日本の女性たちは、「銃後」の存在として、大日本婦人会に所属する形で把握されます。男女の役割分担があったのです。が、徐々に戦争の負けが込んでいくと、もはや男性だから、女性だからなどと言っている余裕がなくなって参ります。1945年6月23日、まさに沖縄が降伏した日なのですけども、国民義勇隊が作られます。これは一応男性の義勇隊、女性の義勇隊と名前はあるのですが、組織としては男女共に隊員になるということです。女性は、17歳から40歳までが国民戦闘隊というものに組み込まれます。つまり女性も前線に立つ可能性ができたということです。8月15日に戦争が終わりましたので、日本の女性兵士は実現いたしませんでした。
では、大日本婦人会の活動を、パワーポイントを使いながら具体的に見ていきましよう。
会員たちは、かっぽう着を着て、「国防婦人会」と書かれたたすきを掛けています。これは大阪の風景なのですけども、駅に兵隊さんたちが乗っている汽車が着くと、大きなやかんにお茶をわかして接待をする。これが典型的な国防婦人会の活動の風景であろうと思います。
大日本婦人会には機関誌があります。『日本婦人』といいます。そこに婦人会の組織図がこのように(パワーポイントを指し示して)載っています。組織図の一番上に大政翼賛会というのがありまして、これが軍事支援のおおもとであります。このあたりは男性がする会がありますけども、(ここに)大日本婦人会というのがあります。道府県支部(都が無いのはまだ東京は府だったからです)と、外地本部ということで植民地の処にもあります。郡・市・ありまして区・町村・トントントンと、このあたりがみなさんの町内会のイメージです。こういうことで日本全国の人々が把握されていく訳です。婦人会の一番身近にあるのが組です。こうした組織が作られました。
これが『日本婦人』という雑誌でして、県立大学にもあり、私も個人的に何冊か購入したものがあります。これは創刊号です。大日本婦人会の機関誌ですから、会員に読ませるための雑誌です。こういうきりっとした女性の絵が表紙に使われております。42年の11月はまだ余裕がありましたので、カラーなのですが、もう少し戦争が立て込んできますと白黒になり、こんな女性の絵も無くなり、無味乾燥な表紙になり、ついには発行ができなくなってしまいます。
機関誌は、日本全国に配布され、大日本婦人会はなにをすべきなのかということを会員に教える、そういう教養雑誌でありました。
これは43年2月号の部分なのですが、「見てきた敗戦英国」という記事で、イギリスのことが紹介されております。これは長谷川サイジさんという方が書いた記事です。ちょうど41年12月8日にロンドンに居た。日本とイギリスが戦争状態になって、すぐに監禁状態になったようです。半年以上囚人扱いされて、マン島に監禁されました。後に、捕虜交換で42年の秋に日本に戻ってくることができた。その時にイギリスの様子はどうでしたかと、『日本婦人』の記者がインタビューをしたものです。
この長谷川さんは、イギリスの女性は元々保守的で良妻賢母だったが、どうやら最近は様子が変わってきて、良妻賢母を放棄してしまった、と言っています。これは、ある意味当たっていることです。イギリスは第1次世界大戦の後で、男性の数が減ってしまいましたので、それを補填するために女性がどんどん社会に進出していったということがあります。
アジアの人間にとっては、第1次世界大戦というのはそんなに影響が無いように思うのですが、ヨーロッパの人たちにとっては第1次世界大戦はすごく大きな影響のあった戦争でありました。自分の身近な地域が戦場になり、自分たちの家族がいっぱい殺されたという経験は、第1次世界大戦も同じだった訳なのですね。イギリスもまだ大英帝国の時代ですから、あちこちに植民地を持っていまして、どんどん兵隊を派遣し、男手が無くなってしまった。だから女性がそれを補うということのために、どんどん社会進出していった訳なのです。
戦争を機に女性が社会進出するというのはフランスもドイツも同様なのですが、その中でイギリスでは、女性の参政権を要求するようになりました。1928年に普通選挙が成立しております。女性も選挙権を得たのです。それをこの長谷川さんは、批判的に見てらっしゃって、女性がどんどん社会進出していくと、従来のイギリス婦人の良い性質つまり良妻賢母の性質が無くなってしまう、というのです。
また、イギリスには軍隊に女性兵士が居るということも長谷川さんは紹介しています。これもその通りで、ヨーロッパでは第1次世界大戦で男性の数が減ってしまって、軍隊にも女性が入って行かざるを得なくなったという事情があります。イギリスもそうですしドイツもそうですしロシア(当時はソビエト連邦)にも女性の兵士が出来上がっていきます。
おもしろいことに、女性の軍隊編入は、空軍から始まるんですね。第1次世界大戦期から、飛行機での戦争が始まります。その新しい軍隊組織に、まず女性が導入されるということがヨーロッパ各地にほぼ同時に起こってきています。これは陸軍や海軍は体力がいるが、技術があれば飛行機を飛ばすことができる。体力的に男性に劣る女性を活躍させるには良い組織だったのかなということでありましょう。ソビエトでは女性だけの空軍という部隊があり、イギリスも空軍で活躍する女性の兵士が数十万人もいたのです。この記事の中で紹介されています。
長谷川さん自身は、批判的には書いていますけども、この記事自体は男性と同等に働く女性の姿というものを強調しています。女性の軍人なんて「女性らしさ」に欠けるけれども、敵国イギリスだって、男性に協力して、女性が戦争に協力しているのだよ、と言っています。
こうした記事を、婦人会の人たちは読んでいるということなのですね。女性が新聞を読むことへの批判がまだあった時代ですが、そういう時代だからこそ、こういう世界情勢を教えたり、あるいはよその国の女性たちがどれだけ頑張っているかということを教えるために、『日本婦人』という機関誌は意義を持っていた訳なのです。ですから、この大日本婦人会に入るということはこういう知識を身につけることができる、勉強することができるというメリットが当時の人々にあったということです。
この機関誌を読むだけではなく、地域で開催される婦人向けの講演会でも話を聴く。目で読んで知り、耳で聴いて知るということで、女性たちがどんどん勉強をしていた時期でもあります。戦争協力という枠の中ではありますが、女性たちが徐々にそういう知識を身につけていきます。女性が高等教育を受ける機会が非常に少なかった時代ですから、地域の婦人たちは義務教育の小学校が終わったら学校教育には縁が無かったでしょう。その中でこの『日本婦人』を読むことの意義は大きいのです。
婦人会は勉強の機会を女性達に与えてくれました。それは、家事労働負担に追われていた女性たちの喜びでもありました。戦争協力という条件付でしたが。婦人会は、こうした意味でも女性の力を結集する事をやってのけたのです。
次の記事は、43年の5月号です。女性が軍隊に1日入営体験をするという記事です。これは東京の支部が実施したもので、写真をみておわかりのように、女性が銃を持っている。こちらはガスマスクをつけている女性たちで、“これで毒ガス攻撃を受けても大丈夫よ”なんていう一言が書かれています。
次は、ページの右上に、ぴしっと整列した女性たちの写真があります。左下の女性は、救護班の格好をしています。真ん中の処に当時の感想文が書かれております。これは部隊長がなにを喋ったかということが書かれているのですが、軍隊精神を家庭に取り入れ、銃後婦人の志気を益々昂揚して、必勝の信念を確立し、日常生活に反映せられるよう努力していただきたい、という演説をしたようです。つまりこの軍隊に1日入営という経験をしながら、精神論を説いていた訳でして、銃後の婦人が頑張らないといけないんだよということを経験するための行事であったということがわかります。
実際に参加された女性がなにを感じたかと言いますと、この感想文の中にあるのですけども、“厳しい中にも慈しみがある”と。“中隊長は兵隊の父であり、班長はよき母であるということも解って感動した”ということが書かれてあります。結局家族主義で理解されるのですね。当時の女性に語りかけるロジックには様々ありますけども、家族主義。軍隊と言うところは家族のような組織なのだということを、母たちに知らせる訳です。もちろんそれは欺瞞でありまして、軍隊がいかなる組織であるかいうことは私が申し上げるまでも無いことです。が、軍隊に暖かみがあると母たちに感じさせて、自分の息子が軍隊に入ることを誇りに思うような母を作るわけです。
先ほど銃の訓練風景がありましたが、婦人会の訓練では実際に銃を撃っております。今日はご紹介できませんけども、滋賀県でも婦人会がこの銃を撃つ訓練をやっている写真が残っております。婦人会の軍事訓練といいますと竹槍訓練というイメージがあります。あんなもの実戦的ではないとみんな笑いますけども、そうじゃなくて実際に銃を持つのですね。先ほど述べた義勇隊で、ゆくゆくは女性にも銃を持たせて戦わせるようなことを考えていたわけです。すでにこのころから実は軍部は準備していたということで、銃を持つことに躊躇しない女性をこういう形で作り始めていたことがわかります。
ただ、このように軍隊に入って経験するということは、矛盾を呼ぶ可能性があります。そもそもこの時代の女性は、良妻賢母を規範としている。だから、銃後を女性に任せ、前線に男が立つのだと言う役割分担をしておきたい。が、そうも言っていられない時代がくるであろうということを予測して、軍部はすでに準備をしている訳です。ということは、当時の女らしさというものと、銃を持って戦うという男らしさというものを、どう整合させるのかが、大きな課題になってくるわけです。男女役割分担というものを守りながらも、女性を兵士として活用したい。そういうことを、軍隊が徐々に徐々に婦人会を通じて、教育をしていくという風景がこの記事に現れております。
次は43年10月号です。「白衣の勇士に嫁ぎましよう」と書かれています。傷痍軍人、戦地で傷ついて帰ってくる方々に対して、お嫁さんを世話するわけです。言い始めたのは、東久邇宮妃殿下。夫の東久邇宮成彦さんは終戦後直後に首相になる人です。その夫人は明治天皇の娘さんで、俊子内親王といいます。その人が、傷痍軍人の結婚奨励をしましょうと考え、歌を詠むのです。「まこともて嫁ぎ行かなん国のため手傷負びたるますらたけおに」と。こうした傷痍軍人と国のために結婚しましょうといっているわけです。
大日本婦人会の計画には2つありました。1つは、傷痕軍人と結婚した女性に額縁入りのこの歌の色紙を贈呈します。これは、当時の人々にとっては非常に名誉な事でした。2つ目が、傷痍軍人の妻で貞淑に仕えた人を表彰します。別の史料では、器量の悪い女性は目を負傷して失明した兵士に嫁がせればよいなんていう、人権をなんと考えているんだ、と思いたくなる記事もあります。
こうした記事には、障がいをもつ方に対する人権意識であるとか、福祉の感覚というものは全くなく、国のために戦った男性であるからこそ婦人会がサポートしましょうとするだけです。43年の記事ですから、兵隊さんがまだ生きて帰ってくる時期です。が、一方で、傷ついて帰ってくる人が増えているわけです。
人々は戦争に負け始めていると薄々気がついている。こうした時に傷痍軍人との結婚を奨励するということは、人々の厭戦感、もう戦争はいやだという気分を払拭するために、軍部が必死になっていることです。婦人会がその片棒を担いでいるということがよく解る処です。
が、婦人会ががんばっているにもかかわらず、実際には傷痍軍人と結婚する女性はそんなに増えないんです。なぜかというと、記事には書いてあるのですけど、母親の理解が足りないから。娘を持つ母が、傷痍軍人に結婚させなくても、と、つい言ってしまう。だから、そういうことを言うのはやめましょう、ということがこの記事に書いてある。
建前と本音というものがまさにそこにのぞいてくる訳です。婦人会が国家に対する奉仕として結婚を奨励するということがいかに欺瞞であるかがわかります。
次は、ドイツの話です。ドイツはナチスの時代でして、日本とは同盟関係にありました。なので、ドイツはほめます。ドイツを手本にしよう、ドイツもがんばっているのだから、私たちもがんばろう、という記事です。
ドイツでは、女性は女性にふさわしい仕事で協力をしていると書いてあります。たとえば、料理・裁縫・洗濯・手芸・育児等の勉強をしつつ、勤労奉仕を行っている。こうした労働と良妻賢母の思想とを両立している姿が紹介されています。
ドイツのナチスにも女性兵士というものがおりまして、イギリスと同じように良妻賢母では無い部分もあったのですけど、そこは無視しています。日本にとって都合の良いところだけを紹介しています。おそらくこういう記事を読んで、ドイツも頑張っているのだから、私たちも頑張らなければということが地域の女性たちにもいわれてきたんだろうなと思います。
このように、世界の情勢も『日本婦人』は教えてくれる。当時の女性たちにとって、おもしろい雑誌だったのだろうなと思います。
『日本婦人』には、「支部戦線」という、各地でなにが行われているかが紹介されるコーナーがあります。つまり、各地が頑張っているのだから、私たちも頑張らなくては、と思わせるためのものです。
滋賀県の記事を探しましたら、2つ出て参りました。1つ目は、日本婦人滋賀県支部の大津市等で必勝婦人大会が開催されましたという記事。2つ目は、献血奉仕ということで、八日市の事例がでております。陸軍病院で、輸血用の血液が必要になったので、女性たち21名が「献血にきました。主人も快諾しています、健康はこの通り、今すぐにでもご用に」と申し出ました、と書かれています。このように滋賀の事例が紹介されていました。
もう少し、滋賀の話をしましょう。
『日本婦人』という全国雑誌をみてきましたが、この『婦人国防』というのは京都地方本部が出している機関誌です。なぜ京都の話をするかと言いますと、当初、滋賀の国防婦人会は 京都支部の一部でありました(後に、分離独立します)。それで京都の機関誌『婦人国防』に滋賀の情報が書かれているというわけです。ここには、滋賀県の国防婦人会が出来上がるという記事があります。滋賀県ではなかなか進まなかったんだけども、やっと大車輪で国防婦人会が出来ました、と紹介されています。
次に、これは野洲郡兵頭村。今の野洲市に分会ができたときの風景です。女性たちが白いかっぽう着姿で、整列しています。
次は篠原村ですね。向こう側に日の丸が見えて、背中の姿が見えますが、これだけの数の女性たちが集まって、例会をやっている姿が紹介されています。
次は、野洲の事例で、婦人会の活動の中には農村の奉仕があります。「応召兵隊家族」と書いてありますが、父や夫が軍隊に行ってしまい男手が無くなってしまった農家のサポートを、婦人会が請け負っていたということがよくわかります。
次にこれが、婦人会の記録簿というものです。篠原村高木班のものです。日記のように活動が記録されています。
この記録簿というのは町内会レベルの婦人会がどのように戦争に協力していたかがよくわかるものです。地域の婦人たちがすごくがんばっている様子が記録されているものです。
私は今滋賀県の中で4つの戦時中婦人会の記録簿を発見しております。が、残念ながらこの湖西地域では一つも発見されておりません。みなさま、今日帰られたらおうちにこういう史料がないか、探してくださいませ。あったらご一報ください。
さて、これが千人針です。数えたのですけど、結び目はちゃんと千個ありました。
この千人針を見てびっくりしたんですけども、これ、シルクなのです。私、ずーと千人針って木綿だと思っていました。
これは、婦人会で作っていたようです。私のイメージでは千人針というのは自分の家族、お父さんとか息子とかが出征するときに、こうした帯を作って街のところに立って、よろしくお願いしますと言いながら、一人ずつに1玉1玉、玉を作ってもらうというイメージがあったんですが、どうやらそうでは無いということです。よく考えてみれば、滋賀県のこれは篠原ですが、千人も人に出会うはずが無いですよね。千人針というのには特別なルールがありまして、寅年の人は年齢分だけ玉が作れるといういわば「寅年ルール」というのがあるのですけど、それを使ったとしても街行く人にお願いしても千人分なんていくはずが無いのです。
ではどうしていたかというと、婦人会でまとめて作っていたということなのです。ただ、婦人会は狡をしたということではなくて、婦人会のメンバーでずーっと回して、千個分の玉を作っていたということです。千人針というものが家族の責任で作るものでは無くて、婦人会という地域の女性たちの力を結集して、これが作られていたということをこの記録簿で初めて知りました。
おそらく東京とか大阪とか大都会であるなら、道行く人に頼めば十分だと思うのですが、そうじやない地域の人にとっては、千人針を作るということはとても大変なことです。それを婦人会が請け負っていたということは“なるほどな”と思うところであります。
なお、この千人針は戦後どうなったかといいますと、2つの物に使われました。1つは神社の手ぬぐいに使われています。これは現在の写真ですけども、今は木綿の手ぬぐいですけども、これに転用されたということ。あと面白いのは、神社の鈴縄。神社でがらん、がらんと鈴をならすときの縄にこの使わなかった千人針を転用してということがありました。地元の方の記憶には残っていないのですが、記録簿にはそのように書いてありました。
記録簿を見ていて面白いのは、婦人会が中心になって映画を作っているということです。慰問映画です。滋賀県ですから、三上山を背景に映画を撮っていたということが記録されています。
これ今一生懸命フィルムを探しているのですけども、まだ見つからないですね。
次は、ヒマの生産です。ご年輩の方々は、ヒマというとひまし油を想像なさって、おなかの薬だと思われるかもしれません。が、このひまし油というのはなかなか凍らない油でありまして、飛行機の潤滑油に使っていたのです。
滋賀県は今でも農業県で、戦時中も“ヒマ”を作って戦争協力をしています。その中心が、婦人会でした。婦人会としてこのヒマを蒔いて、そしてタネを集めるということをやっております。婦人会の戦争協力といいますと、精神的なものばかりと、思われがちですけども、このように物を作るということもやっています。この他、兎を飼います。兎というと、うちの学生さんは“かわいい”といいますけども、食べるんです。肉は食べるし、皮は毛皮に使うわけで、兎を飼うということは婦人会が奨励をしておりました。
このように、婦人会というものが地域の女性たちのがんばりを結集する形で戦争協力を要求していた、という事がよくわかる事例であろうかと思います。
最後にあと2つ、『婦人国防』の中から記事をご紹介します。
『婦人国防』第41号に、「銃後に薫る美談の花」という記事があって、野洲郡篠原村出身の方が紹介されています。ある水兵さんが怪我をしてしまった。そのお母さんが「なぜ死ななかったのか、怪我をするくらいならちゃんとお国のために働いて死ねば良かったのに」と言っていると書いてあります。それを聞いた息子が発憤いたしまして、じゃあ怪我を治してもう一回戦場に行きます、といった。実際に再び戦争に行って、そして、亡くなりましたと、いうことが紹介されています。こんな風に、母が息子を犠牲にして平気であるということが、この『婦人国防』にはとうとうと説かれております。
おそらくそんなことは無い。母たちは、息子が帰ってこない事を陰では泣いていたはずなのです。が、『婦人国防』は涙の部分は一切カットして、息子を喜んでお国に差し出す母親を宣伝しています。
もう一つの記事は、野洲郡の女性がお金を献金したということが書かれております。女性が自分の生活を犠牲にしてまで戦争の協力をするということが美談として描かれているということです。
つまり、戦争というものは、女性たちの頑張りをからめ取っていくといくものなのです。女性同士のネットワークが出来上がっていた地域ほど頑張りが起こるわけでして、その頑張りを婦人会が把握して、それを軍部がさらに把握する。女性たちが頑張れば頑張るほど、軍隊に協力せざるを得ないような組織になっていたということなのです。
ですから、当時の女性たちの聞き取り調査などを見てみますと、主体性というものが認められなかった女性であったが故に、この婦人会活動は自分の頑張りを評価してもらえる、と、女性たちは喜んでこの活動をしておりました。
しかし、これは女性の主体性を自分ではなく、国家がほしいままにしてしまう、ということです。ですから、これは、真の主体性ではなかったということなのです。
戦時体制というものは、女性を男性並にしようとしました。良妻賢母という枠の中ではありますけども、男並に働け、国家に貢献せよということを、要求していたわけであります。追いつめられた国家は、最終的に女性に銃を持たせることまで考えました。これは、表面的には男女平等に見えるかもしれません。
けれども、こうした状況を私たちは男女共同参画という言葉で呼ぶわけにはいきません。私たちが考える男女共同参画というのは女性も男性も主体的に行動し自分の意志で自律的に行動するということを目指しています。
私たちは真の男女共同参画という新しい社会を作り上げていこうと努力をしているところです。その時に、私たちの行動をからめ取るような枠が無いかということを、改めて問い直す必要があろうかと思っております。
今、戦争というものは起こらないでほしいと思いますし、日本では起こらないであろうと希望的な考え方を持っております。戦争ということではなくても、私たちの行動の規範を制限するものはなにかしらあるものです。だからこそ、難しくはあっても、真の男女共同参画を目指さなければならないと改めてみなさまと共に思いを新たにしたいところであります。戦争の話をして申し訳ありませんでしたけども、こういう時代があったからこそ、今があるということであります。
ご静聴ありがとうございました。 |