知の迷宮

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映画と歴史学
      ‐『山椒大夫』から『もののけ姫』へ‐

執筆者:滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科助教授 京樂真帆子

はじめに
  主な時代劇には時代考証がつく。ドラマに描かれる風景が当時の風俗に矛盾していないかなどを確認する作業が考証であり、日本史研究の成果が活用される。ドラマと研究が接点を持つ時である(1)
  しかし、日本史研究は、時代に関する情報をドラマ制作者に提供するにとどまらない。かつて、研究の成果が一つの映画を生んだことがあった。日本映画復興協会作品・山内鉄也監督『祇園祭』(1968年)である。
  1950年、当時の立命館大学教授林屋辰三郎(1914〜1998)を中心に紙芝居『祇園祭』が作成された。これは、マルクス主義に基づく「新しい歴史学」を市民に啓蒙する活動の一環としてなされたものである(2)。しかし、残念ながら紙芝居は現存しておらず、その内容を知ることはできない。応仁の乱後、京都の町衆たちが室町幕府権力に抗して自治体制を築き、その象徴としての「祇園祭」を復興するというドラマであったということである(3)。これは、まさしく林屋の「町衆論」(4)の世界をドラマ化するものであった。
  この紙芝居興行に注目した映画監督がいた。伊藤大輔(1898〜1981)である。彼はこの作品の映画化を計画し、1961年西口克己が映画用原作として小説『祇園祭』を書く(5)。その後、資金調達が困難となり、伊藤が監督を降板するなどトラブルが続き、映画化は一時断念された。しかし、革新系の蜷川虎三(1897〜1981)知事のもと京都府が府政百年事業の一つとして全面的にバックアップすることで映画はクランクインする。こうして、日本史研究の成果は映像化されたのである(6)
  ここでもう一人の映画監督を思い起こさねばならない。時代劇映画の中にリアリズムを求め、精緻な資料調査を行ったことで知られる溝口健二(1898〜1956)である。
  溝口のリアリズムを語るとき、いかに綿密な時代考証がなされたのかという点が論じられる(7)。しかし、溝口は「正確に時代を描こう」としただけなのであろうか?また、彼にとって歴史学は単に風俗を示す道具にすぎなかったのであろうか?さらに、歴史学はこうしたドラマに対して「知識」を提供するだけであったのだろうか?
  本稿では、時代劇映画と歴史学の関係を模索するために二つの映画を取り上げる。一つは溝口健二監督『山椒大夫』、そしてもう一つは宮崎駿監督『もののけ姫』である。この二つの作品の類似性と相違点こそが、歴史学が何をなしえたのかを教えてくれる。
  歴史学は映画という文化といかなる関係を持つことができるのであろうか?本稿はその実例の一つを明らかにしていきたい(8)

    (1)
    『歴史評論』は543号(1995年7月号)以降、「文化の窓」というコーナーを設け、映画やドラマ評論などがなされている。たとえば、北島万次「大河ドラマ『秀吉』を見て‐「日輪の子」と「鼻切り」‐」(『歴史評論』564、1997年)がドラマの問題点を指摘している。注目すべき試みであろう。

    (2)
    紙芝居の巡回興行には、映画監督・大島渚(当時は京都大学学生)も参加していた。本稿を準備する過程で、当時の関係者たちからいくつかの興味深いエピソードを聞くことができた。詳細な聞き取り調査をいずれ行いたいと思っている。

    (3)
    『京都文化博物館上映プログラム』(1998年9月)を参照。また、民主主義科学者協会京都支部歴史部会編『祇園祭』(東京大学出版会、1953年)も参照。映画『祇園祭』に関しては、鴇明浩他編『京都映画図絵』(フィルムアート社、1994年)、藤田雅之『映画のなかの日本史』(地歴社、1997年)を参照した。また、映画『祇園祭』のパンフレットを偶然古書店で入手することができた。

    (4)
    林屋の町衆論は、同著『町衆』(中公新書、1964年)にまとめられている。

    (5)
    西口克己『祇園祭』(中央公論社、1961年、のち『西口克己小説集 五 祇園祭』、新日本出版社、1988年に収録)。西口氏は当時京都市会議員であり、林屋氏の友人であった(「あとがき」中央公論社版)。『小説集』所収の「まえがき」(弘文堂版)「あとがき」(東邦出版社版)によると、この小説はバレエ化、ミュージカル化されている。

    (6)
    現在、この映画のフィルムは京都文化博物館に保存されており、映像ホールにおいて、時々上映会が行われる。1998年9月20日、21日に行われた『祇園祭』の上映会は大盛況であった。このフィルムがビデオ化され、一般に広く鑑賞される便宜が図られることを強く希望する。

    (7)
    溝口健二に関しては、以下の文献を参照した。依田義賢『溝口健二の人と芸術』(映画芸術社、1964年)、新藤兼人『ある映画監督』(岩波新書、1976年)、佐藤忠男『溝口健二の世界』(筑摩書房、1982年)、佐相勉・西田宣善編『映画読本 溝口健二』(フィルムアート社、1997年)、『別冊太陽 映画監督溝口健二』(平凡社、1998年)。

    (8)
    日本映画史については、佐藤忠男『日本映画史』一〜四(岩波書店、1995年)を参照した。

第1章 映画と研究の出会い
第1節 溝口健二のリアリズム

  溝口は映画『雨月物語』のベネチア映画祭銀獅子賞受賞式出席のためベネチアへ行く前、脚本家八尋不二氏に『山椒大夫』の脚本作成を依頼した(1)。1953年8月のことである。しかし、帰国後できあがった脚本を見た溝口は難色を示した。
  「八尋さんの脚本は鴎外の原作に素直についたもので、美しくまとめてありました。と ころが果たして溝さんは
   「子供は困るのですがね、子供でなくやりたいのですがね」
   と言いました。(依田著書、356頁)」
  そこで、八尋から脚本作成をバトンタッチした依田は溝口の意図を探り始め、新たな脚本を書き上げる(2)
  「この物語を、民話風の土の匂いから、荘園制度などにも目を向けて、社会劇風にしよ うとしたところに(わたしにも責任の一端はありますが)興味深いものあり、この作品 が民話よりも、仏教説話のような苦患地獄を描く態のものになっている点、溝さんに強 い仏教信仰の影響があったように思えてなりません。(依田著書、358頁)」
  溝口は「奴隷史から研究願います。奴隷経済についても充分に研究して下さいよ。」と要求した(依田著書、356頁)。安寿役の香川京子にも平安期の女性木像の写真を見せ、「明日にでも寺へ行って、この像を見てきて下さい。それから、脚本のねらい、人物の性格、環境などはプロデューサーの辻君と、シナリオ・ライタアの依田君から、御説明申し上げますから、的確に掴んで下さい。それから、平安朝時代の建物や絵画などに目を通して下さい。寺や博物館は案内させますから。参考書として、経済史なども読んどいて下さい。奴隷史などもありますから」と告げた(依田著書、93頁)。
  溝口作品の脚本を数多く手がけた依田は、溝口のこうした姿勢を「一つの作品の社会的な観点にたった把握、思想的根底を、大事に据えつける」(依田著書、94頁)ものとして評価している。溝口のリアリズムとは、画面に映る風俗を考証するといった小手先の技術なのではない。
  溝口の時代考証が非常に厳密で、多くの調査に基づくものであることは多くの関係者の語るところである。彼は、様々な研究者に助言を求めた。『元禄忠臣蔵 前編』(1941年12月1日封切り)では綿密な考証のもと、原寸大の江戸城松の廊下のセットを組み上げた(3)。また、『新・平家物語』(1955年9月21日封切り)では、当時の風俗や器物を説明した冊子が配られている(4)
  そして、『山椒大夫』にむけて「奴隷史」を学ぶべく、溝口の意をくんだ人物が、ある歴史研究者に接近することになる。

第2節 林屋辰三郎氏との出会い
  森鴎外の『山椒大夫』について、まず注目したのは柳田国男であった。柳田は鴎外の小説が出されるとすぐ「山荘太夫考」を発表した(5)。柳田は「この春(大正4年)の『中央公論』に森鴎外氏の書かれた山荘太夫の物語は、例のごとくもっとも活々とした昔話であった。」と鴎外の小説がきっかけとなって書き始めたことがわかる。そして、山荘太夫の「山荘」という名前の由来を考えるのであるが、陰陽師を「サンショ」と呼んだ例を挙げ、「サン」とは「算」であり、占いの意味だとする。そして、この長者の話を語り広めた者の通称が「サンショ」(算所・散所・産所)であり、物語の名前そのものに転化していったと考えた。柳田の分析は、「サンショ」と被差別部落民、散所法師、そして芸能民との関わりに及んだ点に大きな意義がある。
  この柳田論文に呼応したのが、喜田貞吉であった。喜田は「エタ源流考」(6)において、散所とは「産所」であり、産小屋において産婦の世話をした人々を指す、とした。その後、「産所法師考」(7)においてこの説は撤回され、産所とは散居の浮浪民のことであるとの説を打ち立てる。史料に多数見られる「散所」の「散」に注目したこの見解は、森末義彰によって、さらに分析が深められていく。森末は、近世の形態から中世の実態を類推した柳田、喜田の方法論を批判した上で、中世本来の散所を「一定の居所なく、随所居住せる浮浪生活者」と定義し、院・摂関家・社寺などに所属する散所について考察する。そして、本来浮浪者であったものが、ある時期に達すると結合体をなし、土地に固定し、権門の雑役をつとめるようになる様を見た(8)。こうした段階差の観点は、後に、脇田晴子によってさらに深められていくことになる(9)
  戦前の散所研究は、森末論文をもって到達点をなしていた。これが、溝口の言うところの「奴隷史」の研究であった。「溝口組」が学会におけるこれらの成果をどこまで追っていたかは不明である。しかし、戦後の京都を拠点とする彼らには、もっと手近に「教師」がいた。
  「奴隷史」を学ぶため、「溝口組」の人物が接触したのは林屋辰三郎氏であった、と本稿では考えている(10)。直接交流があったことを示す資料はない。が、1951年(昭和26年)12月25日から、社団法人部落問題研究所の理事をつとめている林屋氏こそ、「溝口組」が教えを請うにふさわしいであろう(11)
  そして、溝口の映画製作に触発され、林屋が書いたのが、「散所論」研究のターニングポイントともなる「『山椒大夫』の原像」であった(12)。林屋はその論文のなかで「この小稿はさいきん小説『山椒大夫』が、さらに映画化されるについて、監督溝口健二氏はじめ制作関係者の豊かな創造活動に啓発せられながら、更めてその原像をさぐりあてようとする一つの試みである」ことを示している。この論文の初出は『文学』22巻2号、1954年2月のことである。映画『山椒大夫』の封切りが1954年3月31日であるから、両者が以前から交流していたと見なければ林屋の記述は理解できない。間違いなく、「溝口組」は林屋に教えを請うたのである。
  実は、林屋の方も、『山椒大夫』についての論考の準備を進めていたらしい。当論文の巻末に付けられた「『山椒大夫』文献目録」には、以下の説明が付されている。
  「この目録は、舞鶴市立西図書館所蔵にかかる糸井文庫所収の文献を中心に、新たに説 経節正本集所収の二,三を付加したものである。この旧蔵者故糸井仙之助氏は、丹後の 郷土資料の蒐集をもって知られた篤志家であった。この目録の公表を許された図書館に 対して謝意を表する。(一九五三、一〇、三〇採訪)」
  林屋は映画化以前に「山椒大夫」に注目していた。既に、散所論の準備は開始されていたのである。まさに、「溝口組」は最適な人物に教えを請うたと言えよう。

    (1)
    依田義賢前掲著書、353頁。以下、依田著書、と略称する。

    (2)
    当初溝口は山椒太夫その人を主人公に映画を作りたかった、という。しかし、部落解放問題との関わりから断念せざるを得なかった。『別冊太陽』62頁、参照。なお、台本は『映画評論』にて公表されたとのことであるが、未見。

    (3)
    このときの考証について、依田は以下のように証言している(依田著書143頁)。
       国書刊行会から出ている「義人纂書」福本日南の「赤穂義人録」元禄時代の世相史を 読み病臥中であった真山青果氏をお宅にたずね、詳しい教示をうけ、側近の綿谷雪氏の アドバイスをうけ、一緒に赤穂を訪れ、郷土史の研究家の話を聞き、城跡や屋敷跡を見 物したりします。美術の水谷浩君は、京大の史家、歴史建築の泰斗(大熊喜邦氏(1877〜1952)のこと 筆者注)の話を聞きにゆきます。(中略)このようにして、水谷浩君が世に名高い、原 寸大の千代田城内、松の廊下附近をそのままに、復原したセットを建てて、会社(松竹 筆者注)を驚倒せしめるのでありますが、松の廊下は板敷きではなく畳の間であったこ となども、この映画は正しく描くのであります。

    (4)
    前掲、別冊太陽など。なお、こうした調査には主に助監督が当たっていたようである。前掲別冊太陽所収の宮嶋八蔵氏(溝口監督のもとで助監督を務めた。『山椒大夫』でも助監督)の証言は興味深い。以下、溝口監督のもと制作にあたったスタッフを彼らの表現に従って「溝口組」と呼ぶことにする。

    (5)
    柳田国男「山荘太夫考」(『郷土研究』、1915年4月、『柳田国男全集』9、のち、ちくま文庫『柳田国男全集』、1990年に再録)

    (6)
    喜田貞吉「エタ源流考」(『民族と歴史』2−1、1919年、のち『喜田貞吉著作集 一〇 部落問題と社会史』、平凡社、1982年に再録)。喜田は民族史の視点から被差別民を研究し、柳田が主張してきた「被差別部落異民族起源説」を否定した。二人が部落問題をめぐって意見交換をしていたことが指摘されている(前掲、著作集、上田正昭による解説)。柳田は1913年、自説を放棄するに至った。前述の「山荘太夫考」は、歴史研究の成果をうけての論考。喜田は、さらにこれに応えたのである。

    (7)
    喜田貞吉「散所法師考」(『民族と歴史』4−3、1920年、のち『喜田貞吉著作集 一〇 部落問題と社会史』、平凡社、1982年に再録)。

    (8)
    森末義彰「散所考」(『史学雑誌』50-7.8、1939年、のち同著『中世の社寺と芸術』(畝傍書房、1941年、吉川弘文館から1983年に復刻に再録)。

    (9)
    脇田晴子「散所の成立」(『日本中世商業発達史の研究』お茶の水書房、1969年)。

    (10)
    佐藤忠男『溝口健二の世界』(前掲)は、林屋の論文は映画に協力するかたちで発表された、とする(206頁)。本稿では、両者の関係を単なる「協力」としてとらえるのではなく、より積極的に歴史観を共有し得た事例であると考えている。

    (11)
    林屋氏は1966年(昭和41年)2月6日理事を辞任する(林屋著『一歴史家の軌跡』、悠思社、1993年所収の「林屋辰三郎年譜」による)。

    (12)
    林屋辰三郎「『山椒大夫』の原像」(『古代国家の解体』、東京大学出版会、1955年)

第2章 散所論と映画
第1節 林屋の散所論

  ここで「『山椒大夫』の原像」から、林屋の散所論を確認しておこう。
  まず、『山椒大夫』の「サンショ」を被差別部落を指す言葉「散所」と解釈し、物語の舞台が「散所」であるとしたところが画期であった。すなわち、「さんせう太夫」その人を「散所」の「大夫」、長者と考えるのである。
  さらに、「散所」の「散」の解釈。これを林屋は「元来荘園の一部や社寺の境内に於いて地子物の免除されている地域を、散所と称した」と考えた。すなわち、「散」とは「免除」の意味なのである。「散所」という空間に定着した人間は、領主に対して年貢を納める義務を負わない。そのかわり、人身課役で奉仕するのである。全人格を提供して行う労働であるが故に、彼らはいわゆる「奴隷」として差別されることになる。実際、これらの労働は非農業的労働、すなわち運送や手工業に当てられた。
  搾取の根元は「散所」という「空間」なのである。その空間に入り込んだ者は、いかなる経歴の持ち主であろうと、長者から搾取されることとなる。国司の家族という高い身分にありながら、「散所」に入った以上安寿と厨子王はここでは「奴隷」となる他はないのである。
  そしてまた、「山椒大夫」その人も、荘園領主に支配される存在であった。散所の長者は、荘園領主と散所民との中間に位置し、散所民からの搾取をする一方で、荘園領主からその特権を保証されるのである。
  このような「散所」の長者は散所民と直接対峙することになる。それゆえ、民衆の解放の願いは長者の没落伝承を作り上げていく。『さんせう太夫』の本質は霊験譚や出世譚にあるのではない。凝縮した形の散所民の解放への夢、搾取される民衆の復讐譚にこそ主題はある。だからこそ、『山椒大夫』において大夫は自己を反省したりしてはならない。民衆から復讐をされねばらなないのである。大夫が過去の悪行を悔い、民の扱いを改善したため家はますます栄えたとする森鴎外の小説は、その結論において決定的なミスを犯している。
  さて、林屋はこの論文を以下の言葉で締めくくっている。
  「今や新しい芸術創造である映画『山椒大夫』が、これをいかに展開させて原作の真価 を高めていくか、民話と文学と映画の三つの関係において、深い期待をいだく。私はこ うした映画の制作が、決して或る先学の言ったように「古典の花園を荒らすもの」とは 考えられないからである。」
  こうした日本史研究者のエールを溝口はどのように受け取ったのであろうか。それは、画面から我々が読み取る他はない。

第2節 映画『山椒大夫』の新しさ
  林屋の散所論は映画にどのような影響を与えたのであろうか。
  本来は、小説『山椒大夫』(1)が説経節諸本(2)とどのような異同があるのか、をまず指摘しなければなるまい。しかし、紙数の都合上省察することはできない。以下の点を指摘するにとどめておこう。
  まず、林屋論文でも指摘されているが、説経節では曖昧であった時代設定を明確にしたこと。安寿と厨子王の父が左遷される年を永保元年(1081)に設定した。映画においても明示はされないが、踏襲されているようである(3)
  また、説経節では弟を逃がした後の安寿は山椒大夫に折檻の末殺されている。鴎外は安寿を自殺させることで、山椒大夫の搾取の強烈さをぼやかしている。この点も、映画において踏襲されている。
  そして、結末。説経節では大夫は鋸引きの刑にあった。鴎外は先述したとおり、大夫に改心をさせている。こうした変更点こそ、鴎外の「近代的・人間的立場」(4)を示すものであろう。
  さて、溝口組は鴎外の小説をもとにしながら、林屋説の影響を強く受け、数々の改変を行っている。注目されるのは以下の三点である。
  まず、山椒大夫が京からやってきた荘園領主の使者を迎えるシーンの挿入である(5)。右大臣家の使者は「御領地見回り」のためにやってきた。このように、中間搾取主体としての「山椒大夫」の在り方も描かれている。説経節、小説ともにこのような供応する山椒大夫の様子は描いていない。より中世社会の実像に迫るシーンであろう。
  次に、散所を閉鎖空間と描いたこと。説経節、鴎外の小説ともに厨子王が外部の樵と接触する部分を描く。厨子王は彼らから柴の刈り方を習うのであるが(6)、映画では散所は周りを柵で囲まれた閉鎖空間で、外部との接触は不可能である。林屋説は、その空間に入ることで隷属が始まるとするのであるから、おそらくは閉鎖空間であることを想定しているであろう。溝口は、それを映像化したのである。
  さらに、山椒大夫の末路を破滅と描いたこと。鴎外は山椒大夫は改心し、家はますます栄えた、とした。この点は、溝口が最も違和感を感じた点である。映画において、大夫は国外追放となり、さらに屋敷は解放された散所民たちによって略奪され、火が付けられている(7)
  散所論ではないが、林屋は厨子王の父の設定にも言及している。当時の陸奥の状況を鑑みると、「国司の違格の罪にとわれたという父正氏は、律令的官人の実務者であり在地豪族の有力者ではあるが、古代国家の東北政策に対して反抗したことは明らかで、その点で彼は東北に於ける民衆的立場に立った人物とな」り、その背景に、平将門のイメージが重ねられていた、とする(8)。この点は映画において重要なプロットとして採用されている。「奴隷解放」の思想は(9)、父から子へと受け継がれねばならない。安寿と厨子王の父は在地の百姓に慈悲をかけたため筑紫へ流罪となった。鴎外の小説では、「国司の違格に連座して、筑紫へ左遷せられた」とあり、また鴎外が典拠とした『寛文七年本説経節さんせう大夫』では「みかどの御かんきかうぶり」とある。溝口は、明らかに林屋のいうイメージを重ね合わせている。
  この他、映画『山椒大夫』に見える歴史学的知見を示しておこう。
  まず、瀕死の老婆を捨てるシーン。病者を捨てる場所に石仏がある。これは、『餓鬼草子』からデザインを書いたもの(10)。それに縄を掛け端を老婆に握らせる。これは、藤原道長の臨終のシーンをヒントにした。(依田著書、350頁)
  次に、厨子王が国守となって任地へ赴くとき、境迎の儀式を行う。これは、意識的に挿入されたシーンである(『別冊太陽』37頁)。なお、説経節、小説とも厨子王は任国へ直接赴任はしていない(11)
  さらに、佐渡の遊女宿の前の辻に、男根がまつられている。「(石仏などは)昔の絵巻を見ると本当に大衆の中に入り込んでいる。道端には必ず道祖神がある」(『別冊太陽』、54頁)という知見を映像に取り入れたものである。
  さて、美術助手内藤昭氏の証言をもとに、映画のセットの工夫についてもふれておこう(12)。山椒大夫の屋敷のシーンでは、どこからでも母屋つまり大夫の屋敷が見えるようにセットがくまれている。それは、「いつも対照として、奴隷たちの生活に対して大きな権力が見える」(『別冊太陽』、53頁)様にするためであった。また、奴隷たちが働く場面では、「相当悪い環境で労働をさせられている感じを出すため」(53頁)、地面を掘り起こして水をまき、ぬかるみを作った。
  溝口は、このようにリアリズムにこだわった。しかし、彼は常にすべて考証に従ったわけではない(13)。「時代考証はきちんとやらなければならない。しかし、わかっていて嘘をつくのは罪悪ではないという変な詭弁を持っている」(内藤発言、『別冊太陽』、五五頁)面もあった。研究の成果と映画創作とのバランスは、監督の感性にゆだねられていたのである。
  溝口は、「歴史的事実」と「物語」の世界とのバランスをただ一点誤った。厨子王の奴婢解放宣言に対して山椒大夫が「荘園には国守は手出しができない」事、すなわち「不入権」の論理を盾にして抵抗するシーンである。
  物語の設定が、荘園制が大きく展開する11世紀であるからこそ意味を持つ論理である。ここにも林屋の教示があったと想定できる。現実には、国司の権限によって荘園が所有する民を解放することはできない。階級闘争は、平安末期には成功し得ないのである。だからこそ、空想の物語の上では大夫への復讐がなされ、民衆の願望はカタルシスを得るのである。
  溝口はこの矛盾を解決することができなかった。そのため、この部分は話の展開が回りくどくなる。国守厨子王は、「高札の破壊」という罪でしか大夫を処罰することができなかった。ここはリアリズムを放棄し、階級闘争の成功をファンタジーと描く方が良かったのではなかろうか(14)
  溝口はかくも林屋説に則った映像を作り上げている。映画『山椒大夫』は歴史研究者林屋の歴史観に、監督溝口が呼応したからこそできあがった映画なのである。

    (1)
    「山椒大夫」(『日本近代文学大系 12 森鴎外集 U』、角川書店、1974年)を参照。小説の初出は、『中央公論』1915年4月号である(脱稿は、前年12月2日)。尾形仂氏の注釈によると、鴎外は「さんせう太夫 寛文七年本」を典拠とし、新しい救済の思想としてリルケの諸作に見出した献身の倫理を主テーマとしたと考えられる。
    (2)
    『説経節』(平凡社東洋文庫、1973年)。

    (3)
    映画において、奴婢解放を通達する高札には「寛治七年」(1093)と書かれている。

    (4)
    前掲、林屋「『山椒大夫』の現像」。

    (5)
    使用したのはビデオ『山椒大夫』(大映株式会社)である。

    (6)
    説経節、鴎外の小説とも、厨子王の労働は柴刈り、安寿の労働は塩汲み、となっている。映画においても幼少期はこれを踏襲している。しかし、成長以後は、厨子王が鍛冶、安寿が機織りをすることになる。そのため、厨子王が散所を脱出するために、瀕死の老婆を山へ捨てに行くというプロットが必要となった。

    (7)
    部落解放全国委員会は、『学園新聞』1954年5月3日号、10日号において、映画『山椒大夫』を批判する見解を明らかにしている。3日号のタイトルは「映画『山椒大夫』の問題 一 歴史と人間を軽視」、10日号のタイトルは「映画『山椒大夫』の問題 二 賤民達の怒りの鈍さ」である。批判点については後述するが、映画が「歴史的真実を求めている」点として、山椒大夫の荘園構造を一つの経済体として表現している点、荘園に対する支配関係を明確に規定している点を上げ、評価している。

    (8)
    鴎外もこの将門イメージの流布は認識していたらしい。「歴史其儘と歴史離れ」(『心の花』、1915年1月号、『森鴎外全集』7、筑摩書房、1971年)において「つし王の父正氏と云ふ人の家世は、伝説に平将門の裔だと云つてあるのを見た。わたくしはそれを面白くなく思つたので、只高見王から筋を引いた桓武兵士の族とした」とある。

    (9)
    説経節『さんせう太夫』では、厨子王が大夫に復讐をするというストーリーであった。そこに、大夫所有の民をすべて「解放する」というプロットを入れ込んだのは森鴎外であった。鴎外は「伝説が人買の事に関しているので、書いているうちに奴隷解放問題なんぞに触れたのは、已むことを得ない」(前掲、「歴史其儘と歴史離れ」)と述べている。溝口の映画は、さらに「階級闘争」の要素を盛り込んだのである。

    (10)
    内藤昭の発言、前掲、『映画読本 溝口健二』、54頁。初出は、『映画新聞』1988年2月1日号。

    (11)
    森鴎外の『山椒大夫』との相違点についてはこのほか多数あるが以下の点のみ示しておこう。まず、役者の実年齢から安寿を妹とした。「救済」の意味を広げるため、重要な小道具である仏像を「地蔵菩薩」から「救世観音」へ変更した。依田著書、356〜358頁、参照。

    (12)
    建築考証は、藤原義一である。

    (13)
    安寿と厨子王の母が佐渡から「新潟」が見えないと言うなど、ケアレスミスもいくつか存在する。

    (14)
    部落解放全国委員会は、映画が民衆の自己解放の力を軽視し、「上からの解放」のみを描いたことを厳しく批判している(『学園新聞』、前掲)。中世社会をできるだけ忠実に描くという溝口のリアリズムを前提とし、また、説教節『さんせう太夫』などの原作に基づく上では、中世において民衆の自力解放も「上からの解放」も実現しなかったという事実を無視することは出来ない。この批判は、正当なものとは言えないであろう。

結びにかえて
  映画『山椒大夫』は、ストーリー展開がやや散漫にして冗長である点は否めないが(1)、1955年ベネチア映画祭銀獅子賞を得ることができた(2)。現在では、そのテーマよりも宮川一夫(1908〜1999)によるすばらしいカメラワークに評価が集まっている。
  そして、林屋は更に散所論を展開していった。「散所‐その発生と展開‐」(3)である。そこでは、身分差別の問題が散所や河原といった地域的表現をとりながら両者に集約されたこと、散所民の労働が商工業形成の前提となったことが指摘される。そして、日本中世史研究において、散所をめぐる議論が盛んとなっていく。
  この林屋説はその後、脇田晴子から批判を受ける(4)。散所の「散」は「本所」に対して「散在」する「所」の意味であり、そこに住む人々が卑賤視されるには段階があることなどが指摘された。その後様々な議論が重ねられ(5)、散所は手工業や商業によって摂関家などの本所に奉仕する集団であることが明らかにされた。林屋以降の研究者たちが『山椒大夫』の考証を行えば、また違う映像が生まれたに違いない。
  そして、宮崎駿が室町時代の「タタラ場」を描く映画『もののけ姫』(6)の制作準備に入った時、参照したのは網野善彦の著作であった(7)
  もはや紙数がつきてしまった。『もののけ姫』が網野説をどのように描いているか、別の機会に触れることにしよう(8)
  ただ、溝口の『山椒大夫』において大夫の大きな屋敷の屋根を中心に散所の生活が営まれていたのとは対照的に、『もののけ姫』において生活の中心は同じく大きな屋根を持つ「たたら場」であることを指摘しておこう。散所の中核は「大夫」という労働搾取体ではなく、女性が中心となって行う労働の場なのであった。もはや、階級対立は描かれない。そこにあるのは、あふれんばかりの活気である。まさしく、網野史学がビジュアル化されている。映画は中世史研究の成果の一つを見事に示しているのである。
  近年、時代考証を全く無視した時代劇が増えてきている。こうしたドラマはその「架空性」を強調するために、あたかもSFというジャンルが宇宙空間をその背景に設定するが如く、「過去で描く」のである。制作者がより自由に想像力を駆使し、視聴者と「架空性」を共有するために「過去の風景」は生きてくるのである。
  本稿は、こうしたドラマの存在意義を否定するものではない。時代考証が間違っていても、心に訴える力を持つドラマは存在するし、架空世界に遊ぶ娯楽性は普遍的なものであろう。
  しかし、歴史学と映像文化とがこのまま乖離していって良いのであろうか。ある時代を「その時代の論理に沿って描くこと」を歴史学はもっと主張すべきではなかろうか。そして、映像文化に携わる人々や視聴者達と「歴史観を共有」しうる関係を作っていくべきなのではなかろうか。
  映画の世界に「実証」を持ち込んだ大映京都(9)が1971年倒産し、映画のそして映像文化のリアリティー、いや、表面上のリアリティーすら軽視されていく傾向の中で、歴史学は何をすべきなのか、今一度考えたい。

    (1)
    亀井勝一郎「『山椒大夫』をみて」(『産業経済新聞』1954年4月1日、5面掲載)は、冗長なストーリー展開を「古典の世界もつ『のびやかな時間』」と「映画という相当のスピードを要求する近代的な芸術様式」との不調和と見ている。
    (2)
    田中徳三「巨匠とプログラム・ピクチャー監督」(『市川雷蔵とその時代』、徳間書店、1993年)は「溝口さんが『山椒大夫』の時にね、途中で、これは自分のものじゃなかったと分かったんですね。実際、あまり面白いシャシン(映画のこと 筆者注)じゃなかったんだけど、それで「こんなもん、おれに撮らしやがって」とぼくに当たりちらすんです。」という。この証言が正しいとすれば、溝口は林屋説にのったストーリーに不満があったのであろうか。

    (3)
    林屋辰三郎「散所‐その発生と展開‐」(『古代国家の解体』、東京大学出版会、1955年、初出は『史林』37-6、1954年10月、さらに部落問題研究所編『戦後部落問題論集 第四巻 歴史研究 T(前近代)』、1998年、に再録)。

    (4)
    脇田晴子「散所の成立」(『日本中世商業発達史の研究』、お茶の水書房、1969年)。

    (5)
    林屋辰三郎「散所‐その後の考説‐」(『中世の権力と民衆』、創元社、1970年)、脇田晴子「散所の成立をめぐって‐林屋辰三郎氏の反批判にこたえる‐」(『日本史研究』113、1970年)、丹生谷哲一「散所発生の歴史的意義」(『日本歴史』268、1970年)、同「散所の形成過程について」(『日本史研究』121、1971年)、脇田晴子「散所論」(『部落史の研究』前近代編、部落問題研究所、1978年、部落問題研究所編『戦後部落問題論集 第四巻 歴史研究 T(前近代)』、1998年、に再録)など。

    (6)
    1997年封切り。

    (7)
    網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店、1984年)、同『中世の非人と遊女』(明石書店、1994年)など。

    (8)
    「映画『もののけ姫』パンフレット」において、宮崎駿と網野義彦が対談をしている。この他、「特別座談会 アニメーションとアニミズム 梅原猛、宮崎駿、網野善彦、高坂制立、牧野圭一」(『木野評論』臨時増刊号、1998年10月)を参照。

    (9)
    大映京都の時代劇における実証性については、京都映画祭実行委員会編『時代劇映画とはなにか』(人文書院、1997年)を参照。

 〈付記〉本稿は、茨城大学1999年度教養科目授業(後期・「歴史学」)に向けての 準備ペーパーである。現時点で不十分な点は、授業において更に分析を行いたい。
   なお、1997年度卒業の某君の卒論をきっかけとしてこのテーマに取り組むことになった。映像文化の現場で活躍している某君に感謝したい。

  ※『史風』第4号・1999年3月23日発行・2〜11頁
    ウェブ公開に際して、若干の加筆をした。


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