知の迷宮

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都市平安京の火災と消火

執筆者:滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科助教授 京樂真帆子

はじめに
  「火事と喧嘩は江戸の華」、なのだそうである。都市には火災がつきもので、放水消防がさほど効力を持たない時代、消防と言えば「破壊消防」のこと。延焼していない建物までも破壊して、類焼を防がねばならない。なぜ燃えてもいない家を壊さなければならないのか、納得のいかない住人たちが抵抗する。これが「喧嘩」、というわけだ。
  火事が華であってなるものか。1200年間都市であり続けた京都は火災と闘ってきた。京都は自然発火のみならず、戦乱による火災にも何度も見舞われた。応仁の乱(1467年)の時のように、都市景観を大きく変えてしまったとされる火災もある。今でも京都の町を発掘すると、焦土(幕末動乱期の火災によるものが大部分であるらしい)が出てくることを忘れてはならない。
  そう、1200年間、火災と闘い続けた京都の人々は、消防のルールを作っていった。江戸の人々が「喧嘩」をしているころ、京都では町共同体が消火にあたっていたのだ。
  元和6年(1620)冷泉町(中京区室町通二条上ル)は次のような町掟を定めた。

もし火事が起きた場合には、一家の亭主は手桶を持って火元に駆けつけること。消火に参加しなかった場合は(罰金として)銀子30枚を払わねばならない。
借家住まいの人たちも、消火に参加しなければ銀子10枚を課す。
町外で火事が起こり、町内に類焼の危機が迫ったとき、町の木戸口から2間(軒)目までを町として(町の責任で)、取り壊す。但し、あとで元の通りに立て直すので、異議を唱えないこと。
町内で火災が起こった場合、左右両隣を2間ずつ以上、4間までは壊すことにする。その時、家主は一言も異議を唱えてはならない。火元より風上は2間、風下は5間、向かいは3間までの家の亭主は消火に参加しなくてもかまわない。自宅の消火などに手を尽くしていなさい。罰金も課してはならない。
道を挟んだ東西の隔てなく、よりあって火を消すこと。家についてもお互いに壊し、立て直すことも一緒に行うこと。
  この掟がどれほどの実行力を持ったのか、それを知ることはできない。しかし、江戸時代初期の町共同体は、「喧嘩」を未然に防ぎ、共に消火に当たるシステムを確立していた。破壊消防が行われても、町の共同費用で再建までしてくれるのである。さらに、江戸時代中期以降になると、個別の町の枠を越えた都市全体を守備範囲とする「町火消し」の制度が生まれていく。消防は都市の公共の利益だ、ということを京都の人々は知っていた。このシステムは京都に町共同体が出来始めた室町期から試行錯誤を繰り返しながらできあがったのであろう。
  では、こうした町共同体がまだできていなかった平安京の時代はどうだったのだろうか。それを明らかにすることが本稿の課題である。
  この『京都消防』にも忘れてはならない研究成果がある。1951年の第4巻11号から連載された松岡敏衛氏の論文「京都の災変史と防災建築史」である。この論文は平安時代に起きた火災のデータを丹念に収集している。しかし、残念なことに、未完なのである。察するに、火災のデータがあまりにも膨大であったため、分析処理にまでいたらなかった、というところであろうか。
  本稿はこの成果を受けて新たにデータを取り直し、テーマを絞って分析していくことにする。
  まず、放火のやり方について考えてみよう。消火を考えるには、まず「火の付け方」から知らねばならない。そして、消火の方法と、その時に見られる「とぶらい」という文化についてみていこう。古代平安京の消防を単なる温故知新とするのでは物足りない。平安京という都市がどういう都市であったのか、それが消防から見えてくるのである。

一 平安京の「盗火」
  現在においても「放火」は出火原因の上位にある。そして、「放火」こそ火災を都市災害たらしめる要因でもある。
  なるほど、平安京においても失火は起こった。長和5年(1016)2月8日、天皇の寝所、夜御殿で燈明が倒れて、帳に燃え移ってしまう、という事件が起こった(『小右記』同日条)。幸い、ぼやで消し止められたが。また、万寿4年(1027)9月9日の夜の珍事もある(『小右記』同年9月10日条)。この日は重陽の節句で、内裏では宴会が行われていた。すっかり酔っぱらってしまった官人が廊下を歩くときに持っていた明かり(紙燭)をつい簾に突き刺してしまい、ぼやを起こしてしまった。こうした不注意によるものも含めて、失火は枚挙にいとまがない。
  しかし、何よりも重大な問題は、放火であろう。平安京における放火事件の初見は弘仁14年(823)11月22日のことであった。『類聚国史』によると、夜10時頃大蔵(諸国から集められた税物など、国家の財産が納められた蔵)のあたりを巡回していた下級官人が大声をあげた。「大蔵省が火事だ!」。人々が集まってみると、炭火を持った人物が、大蔵省の建物の隙間に火を押し込んでいた。逮捕してみると、なんと、下級の僧侶が3人と、大蔵省の下級官人(いつの時代にも、「内部の犯行」というものがあるのだ)が1人、といった、メンバーであった。その中の1人が次のように自白した。「我々は盗みをするために放火した。消火のために人々が混乱している隙に、ものを盗もうと思ったのだ。」そして、過去の火災事件についても、自分たちが引き起こした放火である旨を自供した。
  実際、このとき現場に駆けつけた人々はかたや消火にあたり、かたや蔵の中に入っていた物品を運び出し、大混乱をしていた。盗賊たちは、類焼を防ぐために蔵の中から持ち出された物を混乱に乗じて盗み取ろうと考えたのである。まさに、火事場泥棒なのだ。
  なんと頭のいい盗賊たちであろうか。見知らぬ家へ押し込んで盗もうとするならば、めぼしい財物の在処を探さねばならない。悪くすれば何も見つからない場合だってある。特に、平安時代のいわゆる寝殿造では、財物は塗籠という納戸の中に入っている。そこに至るまでには、几帳を引き巡らせて部屋の中に暮らしている多数の女房たちを越えていかねばならない。発見されてしまう確率は極めて高いのだ。
  しかし、放火をすれば盗みは簡単である。炭火を板の間の隙間に押し込んで、物陰に隠れて火の手が上がるのをまっていよう。火事に気付いた家人たちが、火を消しながらも、財物を火から守るために庭に運び出してくるはずだ。大勢の人々が集まって、現場は大混乱。庭に置かれた財物を運んでいても、どこに持っていくのか、運んでいる人が誰なのか、そんなことに注意する余裕などありはしない。
  都市で起こる放火はこうした「盗火」が目的で起こる。決して、愉快犯ではないのである。都市は富の集積地であり、盗賊たちにとって非常に魅力に満ちた空間なのだ。あの羅城門説話(『今昔物語集』巻29-18)に出てくる男も、盗みをするために摂津から京へ上がってきて、老婆と出会うのであった。
  従来、火災と都市の関係は、都市においては住宅が密集しているから、類焼の規模が増加する、という点のみが注目されてきた。したし、「都市型災害」とは被害規模の大小を意味するだけではないはずだ。「都市」でこそ顕著に起こりうる災害の形態、それを知ることが必要なのである。
  平安時代の火災が「都市型災害」であることは、放火のあり方に表れている。そう、火災の起こった場所を見てみれば一目瞭然である。火災は、大蔵や貴族の邸宅など財物のあるところで起こっているのだから。
  寛仁3年(1019)、藤原実資という貴族が嘆いている。最近、京中で火災が多発している。これは皆、盗賊が起こしているものなのだ、と(『小右記』同年4月6日条)。盗賊たちにとって、平安京という都市そのものが魅力にあふれた場所なのである。
  富のあるところがターゲットになるのであれば、天皇が住む内裏は格好のターゲットであった。内裏も何度も火災の被害にあっている。その中には、むろん盗火もある。
  治安3年(1023)11月7日の早朝のこと、天皇が普段住んでいる清涼殿の西隣にある後涼殿から煙が漂ってきた(『小右記』同日条)。人々が駆けつけてみると、火元は女房の控の間である。よくよく見てみると、煙は巻き上げた簾の中から出ている。簾を巻き上げたその芯の部分に反古紙で包んだ炭火が入れてあった。火は即座に消し止められた。さて、その部屋には2人の女性がいた。彼女たちは容疑者として身柄を拘束され、別々に(容疑者たちが口裏を合わせるのを防ぐためである)取り調べられることになった。
  そして10日、1人の女性がついに自白した(『小右記』同日条)。彼女は何らかの理由で衣裳が必要になった。しかし、自分で用意することもできず、援助してくれる人もいない。そこで、内裏に火を付けて、その騒ぎの間に衣裳を盗み出そうと考えた、というのだ。彼女の背後には男がいた。彼は内裏の門のところで彼女を待っているはずだ、と。ところが、彼は盗火が失敗したことを聞きつけたらしく、すでに逃げてしまっていた。史料はここまでしか語らないが、察するに、この男が衣裳を必要とし(当時は婿取り婚が一般で、夫は妻方の経済援助を受けた。夫の衣装の用意は妻の役割であったことを思い起こさねばならない)、彼女は男のために盗火という犯罪を犯した、ということであろう。彼女がその後どういう罪を受けたのかはわからない。
  この様な放火事件が起こるとは、内裏の警備はどうなっているのか、と疑問に思われるだろう。実際、内裏で火災が起こるたびに警備担当者の責任が問われた。寛仁4年(1020)12月2日夜、清涼殿の北側の紙を包んであったようである(『小右記』同年12月3日条)。幸い、近衛の少将たちが早くに発見して消火することができた。そして、4日、宿直であった官人たちの名簿が、上司である右大将藤原実資の元に届けられた(『小右記』同日条)。彼らが何らかの責任を問われたであろうことは間違いない。
  盗賊たちが盗みを目当てに放火をするのであれば、それを防ぐためには警備を厳重にする他はなかったはずだ。しかし、当時の内裏の警備は甘かった。『紫式部日記』にも、内裏の中で追い剥ぎに会い、着物を取られて裸で女房たちがふるえていた、という事件が記録されている。暗殺ということが想定されず(平安時代は怨霊信仰が強かったため、暗殺は考えられなかった。暗殺をすると、自分の身に怨霊がとりつき、殺されてしまうからである)、天皇の生命を脅かすものが、もののけ、邪気や霊といった抽象的なものである限り、警備はずさんでもかまわない。盗賊たちはその隙をついているのだ。
  平安京で多発した火災の大半は、盗火であったと考えていいであろう。起こった火災をどう解釈するか、には政治的思惑がつきまとったとしてでもである(実際、火災をきっかけとして左遷事件や天皇の退位が起こった)。
  平安京は古代日本の中でも、栄華を極めたところである。しかし、その背後には、「盗火」という負の側面も存在したことを忘れてはならない。

二 放火の方法と警備
  先述したとおり、放火には炭火が使われる。マッチやライターがない時代、現場に着いてから火打ち石で火を付ける、というわけにはいかないのである。ましてや、木と木をすり合わせて火をおこす「きりもみ式」の発火では、時間がかかってしまう。そこで、炭火を熾き火の状態にして持ち運んだものであろう。
  賊は様々な方法を考える。
  長和5年(1016)9月27日の夜、内裏の廊下に火をつけた古畳が置かれた(『御堂関白記』同年12月28日条)。ぼやで消し止められたこの事件の犯人は捕まらなかったが、燃え広がるまでどこかに潜んで待っていたのであろう。
  寛仁3年(1019)4月5日、ある貴族の家の屋根に火が投げ上げられた(『小右記』同日条)。家人は全く気づいていない。しかし、屋根の上で煙がくすぶっているのを隣家の人が見つけ、消火にあたったのである。こうした、「屋根に火を投げ上げる」という方法もよく行われたようで、夜には警護の者を屋根に上げて警戒に当たらせた貴族もいたほどである(『小右記』寛仁3年(1019)4月13日条)。内裏の戸の下と屋根の上と、両方に火を置くといった「念には念を入れる」賊も中にはいた。
  炭火で火災を起こすには時間がかかる。盗賊たちは火の手が上がるまで発見されないことを物陰で祈っているのであろうが、実際は早期発見さえすればぼやでおさまるケースが多いのである。今まで示してきた例でも、まず煙に気づき、火元を検索し、そして大事に至るまでに消火する場合があった。現在でも火災は早期発見が重要であるが、古代においても同様だったのである。
  早期発見を可能にするためには、夜間の警備体制を厳しくすることが重要である。しかし、先述したとおり内裏の警備は甘かった。そして、こうした状況は貴族の屋敷でも同じであった。
  平安貴族の邸宅というと、高い塀に囲まれて厳しく警備され、門を出入りする人々は厳重にチェックされていた、と思われるかもしれない。しかし、実際は逆であった。
  長和3年(1014)2月24日、藤原実資の家を源俊賢が密かに訪れた(『小右記』同日条)。実資自慢の庭園の泉を見るためである。家人の連絡が遅れたため、実資が出迎えに庭に行ったときには、すでに俊賢は帰宅していたのである。客人も貴族で、実資と親しい間柄であったとはいえ、門の出入りに一家の主人(しかも、実資は在宅していたのである)の許可がいらなかったことをよく示しているケースである。また、同年3月19日、同じく泉を見ようと夜中(午後10時頃)に実資の従兄弟藤原公任がやってきた(『小右記』同日条)。実資邸の人々は、一家の者も、家臣たちも寝静まっていたので、公任の来訪に気づかなかった。実資が物音を聞きつけて目を覚まし、あわてて家人を挨拶に遣わしている。これも、ごく親しい間柄とはいっても、勝手に人の家に入ってきているのである。平安貴族の邸宅がいかに開放的であったか、がおわかりであろう。これでは、盗賊たちはいとも簡単に侵入できてしまう。
  もちろん、警備が手薄であったのは、危機感の欠如の為だけではない。平安時代の結婚形態も要因の一つであった。当時の婚姻形態は男が女のもとに通う「通い婚」であった。通ってくるのは、一家の主人の娘婿だけではない。女房たち、下級の使用人たちのもとにも男が通ってきたはずだ。門番は、誰が誰の所に通ってくる男か、いちいちチェックしていられるであろうか?
  また、平安貴族の邸宅には、夜の仏事をするための僧侶もやってきた。頭を丸め、僧の衣を着た人物が本当の僧侶かどうか、門番に見分けが付いたであろうか?
  夜に女性も通る。女房の下仕えをしている女が頼まれものをして夜遅くなって入ってくることだってあるのだ。門番は自分より身分の高い女性の名前を出して通せと要求するこの女に見覚えがあるかどうか、顔を確かめてから入れるであろうか?
  このようにして、貴族の邸宅の警備は甘くならざるを得なかった。盗火の頻発を招いたのは、「開放的な住み方」という、貴族たち自身が作り上げた「文化」だったといえるかもしれない。
  警備が手薄になったとき、放火が多発するというのであれば、やはり警備が手薄になる遷都の直前・直後も同じ状況であった。盗火は平安京以前から存在した。平城京から長岡京への遷都直前に、遷都の混乱に乗じて京中に現れた盗賊が人家に放火しているので、放火犯への断罪を決定する、との桓武天皇の命令が出された。この時点で初めて国家は放火という犯罪に対する統制を行ったのだ。ところが、盗火はやまなかった。それどころか、この時点では遷都に伴う混乱期における盗火のみが問題になっているが、平安京段階では平時においても盗火が頻発し、問題とされるのである。慢性的な警備体制の弛緩こそが盗火の頻発を招いたのだ。
  平安京段階になって警備体制がゆるんだのは、先述したとおり危機感の欠如(怨霊信仰の遺産でもある)が大きな要因である。「平安京」がある意味で「平安」であったためとも言えるであろう。しかし、皮肉なことにこの「平安」こそ「平安京」を盗火の頻発という新たな状況に追い込んだ。そして、平安京への富の集積。一見栄華に満ちた空間に見える平安京は裏を返せば、こうした暗黒の世界でもあった。

三 消火の方法
  いよいよ消火についてみていこう。平安時代の消火はどういう方法で行われたのであろうか。
  まずは、放水。といっても、ホースがあるわけではないので、桶に水を汲んでは火にかける、という方法であった。『北野天神縁起絵巻』の火災の場面では、井戸で水を汲む人と、そこから水の入った桶を頭にのせて、はしごを登っていく人とが描かれている。火のついた屋根に水をかけよう、ということらしい。
  そして、布で火を撲く、という方法も使われた。『類聚国史』には弘仁14年(823)10月に起きた火災で、屋根の上に上り、水で濡らした布で火を撲いて火を消している様子が記録されている(辛丑条)。
  また、ユニークな消火方法もあるので紹介しておこう。
  『扶桑略記』によると、延長6年(928)5月29日午後2時頃、朝堂院の会昌門に落雷した。煙と炎があがり始めている。飛騨の工たちが進言した。「火の勢いがまだ盛んではない。今のうちに、水をかけて消してしまおう」。そこで、修理職の匠であった阿多千春という人物が、朝堂院の中に生えていた蕨の枯れたものを落雷の時にできた柱の穴の中に詰めていった。すると、火の勢いが弱まり、炎が止まったのである。そして、さらに水をかけて、火を完全に消し止めることができた、ということである。
  朝堂院は、もともと政治を行う場としてたてられた空間である。今の、国会や内閣にあたる。しかし、平安時代中期になると、政務の場は内裏に移った。そして、人のいなくなった朝堂院はすでに草むしていたのである。まあ、その草が消火に役立ったわけであるから、何が幸いするかはわからない。
  また、飛騨の匠とは建築のエキスパート集団であり(もっとも、彼らの労働は過酷であったため、京からの逃亡が相次いだ、という事実もある)、修理職という建築、修理専門の部局に配属されていた。彼らは火が酸素によって燃えている、ということを経験から知っていたのである。火を消すには、空気を遮断すればよい。そこで、柱の穴に草を詰めて蓋をし、酸素を止めた。飛騨の匠の知恵のすばらしさを知らされるエピソードである。
  平安時代の記録に出てくる消火活動の大半は、「火を撲く」、「水を注ぐ」という表記で示される。こうした方法は、初期消火にしか対応しえないものである。火災発見が遅れ、初期消火のタイミングを逸した場合、火災規模が増大する理由はここにある。初期消火以降の消火の効果を高めるには、近代における消火技術の発展を待たねばならない。
  では、平安時代において火災規模が大きくなった場合はどうしたのであろうか。破壊消防をする他はあるまい。但し、破壊消防の様子が記録され始めるのは12世紀になってからである。藤原定家の姉の日記『たまきはる』によると、承安3年(1173)4月12日の萱の御所(高倉天皇の母、建春門院の御所)の火災で、平重盛の侍たちが建物の柱を切って消火している。管見の限り、これが破壊消防の様子を示す史料の初見である。
  もちろん、記録に見えない、ということが実際になかったということを示すのではない。破壊消防は実際には行われていたにもかかわらず、記録には残らなかった、というに過ぎないのかもしれない。では、なぜ破壊消防は記録に残らなかったのであろうか。それは、記録類を書き残した貴族たちの関心が、消防になかったからではないか。では、平安時代の火災は誰が消したのか、を考えていこう。

四 消火活動の主体
  さて、平安時代には、消防署は存在しない。あれほど火災が多発したにもかかわらず、消火担当部局は設置されなかったのである。では、誰が火災を消したのか、それを、火災現場の種類に分けて考えてみよう。
  まずは内裏。基本的に下級武官たちが消火にあたる。近衛の官人たちが水を汲んだり火を撲いたりして、消火している様子が史料に散見する。では、他の官人たちはどうしていたのであろうか。天皇の秘書官である蔵人は天皇の警護とともに、物品の搬出を行う。女官たちも、天皇に付き従い、また、三種の神器を運搬する(剣と璽は天皇と共に移動するから)。検非違使も物品の守護(内裏にも火事場泥棒がやってくるからである)と内裏の警備を行っている。そして、上級貴族たちはこぞって天皇のもとに集まり、消火活動を指揮するとともに、不測の事態に備えるのである。大臣以下の公卿たちは、病気などやむを得ぬ事情で駆けつけることができないときには、欠席届を提出しなければならなかった。そして、誰がやってきたかは、きちんと名簿に記録されるのである。火災時に内裏に駆けつけることは、彼らの義務だったのである。
  次に、官庁の建物。これもやはり、下級武官たちが消火した。そして、文官である弁官(太政官の事務局)も陣頭指揮にあたっている。人数が足りないときには、京中を駆けめぐって、一般民衆を集めて消火にあたらせることもあった。もちろん、報酬を与えて消させるのである。ある時には、褒美の品を現場の横に積み上げて、庶民たちに消火活動への参加を促したこともあった。
  さらに、貴族の邸宅。基本的に、その邸宅の居住者、使用人たちで消火を行う。しかし、自ら加勢を申し出て、人々が集まってくることもあった。万寿元年(1024)藤原道長の造った法成寺の僧房が炎上した(『日本紀略』同年3月22日条・『小記目録』同年3月23日条・『栄華物語』巻21)。知らせを受けて、道長は現場に駆けつける。道長は急いで駆けつけたのは自分だけだと思っていたが、火災現場にはすでに多くの人々がやってきて消火活動を繰り広げていた。堂の上に、数え切れない人々が上って、水をかけていたのである。おそらくは、褒美の品を期待した庶民たち、道長におもねる気持ちを持つものたちが集まってきていたのであろう。
  このように、消火活動は、身分の下の者が上の者に対して行う「奉仕」の行為であった。身分の上の者が下の者の家の消火に行くことはない。
  消火・防火活動をするときには、まず現場に駆けつける。といっても、上級貴族たちは、指揮監督をするだけである。実際の消火活動は、下級武官や文官、そして庶民たちが行うのである。記録を残すような貴族が、消火活動について記録しない理由はここにある。彼らの関心事は消火そのものにはない。消火は、身分の下の者が行うべき義務である。彼らにとって重要なのは、「駆けつけた」という事実であり、名簿に名前をのせてもらうことである。
  では、なぜ彼らは現場に駆けつけるのか。それは、消火活動が奉仕である以上、実際の消火活動をしなくても、当事者に対して奉仕の意志を示す必要があるからである。内裏の火災の時には天皇に対する奉仕、大臣家の火災の時には大臣に対する奉仕の意志が問われるのである。だからこそ、貴族たちは駆けつけた順番を非常に気にする。急を要する消火であるからこそ、早く駆けつけたことが評価されるのである。自分の誠意を見せるためには、早く到着しなければならない。火災とは、貴族たちにとっては、自分の主従関係の表れる場であり、奉仕の意志をアピールする場なのであった。

五 「とぶらい」の文化
  寛弘3年(1006)10月5日、冷泉院(退位後の冷泉天皇のこと)の御所が焼亡した。その時冷泉院の息子である花山院(退位後の花山天皇のこと)は京中を馬で駆け回って (平安時代の天皇や院、そして貴族は乗馬ができるのである)、父の避難先を探した(『大鏡』巻3)。「冷泉院はどこにいらっしやるのか」と自ら行き交う人々に尋ねた結果、ようやく探し当てることができた。父は、乗車したまま二条通りと町尻小路の交差点にいた。そこで、花山院は馬から下り、恭しく父に挨拶をするのであった。これを「とぶらい」と史料はよんでいる。「とぶらい」とは、被災者の安否確認であり、今まで見てきた消火・防火活動とはまた別の行為なのである。
  正暦4年(993)正月25日、一条北大宮東にあった源重光の家が焼亡した(『小右記』同日条)。ここには彼の婿である藤原伊周が同居していた。火災の情報を得た藤原実資は、まず摂政藤原道隆の邸宅、二条第へと向かっている。そこには他にも公卿が多く集まっていた。この屋敷には、摂政道隆の息子である伊周が避難していたのである。実資たちは、まず被災者である伊周をとぶらったことになる。実資はそこで自宅へと戻っていったが、他の人々はさらに南院に向かった。伊周の父道隆の住んでいるところである。被災者の父にまでとぶらいは行われるのである。
  ここで注意しておきたいのは、実資、及び他の公卿たちは重光家の消火についていっさい関心を持っていない、ということである。重光家の消火は、重光と主従関係にある人々が行うべき事で、そういった関係にない実資らは関心すら抱かない。だから、駆けつけるところも火災現場ではなく、避難先なのである。また、実資も他の公卿たちも重光に対してはとぶらいをしていない。彼らの見舞いの目的は重光ではなく、伊周及びその父道隆である。それは、人々が伊周の避難先、及び関係者宅に赴いていることからもわかる。被災者すべてにとぶらいが行われるのではない。何らかの選択が働いている。
  長和3年(1014)12月17日、三条天皇皇后藤原成(正しくは、女偏に成)子の所有する邸宅が焼けた(『小右記』同日条)。藤原実資はまず随身(貴族のボディーガード)を派遣して火元を確認した。そして実資は考えるのである。火元の皇后所有の邸宅は小一条殿の東隣である。その小一条殿には今、中務卿親王敦儀と修理大夫藤原通任が住んでいる。しかも、大僧正慶円が修法をしている所でもある。さらに火元は枇杷殿にも近い。今枇杷殿は内裏を焼け出された三条天皇が住んでいる。この2つの邸宅が類焼の危険にさらされている。これだけの思考を巡らした実資が、息子の資平とともに馳せ参じたのは枇杷殿であった。彼は火元の消火には関心はない。枇杷殿を内裏同様に考え、内裏近火の場合に公卿が取るべき行動、消火・防火のための待機を行ったのである。しかし、枇杷殿には人はいなかった。ただ源憲定が一人うろうろしており、しばらくしてから数人がやってくる、という状況であった。その時情報が流れてくる。他の人々は、皇后の在所である皇后大夫藤原懐平の家に集まっていた。そこで、実資は資平を派遣し、情報を集める。火元は皇后の在所ではないが、所領であるから皇后に対するとぶらいをするべきである、と他の人々は判断したとのことである。人々は、天皇への奉仕よりも、皇后への「とぶらい」行為の方を優先させたのである。
  さらに実資の行動を見てみよう。実資は、皇后のいる懐平宅に移動し、懐平や藤原隆家らと会談した。皇后自身と接触した形跡はない。このとぶらいは本人が行くことに意義があるようである。そして、実資は使者を派遣して、慶円と通任をとぶらった。みずからとぶらはない、ということはこの2人との関係が相対的に薄いということを示している。
  以上のことから、火災が発生したとき平安貴族が取るべき行動をまとめておこう。
  まず、火元の確認。単に場所の確定だけではなく、今誰が住んでいるか、誰が同居しているか、さらに近くには誰が住んでいるかということも知っておかねばならない。平安中期以降は「寄住」という仮住まいが展開しているから、これはかなり正確に情報を集めなければならない。被災者の確定ができたら、自分との関係と照らし合わせ、消火・防火に駆けつけるか、とぶらいをするかの判断を行う。消火に行くべきだ、と判断した場合は火元に急ぎ駆けつけ、消火のための奉仕を行う。一方、とぶらいをするとなれば、避難先の情報を集めて駆けつけることになる。みずからが行った場合、おしゃべりをしたり、酒食の接待を受けることもある。また、相手が自分が駆けつけるほどではない場合は使者を派遣してとぶらう事にする。近火見舞いも同様で、みずからがとぶらう場合もあれば、使者を派遣することもある。そして、後日これらのとぶらいに対しては被災者から返礼が行われるのである。とぶらいとはまさに人間関係の再確認のための行為であり、火災という都市型災害がうんだ都市の文化なのであった。

おわりに
  平安京では、火災が頻発した。警備を厳重にしない、という貴族文化は、「盗火」の頻発を助長した。しかし、人々は「盗火」など火事を手をこまねいてみていたわけではない。律令政府には、消火担当機関はなかったにもかかわらず、主従関係や奉仕の関係を駆使して人々は火災を消していた。貴賤混住状態であった平安京においては、貴族の邸宅への類焼を守るために、庶民の家の火災も見過ごされることはなかったはずである(破壊消防の犠牲になることになったであろうが)。
  ただし、貴族住宅が少なくなっていた右京で火災が起こっても、庶民の家を火から救おうとする公共権力は存在しなかったのである。庶民の家を守るための消火活動は、町共同体ができる中世を待たねばならない。
  そして、火災によって、貴族社会のネットワークは「とぶらい」のかたちで立ち現れることになった。災害時に人々の支えとなるのは、やはり人間のネットワークである。平安貴族たちは、「とぶらい」あう中で、支え合う構造を再確認しあっていた。こうした都市のネットワークのあり方は、やがて町共同体にも引き継がれ、京都を1000年にわたって火災から守っていくのである。

    (1)
    江戸時代の京都の消防については、樋爪修「江戸時代の京都町火消」『紀要京都市歴史資料館』10号、1992年、を参照した。なお、本文中に示した史料は、全て私に意訳した。

    (2)
    本文でとりあげた以外にも、古代において雷火(特に、寺院の塔が被害にあった)や戦火なども起こった。しかし、本稿は平安京に起こった火災を「都市型災害」と捉えることを目的としているため、言及しない。

    (3)
    古代の発火方法については、高島幸男『火の道具』柏書房、1985年、に詳しい。

    (4)
    『今昔物語集』にはある女性のもとに通ってきた男を懲らしめるため、一家の男たちがわざと門を閉め、男を閉じこめてしまう、という説話が載っている。その男は、門が閉じられたことに不信感を抱き、家臣とともに機転を効かせて難を逃れることができた。ということは、貴族の邸宅の門は物理的にも「基本的に」開放されているものなのである。真夜中には、さすがに門は閉じていたのではないかと思われるのであるが、それ以外の時間帯に門が閉じられるのは、物忌みの時など、ごく限られた場合であったらしい。

    (5)
    男性が妻の実家に同居することを妻方居住という。平安時代においては、一般的な婚姻形態であった。

    (6)
    当時、三条天皇は、藤原道長と激しく対立しており、貴族社会の中で孤立していた。それは、自分の孫(のちの後一条天皇)の即位を望む道長が、三条天皇を退位に追い込むための圧力をかけていたからである。貴族たちは、こうした政治的状況を背景に、三条天皇の権威をないがしろにする判断をした、ということになる。但し、藤原実資は三条天皇に好意的であった。こうした彼の立場が、まず天皇への奉仕に向かうというこの時の判断にも表れていることが興味深い。

    (7)
    拙稿「平安京における居住と家族」『史林』76−2、1993年。

 

〈付記〉本稿は拙稿「平安京における都市の転成」『日本史研究』415号、1997年、をもとに新たに書き下ろしたものである。

   ※本稿作成のため、京都市消防学校の図書室にて『京都消防』のバックナンバーを
     閲覧させていただいた。ご配慮に深く感謝いたします。

   ※『京都消防』第588号、1997年、10〜21頁
     ウェブ公開時に、若干の加筆と訂正を行った。


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