知の迷宮

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総構えと城下町

執筆者:滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科助教授 京樂真帆子

 石神小野崎氏の居城、石神城は石神内宿の台地上に築かれました。三方は崖で、とても守りの堅い城でした。しかし、弱点は台地の広がる西側。そこで、堀を掘ってその土を盛り上げ土塁としました。これを惣構えといいます。惣構えの中には、家臣団が住んでいました。これが、石神城の城下町なのです。
  城下町の中には、太田・湊街道が取り込まれていました。防御だけではなく、経済活動の便も計算されていたのです。注目すべきはこの街道が台地上でほぼ直線道路になっていること。台地への登り口がかなり屈曲していることも不自然です。これは、城下町を作る際に計画的に道がつけられたことを示しています。明治二十一年の地籍図を見てみると、この街道の西側で不完全ながら計画的な地割りがなされていたことが分かります。領主による一元支配を実現する近世へと、石神城下町は既に踏み出していたのです。
  さて、土塁は長松院のある台地にも築かれていました。これは、南からの侵略を防ぐラインです。谷を越えて築かれた総構え。これは、石神城下町がかなり広大であったことを示しています。
  城は、領主だけのものではありません。領主を支える家臣団があってこその権力です。領主には、彼らの安全を守る義務があります。総構えの内は、小野崎氏によって「平和」が保証されていたのです。
  残念ながら、慶長七年(一六〇二)、佐竹氏の秋田転封に小野崎氏が従ったため、石神城は廃城となりました。そして、住民を守ってくれた総構えの土塁はもはや無用の物とされ、ほとんどが破壊されてしまいました。
  なお、石神城の城下町については、『常陸国石神城とその時代』第一部第三章の拙文を参照して下さい。

    ※『広報東海』「ふるさと歴訪」(茨城県東海村広報誌)・2000年10月


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