知の迷宮

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都市城壁探訪記

執筆者:滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科助教授 京樂真帆子

はじめに
  私の趣味の一つは、中世の都市壁跡を見て回ることである。日本中世の総構えはもちろん、中国都城の城壁、中世ヨーロッパの都市城壁など、都市域を囲う壁がある所、あるいは、あるはずの所を旅行する度に探訪している。
  理由は簡単。都市の空間構造の中で「わかりやすい」からである。都市の構造を実地においてつかむには、道路のライン・幅・交叉の状況、またさらに主要建造物・空閑地の配置などを観察する必要がある。これらはその都市の歴史や社会構造をある程度理解していないと正しく判断することができない。しかし、都市城壁は都市の外周を囲うものであり、割に簡単に見分けがつき、さらにここを押さえると都市の広さを実感することができる。例えば、12世紀のパリは、ゆっくり歩くと一周2時間ほどである。
  今まで、日本以外では、中国の西安、フランスのパリ・ラーン、ベトナムのハノイ・フエ、ベルギーのブリュッセル・アントワープ、韓国のソウル・江華の都市城壁を見てきた(意識的に観察したもののみ)。石造りの都市城壁の残存は意外と良好である。
  そして、この夏、イタリアを訪問する機会を得た。そこで、イタリア中部の都市ボローニャの都市城壁探訪を中心に、私の城壁巡りについてエッセイにまとめてみようと思う。

1 事前の準備
(1)国内編

  まずは地図の入手である。いわゆる観光ガイドブックにも都市城壁の位置を図示した地図を載せるものが近年ではじめたが(昭文社『個人旅行』シリーズなど)、そのたいていは17・8世紀頃の都市城壁、つまり、現存する最終段階の都市城壁を示している。私の興味は、中世の都市城壁。そこまで図示したものは、さすがに観光ガイドにはない。しかし、現在の状況を簡単に示した地図にしても、じっと眺めていると、都市の発展段階が読めてくる。ヨーロッパの都市は、ほぼ同心円の形で外縁に広がっていく。古い都市城壁は壊され、道路としてその痕跡を残している場合もある。時には、城壁の外側を走っていた堀が、そのまま水路として残っていることもある。慣れてくると、「このあたりがあやしいな」とおよその見当を付けることができるようになってくるだろう。
  つぎに、その都市に関する論文を集め、都市城壁の情報を得る。研究の常道であるが、意外とこれが難しい。なぜならば、私と同じ関心で都市城壁について論じたものはほとんどないからである。
  唯一の例外が、高橋清徳「中世パリの市壁をたずねて」(『比較都市史研究』8−1、1989)である。これは私が都市城壁巡りを始めるきっかけとなった論文である。12世紀にフランス王フィリップ・オーギュストが造った城壁を著者が実際に調査されたときの記録である。どの道路をたどり、どの地点に城壁が残っているのか、詳しく説明されており、現地を歩くときの手引きとなる。私も、この論文を現地に持ち込んで、読みながら歩いた。私の語学力不足のためか観察許可がもらえない場所もあったが、論文に書かれている資料の現物が目の前に現れ、それに触れることができた時の感動を私は今も忘れない。
  近年、『パリ歴史地図』(ジャン=ロベール・ピット著、木村尚三郎監訳、東京書籍、2000年)により、さらに詳しく現存状況がわかるようになった(47頁)。パリについては、現地で入手した都市城壁に関する本(一部は、ポンピドー図書館で旅行者でも閲覧可能)や各種パンフレットからも情報を補強することができる。私なりの復元については、また別の機会に論じたい。
  さて、以上のように都市城壁そのものを解説した研究はなくとも、その都市の空間構造を論じたものを探していこう。この時、文献史学のみならず、建築史学、地理学の成果にも目配りすることが重要である。すると、中世都市の復元図が掲載されていることがある。こうした幸運に巡り会ったときは、現在の地図にこの復元図を自分の手で書き込み、現地を歩くときの資料とすればよいのである。
  アントワープの場合、森本芳樹先生から17世紀のアントワープの鳥瞰図について論じた本を貸していただいた。本文はオランダ語(フラマン語)であるけれども、たとえオランダ語が読めなくとも、そこに付けられた地図が参考になるでしょう、との先生からのご教示であった。オランダ語は全く読めない私であるが、許可をいただいてコピーをとった鳥瞰図がとても役に立った。17世紀の地図を持って、20世紀(当時)のアントワープを歩くことができたのである。私の広げる地図をのぞき込んでぎょっとするベルギー人もいたが、私は感動しながら都市を歩き回った。そして、その鳥瞰図には、17世紀以前の段階の都市城壁も記載されており、さらに本の中にその写真が載っていた。これもコピーを取らせていただき、現地に持参した。なお、こうして自分で作った地図は、ポイントとなる地点や水路を色づけしておくと現地ではわかりやすい。
  ソウルの場合、黒田慶一先生に『ソウル』(姜在彦、文春文庫、1998)を教えていただいた。しかし、そこにはおよその場所が示してあるだけで(96頁)、現地では大変な思いをして探し出すことになった。ご同行いただいた長谷川伸三先生にもご迷惑をおかけしてしまった。しかし、たどり着いた城壁はすばらしいものであった。これもまた別の機会に報告したい。
  以上のように、恥ずかしがらず、遠慮せず、その都市のプロに教えを乞うことである。森本先生からは、近著の初稿刷り(日本語)まで見せていただいた。黒田先生からは、さらに城壁観察ポイントを教えていただいた。学恩とは本当にありがたいものである。

 さて、ボローニャの場合、中世都市城壁についての研究を日本国内では見つけることができなかった。しかし、地図を見る限り、「あやしい場所」はある。あとは、現地に乗り込んでから、である。

(2)現地編
  目的地についてまずすることは、観光案内所(インフォメーション)に行くことである。そこで、都市の地図をもらう、のは当たり前。私の場合は、「大きな本屋の場所」「できるだけ、歴史の本が多い店」を聞く(英語で)。親切であれば、二カ所ほど教えてもらえる。
  そして、さらに「都市城壁を見たいのだが、どこで見ることができるか」と尋ねる。しかし、この質問はたいていの場合愚問に終わる。インフォメーションの係りは、まず17・8世紀の都市城壁を教えてくれる。そこで重ねて「中世の」と条件を付けて尋ねると、「わからない」と返ってくる。観光案内所なのだから、仕方がない。
  しかし、アントワープの場合、本からコピーをした中世城壁の痕跡の写真を見せ、「これはどこか」と尋ねると、直ちに答えが返ってきた。観光のポイントでもないのに教えてもらえたのは、係りの人が町を知り尽くしているからだろう。こうした具体的な質問ができると、係りも教えやすいに違いない。

 さて、インフォメーションを出たら、本屋へ向かう。まずは、地図のコーナー。本当は、二万五千分の一の地形図が欲しいのだが、ヨーロッパでは置いている店はない。いや、現地の研究者達が自分の論文や著書に等高線の載った地図を載せているのだから、専門の店があるはずなのだけれども、旅行者の立場からはなかなか見つけることができない。これは今後の課題である。
  なお、韓国では、外国人は地形図を買うことができない。国外持ち出しも禁止である。そのため、日本における韓国研究は、戦前の地形図に加筆する、というやり方でしか地形図を載せることができない。倭城の研究者の方々がいかにご苦労されているか、推察する。もちろん、地図は軍事機密とも関わるからその管理が厳しいのである。
  ちなみに、天気予報も各国によって違いがある。イタリアでは、軍服を着た人が天気予報を伝えるチャンネルがあった。きちんと統計を取ったわけではないが、ヨーロッパのテレビで多くのチャンネルは、等圧線の図を示さずに天気予報をする。義務教育で天気図の読み方を習った我々としては、典拠が示されないため、甚だ心地の悪い天気予報となる。戦時中の日本の状況も思い合わせると、天気図も含めて地図というものがいかに軍事に近しいか、改めて感じるのである。
  地形図はあきらめて、一般の地図の中から一番道路が詳しく載っているものを選び出す。できたら、同じ物を二冊入手したい。なぜならば、一つは中世都市の復元図を落とすので、書き込みだらけになるからだ。
  さらに、観光ガイドにも目を通す。なかには中世都市について詳しい情報を載せているものもある。都市城壁そのものを示したものは少ないが、城壁には付き物の門が現存している場所を示してくれているものは結構ある。石造りの美しい門は、観光スポットなのだろう。これを地図に落として、現存道路でつないでいけば、およそ中世都市城壁は復元できる。

 地図を入手したら、歴史の本のコーナーに移動する。できたら、「郷土史」のコーナーがよい。そこで、さらに中世都市や城壁に関して述べている本を探す。哀しいことに、本をぱらぱらとめくって、「あ、これは字ばっかりだ」と本棚に返さざるを得ないものが多い。語学力を付けるぞと思いながら、やはり地図や復元図などが載っているものを選ぶことになる。
  ちなみに、イタリア語が全くわからない私は、「歴史」というイタリア語もわからず、コーナーを探すのに苦労した。店中の本の背表紙を眺めているうちに、「storia」であることがわかった。歴史は物語なのだな、と思うと興味深い。

 さて、これらの資料を得たら、ホテルへ戻る。そこで資料を検討し、地図と突き合わせ、さらに自分なりの地図を作製していくのである。ホテルに戻る時間がない場合、街角のカフェに陣取り、これらの作業をすることになる。ヨーロッパのカフェはコーヒー一杯で何時間でもねばることができる。本屋→検討→現地探索→本屋というルートは現地にいる限り、繰り返される。次第に慣れてくると、最初は目に留まらなかった本にも手が伸びるようになる。
  まあ、これは理想型であり、帰国してから「あ、しまった、ここにも行けば良かった」、「あの本も買っておくべきだった」ということは多々ある。とにもかくにも、現地に行ってみなければわからないことはたくさんある。やり残したことは、再度チャレンジすればよいのだ。

 ボローニャの場合、私には強力な助っ人がいた。大阪市立大学の大黒俊二先生だ。今回の旅行では、先生の現地調査に私たち夫婦が同行させていただくことになった。先生は、あらかじめ中世ボローニャの復元図をコピーして下さっていた。ありがたいことである。

2:実行編
(1)中世都市の歩き方

  では、いよいよ中世の都市城壁を探しに行こう。大黒先生からいただいたコピーを地図に落としたものを手に、歩き始める。あらかじめ教えていただいていた門から確認を始めていく。門を見つけたら、そこに付随する道路に沿って歩けばよい。その道路は城壁をくずして造られた道路か、あるいは、城壁に沿って確保されていた外周道路か、はたまた城壁の外に掘られた堀の跡か、いずれかである。道路面の高さを見比べ、微妙な高低差に堀跡を感じることもある。地図を見ながら道路を選び、ぐるっと回ると中世都市を一周したことになる。
  ここで、ボローニャについて、簡単に説明しておくと、始まりはやはりローマである。ローマ都市の時代には、方格地割りがなされていた。日本古代の都城制によく似た空間構造である。道路と道路とがほぼ直角に交叉している。古代権力が作り出す都市が、東洋世界、西洋世界ともに方格地割であったとは興味深い。ボローニャにおいては、市場地区の道路にその痕跡が残っている。中世都市段階では見られない直交する交差点があるのだ。 そして、これを取り囲む城壁が第一段階のもの。さらに、そこから都市域が半円形に拡大して、こぶのような城壁が取り付けられた。これが第二段階。次の第三段階の都市城壁は、教会と広場を中心に円を描いている。そして、さらに大きく拡大した都市域を囲うために第四段階の城壁が造られ、これが現存最新のものである。現在の都市域はさらに広がっているが、この第四段階の城壁内は歴史的景観の保存地区とされている。第四段階の城壁そのものは、近代化の波で破壊された場所が多い。保存の網がかけられるのが遅かったのだ。
  土地勘が身に付いた頃、高いところにあがって都市の全体を眺めてみるのも良い。ボローニャには有名な斜塔がある。もちろん、これには登ることはできないが、その横の塔は自分の足で登ることができる。入場料を払い、人と行き違いができないほど狭い螺旋階段を上がっていく。どうしてもすれ違わねばならないときには、お互いに譲り合う。譲った方が壁にへばりついて、進路を確保してあげるのだが、こうした機会に「ありがとう」「どういたしまして」などと声を掛け合うのがまた旅行の醍醐味である。慣れてくると、「あとどれくらい?」「もう少しだから、がんばって」等と励ましたり、励まされたりできるようになる。目が回り、そろそろ逆回りもしたいものだと思い始めた頃、頂上に着く。そこからは、一挙に展望が開ける。高いところから都市を見ると、道路の状況がよくわかる。建造物の配置も目で確認できる。
  今回大黒先生とめぐった「中世ボローニャの歩き方」については、別の機会に紹介したい。「大黒ルート」は中世のポイントをあまさず押さえた非常に完成されたものであった。

(2)第三段階の中世ボローニャ
  ここでは第三段階の中世ボローニャについて説明しておこう。およその外周道路は、via cartoleria、via guerazzi、via petroni(viaは「通り」という意味)などに沿って歩くことができる。途中とぎれたりするが、これは後世に道路がつぶされたためである。地図をよく眺め、あるべき道路を予想しながら探すと、とぎれた道路がまた復活してくる。我々は、現存道路のままに迂回して、また中世の城壁に戻ればよいのである。
  残念ながら、城壁そのものは予想していたほどには残っていないようである。今回は、via petroniに沿って二カ所残っていることを確認することができた。
  まずは、via petroniとvia san vitaleとの交差点西北にあるポスター店の内壁。中世の門の横にあるこの店は、外に城壁の断面が残っていた。これは、中にも続いてあるはずだとウィンドーから覗くと、売り物のポスターが展示してある壁が、まさに中世城壁そのものである。勇気を出して、店に入り、店主らしき男性に「これは、中世の都市城壁ですか?」と英語で尋ねると、「そうだ」と英語で返ってきた。店の中には男性以外に二人の女性がいたが、彼女たちは英語が分からないようだった。私との会話はもっぱら店主と交わされた。店主は私が中世城壁に興味を持って店を尋ねてきてくれたことをとても喜んでくれた。そして、これは12世紀の都市城壁であることなどを説明してくれた。そして、写真を撮る許可までくれたのだ。二人の女性もにこにこして見守ってくれている。店主は「ポスターが入ってしまうけれどもかまわないのか?」と恐縮していた。正直言って、店に置かれているポスターは私の好みではないのだけれども、時代を感じさせるくすんだ色の壁と現代的なポスターはとても素敵な組み合わせだった。
  ところで、パリにも都市城壁を利用した画廊があった。アフリカ芸術を扱うギャラリー・マジェスティックというゲネゴー通りのこの店は、高橋論文にも紹介されている。論文の通り、私も中に入って店主の許可を得て写真を撮らせていただき、地下の基礎部分も見せていただいた。ここでも、アフリカの美術品とヨーロッパ中世の石造りの壁の組み合わせは、とても素敵だった。店主は英語があまり得意ではないようだが、秘書らしき女性は英語が達者で、私の研究テーマなどを聞くと、「別の場所にも城壁が残っている」と教えてくれた。そこは高橋論文にも載っていない場所で、いずれまた紹介したい。
  ボローニャにもどろう。第二の地点は、ポスター店から東へvia san vitaleを行った北側にあるファーストフード店(ピタパンサンドイッチなどを売っていた)の中の壁である。ここも店の中に入り、従業員に撮影の許可を求めた。こういう飲食店は、混雑時をはずして尋ねるのが礼儀である。従業員は若い女性であったが、英語が通じなかった。仕方なく、覚えたてのイタリア語で「ムーラ!(mura 都市城壁)」と連呼し、私の意図を理解してもらった。ここは壁に小さな説明版が付いており、13世紀の遺跡である旨が書かれていた。ポスター店の主人の説明と齟齬しているが、どちらが正しいのか、今の私にはまだ判断ができない。
  このように、中世の城壁は、住宅や店舗の壁として利用されていることがある。なるほど、石造りの城壁を石造りの建築が取り込むのは、理にかなっている。土で造る日本の都市城壁が残りにくいのと対称的である。

3:おわりに あるいは反省編・あるいは次回に向けて
  今回、私たちは多くの本を購入し、帰国の途に付いた。付け加えるならば、重すぎてスーツケースで運ぶことができず、国際宅急便で送ることになってしまった。今のところ、荷物はまだ着いていない。無事に着くことを祈るばかりである。
  これらの本が届いたならば、イタリア語の辞書を引きながら、さらに知識を増やしていくことにしよう。例えば、先述したように、ボローニャの第三段階の城壁は、西暦何年に作られたものなのか。時期を特定したい。また、イタリアの他の都市でもそうだったが、ここでは都市城壁に煉瓦が使われている。パドヴァのように切石と組み合わせて使っているところもあった。一方、フランスなどでは切石が使われていた。特に、12世紀頃のものは大きな立派な石が使われている。こうした相違点がなぜ生じたのか、知りたいと思う。

 さあ、学生諸君、どんどんと現地へ行きましょう!文献からだけではわからないものが、そこにはきっとあるはず。そして、自分の足で歩き、迷いながら歴史の舞台を実感するのです。時には、怪しまれ不審がられてつまみ出されることもある。言葉が通じなくて泣きたくなるときもある。しかし、それにくじけてはいけない。元気を出して、また歩き出そう。

 ボローニャの光景を思い出しながら、いつか自分の研究フィールドである平安京について、時代を感じながら歩くことができるような手引き書を作りたいな、と考えている。

付記)荷物は無事に到着しました。送料に3万円近くもかかり、買いすぎを反省中です。

     ※『史風』第6号・2002年2月14日発行・35〜40頁


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