知の迷宮

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◎「滋賀民報」連載 「ボンの風 ドイツからの便り」

執筆者:滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科助教授 京樂真帆子

第1回 2006年1月22日付
  昨年の10月末からこの3月末までの予定で、ボン大学日本文化研究所で在外研修をしています。主たる目的は、日欧中世都市比較研究のための資料収集とフィールドワークの実施。足でかせぐ歴史学を実行するため、随分といろいろな都市を歩き回りました。
  日本古代の平安京を研究していると、どうしても中国や朝鮮などアジアの都市と比較研究をしたくなります。しかし、私はさらに都市論を抽象化するために、あえてヨーロッパをフィールドに選びました。都市の発展過程、領主と住人の関係、都市遺跡の保存と活用など、知りたいことは山ほどあります。
  その中でドイツを選んだのは、日本語で読める都市史研究の成果がたくさんあるから。そう、私はドイツ語が全く出来ません。一応、出発前に旅行者向けの語学本は「眺めて」来ましたが、私の頭は大混乱。ありがたいことにドイツ人は英語がそれなりに出来るので(10歳から学校で習っているそうですよ)、日常会話は英語と覚えたてのドイツ語単語羅列と身振り手振りとでこなし、ドイツ語文献は辞書(厚さ7センチの辞書を持参)と首っ引きで内容を理解する、という日々です。
  ボン大学を選んだ理由は簡単で、日本中世史の研究者がおられ、日本語文献も多数所蔵されているから。その先生に疑問をぶつけ、回答を得てすっきりしながら、研修を進めています。
  さて、ボンに行くと決めて、県立大学のゼミ生にその話をしたら、「ボンってどこ?」。20歳前後の学生にとって、東西ドイツの分裂はすでに歴史上の出来事で、西ドイツの首都がどこにあったのかは関心外らしいのです。まあ、そんな彼女・彼らも今年のワールドカップ大会でいやというほどボンの名前を耳にすることになるでしょう。
  確かに、ボンに来てみると、「ここがかつての首都だったのか?」と驚くほどひなびた都市。そのボンの人たちに混じって、日本人としては季節的違和感を感じざるを得ない大晦日の打ち上げ花火をライン川沿いで眺めながら、2006年を迎えました。

第2回 2006年1月29日付
  ボンに鉄道で着いた時、駅から外へ一歩出て驚きました。「これがかつての首都?」と。近代国家の首都といえば、高層建築が建ち並び、交通網が発達した大都会、というイメージを持っていませんか?なのに、ボンにはコンクリートのビルもありますが、18世紀からの美しい石造りの建築がたくさん残っています。
  それというのも、ボンが西ドイツの首都になった時、新しい都心を旧市街から3キロほど離れた場所に作ったから。こちらには近代的なビルが林立しています。その一方で、旧市街は、首都が来ようがまた去って行こうが(といっても、政府機関の一部は今もボンに残っています)その影響をほとんど受けずに今に至っているのです。
  ボンの始まりは古代ローマ帝国の駐屯地です。ライン川がローマ帝国の東の国境でしたから、ボンはその最前線の一つとしてローマ軍が常駐し、そして、すぐ北にあるローマの植民地都市ケルンを支えながら発展していきました。ローマ時代の遺跡は、いまでも地下に眠っていて、浴場遺跡の石組みなどを見学できる場所がいくつかあります。
  但し、ローマ軍の駐屯地は現在の都市中心部からは少し離れています。この駐屯地にはローマ人しか住むことが出来ず、彼らをあてこんだ商人たちがそのまわりに居住地を持ちました。いわば、門前町みたいなもの。
  古代ローマ帝国が崩壊し、ローマ軍がボンから退去した時、駐屯地も放棄されました。その後、駐屯地部分は荒れ地となり、まわりにあった商人町が中世都市へと発展していきます。このあたりが、ローマ時代の都市遺跡の上に中世都市が重なって成立するイタリアとは違うところです。まあ、ドイツにもケルンやトリアーのように、古代ローマ都市の遺跡、特に道路を上手に活用しながら中世都市を建設した所もあるのですけどね。
  ボンの人たちは、この2000年に及ぶ都市の歴史を誇りにしています。

第3回 2006年2月5日付
  1818年創立のボン大学。その本館は、1688年にルネサンス様式で建てられた、ケルン選帝侯(神聖ローマ帝国の皇帝を選挙する権利を持つ有力領主です)の居城を利用しています。つまり、ボンには、ケルン選帝侯の宮廷がやってきた、ということなのです。
  中世ヨーロッパの領主は、自分の領地内を移動しながら統治をしました。もちろん、ケルン選帝侯もその家族のみならず、家臣や貴族たちも一緒にボンまで大移動。ボンで結婚披露宴をした選帝侯もいます。ボンとケルンは、電車で30分ぐらいの距離。現在でもお互いに通勤圏で、ラッシュ時には電車も道路も混み合います。
  さて、ボンやケルンの交通を考える時、両者を結ぶ水の流れ、つまりライン川の役割を忘れることは出来ません。川幅は淀川ぐらいですが、かなりの水深があるらしく、水の流れは穏やか。時には水位が増して、川沿いの地域に洪水の被害をもたらしますが。
  驚いたことに、このライン川の河川交通は、今も現役です。かなりの交通量で、しかも、国際交通。通っていく船には、ドイツのみならずベルギーやオランダの国旗がはためいています。この中にはライン下りを楽しむ観光客を乗せる船もありますが(冬季は原則として運休)、大多数はタンカーのような貨物船。大きいのです。この大きな船が行き交うライン川の眺めは、見ていて飽きません。船の形は違えども、中世にもこんな風に船が通っていたんだろうな、と思います。
  もちろん、こうした流通を領主が見逃すはずがありません。ケルン選帝侯も川岸に税関を作って、大いに儲けていました。ボン大学の横にも、かつての税関所の跡があります。 もう一つ驚いたのが、ライン川に橋が架かっているにもかかわらず、今でも艀(はしけ)が現役だ、ということ。人間のみならず、自動車を乗せた大きな艀がゆったりと川を渡っていきます。橋まで行くよりも艀に乗った方が時間の節約になる、ということですが、これまた中世の姿を今に伝えているようで、面白いのです。

第4回 2006年2月12日付
  先の戦争で、ドイツは日本と同じく敗戦国です。ドイツのほとんどの都市は、イギリスやアメリカによる空爆を受けました。多くの死傷者が出て、町はがれきの山となりました。戦争の教訓を後世に伝えるために、現在でもあえて破壊された当時の姿のまま残されている建築が所々にありますし、空襲被害の状況は、町の歴史資料館に写真や模型展示で解説されています。破壊され尽くした町の姿には、胸に迫るものがあります。
  フライブルクの歴史博物館を訪れた時、ちょうど空襲についてのビデオを上映していました。1944年11月27日イギリス・ロンドンを飛び立った爆撃機が、フランス・スイス国境に近いフライブルク上空に夕方に到着し、約20分の空襲で町を廃墟にしてしまいました。その生き残りの方々の証言を、私はドイツ人にまじって重い心で眺めていました。
  ただ、こうした被害からの復興には、都市によって違いがあります。がれきを取り除き、新たな設計をして超近代的な都市に向けて再生した町。こうした町には、旧市街の面影はほとんど残っていません。しかし、ドイツの多くの町は、がれきを拾い集め、それをもう一度組み上げていくことで、以前の姿そのままに復興しました。石造りの建物だからこそ出来る技です。日本人観光客にも人気があるローテンブルクは、敗戦3日前の爆撃による壊滅状態から、あえて中世の姿に都市を復原させました。昨年10月に完成した「世界最大のジグソーパズル」、ドレスデンの聖母教会の再建は、日本でもニュースになっていました。涙を流して教会を眺めるおばあさんの姿は、とても印象的でした。ドイツでも、戦後は続いています。
  私が訪れた博物館に限って言えば、戦争の加害者責任を明示する展示を行っている館は少数です。しかし、学校教育の場では、ドイツが自国内で、また、他の国他の地域に対して何をしてきたかをきちんと教えている、と聞きました。とはいえ、そこではナチスに要因を一元化してしまう傾向があり、子供たちはその単純さに気づいて反発し始めているようです。歴史教育のあり方、戦争をいかに記録し伝えていくか、日本とドイツは同じ課題を抱えているように思えます。
  そんな中、日本の憲法改悪問題を、こちらの人々も関心を持って眺めています。

第5回 2006年2月26日付
  ドイツの大学の授業料が無料であることは、有名ですね。正確に言うと、学生は社会保険に加入することが義務づけられていますので、125.84ユーロ(約18000円)が学期(半年)毎にかかります。でも、この保険でボンから半径50キロ以内の公共交通機関が無料となりますので、実質上は交通費、と学生さんは考えているようです。この他、健康保険に入ることも義務ですが、それでもいわゆる授業料はありませんし、日本の大学生が負担する費用とは比べものにならないほど安いのです。
  この様に、家庭の経済状況などによって高等教育を受ける機会を失わないように配慮されたシステムですが、ドイツでの大学改革の荒波に呑み込まれてしまいそうです。いくつかの州では、大学の授業料有料化(半年で500ユーロ、約7万円程度。州によって金額に差があります)が決定されました。もちろん、日本に比べるとまだ安いのですが、原則無料から有料になったこと自体が大問題。学生達の反対運動も起こったのですが、教育の場に経済的な「効率化」を持ち込もうとする人々の心を動かすことはできませんでした。
  ドイツでは、権力から自立かつ自律した研究・教育を行う場として大学が生まれ、現在に至っています。学ぶ自由が保障されるが故に、大学入試制度は基本的に存在しません。誰もが好きな大学で、好きな勉強をすることが出来ます。そして、何を勉強してきたかをはっきりと示し、就職していきます。ですから、学生は卒業にこだわったりしませんし、大学に就職課なんてありません。そのかわり、学生たちは授業についていくため、必死で勉強しています。単位認定はかなり厳しいですよ。学生のレベルに合わせた教育をするのではなく、教育のレベルに合わせて学生が勉強をするシステムは、教員としてはつくづくうらやましいです。
  こんなドイツの大学ですが、最近は州政府からの「兵糧攻め」にあい、様々な予算削減に苦しんでいます。また、教育成果を数値で出せと迫られ、卒業単位の数え方も変わりました。教員の人員削減も上意下達で、ある日突然現場に通告されています。このままでは大学が真の研究と教育の場ではなくなってしまう、との危機感に悩み苦しむ人たちに、私はかける言葉が見つかりません。
  「神は死んだ」と宣言したニーチェを生んだドイツが、「学問は死んだ」と世界に宣する日が来てしまうのでしょうか。

第6回 2006年3月5日付
  日本でも報道されたようですが、ドイツでは2007年度からの付加価値税(消費税)率アップが決定しています。現行の16パーセントから、19パーセントへ!決定直後のテレビニュースはそれでもちきり。年収と家族構成によってどのくらいの負担増になるかの試算をしていました。とはいえ、こうした批判ムードは、すぐに沈静化。かなりの増税になるのに、どうしてだろう、と不思議です。その答えのヒントは、税の負担感にあるようです。
  ドイツ人に、付加価値税のことを質問してみました。食品など47項目の生活必需品には軽減税率7パーセントで、それ以外は基本的に16パーセント。市民はどれが必需品とされている品目なのかを、覚えているのですか?大半の人たちの回答は、「付加価値税は値段にすでに含まれているので、自分がどれだけ払っているか全く実感がない。ゆえに必需品かどうかを区別する気にならないし、生活する上では区別する必要も感じない」というもの。
  生まれた時から付加価値税がある人生を送っていると(ドイツは1968年に導入)、こうした感覚になるらしいのです。在留外国人としてさほど公共サービスを受けられるとは思えない私など、ドイツに来てからどれだけ税を払っているか、計算しては腹を立てているのですが。こんな風に払っている感覚をなくしてしまうとは、消費税を内税化するというのは、日本政府にとってもうまいやり口だった、ということでしょう。
  それにしても、ドイツのシステムは不思議です。例えば、八百屋でリンゴを一個買うと税率は7パーセントだけど、セルフサービスレストランでリンゴを一個とってレジに持って行くと16パーセント。なんか変だなあ、と思います。それに、必需品かどうかをどこが(誰が)判断しているのでしょうか?ドイツ人に聞いても「さあ、知らない」と返事が返ってきます。
  書籍が「必需品」扱いされていて税率7パーセントというのは、私たち研究者にとっては良いことだけど、本が必需品じゃない人もいるでしょう。生活必需品の定義は、人それぞれ。なんだか不公平感がありますね。
  日本でもこうした段階を分けた消費税の導入が政治家の口から出てきますが、「必需品の税率を低くするなら、それでもいいや」と思ってはいけない、という教訓をドイツで得ました。

第7回 2006年3月12日付
  キリスト教のカトリックでは、四月のイースター(復活祭)まで四十日間を断食と祈りの日々で過ごすことになっています。その禁欲生活開始までを馬鹿騒ぎで過ごすのが、カーニバル(謝肉祭)。キリスト教以前の土着信仰も関連しているらしく、春の訪れを待つお祭といったところでしょうか。これは年によって開催日が替わる移動祝祭で、今年は二月二十三日から始まりました。ドイツではカトリックの強い地域、すなわちライン川沿いの地域だけでカーニバルが行われます。この期間は大学も休みになり、会社も仕事にならないようです。
  一週間続くお祭ですが、一番盛り上がるのは初日の木曜日(二十三日)と月曜日(二十七日)。後者は「バラの月曜日」と呼ばれ、パレードが行われます。特に、ケルンとマインツのパレードは有名で、テレビ中継されるほど。人々も仮装し、山車から投げられるお菓子を拾って楽しみます。
  一方、木曜日は「女のカーニバル」。つまり、ジェンダー規範が逆転し、女が男を支配する日なのです。町では女性たちが市庁舎に押しかけて、市長から町の鍵を奪う、という儀式が行われます。祭にこうした日が設定されているということは、それだけ日常世界では女性の地位が低く、男に支配されていた(過去形でいいのでしょうか)、ということですね。この日は、支配と権威の象徴であるネクタイを女性が切ってもかまわないので、男性は服装に要注意です。
  私は、知り合いに誘われて女性団体のパーティーに参加しました。いわば地域婦人会の集まりで、女性が飲み食いしながらコンサートや演劇やダンスを楽しむのです。私が参加したのは「人魚姫団」という名前の婦人会で、今年がちょうど六十周年。戦後に結成された、ということです。それ以前はどうだったのかを聞いてみましたが、誰も知りませんでした。私は、前身の地域婦人会が戦争協力をした歴史があるのではないかと疑っています。
  パーティーには、女性たちが様々に仮装をしてやって来ます。会場は、地区の小学校の講堂。役員の手によって、きれいに飾り付けられていました。出し物も、婦人会の女性たちが自ら演じるもので、玄人はだし。特に印象の残ったのは、ご老人方の元気のよさで、八十歳を超える方が顔に猫のペイントをして踊っていたり、車いすの方も手拍子をうち音楽に合わせて体をゆらしていました。
  「ドイツ人は勤勉実直」というステレオタイプのイメージだけでは語れない、と異文化理解の難しさも思い知りました。

第8回 2006年3月26日付
  ドイツ人と戦争について議論になった時、相手を一瞬ひるませることが出来るせりふがあります。それは、「敗戦後、どうしてドイツは軍隊を解体して、戦争を放棄しなかったの?」という言葉。もちろん、ドイツには東西分断の事情がありましたし、日本に自衛隊がある理由を問われたら、逆にこちらが返答に窮することになりますが。
  ドイツと日本が歩んだ戦後の大きな違いの一つに、徴兵制があります。そう、ドイツには、今も徴兵制があります。男性は十八歳から二十五歳までの間に八ヶ月の兵役につくことが義務です(制度にはややこしい変遷があります)。女性も、「希望すれば」兵役につくことが出来ます。ドイツの町には、ファッションとしての迷彩色ではなく、本物の軍服を着た若者たちが歩いています。
  私は、知り合いのドイツ人男性に徴兵制のことを質問してみました。ところが、私のまわりには、実際に兵役についた人がいません。どういう事かというと、「良心的兵役拒否」が認められていて、福祉ボランティア活動を十ヶ月して兵役に替えることが出来るのです。ボランティア活動の方が義務期間を長く設定してあるところもポイントでしょうが、なんという「合理的」なシステムであることか、と、嫌みをこめて言いたくなります。
  ドイツは、敗戦後に対外戦争をしていないとはいえ、やはり若者は兵役を嫌います。私が経験した「大学」という狭い世界で、兵役拒否が主流であることが何を意味するか、明白でしょう。兵役義務へどう対応するかが、階層社会と対応しているのです。
  実数としてもボランティア活動を選ぶ人数が増え、徴兵制は実態を失いつつあります。そこで、徴兵制自体を廃止し、新たな軍隊組織を作り直すことになりました。
  徴兵制が無くなることになって良かったね、と言いたいのですが、事情はなかなか複雑です。というのも、福祉の現場が、こうした大量の兵役拒否の男性ボランティアよって支えられてきたからです。今後の代替措置をどうするかが、大問題です。
  また、こうした強制的ボランティア活動に従事することで、若者が精神的に成長するのだと、このシステムを評価する大人たちが多いのも現実です。もちろん、こういうことを口にする人たちは、徴兵制から原則排除されている女性の「成長」には期待していないことになりますから、ジェンダー・バイアスの点から簡単に批判できますが。そもそも、兵役と関連させなければ若者が成長できない、とする考えには納得がいきません。
  日本でも、覇気のない若者たちを鍛え直すために徴兵制を復活させるべきだ、などという恐るべき言論が時々表れます。そんな時、良心的兵役拒否を設定しておけばいいや、などと思ってはいけないのです。
  ドイツも、日本も、若者たちが、男性も女性も、戦争や徴兵制とは無関係なところで成長していって欲しい、と心から願ってやみません。


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