2004 「人間文化」(滋賀県立大学人間文化学部紀要)15号用草稿

 

ニウス:物語と「事件」の通路

‐のぞきからくりの継子譚における物語構造‐

 

細馬宏通

(滋賀県立大学人間文化学部)

 

1.はじめに

 

 本論では、現存する貴重なのぞきからくりのひとつ、新潟県巻町の「幽霊の継子いじめ」(図1、参考資料)を取り上げ、大正期に制作されたと推定されるこの継子譚が、どのような構造をもっており、それが旧来の継子譚や同時代のからくり節やフィクションとどのような関係にあるかをさぐっていく。さらに同時代の継子譚の様相を合わせ見ながら、虚実のあいまいな継子譚がいかなる物語の力を持っていたかを考える。

 考察を始める前に、からくり節とはなにか、またからくり節における継子譚はどういう位置づけにあるかについて記しておこう。

 

からくり節について

 のぞきからくりは、江戸期に発祥した伝統的な見世物芸能のひとつである。最初は数個ののぞき穴からからくりや浮絵をのぞく簡素なものであったが、明治・大正期には、二〇個もの覗き穴を備え、畳一畳ほどもある重い絵に細かい押し絵をほどこした豪勢なものが現われるようになった(山本 1982)。

 のぞきからくりの語りは、からくり節、覗き歌、覗き眼鏡の歌などと呼ばれており、地方によって節が違うことから、名古屋節、大阪節などと呼ばれることもある。(以下、本論では「からくり節」とする)。

 竹の棒を叩きながら調子よく唄われるのぞきからくりの語りは、人々が容易に口ずさめるほどに広まった。落語「くしゃみ講釈」の中には、物覚えの悪い男が「八百屋お七」のからくり節に乗せて買い物の内容を覚えるというくだりが残っており、全盛期のからくり節の流行のほどが伺える。

 のぞきからくりは各地の縁日の盛り場、社寺の境内でよく見られたが、活動写真の流行とともに衰退し、昭和9(1934)になると、覗き屋の盛んだった大阪とその周辺でさえ神戸、大阪、兵庫にわずかに4軒(河本 1934)という状態であった。昭和55(1980)に大阪天王寺を中心に活躍していた黒田種一氏が引退したのを最後に、覗き屋による興行はほとんど見られなくなった。かつての覗き屋の口上は小沢 (1999a, 1999b, 2001) の記録で見聞できる。

 現在、オリジナルののぞきからくりを保存しその口上を再現しているのは、新潟県巻町の郷土資料館、そして佐賀県在住の北園忠治氏であり、前者では土田年代氏をはじめとする保存会の人々によって、後者では北園氏によって口上が行なわれ、その芸能を今に伝えている。その他、復元されたのぞきからくりを用いた口上が各地で行なわれている。

 

からくり節の基本資料 ‐河本資料‐

 昭和初期に残るからくり節を集めた文献資料としては河本(1935/1993)が存在し、そこに4544種のからくり節が収録されている(以下、「河本資料」とする)。

 河本はどのようにからくり節を収集したのだろうか。河本は当時関西でのぞきからくり業(覗き屋)を営んでいた岡本修太郎氏から聞き取りを行なっており(河本 1934)、この岡本氏の知見が含まれている可能性が高い。また覗き屋は上演の際に、しばしば口上の内容を印刷したチラシを配ることがあり、大正から昭和期にかけて印刷されたチラシがいくつか現存する。河本資料に含まれるからくり節には、こうしたチラシから採られたものも含まれていると考えられる。

 

からくり節と新聞報道との整合性

 河本資料の内容は多岐に渡っている。「不如帰」「乳姉妹」「金色夜叉」「大阪朝日新聞小説 かちどき」のように、明治・大正期の小説から題材をとったものもあれば、あるいは「三庄太夫一代記」「くずの葉」のように説教節や浄瑠璃、歌舞伎などから題材をとったもの、さらには「地獄極楽」のような説話的なものもある。

 いっぽうで、明治・大正期の実際に起こった殺人、心中、殉職といった社会事件に題材をとる「事件もの」も目立つ。

 試みに明治・大正期の読売新聞CD-ROMを検索し、河本資料のからくり節の内容と報道された「事件」との整合性を調べたところ、「血染の軍旗」(M37/1904.5;日露戦争南山の戦い)、「子ころし 大悪婆箕形おいち」(M39/1906.6)、「嗚呼伊藤公爵」(M42/1909.10;伊藤博文暗殺事件)、「勧善懲悪 淡路首無事件」(M45/1912.2)、「日独戦争」(T3/1914.8-)、「桜島噴火大ばく発」(T3/1914.1)、「残る親子」(T6/1917.12)、「鈴弁殺し」(T8/1919.6)、「小野訓導 殉職美談」(T11/1922.7)、「潜水艦七拾号」(T12/1923.8-10)、「爆弾三勇士」(S7/1932.2)の11種について、対応する新聞記事を確認することができた(かっこ内は報道された年月)。

 また、新聞では確認できなかったものの、からくり節の中で「大正四年十月の二十五日が公判で」(「子を思う親心」)のように、年月が特定されているものが他に4種あった。今後さらに複数の新聞を調査することで「事件」と対照できるからくり節は増える可能性がある。

 こうした傾向を考慮してであろう、河本(1934)は、多様なからくり節をまとめて「今でいふニウスで世間の出来事を歌にしたもの」と位置づけている。

 

継子譚の虚実

 からくり節のモチーフによく使われるものとして、後添えとなった継母が継子をいじめるという、いわゆる「継子譚」がある。河本資料には、44種中、「五郎正宗」「俊徳丸一代記」「弘法大師の誡」「継子殺の犯罪」「金比羅霊験記 浮世の写真まゝ子殺」「継子災難不動の御利厄」「美少年の公判 親に孝行忠義の鏡」の、計7種に継子譚が含まれている。

 新聞との整合性を考えるとき、これら継子譚は微妙な位置にある。

 まず継子譚には、「五郎正宗」「俊徳丸一代記」のように、浄瑠璃や歌舞伎で扱われている題材からとられた伝奇的なものと、その他の具体的な地名や実名を備え、巡査のような明治期以降の事物を配したものとが、混在している。

 では、具体的な地名や実名を備えたものは、なんらかの「事件」に基づくものなのだろうか。上記で行なった方法と同じく、読売新聞で「継母」「継子」および固有名詞で検索されるすべての記事について内容を検討したが、からくり節の継子譚と対応するものはなかった。

 継子譚が、実話に忠実とは限らないことの傍証は他にもある。たとえば、後で述べるように、同じ物語に対して複数の類話が存在し、異なる筋が語られる場合がある。また、石をくくりつけられて海に沈められた子供が金比羅山の奇跡で生き返る「金比羅霊験記 浮世の写真まゝ子殺」のように、導入部は実名地名入りの猟奇事件の体をとりながら、霊験記仕立てのエンディングへと向かうものもある。

 からくり節の継子譚の地名人名は、実話とのつながりをほのめかしはするものの、その虚実はあいまいなのである。

 

 

2.本論の目的と方法

 

 では、巻町に保存されている「幽霊の継子いじめ」はどうだろうか。結論を先取りして言えば、他のからくり節の継子譚同様、その内容に対応する報道は今回見つけることができなかった。

 しかし、本論で明らかにしたいのは、単に「幽霊の継子いじめ」が事実なのかフィクションなのかということではない。むしろ、このからくり節を聞くときに感じられる「ニウス(ニュース)」性が、本論の対象である。

 ここでいうニウス性とは、その言説がどれくらい事実に近いかを指すのではない。逆に、その内容を聞いたときに、「これは事実かもしれない」と思わせる力のことを指す。このような、それ自身がひとつの「できごと」であるニュース(佐藤 2000)を、本論では河本のことばを借りて「ニウス」と呼ぶことにする。

 「幽霊の継子いじめ」は、後に述べるように昔話のバリエーションとして考えることができるにもかかわらず、巻町の関係者の方々からは「本当にあった話じゃないでしょうか」という意見が聞かれる。私が本論の検証を行なったのも、もしかして対応する事実があるのではないかと思ったのがきっかけである。このようなニウス性、「本当にあったのかもしれない」と思わせる力には、どのような背景があるのだろうか。

 「できごと」としてのニュースを考えるにあたっては、何を媒体にどんな形式を与えられ、どのように伝えられ(伝えられず)どのような主体に受け止められ、どのような身体から作り出されるかを問わねばならない(佐藤 2000)。

 そこで本論では、からくり節と旧来の継子譚との関係、他分野のフィクションとの関係、さらには風聞や報道された「事件」と継子譚との関係を論じることで、のぞきからくりのニウス性にアプローチする。巻町の「幽霊の継子いじめ」を主な分析の対象にする理由は、この演目が、からくりの中ネタ、実際に演じられた録音とともに残されており、多角的な分析が可能なためである。

 まず、「幽霊の継子いじめ」の話型分析を行なうことで、昔話としてのからくり節の水準を明らかにする。次に、同時代のからくり節との比較によって、からくり節の相互関係という水準について考察する。さらに、明治期のフィクションとの関係を論じることで、異分野の物語とのぞきからくりとの関係という水準にふれる。

 最後に、明治・大正期の新聞に現われる継子いじめ報道と継子譚との関係を例証し、「事件」と物語との相互関係という水準を考察する。

 なお、からくり節においては、物語の内容だけでなく、演者と観客との関係、からくり節を語る声の問題、そしてのぞきからくりという装置じたいをめぐる考察が欠かせないが、その詳細については別稿に譲る(細馬 準備中)。

 

 

3.「幽霊の継子いじめ」の話型分析

 

「幽霊の継子いじめ」について

 のぞきからくり「幽霊の継子いじめ」は1976年に古寺信氏宅で発見され、巻町の有志の方々により修復された。その後、巻町在住の内山ミヨ氏がかつてこの演目を演じた経験のあることが判明し、彼女による実演が行なわれた。その様子は小沢 (2001) に収められている。現在は、新潟県西蒲原郡巻町の郷土資料館に保存されており、生前の内山氏に教えを受けた土田年代氏をはじめ、保存会の方々により、のぞきからくりの上演が行なわれている。

 「幽霊の継子いじめ」の正確な制作年代は分かっていない。が、同じ蔵から発見された「八百屋お七」については、中ネタにほどこされた押絵が大正期に姫路押絵の宮澤由吉によって制作されたことが分かっている。このことから、「幽霊の継子いじめ」の絵もまた、大正・昭和初期に中ネタとして使われていたと推測される。大正末期から覗き屋の口上を行なっていた内山ミヨ氏がこの口上を覚えていたことは、その傍証といえるであろう。

 分析では、小沢 (2001) に収められた内山ミヨ氏の口上を書き起こしたテキスト(巻町郷土資料館 1988)を用いる(巻末資料参照)。

 

図1 「幽霊の継子いじめ」全体図

 

物語の内容

 「幽霊の継子いじめ」の内容は以下のように要約できる。

 

 大坂天下茶屋の佐々木勇は、茶屋通いの末、芸者とみ子を身請けした。妻のふじゑは病が高じて、娘の静江の行く末を案じながら亡くなる。いっぽう、とみ子には連れ子である実子の花子があった。

 とみ子は財産を継ぐのに継子の静江がじゃまになるので、亭主のいない夜をねらって幽霊のふりをしては静江の命を縮めようとする。

 静江はこの恐怖を卒業式の日に先生に告白し、不審に思った先生と熱田巡査は、静江の家を調べることにする。

 その夜、とみ子が幽霊姿となり静江をおどかしているところに、先生と熱田巡査が踏み込む。そのとき、起き出してきて幽霊姿を見た実子の花子がショック死してしまう。

 その後とみ子は裁判にかけられるが改心が認められて執行猶予となり、尼になる。

 

 題名からは、継母が死んで幽霊となり継子をいじめる、という物語を想像しがちだが、じつは、継母が幽霊に扮装して継子を恐怖に陥らせるという話であり、しかもその幽霊姿にショックを受けて、継子ではなく実子が誤って死んでしまうという意外な展開である。

 この奇妙な展開をもつ話は、このからくり節の作られた大正期に突然生まれたものなのだろうか、それとも、なんらかの歴史的背景を持っているのだろうか。以下、この問題について検討しよう。

 

継子譚話型の折衷としての「幽霊の継子いじめ」

 継子いじめの話は洋の東西を問わず広く流布している。日本の継子譚の起源と発達の経緯は三浦(1992)にまとめられている。三浦は、継子譚の起源を「継母の嫉妬の物語」と見た場合、それは古く古事記、日本書紀まで遡ることができること、またこれらの物語内では、継母の嫉妬の対象は前妻に向けられており、それが継子に向けられることが問題になりはじめたのは「続日本紀」頃であること、さらに、継子いじめは当初、男子を対象とした貴種流離譚や太子いじめの物語に重なっていたが、平安期の「落窪物語」になると、それがいじめられる少女としての継子譚に変化していることを指摘している。この説に従えば、「幽霊の継子いじめ」は、大きく言って「落窪物語」以降の継子譚の流れを汲むものとして捉えることができるだろう。

 しかし、ひとつひとつの継子譚はまったく同型というわけではない。継子譚には古来、多くの話型があり、その物語展開もさまざまである ( 1980)。では、「幽霊の継子いじめ」は、どのような話型から派生したものと考えられるだろうか。

 このことを検討するために、「幽霊の継子いじめ」のモチーフを見てみよう。

 

1:(前妻の死と、後妻と連れ子の登場)前妻が死に、後添えとなった継母には連れ子がいる。

2:(継母による継子いじめ)継母は、夫のいないあいだに毎夜幽霊に扮しては継子の寝床に訪れ、継子をいじめる。

3:(継子による苦難の訴え)継子は自分の幽霊体験を先生に告白する。

4:(継子いじめの発覚)先生と巡査が現場に踏み込み、幽霊の正体が継母であることをつきとめる。

5:(実子の誤殺)継母は継子を殺すつもりが、まちがえて自分の実子を殺してしまう。

6:(継母への処罰)継母は裁判にかけられる

7:(継母の改心と出家)継母は改心して尼になる。

 

 1-7すべてを包括するような一つの話型は、稲田ほか (1977)や関 (1980)を見る限り見あたらない。しかし、いくつかの部分に分けるなら、類似する話型が見つかる。

 まず、1-4の部分に対応する話型として丸山(1977)の取り上げている「継母の化物」を挙げることができる。その内容を以下に並べて上記のモチーフと比較しておこう。

 

「継母の化物」

 母親が亡くなって父と子だけのところへ同年輩の娘をつれ子した後妻が来る。後妻は継子が憎くてたまらないので、どうかして父親にわからないように先妻の子を殺してしまおうと考えた末、毎晩化物になっておどかし、だんだん弱らせて殺そうと決める。カボチャを半分にして顔とし、真赤なナンバンで角を、トウキビの毛で髪をつくり、耳まで裂けた口からコンニャクの下を出し、子供の寝ている所へ行ってその冷たい舌で舐めた。継子は、声を出すと食うといわれてふるえるばかり、人に言ったら殺すなどとおどかされる。継子はだんだんやせていき、遂に父親に告げると、その夜父は子の寝床に寝て、継母のしわざということをつきとめて離縁してしまった(山形県真室川)

(丸山久子 1977a

 

 母親が化物に扮装して継子をいじめる点、それが父親の知らないうちに、夜、継子の寝床で行われる点、さらには継子が大人に自分の恐怖体験を告げる点で、この話の構造は「幽霊の継子いじめ」の1-3のモチーフとぴったり重なることがわかる。また、発見する者が父親か他人かという違いはあるものの、結局継母の扮装が露呈する点で、4のモチーフとも重なる。6のモチーフである「継母への処罰」は離縁という形で為される。

 次に、5の部分、すなわち継子と実子の取り違えに対応する話型としては、関(1980)の分類した18型の継子譚の中から、「米埋糠埋(こめうめぬかうめ)」(205B)を挙げることができる。「米埋糠埋」は「継母が継子を糠の中に入れて寝かせる。→実子を米の中に寝かせたので凍死する。」という物語で、継子を殺そうとして誤って実子を殺してしまうという点が「幽霊の継子いじめ」の5のモチーフと一致する。

 さらに、継母が改心して尼になるという7の結末部分については、継母が尼となる「落窪物語」をはじめ、関(1980)の分類する継子譚話型にも広く類型が見られる。なお、河本資料では、44種中4種に、悪女が改心して尼になるという結末が見られる。このことは「幽霊の継子いじめ」を含めて、からくり節には説教的な力が加わりやすいことを示している。

 以上に見たように、「幽霊の継子いじめ」におけるモチーフは、旧来の複数の話型を折衷した形になっている。特に、「継母の化物」譚と「米埋糠埋」譚の接続部分となる5では、それまでほとんど話の中に登場しなかった実子が唐突に登場して死んでしまい、1-4の展開との間に大きな断層が生じている。

 

話型の断層がのぞきからくりにもたらすもの

 のぞきからくりの観客にとって、この話型の断層は、予想を裏切る驚きである。

 観客は「幽霊の継子いじめ」という題名から、継子の悲劇と幽霊の正体にもっぱら注意を向けることになる。ところが、いざ、からくり節を聞き進めていくと、前半の1-4の段階における聞き手の注意の焦点(幽霊の正体)は、「となりの部屋の花子さん」という実子の登場によって突然ずらされる。さらにその実子の気絶の声は、先生と巡査を招き入れ、話の焦点は、継母の捕縛というできごとに切り替えられる。この急展開は「手早くとみ子に縄掛ける」と、まさに手早く語られて、聞き手が「先生花子を抱き上げて」という声に導かれて再び実子に注意を向けると、実子は単に気絶していたのではなく死んでいたという不意打ちに驚かされることになる。

 実際、土田年代氏による口上を聞きながらのぞきからくりを見ていた際、「も早やこの世の人でない」というくだりで、私を含む見物客から「ええっ」「そんな」という声があがった。

 

 

4.同時期のからくり節と「幽霊の継子いじめ」との関係

 

類話「継子殺の犯罪」の存在

 ここまで見たように、「幽霊の継子いじめ」は複数の昔話話型の折衷として説明できる。が、物語の構造が昔話の話型と一致するからといって、「事件」による影響の可能性が消えるわけではない。

 語りには「大阪天下茶屋」「佐々木勇」など、具体的な地名や人名が登場し、あたかもじっさいの犯罪事件を取材したかのような体裁になっている。では、明治・大正期の中に、「幽霊の継子いじめ」と一致するような報道が見つかるだろうか。

 明治・大正の読売新聞CD-ROMに収められた記事を「継子」「継母」「幽霊」「化け物」「大阪」「天下茶屋」「佐々木」などで検索したが、物語に該当する記事は発見できなかった。今後さらに、地方版の新聞を総当たりするなどさらに徹底した調査が必要であろう。

 しかし 仮に「幽霊の継子いじめ」が何らかの「事件」に基づいているとしても、そこには変形が加わっている可能性が高い。それは、河本資料の中に、同じ人名を用いながら異なる展開を持つ「継子殺の犯罪」(参考資料参照)という物語が存在するからである。

 「継子殺の犯罪」では「ささきいさお」「藤江」という「幽霊の継子いじめ」と同じ固有名詞の夫婦が扱われているだけでなく、継母が幽霊に扮して継子をいじめようとする。また殺される子供の名前はともに「花子」である。前述した「幽霊の継子いじめ」の1-4までのモチーフを共有しており、明らかに「幽霊の継子いじめ」の類話である。

 その一方で相違も多く見られる。まず、モチーフ1以前に、夫の勇が藤江を打ち据え離縁するという、「幽霊の継子いじめ」にはないエピソードが挿入されている。また芸者の「とみ子」は「豊子」となっており、連れ子はおらず、子供は二人とも継子である。さらに子供のうちの一人は「幸太郎」と名前だけでなく性別まで変わっている。また「継子殺の犯罪」では、継子と実子の取り違えというモチーフ5がなく、豊子が殺してしまうのは実子ではなく継子である。また「継子殺の犯罪」にはモチーフ7の「継母の改心」がなく、継母は「法廷の露とぞきえにける」と、死罪になっている。

 先に示したように、「幽霊の継子いじめ」では、「継母の化物」「米埋糠埋」というにあたる異なる継子譚の接続によって話型に大きな断層が生じていたのだが、「継子殺の犯罪」には「米埋糠埋」にあたるモチーフ5が欠けており、話型の断層は見られない。

 仮に「継子殺の犯罪」のほうが先に作られたものであるとすれば、「幽霊の継子いじめ」のモチーフ5は、後から挿入されたものということになり、不自然な話型の断層に説明がつく。逆に、「幽霊の継子いじめ」が先に作られたものであるとすれば、伝聞されるうちに不自然な話型展開が脱落したと考えられるだろう。

 

類話の中間形としての「腰巻」

 さらに、この二つの類話が同じ話から派生したことを示すものがある。それは「幽霊の継子いじめ」の「腰巻」と呼ばれる部分に描かれた絵である(図2-B)。先に書いたように「継子殺の犯罪」では夫の佐々木勇が藤江に暴力をふるうくだりがあるのだが、「幽霊の継子いじめ」の語りにはそれにあたる部分はない。が、「幽霊の継子いじめ」の腰巻には、夫が藤江を打ち据える場面が描かれている。「継子殺の犯罪」と「幽霊の継子いじめ」が同じ話を祖先型に持つと考えるなら、このようなからくり節と絵の内容とのずれは説明がつく。おそらく、この物語には、もともと「夫による妻の打擲」というモチーフが織り込まれており、描き手はそれを絵に反映したのだが、そのモチーフは、からくり節が加わる過程で落ちてしまい、絵とのずれを生んでしまったのだろう。*1

 

*1  現存する腰巻を含むのぞきからくりは内山ミヨ氏自身が所有していたものではない。そのため、内山氏がかつて大正期に使っていたものとの間に相違がある可能性はある。しかし、仮にそうだとしても、現存するからくりに「継子殺の犯罪」と内山氏の語る「幽霊の継子いじめ」との中間形にあたる部分が存在するという議論に変わりはない。

 

図2 「幽霊の継子いじめ」の観音絵(A)および腰巻(B)

 

 

 

5.同時期のフィクションと「幽霊の継子いじめ」との関係

 

永島永州「プラットフォーム」

 からくり節からさらに範囲を広げて明治・大正期のフィクションに目を移すと、「幽霊の継子いじめ」とモチーフを共有する物語が他にも見つかる。それは永島永州の「プラットフォーム」(M39.3 「少年」)である。

 雑誌「少年」をはじめ、少年少女雑誌に多くの児童文学を著わした永島永州の作品には継母が継子を虐待するというストーリーが多い(上田 1994)。中でも「プラットフォーム」は先に挙げた話型「継母の化物」に基づく部分を含む点で興味深い。

 継母が幽霊に扮するくだりを要約すると以下のようになる。

 

 停車場のプラットフォームで名物「乙女おこし」を売る少女お留は、実祖母と継母のお鐵、そしてその連れ子である妹お玉と暮らしている。「乙女おこし」の製法は家伝で、お鐵にもその内容は知らされていない。

 お鐵は、お留にやさしいが、祖母は、お留がなぜか次第に元気がなくなり身体も痩せてきているのに気づき、わけを尋ねる。しかし、お留は祖母には理由を言わずに、近所の寺の和尚に「この世に幽霊つてものが、眞個(ほんとう)にあるでせうか」と自分の体験を打ち明ける。

 別の夜、お留の寝ている蚊帳のそばに、「霧ともつかぬ薄白い人の姿が」「丈けなる髪をふり乱して」たたずむ。その幽霊が蚊帳の裾をまくりあげたとき、「アッ痛」と悲鳴をあげる。その声から、お留は、幽霊がじつは自分の継母であったことを知る。お留は和尚の助言にしたがって、蒲団の周りに茨の刺を植えていたのであった。

 お鐵はじつは実子のお玉に家を継がせ、家伝を譲り受けたいと思い、幽霊に扮してお留をなきものにしようとしていた。翌朝、お鐵は「留、昨夜は有りがたうよ、今にお礼に来るからね」と言うと、左の足を引きずりながら実子お玉の手を取り、何処へともなく出て行ってしまう。

 

 物語の筋書きは、前述した「継母の化物」の話型にぴったり一致しており、「幽霊の継子いじめ」の前半部分(モチーフ1-4)と共通のモチーフを持つ。

 モチーフばかりでなく細部にも共通点が見られる。両者とも、継母の化けたのは単なる「化物」ではなく「幽霊」であり、しかもその「髪」を「丈けなる髪をふり乱して(プラットフォーム)」「髪はざんばら乱れ髪(幽霊の継子いじめ)」と印象的に描いている*2。また両者とも「停車場(プラットフォーム)」という近代の産物が登場する。さらに、子供は自分の近親者にではなく、第三者の大人(先生、和尚)に苦しみを告白している。

 「プラットフォーム」は、大正期に作られたと考えられる「幽霊の継子いじめ」よりも制作年代が先行している。「幽霊の継子いじめ」に影響を与えたか、もしくは同様の物語から派生した可能性が考えられるだろう。

 

*2 「幽霊の継子いじめ」の観音絵(図2-A)では、継母が幽霊に化ける場面、および最後に剃髪する場面でのみ、馬の毛に似た繊維を貼り付けてあって、実際の髪らしく見せており、おどろおどろしい感じを見る者に与える。これに対して、他の場面での髪は泥絵か押し絵によって描かれている。つまり、このからくりに用いられている絵では継母の「髪」は、その素材を変化させることによって、人間から幽霊へ、幽霊から尼へと転換する重要な象徴として表現されている。

 

 

6.明治・大正期における継子譚と「事件」との関係

 

 ここまで確認してきたように、「幽霊の継子いじめ」は、「学校」「巡査」「プラットフォーム」「裁判所」といった明治以降の事物を織り込んではいるものの、その物語は昔話のモチーフを折衷したものであり、類似する話は、明治・大正期のからくり節や小説にも見られることがわかった。

 では、「幽霊の継子いじめ」のようないっけん異様な物語は、じつは単にさまざまな明治・大正の意匠を借りただけの、昔ながらの継子譚の亜型に過ぎないのだろうか。このことを検討するために、話を継子いじめ譚全般に広げて、明治・大正期の継子いじめ報道と物語の関係を見てみよう。

 

風聞の「事件」化

 「事件」は必ずしも記者のじっさいの見聞をもとに生まれるとは限らない。たとえば警察など「その筋」の公的機関によって発表されたものは、公式ではあるものの、ひとつの伝聞である。

 「事件」を生むのは公的な発表だけではない。とくに明治初期、警察制度の整備が過渡期だったころの新聞には、投書や風聞をもとに「事件」を告発する記事が目立つ。継子いじめに関しても、以下のように、記者の聞いた風聞が、ときには実名入りで記事にされている。

 

記事例1:

 (前略)今にあの家のおかみさんは先妻の女の子を責殺してしまふだらうなんぼ我腹を痛めない子だとて食ひ者もろくろく給させず寒中綿のはいッた着物も着せずに折檻ばかりして近々に大事が始まッて新聞屋にどなられるだらうダンナはお心よしだから知らないか又かミさんへ向ッて一言も云ないのかと神田明神の水茶屋で近所のものらしい男が話て居ましたが此様な悪弊は早く払ひ給へ清め給へといたしたいものだ(読売・M10/1877 3.31)

 

記事例2:

 (前略)おきんは先妻の子のおやうといふを邪険にする事は近所の者も見兼ねて居るが此ごろはヒィヒィ泣くとうるさいとて戸棚へ押し込んで飯も碌に喰べさせない程ゆえ憫然やおやうはおきんの為に責め殺されるであらうと其辺では専ら評判であります(読売・M12/1879 8.3)

 

「事件」の物語化

 風聞や、新聞によって報じられた「事件」は、継子いじめの物語に影響を与えることもある。その好例として、「継児は此程憎い者か」と題された記事(読売・ T4/1915.4.13)を挙げることができる。

 継子を虐待すると風評のたったお梅が地方新聞に取り上げられ、警察の取り調べを受けたものの罪をまぬがれる、というのがその内容なのだが、興味深いのは、記事の中に「其後同地の大黒座で壮士俳優等が継子虐めと云ふ演劇に仕組んで演ずるに至りお梅は同地に居堪たまらず一人上京してしまいました」と記されていることである。すなわち、当時、実話である継子いじめが壮士芝居化されることがあったのである。

 壮士芝居はあくまで「芝居」である、と考えるなら、そこで演じられている継子いじめはあくまで仮のお話に過ぎない。しかし、いっぽうでそれは、地方新聞で報じられた「事件」に基づいており、その結果、当の本人が「同地に居堪たまらず一人上京して」しまう。

 この例では「事件」と物語は、単に事実/フィクションとして対立しているのではない。むしろ「事件」と物語は相互に関係を持っている。「事件」は物語に形を与え、逆に演じられた物語が「事件」のその後に直接影響を与えている。

 

お初地蔵 

 新聞で報道された「事件」が風聞と相まって、唄や映画となって広く知られるようになった代表例としては、「お初地蔵」を挙げることができる。「お初地蔵」は正確には継子いじめというよりも養女いじめの話であるが、「事件」の物語化を示す例としてここで取り上げておこう。

 大正11年(192275日、月島荷揚場に手提げ鞄が漂着し、この中から頭部両足を切断された女児の死体が詰められていた。警察の調べにより、これが浅草でセルロイド業を営んでいた関蔵と常磐津の師匠マキという夫婦の養女で11才になるはつであり、夫婦によって殺害されたことが判明した。新聞には「生地獄の様に養女はつを虐げ」とどぎつい見出しが並び、はつの生前の写真も公開された。初七日を前にはつの首が廓橋付近に漂着するに及んで、はつの話題はさらに紙面を賑わした。

 読売新聞は、最初の一報が報じられてから20日以上も経って、浅草方面で「お初の唄」が流行していることを報じている。作詞は詩人で翻訳家の佐藤緑葉とされており、以下のような内容である。

「ぶたれ叩かれ踏み蹴られ、哀れお初は泣く聲も、力弱りて蟲の息、僅かに通ふ其の息で、絞る聲さへ苦るし氣に、猶も許して下さいと詫びるも聞かぬ鬼夫婦」(読売・T11/1922 7.30)。

 興味深いのは、この唄が報道よりも一歩踏み込んで、じっさいのいじめ場面を唄いこんでいることである。作家が見たこともない場面を想像によって補っている点で、この「お初の唄」は、報道とは異なる物語の水準へと一歩踏み込んでいる。

 その後、浅草黒船町榧寺では、このお初を哀れんで「お初地蔵」を建立したところ、諸方面から同情が集まり日夜香華が絶えなかった(読売・T11/1922 8.21)。

 さらに、4年後の大正15(1926)、この事件は野村芳亭監督により「新お初地蔵」として映画化され、浅草松竹館で上映された。監督をはじめ関係男女優一同は封切りに際して榧寺のお初地蔵へ参詣した(読売・T15/1926 7.16)。

 このお初地蔵はいまも榧寺に残っている。現在の榧寺の住職である山口諦源師に話を伺ったところ、地蔵を建立した当時は「お初まんじゅう」「お初せんべい」まで発売されたという。当時の都新聞の切り抜きは寺の金庫にしまわれているとのことだった。住職はその記事を「頭部両足(ずぶりょうそく)を切断し」と、経文風に音読みで暗唱してくれたが、それはあたかも「事件」が「語り」の水準に移行する様を聞くようだった。

 

物語の「事件」化:継子の蛇責め

 継子譚の中には、じっさいの「事件」が物語になるだけでなく、逆に旧来の物語が「事件」に影響を与えたと思われる事例がある。それが次にあげる「継子の蛇責」である。

 「継子の蛇責」は、もともと典型的な継子譚の話型のひとつである(関 1980)。それは「継母が蛇の入った桶に継子を入れて殺す。父が継母を同じ桶に入れる。」という凄絶な話で、丸山 (1977b)が「大国主命の蛇室の話以来の説話」と指摘する通りその起源は古い。

 子供を蛇で責めるという話は、いかにも現実離れした昔語りに思える。ところが興味深いことに、明治・大正期の事件を調べていくと、じっさいに継子を蛇責めにした記事が見つかる。

 

○継子を蛇責めにす

 聞くだに身の毛もよだつ怖ろしき事実あり滋賀県××郡××村の樵夫某の妻は一人の男の子を遺して先年死亡せし後迎へたる後妻は本年八歳なる継子を虐待すること甚だしく昨年懐妊の身となりてよりは一層残忍の度を増し此程も毎日一二疋のヘビを生捕(#とら)へ帰りては密かに空長持に入れ置き一両日前亭主は例の山稼ぎに行きたる後継子を裸体とし荒縄にて縛り蛇の三十疋余もかたまり居る長持の内に継子を投げ込み蓋をして重石を置きそのまま田草取りに出たるが無惨にも蛇責に逢ひ居る子供は夢中になりて呻き居る音の只ならざるを巡回の巡査が聞き付け同家に入らんとするも戸締りしあるより隣家の人に立会わせ同家に入り取調べたるに右の有様なるに流石の警官も打驚き取敢へず子供を救ひ上げ応急の手当を為し一方継母を引致し目下取調中なりといふ

(読売・M40/1907 8.3

 

○継子の蛇責

 茨城県××郡××村大字××内××梅吉の後妻お美代は継子広吉(四つ)を虐待する事甚だしく此程同家の近所を廻る飴売爺がいつも欲しさうに指を喰へて出てくる広吉が見えざるより家の様子を窺へば子供の泣声が聞ゆるので益々訝りゐるうち巡回の警官が来合せ共々耳を澄ますに戸棚の中より怪しき泣声のするより屋内を探せしに土間の所へ倒(さかさま)に伏たる四斗樽ありて其の上には笊に意志を入たる重石が載せあるに目をつけ重石を除きて起し見れば中より一匹の蛇勢ひ込んで飛び出したる其のあとには顔色青ざめて息も絶々(たえだえ)なる広吉が涙ながらに座し居たれば抱起し子細を問へど何様当年四才の小児只泣くのみにて何も答へず折りしも継母のお美代が壺笊提げて帰り来りしより警官を一応の取調べを為し壺笊の中を取調べしに驚くべし中には見るも薄気味悪き黄頷蛇(あおだいしやう)二匹の入れあるを発見し直ちに××署へ引致し広吉は××の××病院に入院させたりとの事なるが今時にあるべからざる話のやうな話ならずや

(読売・M40/1907 11.13 なお、地名実名は伏せ字にした。)

 

 巡査、警官といった登場人物が新しいものの、父の知らぬ間に継母が継子をいじめる点、その方法が蛇責である点で、この二つの事件は明らかに「継子の蛇責め」と同じ構造を持っている。記者による粉飾の可能性もゼロではないが、少なくともこれら二つの記事は、昔話ではなく、同時代の特定の場所で特定の人間によって引き起こされた「事件」として報じられている。

 逆に、この記事に書かれていることがそのまま起こった可能性もあるだろう。継子いじめの物語を聴くことが即、継子いじめを促進するかどうかはわからない(むしろその内容の凄絶さによってじっさいの継子いじめが忌避される可能性も考えられる)。が、じっさいに子供をいじめようとする者がその方法について考えをめぐらすとき、古来物語られているいじめの方法に影響を受けることは考えられる。また、風聞や見聞をもとに記者が「事件」を書き上げるときにもまた、古来の物語に影響を受けるだろう。

 蛇責めという現実離れした方法が「事件」となってしまうこの例は、「事件」がいかに物語の形に沿いやすいかをよく表わしている。古来から語り継がれてきた物語はおそらく、「事件」にかかわる人々の行動形式に影響を与えてきた。そしてメディアが語り伝える「事件」はさらなる物語のディティールを提供する。それが繰り返されることで物語は次第に危うい虚実の間を漂うようになり、その迫真性を深めてきたと考えられる。

 

 

7.まとめ

 

 本論ではからくり節「幽霊の継子いじめ」を題材に、物語内、物語間の整合性を検討し、そこにどのような変形が見られるかを考察してきた。「幽霊の継子いじめ」は、まず、旧来の継子譚に見られる話型を折衷したものとして説明できる。また、類話が存在することから、物語の伝播の過程でなんらかの変形が加えられたものである可能性が高い。さらに「幽霊」や「停車場」などのアイディアは、すでに明治期に見られるものであり、かならずしもオリジナルとは言えないこともわかった。

 ただし、さまざまな変形の痕跡が見られることは、「幽霊の継子いじめ」が昔話に過ぎないことを意味するのではない。むしろ、これらの変形の痕跡は、「幽霊の継子いじめ」が単なる昔話のコピーではなく、時代とともに更新され続けてきたことの証拠といえるだろう。

 本論では継子譚と新聞報道との間にも相互関係があることを確認した。物語はその時代の「事件」から影響を受け、逆に「事件」に影響を与えながら、更新を続け、その力を蓄えて続けてきた。

 このような継子譚の力を考えるなら、「幽霊の継子いじめ」に登場する「巡査」「学校」「停車場」「裁判所」といった明治以降の道具立て、「大坂天下茶屋」「佐々木勇」「ふじゑ」「とみ子」「静江」「花子」といった固有名詞、そして唐突な話型の断層を、単なる同時代向けの意匠として片づけるわけにはいかないだろう。それらは、古来の物語と現実との間で行われる虚実の往復が、明治以降もなお為されてきたことをほのめかすしるしであり、物語から「事件」への通路、「事件」から物語への通路の痕跡である。

 からくりを覗き、からくり節を聞きながら、奇妙な胸騒ぎを覚える。それは、そこに伝聞による変形の痕跡が感じ取られ、物語と「事件」の通路が開いていることが感じ取られるからであろう。そして、このようなのぞきからくりの力を、河本にならって「ニウス」と言い当てることができるだろう。

 

 

8.巻末資料

 

幽霊の継子いじめ口上(巻町郷土資料館 1998

▼世にもあわれの物語、所は大坂天下茶屋、其の名は佐々木勇とて、夫妻の中に女の子、年は九ツ名は静江、妻のふじゑは病気にて、病院通いをいたされる。二年にわたる患いに、夫(おっと)勇はたまりかね夜昼通う茶屋遊び、遂に芸者に迷い込み、芸者とみ子を身請けして、妻といたして囲いしが、それも永くは続かずに、芸者を我が家に連れ込みり。

▼それ芸者に一人の連れ子あり、年は八ツで名は花子、これを見るより本妻は、やけ野のきぎす夜のつる、我が子の行末案じいて、だんだん病気は重くなる、いまわのきわにふじゑさん、かわいい静江を呼び寄せて、母さん死んだるその後は、父上様を大切に、遺言致してふじゑさん、あわれこの世を去りにけり。本妻なくなるその後は、妾とみ子の思いしは、我が子に後目をやりたいと、思いば静江がじゃまになる、その時静江は十二才、学校通いの愛らしさ、それで我が子をいたわりて、静江につらく致されて、泣かぬ日とてはさらにない。

▼今日は学校の卒業式、あまた生徒が集まりて、卒業証書をもらわれて、喜びいさんで帰られる、中に静江は唯一人、唯呆然とうちしずみ、これを見られた先生は、いかがしたかと尋ねれば、聞えて下さい先生様、父上留守と思う晩、不思議とゆうれい現れる、私の驚きいかばかり。

▼話を聞くより先生は、かねて噂が悪いわい、その場を見とどけてくれんと熱田巡査と相談し、すきをうかがう折りも折り、それとも知らずとみ子さん、白い着物を身にまとい、髪はざんばら乱れ髪、口に輪櫛を咥わいられ、ゆうれい姿と身を替えて、眠りし静江の枕辺に、あなうらめしやと現れる。

▼その物音に目をさまし、見ればゆうれい立っている、驚き悲鳴を上げるなら、となりの部屋の花子さん、悲鳴の声に目をさまし、見ればゆうれい目の前に、アッとその場に気絶する、騒ぎを聞き付け先生と、熱田巡査が飛び込んで、手早くとみ子に縄掛ける、先生花子を抱き上げて、いろいろ介抱致せしが、も早やこの世の人でない。

▼縄目のはじに縛られて、引出されるは停車場よ、あまた見物集まりて、あれが鬼人のまま母よ、我が子殺しのゆうれいと、見る人々にののしられ、引き行かれるは裁判所。

▼被告とみ子は呼び出され、裁判長の御出席、検事判事の立合いで、いたせし悪事の数々を、取調べればとみ子さん、包みかくしておかれずに、いたせし悪事をみんな残らず白状する、これを聞かれた裁判長、改悔心を認められ、六年間の懲役も執行猶予とあいなれば、聞えて喜びまま母は、うれし涙にかきくれて。

▼我が子の菩提をなさんため、みどりの黒髪すり落し、その身は尼とあいなって、朝な夕なに花手向け、世にもあわれな物語。

 

 

継子殺の犯罪(河本 1935/1993

世にも珍らしくわいだんは 継子殺しのゆうれいと 、こゝにさゝきいさむとて 二人の子供の有る仲に 、生れついたるほうとうに 芸者豊子を引きつれて

▼藤の花見や名所や古跡 日々につのるほうとうに 、妻の藤江もたまりかね 夫勇にいけんする 、其耳もたぬと無法にも かへつて藤江を打ちすへる 、しかのみならず無残にも

▼妻の藤江をりゑんして 宅にかへれとつき出す 、さはさりながら藤江には 焼の野きぎす夜の鶴 、親の心は皆一つ 二人の子供の行末に

▼心ひかるゝいじらしや かへれば親もおどろきて 、語るも涙の種となる さても本妻藤江には 、我家へかへりしその後は 愛子を思ふこゝろから 、それが病の元となり 医師よ薬とさわけども 、ついに医薬の効なく

▼あはれやあの世の人となる それとも知ぬ子供等は 、兄幸太郎は十二歳 妹花子は九歳にて 、学校かよいの愛らしさ 今日しもめん状の授賞式 、あまた児童が打そろい

▼よろこび勇んで立ちかへる 何か幸太郎只一人 、たゞぼうぜんとうちしずむ 姿ながめて先生は 、いかがなせしと尋ぬれば 毎晩夜中と思ふ頃 、不思議やゆうれいあらはれて 我等の驚きいかばかり 、涙ながらに物語る かくと聞いたる先生は 、あつた巡査ともろともに 現場を見とどけくれんとて 、様子うかがふ時もとき それとも知らぬ継母が 、白きしょうぞく身にまとい 枕元にあらはれて

▼姿はげにもおそろしく 二人の子供はをどろきて 、ひめいをあげてよぶこえに 助けんものと入りきたり 、見ば無残や花子には こはそもいかに即死せり 、継母豊子に縄をかけ

▼ゆうれい姿のそのまゝで そのざい悪をさらさんと 、引き出す兵庫の停車場 かれがきじんの継母か 、継子ころしのゆうれいか 見る人々は山をなす 、さてもきじんの豊子には 縄目のはぢにしばられて 、世にさらされてしかるうへ 裁判所の法庭で 、げんこうはんのじんもんに 最早や包によしもなく 、つもる悪事を自白する 歳は二八のつぼみさよ 、花にあらしのちるごとく 一夜の風ともろともに

▼法庭の露とぞき江にける

 

*本論の引用文では、旧漢字はできるだけ新漢字に改め、旧かなづかいはそのままとした。また、実名や実在の地名の一部を仮名にしている部分がある。

 

 

謝辞

 

 のぞきからくりの調査を許可して下さった巻町郷土資料館、そして貴重なご教示をいただいた斉藤文夫氏に感謝します。

 

参考文献

 

上田信道 1994 「永島永洲の児童文学 -冒険・探偵小説を中心に」 国際児童文学館紀要 第9

小沢昭一 1971/1999a 『ドキュメント日本の放浪芸』(CD) ビクターエンタテインメント株式会社

小沢昭一 1973/1999b 『ドキュメント又日本の放浪芸』(CD) ビクターエンタテインメント株式会社

小沢昭一 1984/2001 『新日本の放浪芸』(DVD) ビクターエンタテインメント株式会社

河本正義 1935/1993 『覗き眼鏡の口上歌』 日本児童文化史叢書3 久山社

河本正義 1934 「覗き眼鏡の歌」 上方 44 p32-39

関敬吾 1980 『日本昔話大成』 第11巻「資料編」角川書店

巻町郷土資料館 1988 巻町郷土資料館 No. 10 『のぞきからくり』

丸山久子 1977a 「継母の化物」稲田浩二 [ほか] 編『日本昔話事典』 弘文堂

丸山久子 1977b 「継子の蛇責め」稲田浩二 [ほか] 編『日本昔話事典』 弘文堂

三浦佑之 1992 『昔話にみる悪と欲望』新曜社

山本慶一 1982 「のぞきからくりと写し絵」南博・永井啓夫・小沢昭一編『芸双書8 えとく』白水社

佐藤健二 2000 「ニュースという物語」 東京大学社会情報研究所『ニュースの誕生』株式会社ボイジャー